18話 「…………鎖が切れたんだ」


「セレオルタ……だいじょうぶ、なの…………」

「タミハ! 今すぐ治してやるから………………くっ……」

「おい……!」


 ――そうして。


 ぼくたちが戻ってきたのは、すべてが元通りになった路地裏――だった。

 もうこの場所には夜の闇もなく、無数にそびえ映える名を持つ刀剣たちもなく……あらゆる幻想は消え去り、そこはぼくが最初に彼女たちと出会った時のような、薄暗い、小汚い、そんな場所でしかなくて――


「なお……治る……はずなのだ………………くそ、出ろ……」

「セレオルタ………………」


 そうして、セレオルタは手を振りかざす。

 まだ自身の腕もまったく治り切っていない……治り始めてもいない。そんな状態で、残った右腕を、傷だらけの右こぶしを、タミハの脚にかざして――


「なんで、治らん…………」


 なんで。

 どうして。


 タミハは、ぼくたちが屋上でブラッサさんと戦いを繰り広げていた、その時とまったく変わらない様子で――ただ、意識だけは取り戻して、壁にもたれかかって座っていた。


 そうして、すべてが終わり、すぐに下に――ここに降りてきたぼくたちを見るなり……ズタボロで、傷だらけのセレオルタを見るなり。


 心配の声を発した。


 それは、ひどく彼女らしい……自分のほうが、人間の体をした自身のほうがずっとひどい怪我だろうに、自分のことなんて見えていないみたいに……それもまた、ものすごくタミハらしいと、ぼくは思って。


「止血はした! ロンジを助けに行く前に処置はして…………われは、まだ力を遣える! ぎりぎりだが……タミハ一人を治すくらいなんてことはないのだ! なのに……」


 なぜ、治らん、とセレオルタは繰り返す。それは独り言なのか、ぼくに訴えかけているのか……そのどちらでもない、とそんな予感がする。


「いいのよ、セレオルタ。わたしは、いいの…………」

「タミ、ハ………?」


 ――そう言って。

 黒髪を揺らして、静かに……落ち着いた様子で語り掛けるタミハは、これまでとは違っていた。見た目も雰囲気も同じだけど、何かが決定的に違う、そんな予感。


「――ぜんぶ、思い出したの。あなたと、すごく長い時間、旅をしていたこと……、それと、その前の、ことも…………」

「………………っ」


 息を呑む。セレオルタの肩がびくりと震える。

 ぼくは――ぼくは、その肩に手を置けない。ぼくから彼女に出来る事は、ここではもう、なにもない。


「タミハ、われは、われは…………お前を………………お、……」


 ――われは。


 お前を辺幽の力で生み出した。


 お前はもう、本当はずっと前に亡くなっておる。


 魔女教も、魔女狩りも……なにもかも。


 全てはわれの弱さが引き起こした茶番だった。


 すまなかった。


 ――そんな、そんな、おそらくセレオルタが彼女に告白したかった全て。それらを全て理解した上で。

 悟った上で、それを言わさずに、タミハは……セレオルタの口元に人差し指を当てて、微笑んだ。


「すごく、楽しかったわね、セレオルタ……」

「……たみは………………?」


 ――その笑顔は、ああ……本当に何も変わらない。ぼくが、この子と出会った時とまったく同じ、ほっと安心する様な……ほっこりするような、とても優しくやわらかな笑顔で。


「いろんな国に、わたしたち行ったわよね。そのたびに、あなたは狙われて……でも、あなたはいっつもわたしを守ってくれたわね。まるで、お姫様を守る騎士様みたいに……」

「…………っ」


 違う。違う、われは……全部、それは……ぜんぶわれが悪くて……

 ――セレオルタが言いたい全ての言葉は、タミハが彼女の唇に当てた人差し指に打ち消されてしまう。


 そんなつまらないことは聞きたくないわ、と。

 そんなことどうでもいいじゃない、もっと大切なものがあるんだから! と。

 そうタミハ・シルハナは言いたげに――


「美味しいものいっぱい食べて。珍しいものいっぱい見て。わたし、呪いにかかってから、ずっと一人で生きてたの……だから、あなたと一緒にいれて、すごく、すっごく、楽しかったぁ…………」

「たみ、は……………」


 ぷは、とセレオルタは顔を少し離して。


「ふ……たみは……そう、だろう? われといるのは凄く楽しいだろう? そりゃ、なんたってわれだから……そんなの、当たり前なのだ!」

「ふふ……そうね……」

「だ、だから!」


 これからも、ずっと一緒にいよう。もっともっと、これから楽しくなるのだからな!


