第4話

 それから二週間、僕は見かけ上、平穏に時を過ごした。八時に起き、講義に出席し、適当に昼の時間を見送り、深夜の一時に寝た。健康的とは言えなくとも、一般的な大学生の送りそうな生活だった。しかしもちろん、頭の中に生じた疑念は消えていなかった。むしろそれは、徐々に肥大化しつつあるようだった。その証拠に、僕は毎晩、あの女のことを考えてマスターベーションをした。そして射精の後には、彼女に金を払う想像をした。

 何万なんだ、と僕が訊く。すると女は、今日は気分がいいから二万でいい、と言う。財布から一万円札を二枚出し、一応のこと千円札を二枚付け加える。チップ? と女が訊く。いいや、気持ちさ、と僕が返す。

 性器を拭きとりながら、いつもそんなことを想像した。どうやら、掴みようのない心の動きは、性欲として、妙な方向性の想像力として、具象化しているようだった。そうなっているのは、きっと心が錯覚しているからだった。哲学の言う通り、僕はあの女に興味があるのだろうか、と考えた。もしそうなのであれば、僕は酷く歪んだ感情を彼女に抱いていることになる。遺棄された赤子を女と結び付け、夜は情婦として彼女の空想を抱く、というのは、どう考えても歪み切った人間の取る行動だった。

 依然として講義は哲学と共に受けた。彼女と遭遇した次の日にも、僕は哲学と会ったが、彼は前日のことなど覚えていないようだった。彼女のことを話そうかと考えたが、あまりに彼が前日のことに触れないので、結局馬鹿らしくなりやめた。哲学の興味は、学部内のスキャンダルか、現在一般教養科目で習っている法哲学にしか向けられていないようだった。授業前に、哲学は延々と、グロティウスがどうだとか、プーフェンドルフがどうだとかと話したが、僕には何のことだかさっぱりわからなかった。気のない返事しか返さない僕を見て、哲学は不満そうな顔をした。

「お前もさあ、大学生だろ、もっと色々なことに興味を持とうぜ」

「・・・・・・なあ、お前、自分が珍しい人種なことを理解した方がいいよ」

 僕がそう言うと、哲学は鼻を鳴らし、周りが馬鹿なだけだ、と言った。

「法哲学に興味がないからといって、馬鹿扱いはないだろ」

「何もそれだけじゃなくてさ、全般のことを言ってるんだよ、俺は」と哲学はもっともらしく言った。「例えば、お前は何か興味のあることがあるか?」

 その時咄嗟に彼女のことが思い浮かんだが、もちろんそれを口にすることはなかった。言葉を飲み込み、考えた。そして、一つ自分の興味のあることに思い当たった。

「外国文学、あれは面白いかもしれない」と僕は言った。「うん、あれは結構興味あるな」

「文学?」

「ああ、シェイクスピアとかラシーヌとか、あとは・・・・・・そう、イプセンとか、戯曲をやるんだよ、あと、グリム童話」

「ふうん、俺にはよくわからないけど、面白いのか」

「・・・・・・まあ、本読むのは好きだからな」

 僕はそっけない感じを装って言った。

「それならよかったよ」と哲学は言った。「まあ、お前がそこらへんの馬鹿とは違うことくらい、知っていたけどな、一応訊いたんだ」

 哲学はその後も、自分の好きな話をした。その日は授業が始まるだいぶ前に教室へ着いていたので、話す時間は溢れるほどにあった。僕は適当に返事をしながら、やはり彼女のことを考えた。頭の中の彼女は何故か服を着ていなかった。僕は焦って服を着せようとしたのだが、彼女はそれを拒んだ。嫌だと首を振ると、乳房が揺れた。教室で勃起するのも嫌だったので、想像をかき消そうとした。哲学の話を真剣に聞いた。突然の態度の変化に、哲学は少々驚いていたようだったが、やがて気にしなくなった。

 そのような日々が二週間続いた。彼女は僕の目の前に現れなかった。その間、赤子の記憶の蓋は、嵐を前にした木の扉のように、常にカタカタと音を立てていた。出来事だけを見れば平穏なのだが、相反して僕の心は疲弊しているように感じられた。眠りが浅くなり、夢を見るようになった。そしてそれは、当然のことながら赤子が現れる夢だった。

 夢の中で、赤子は僕の目の前にいた。大きな目を見開いて、こちらを見ている。夢の内容は毎回同じであるにも関わらず、僕は毎回、どうして赤子がこんな場所に居るのだろう、と考える。そしてその度に思うのだった。ああ、あの女のせいか、と。

 僕は毎回、何故そんなところにいるのか、と尋ねた。無意識のうちに言葉が紡がれ、口から出ていった。すると赤子は口を閉じ、静かに笑った。

 ――捨てられたんだ、母親にね、と赤子が言った。

 ――捨てられた?

 ――ああ、君にはわからない世界だろうがね。

 ――そうか、でも、僕にも母親はいない。

 ――君も捨てられたのかい?

 ――死んだんだ、昔に、と僕は言った。病気でさ、体が悪かったんだ。

 と、そこでいつも、赤子との交感は途切れた。僕はそのたびに、浮かび上がっていた空から、地面にたたき落とされるような気分を味わった。きっと、赤子は僕に何かを伝えたいのだろう、と思った。赤子は、不吉な予感を振りまきながら鬱々とした空を滑空する鴉のように、意味ありげな言葉の切れ端を見せつけ、僕を惑わすのである。

 起き上がると、夢の中の僕は、僕であり僕じゃない、と思った。体を自分の意志で動かせないマリオネットだ。そして、動かしているのは赤子であり、彼女であり、ある意味では僕自身なのだろう。そう考えると、僕はひどく落ち着かない気持ちになった。スキーでストックを奪われたような、そんな手持無沙汰な感があった。不安な気持ちを落ちつかせるため、少量の酒を飲んだ。が、それもほとんど意味は無いように思った。眠りは結局訪れず、そのまま朝を迎えるのが定石だった。

 僕はひどい臭いのするぬかるみの中を歩くようにして通り過ぎた二週間の日々を思い、ひどく憂鬱な気持ちになった。おれは一生この調子なのだろうか、と思った。先に光は見えないようだった。奥の方まで暗く、じめじめとした道が続いていた。少し足を突き出すと、湿った音を立てるような、そんな道だった。そして、その湿り気は赤子を覆う羊水によるものだろう、と考えた。

 今日は木曜日だった。講義が一限に一つだけ入っていたが、サボったのであとは暇だった。しかしながら今日の僕は、何もしない、という選択は取らない、と心に決めていた。僕の中に空白ができれば、そこに隙間風が吹き付けることは、容易に想像できたからだ。何かをしよう、なんだっていいのだ、と僕は思った。

 ふと、大学に行こうかと考えた。講義は入っていないが、もちろん僕の取っていない講義は開講されている。出席など適当にごまかせばいいのだから、自分の取っていない講義に参加するのも、面白いかもしれない。それに、あの女にもしかしたら会えるかもしれない、という期待もある。

 昼飯のカップ麺をつくるため、電子ケトルに水を入れた。その後、ストーブが朝から部屋を暖め続けていたからか喉が渇いて酷く痛んだので、水をコップ一杯飲み干した。熱湯が出来上がるまでの間、キッチンに寄りかかりながら、カミュの『異邦人』を読んだ。しかしながら、文章は上手く頭に入っていかず、するすると耳から抜け落ちた。

 熱湯が出来ると、それをカップうどんに注いだ。何故うどんだと五分待つのだろう、と考え、それはきっと面が太いからだ、と思った。もしもこの世の全ての問題が、このように簡単に結論付けられればいいのに、と思った。しかしながら、この世はカップうどんではなく、大小様々な人間同士が絡みついた、酷く複雑なものだった。辟易としながら、僕は時計を見た。大体お湯を注いでから、二分が経過していた。

 それから少し経ち、もういいだろうと思い食べ始め、麺が硬いと感じた。しかしそんなのはよくあることなので、気にせず食べ続けた。太陽の光が窓から差し込み、僕の背中に当たっていた。僕は少し場所を変え、光の当たらないようにした。僕がいなくなったことで出来上がった床の陽だまりが、なんだか奇麗だと感じた。

 食べ終わり、着替えると、僕は部屋を出た。空気が昼の暖かさを帯びていて、もしこんな状況じゃなかったら気持ちがよかったのだろう、と思った。僕はポケットに突っ込んだ手を取り出し、暖かい空気の中で広げた。太陽に手を向けると指の間に陰影が出来、それがまるで夕方のビル群のようだった。