 そう。

 これが一番言いたいことだと。


 そう訴えかけるセレオルタの言葉はしかし――それに、タミハが頷き返すことはない。ただ、彼女はまっすぐ彼女の眼を見て、そして優しく暖かく微笑んでいた。


「す……すぐ治す、治すから………………!」


 セレオルタがまた、タミハの脚に手をかざす。しかし何も変化は起きない。

 それどころか――タミハの体が、徐々に、ぽろぽろと、それは砂のお城のように崩れていくような――


「う、うそなのだ…………いや……いやだっ……なんで………………!」


 セレオルタが叫ぶ。

 それは、感情の吐露が抑えきれない様子で。

 大切なものを無くした子供のように……大切な人を失った人間のように。

 セレオルタが、振り絞るような嗚咽を漏らす。


「………………くそ…………」


 ――なんだよ。なんで、今なんだよ……


「………………」


 セレオルタの消耗は。

 おそらく、彼女の考えているよりもずっと、ずっと大きい。

 すべてをかなぐり捨てて、己の中に残った力の片鱗をもすべて差し出すつもりで得た、ほんの短い時間だけの力。


 全盛期の姿。全快時に近い強さ。


 ――それをもってして、ようやく……辛うじて撃退できるほどに、彼女は……ブラッサさんは、あまりにも強すぎた。


 事実として、セレオルタが来なければぼくは確実に死んでいたし――ぼくがいなければ、セレオルタだって死んでいた。

 ぼくだって出し尽くした。セレオルタはもっとやり切った。

 だからこそ、今こうして、タミハの……ブラッサさんに切り伏せられることを免れた、タミハの前にぼくたちは戻ってこれた……だけど――


「…………鎖が切れたんだ」

「え…………」


 何を――と言った顔で、ぼくの方を見つめるセレオルタ。きっとこいつもうすうす分かっている話ではあったけれど。

 それでも、これは、ぼくが言わなきゃいけないと……そう思った、だから。


「セレオルタ、お前は……辺幽の力であらゆるもの生み出した。そして、それらすべてはお前の力の制御の下にある……それはもちろん、人間の記憶だって、そうだろ」

「………………」

「でも……今回の事で、極限まで消耗してしまった結果、お前の力はもう誰にも及ばず……タミハは今、完全に正気に戻ってる。このタミハの自我は、きっと、初めてお前が出会った時のタミハそのもので……」

「………………」

「――お前の辺幽の力は、お前の生み出した命は、きっと真の意味での自我を持っている。本当に恐ろしいことだけど……真の万物創造。神様みたいな力なんだ。だから――」


 ――きっと。自我を持つ人間の意思が。


 タミハ自身が、セレオルタの制御から出てしまったタミハ自身が、もう治ることを拒否しているんだ、と。


 いや違う――辺幽の力で生み出されたタミハが……、自分はもうこの世にいない存在だから、と。

 辺幽の力を拒絶しているんだ。

 セレオルタのことを否定しているわけではない。


 ただ、タミハは――


「う、………………」


 そんなぼくの言葉を聞いたセレオルタは、目を見開いて、そしてタミハの方を向き直り、おそるおそる、といった様子で。


「うそなのだ、タミハ……おぬしは、これからわれと一緒に――なあ、この暗愚もついてくるが。三人で旅をするのだ、きっとすごく……阿保みたいな道のりになるが、それはきっと――」

「ううん」


 そんな――すがるような、セレオルタの言葉。それに、ゆっくりと首を振って、


「わたしはもういいの。だって、もう満足してるのよ」

「…………え……」

「あなたと出会ってね。わたし、人生で一番楽しいくらいの時間を過ごして……それで、色んな国を渡ったけれど」


 それも全部、この国に来るためだった気がするの、と。


 タミハは――言う。それは絵本を読んで聞かせる母親のように。優しく、柔らかく。


「この国に入って……また、あなたは追われていたわね。わたしも一緒に逃げて……そんな感じで、また忙しく動き回るのかなあ……ってそう思ってたら」

「………………」


 ――すると、タミハはぼくの方を見て。


「ロンジくんがね。新しく仲間になってくれたの」

「ぼく……?」


 ええ、と小さく頷いて。


「知らないと思うけどね、ロンジくん……セレオルタはね、この、わたしが死んじゃったあの日から200年もね……一度も、誰かを眷属にすることはなかったわ。わたしの知る限り、あなたが初めてよ。だって、セレオルタなら、あの時くらいのピンチは、簡単にどうにかしちゃうもの……」