 大学に着き、僕は適当なエレベーターに乗った。四階で下り、四十一番教室で講義が行われることを確認した。人が何人か教室に入っていったのでわかった。僕は後ろの方の扉から教室に入り、最後から三番目の列の席に座った。座る人間を見たところ、経済学部の専門科目で見たことのある人間と、ない人間がいた。ということはつまり、ここは専門科目ではなく、一般教養の科目なのだろう、と思った。それで僕は少し安心した。

 講義が始まり、周りの人間がなんとなくスクリーンのパワーポイントに目を向けだした。僕は話に興味があるわけじゃなかったので、辺りを見回していた。彼女はいないだろうか、と思ったが、見たところ姿はなかった。失望するのを感じたが、そんな簡単に会えるわけがないだろう、と思い、持ち直した。僕は、「英仏の対独宥和政策」について説明する教授の声を聴きながら、目をつむった。が、すぐに眠っては意味がないと思い、意識を保つよう心掛けた。

「ええ・・・・・・イギリスの宥和政策については、今日非難されることも多いんですが、うん、当時のイギリスの状況を考えれば、ああせざるを得なかったという考察もなされていて、つまり、国民も第一次大戦で疲弊していて、戦うことには消極的だったわけで・・・・・・」

 やけに眠気を誘う喋り方をするな、と思い、周りを見ると、何人かが実際に眠っていた。僕は近頃眠りが浅かったことを思い出し、やはりここで眠ってもいいのかもしれない、と考えた。あからさまな眠り方じゃなければ大丈夫だろう。

 僕は目をつむった。教授の声が遠くから聞こえるような感覚があり、それがまるで中途半端な夢のようだった。意識が混濁し、やがてそのカオスの中に沈んだ。


 目覚めた時、話は独ソ戦へと移っていた。眠る前はドイツがズデーテン地方の割譲を要求していたのだが、話はどうやら進んだらしい、と思った。スマートフォンを開くと、あと十五分で講義が終わりだった。眠れただけ有意義だったと思い、僕は満足だった。

 と、そこで、僕はあることに気が付いた。体が凍り付くような感覚を覚えた。スターリングラードがいかに悲惨だったかを説明する教授のすぐ近くに、彼女の姿があったのだ。僕は寝ぼけた頭が見せた幻覚かと思った。が、それは違う、とすぐに思った。頭は冴えわたっていて、講義の内容も理解できる程だったからだ。僕は目を凝らし、彼女で間違いない事を確認した。体に高揚を感じた。

 それからの十五分は長かった。中学の時のマラソンを思い出した。それは、校庭の周りを三周回るというものだったが、最後の一周がやけに長く感じるのだった。僕はゴールが見えていて、さらにそれが待ち遠しいものだと、時間の流れが歪むのだと思った。

 やっとのことで講義が終わると、僕は前の方の扉近くに移動し、偶然彼女と遭遇するのを装おうとした。少しの間スマートフォンをいじり、彼女が立ち上がると僕も扉まで進んだ。

「あ」

 彼女は声を上げた。表情が曇った。

「あ」と僕も声を上げてみたが、タイミングが少し遅れ、変な風になった。

「・・・・・・何、この講義取ってたの?」

 僕は迷った末、そうじゃない、と言った。彼女が驚いた顔をした。

「どういうこと? なんでここにいるの?」

「・・・・・・なんとなく、取ってない講義の様子が見たくなったから。そういうことって、あるだろ」

「ないわよ。それに、あっても、行動に移す人はいないでしょ」

「そうかな」

「うん」

 空白が生まれた。僕はその空白に何か言葉を差し込もうかと考えたが、形が合わずすり抜けるだけだと思い、やめた。僕は黙り込んだ。空白が膨張し、その内この教室全てを吹き飛ばしてしまうかのように思った。扉の方を見やり、移動を促した。彼女は何も言わず扉を抜けた。僕はそれに倣った。

「ねえ、あなたって前科があるのよね」突然彼女が言った。「もし、わたしのことを探していたなら・・・・・・」

「それは違う、だって、講義は無数にあるのに、あまりに当てずっぽうじゃないか」

「調べたんじゃないの」

「・・・・・・どうやって」

「知らない。あなたに訊いてるのよ」

「そうか」

 ため息をつき、どうしてわかってくれないんだろう、といった感じでそう言った。すると、彼女は申し訳なさそうな顔をした。僕は嘘をつくのが上手くなったと思った。それが良い事なのか、それとも悪い事なのかはわからない。おそらく悪い事なのだろう。しかしながら僕は、その事実に若干の喜びを感じた。僕の嘘は、彼女を真実とは違う方向へ導けるのだ、と思った。

「でも、そう疑いたくなるのも、わかるでしょ」

 彼女はややあって、そう言った。

「うん、それは、まあ」

「わたし、ちょっと男の人が怖いの、これは、あなたにわからないことだと思うけど」

「え?」

「だから、怖いの、あなたたち男の人が」

「・・・・・・どうして?」

「壊されそう、だからかな」と彼女は悩みつつ言った。「ねえ、だって、あなたも破壊衝動ってあるでしょ、つまり、人間を壊してやりたくなるっていうか、男ってそういうのがあるでしょう?」

「どうしてそんな風に思う?」と今度は明確な疑問符を抱いて尋ねた。

「経験」と彼女は短く言った。「ねえ、気にしないでほしいんだけど、あなたはいつか・・・・・・」と、そこで言葉は止まった。「何?」と僕は訊いた。

 彼女は息を吸い、劣化したゴムのように白くなり、ひび割れた頬を膨らませた。

「あなたはいつか、私を壊すと思う」と彼女は言った。

「僕がなんで君を壊すんだ、いいや、そりゃこの前はそう思われても仕方のないことをしたかもしれないけど、でも・・・・・・」

「そうじゃなくて」と彼女が言葉を遮った。「そうじゃなくて、なんといえばいいのかわからないんだけど・・・・・・」

 僕は終わりを上手く見つけられずにいる彼女の言葉を有耶無耶にするように、首を振った。彼女はその様子をただ見ていた。その時、ふと、この女は一体なんという名前なんだろう、という興味を覚えた。僕は未だに哲学の苗字を知らないのだが、そのように感じたことはなかった。僕はこの興味を、一つの違和感として受け取った。そして、その違和をどうにかするためには、相手に名前を尋ねるしか無いように思った。

「名前」と僕は言った。「君の名前、まだ訊いていなかったな。このタイミングで訊くのもどうかと思うけど」

 彼女は目を丸くした。いきなり尋ねられ、驚いたのだろうと思った。

「・・・・・・スミカ」

 渋々といった感じで、彼女はそう答えた。尋ねられなかったが、僕も名前を教えた。ふうん、と彼女は言い、それから、別に何でもいいけど、と言った。

「とにかく」と僕は言った。「僕は別にスミカさんの生活に干渉することなんてない、だって、他人だからな。だから、君を壊すことだってない」

「あなたって誠実なのか、不誠実なのか、よくわからない」と彼女は言った。「・・・・・・普通にスミカでいい。さん、だなんて、なんか変。あと、君ってのもやめて、それ、嫌だから」

 迷った末に、「スミカ」と小さく口に出した。その時、彼女はなんでもなさそうに、僕の足元や、蛍光灯や、扉の取手を眺めていた。その様子を見て、彼女は僕のような人間を何回も見てきたのだろう、と考えた。僕はそんな遍歴に自分の名前が書き加えられるのを想像し、嫌な気持ちになった。したためるペンの先が、僕の心に深く突き刺さるようだった。

「ねえ、こんなところに突っ立てるわけにもいかないんだけど」

「・・・・・・ああ、確かに、そうだな」

 僕がそう言うと、スミカは黙ってエレベーターへと向かい、下行きのボタンを押した。どうしたらいいのかわからなかったので、その場で立ち尽くしていると、やがて彼女はエレベーターに乗り、扉を開けたままにした。それを許可と判断し、僕もエレベーターに乗った。色々な人間の臭いが入り混じった棺桶のような箱は、喉が水を飲み込むように、ゆっくりと降下しだした。

 棟を出た。日が少し翳っていて、冬の訪れを再確認した。もしもこの状況が国語のテストだったら、その風景の意味を答えさせられるのだろう、と僕は考えた。はい、それは「僕」の、あるいは「スミカ」の心象風景です! はい、〇〇君、よくできましたねえ。〇〇君に拍手! ・・・・・・と、僕はそんなことを想像し、鼻で笑った。太陽は何も僕らの意識を反映して、その姿を見せているわけじゃないのに、と思った。