「…………」


 あの時――それは、ぼくがチンピラに殺されかけて。そして彼女たちが空から降ってきた、あの時か。

 それは勿論知らなかった。なんで、そんな、じゃあ。セレオルタはなんでぼくに魔女化を――


「きっと、あなたがわたしと似ていたからよ」

「…………?」


 その疑問の答えは、それはひどく子供らしいもので。


「黒髪黒目じゃない? わたしたち」

「あ…………」


 ――黒髪黒目。世界では珍しい黒髪黒目。それがぼくとタミハの唯一の共通点だ。


「だから、きっとセレオルタはピンチのロンジくんを……心配して、あなたを魔女化させてしまったのね。うふふ……ほんと、わたしのことが、好きなのね」

「………………」


 セレオルタは――うつむいてしまっている。その表情は伺い知れないが……


「わたしも好きよ、セレオルタ」


 ――その言葉に、ぴくりとセレオルタの肩が揺れた。


「……それでね。この国でロンジくんと出会って……三人で色んなアトラクションとか美味しいもの食べたりとか……たくさん遊んだわね」

「ああ……楽しかったな」


 ぼくは――ぼくだって、そうだ。

 ぼくの妹は魔物に殺された。そんな苦しみから逃げるため。そのためだけにぼくはこの国にやってきたつもりだったけれど。

 いつしかそんな感情の色が変わっていたことに、ぼくはいつ気づいたんだろう。


「ユクシーさんも……すごく楽しい人だったわ。それに食いしん坊で……ふふ、わたしの分まで食べちゃって…………」

「………………」


 タミハは――自身を踏みつけた、自身を人形とまであざ笑ったブラッサさんのことも明るくおかしそうに思い出しながら。


「四人でこのお祭りに参加できて、わたし思い残すことがないの、セレオルタ…………」

「―――――」


 それは、きっと、様々な……本当に長い時間をセレオルタと過ごしてきた彼女だからこそ出来る、そんな言葉選びだった。


 ――あらゆるものを内包して。様々な感情を宝石箱の中に閉じ込めて。


 そこには憎しみはない。

 そこには哀れみもない。

 そこには負の感情なんてものはなく。

 ただ、心地よく揺れる草原の中の草花のように。


 ――セレオルタに、そしてぼくに……、別れの言葉を告げるタミハ・シルハナ。


 彼女は――辺幽で生み出された自分の事を良しとしていないとか、セレオルタの犯してきたあらゆる罪に対してとか、もう、きっとそんな次元の話ではなく。


 一人の人間として、生き切ったのだと。


 長すぎる時を、セレオルタと過ごしてもう満足なのだ、と。

 そういった純粋すぎる思いで――言葉を紡いでいる。


 これが……一人の人間の、人生の重み。


「………………」


 不幸の呪い。

 彼女にかつて憑りついたあの悪意でさえ――こんな結末は、きっと予想出来なかったに違いない。

 だって、それはきっと。

 彼女にとって――すごく、幸せな終わり方なのだから。


「―――たみ、は…………」


 ――でも。

 それでも、セレオルタにとっては。それは少し違う。彼女は……親離れできない子供のように。

 その死に狂って史上最大の茶番をも巻き起こしてしまう程に。

 タミハ・シルハナがいなくては、生きていけないと――セレオルタは、そう思ってしまっているのだから。

 そしてそんな彼女の気持ちもまた、間違っているとぼくは言えない。

 だって、それはひどく人間らしい感情だったから。

 どれだけ傲慢で冒涜的であろうとも。

 セレオルタの気持ちは、分かる。だけど――


「ふふ……セレオルタは……本当に、わたしのことが、好きね……」

「あ、あ…………当たり前なのだ、そんな、の……ひ、ぐ………………」


 えっ、えっ、と。顔を伏せたままのセレオルタがしゃくりあげる。


 その頬に触れて――いよいよ、ぼろぼろと、その肌を、その肉体を崩落させながら。魔法が解けていきながら、なおも、それでもタミハは笑って。


 お別れに涙なんていらないわ! と言いたげに。


「でもね、あなたはわたしが大好きすぎるから……きっと、わたしといたら、だめになっちゃうわ。大切なものを、見失っちゃう……」


 ――お茶目に、まるでセレオルタの真似をしているように、自信満々なことを言うタミハ。


「う……、そんなの……、だって……おぬし以上に、大切なものなんて………………ひいい…………くっ……」

「ほら、ね?」


 ふわりと。

 その手をセレオルタの頭の上にのせて。


「でも……だいじょうぶ、今のあなたなら……きっと、わたしがいなくても、がんばれるわ…………」

「たみは、たみはあ………………」

「セレオルタ……」


 ――そして、ゆっくりとセレオルタの頭を撫でるタミハの表情は、本当に愛おしそうに、家族を……最愛の人を見つめる黒く深い瞳で。


「ロンジくん」

「…………ん?」


 そして。

 そうして、そんなタミハの瞳が――ぼくのほうにも向けられて。


「セレオルタを、お願いね……ロンジくんが、セレオルタの騎士ナイト様になってくれたら、わたし…………」

「……はっ」


 そんな、タミハの言葉にぼくは鼻で笑って。


「騎士でも馬にでも何でもなってやるさ。でも、こいつが馬鹿やらかしたら赤くなるまで尻を叩く……そういう、なんだ……よくわからん関係にぼくはなる!」

「ぷっ……ありがとう、安心した、わ…………」


 そう笑って。またセレオルタの方に向き直るタミハ。もう、とうとう腕が――崩落してしまっていた。


 真の自我を取り戻した彼女は、辺幽の意思を超えて、元あるべき姿に戻ろうとしている……それがもう、ありありと感じ取れて。


 残された時間は、もうほとんど無かった。


「セレオルタ……」

「…………………………いやだ」

「大好きよ、ほんとーに、ほんとーに、あなたのことが、わたしは大好き……」

「……いや、……いやなのだ…………」


 ――セレオルタは顔を上げない。


 そして、その頬に触れるタミハの腕はもはやない。ただ、壁にもたれ掛かって今にも崩れそうなまま……もう、次の瞬間にタミハは崩れ去ってしまうかもしれないのに、それでも、お互いがお互いの顔を見つめる手段が、もうそこにはなくて。


「…………ああ、もう…………!」


 ぼくは――二人に急いで走り寄る。こんな時に……こんなぼくの存在なんて、ほんと、邪魔でしかないってのに。

 ほんと、どこまでも世話のかかる奴だよお前は……セレオルタ!


「ほら…………!」

「なっ」


 ぼくはセレオルタの頭を乱暴につかむ。そして、その目をしっかりとタミハの顔のほうにむけてやる。

 だって、こんなの……そうしないなんてあり得ないだろ。


 こんな二人が、セレオルタとタミハが……お互いに目も合わせない、そんなお別れなんて、ぼくにはまったく想像できないんだよ! だからお節介でもなんでも、やってやる……それがたった今、タミハと交わした約束だしな!


「たみ、は…………」

「ふふ……やっと、こっちを見てくれた…………」

「ッ…………」


 また目を逸らそうとするセレオルタの頬を軽くつねって。ぼくは……ぼくも、一緒にタミハの方に身を寄せて。


「――セレオルタ……ロンジくん…………」


 それは――本当にあっけない。


 ともすれば、不親切だと思ってしまう程に、これが物語の結末だとしたら、あまりにもあっさりとし過ぎている――それくらいに、ただの、たったの一言だったけれど。


 それでも。


 この場にいたぼくとセレオルタには、何よりも深く響く、そんな、タミハの――不幸の呪いに打ち勝ったタミハ・シルハナという一人の少女の、最期の言葉だった。


「いつも、想ってる」

「――――――」


 ――暗い、小汚い路地裏に。

 何か、とても軽くて柔らかなものが崩れ落ちる音が聞こえる。


 あとはただ。

 この場に残っているのは二人の魔物と一つだけ。


 天高く――どこまでも届いてしまうと錯覚してしまうほどに、なのに、どこか弱弱しく……だけれど、ひどく澄んでいる。


 そんな、少女の泣き声だけがこだましていた。







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