「――っと、ねえ、ちょっと」

 スミカの声が聞こえた。彼女はどうやら何かを言っていたようだった。

「あ、えっと、何?」

 僕は驚いて言った。

「あなたがボーっとしてたから」

「ああ」と僕は言った。「何でもない、ちょっと考え事をしてたんだ、別に、なんでもないことなんだけどさ」

「そう。でも、それが癖なら、やめた方がいいわよ」

「気を付ける」

 僕はそう言ったが、おそらくこの癖を直すことはないだろう、と考えた。

 スミカが白い息を吐き、それが空に上がった。今日はそこまで寒くないので、それはため息だったのだろう、と思った。ただ息を吹いただけなら、多少白く色づく程度のはずだった。僕は彼女の気持ちを落ち込ませているのだろうか、と考えたが、そもそも彼女が僕に抱く印象は決して良いものではないことを思いだした。

「ねえ」とスミカが突然言った。「私、お金貰って男と寝たことはあるけど、別に娼婦なんかじゃないから」

 彼女の目を見た。が、しかし、そこから何かを読み取ることは出来なかった。

「何を突然・・・・・・」と僕は困惑して言った。「僕が君・・・・・・じゃなくて、ええと、スミカに、お前は娼婦だ、なんて言ったか? そりゃ、あいつはそう話したけど、僕は別に・・・・・・」

「言ってないけど、思っていたでしょう?」

 そう言われ、僕は昨晩のマスターベーションを思い出した。そこで、僕はスミカを勝手に娼婦に仕立て上げていたのだと思った。彼女は黙っている僕を見、ほら、やっぱり、という顔を作った。

「でも、お金を貰ってやったんだろう」

 僕は吐き捨てるように、そう言った。

「職業じゃないの、ただ、気まぐれに一人とそういう関係になっただけ」

「じゃあどうして、あんな噂が流れたんだ?」

「さあ」と彼女は首を傾げた。「きっと、その男はクズ同然で、みんなに言いふらしたのかもしれないわね。・・・・・・知らないけど」

 その時、僕はふと思ったことを口に出したくなった。それは、いつもあそこに座っているのは、その男は探すためなのではないか、ということだった。しかし、それを口に出せば、彼女を酷く怒らせる結果になるかもしれない、と思った。少なくとも、今言うべきことではないように思えた。結局口をついて出た言葉は、ありきたりで、しかも酷く滑稽で、唾棄すべきものだった。

「連絡先・・・・・・」と僕は言ったのだった。

 すると、スミカは噴き出すようにして笑った。

「あなた、最低ね」とスミカは言った。「きっと、あなたってあのクズと似ているんだわ。だから、壊されるかもしれない、って思ったのね。だって、どうして今連絡先なんて聞こうと思ったの? 普通、聞かないわよ、このタイミングじゃ」

「いつ聞いたって同じだろう」

「そうかもしれないけど」

「・・・・・・なら、変なこともないんじゃないか」

 僕は自分を正当化するように、そう言った。言ってから、僕は自分が酷くずるい人間になってしまったように感じた。スミカは呆れたように僕を見、それからため息をついて言った。

「ええ、でもまあ、いいわ、交換しても。面白いし」

 僕は驚いてスミカの顔を見た。その時、彼女はスマートフォンを取り出していた。

「・・・・・・いいのか、僕はストーカー予備軍なんだろ」

「そうね。でも、何も知らない男に付きまとわれるより、安心できる」

「なあ、僕は別に――」

「違うとしても、こうして遭遇していることは、事実じゃない」

「・・・・・・まあ」

「偶然だとしても、そこにはなんらかの意味があるものなのよ」

 そこで、彼女は僕と考え方が似ていると思った。いいや、彼女が今言ったことに関しては全く同じなのだ、とすら思った。まるで、自分の影と対話しているみたいだった。

「わたしってきっとギャンブラーなのね、だって、あなたのこと、怖いと思っているのに」

 僕はスミカを安心させるべく笑顔をつくろうとした。が、それは上手くいかず、ただ表情が歪むだけだった。

「壊したりなんかしない」と僕は言った。そして、多分、と心の中で付け加えた。

 彼女は僕に壊されると思う、と言ったが、それは違う、と思った。壊れるとしたら、僕と彼女の両方だ。きっと、僕らは共に落ち、共にバラバラになるのだ、と。

 見上げると空は薄くオレンジ色に染まろうとしていた。先程よりも、翳りが増したように思った。ほら、心象風景なら、明るくなければおかしいじゃないか、と思った。僕は今、少しだけいい気分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る