第参章 第拾弐節:違和感

 翌日、空がまだ東雲色しののめいろの頃からみことは出た。

 平日であるから、もちろん学生である彼女は登校する義務がある。


 ――ちょっと、随分と朝早いけど部活か何かの練習があるの?


 そう不可思議そうに尋ねた母に「ちょっとね!」と、端的に返してみことは人気もまばらな街並みを駆けた。時刻は午前5時をようやく差したところで、登校する時間にしてはいくらなんでも早すぎるのだが、当のみことは一切気にしていない。

 何故ならば彼女は最初から、登校する気など更々なかった。

 私服姿でいるのが何よりの証拠だと言えよう。



「一颯さん……大丈夫かな……」



 みことの顔に不安の感情いろが色濃く滲む。

 というのも、昨日の一件からずっとみことは気になって仕方がなかった。

 特に彼女が気になったのは、時雨トキウカナデが残した言葉にある。


 ――明日も君、いぶきんと会うだろうけど……ショックで倒れたりしないでね?


 どういう意味だったんだろう……? 当然ながら皆目見当もつかないみことだったが、出るはずもない自問を終始繰り返し、結局眠れぬ夜をすごす羽目になった。

 大きな欠伸をかみ殺して、重い瞼をごしごしと擦って強制的に覚醒を自らに促す。

 朝のほんのりと冷たい微風は、今のみことにはちょうどいい目覚ましにもなった。

 見慣れた高層マンションにホッとしたのも束の間、すぐに不安からきゅっと下唇を噛みながらみことは逸る気持ちを抑えながら、エレベーターが到着するのをひたすら待った。

 そして最上階に着くや否や、みことは一直線に一颯の部屋へと向かう。


「一颯さん、私です! 細川みことです!」と、インターホンと併用してドアを何度も叩く。


 朝早くからこのような騒音があれば、近所迷惑になること極まりなく、みこともそれがわからないほど愚かな少女ではないが、今日に限っては激しい焦燥感によって冷静さを失った状態にあった。故に周囲の配慮など頭になく、とにもかくにも一颯に会いたい、その一心だけでみことは動いていた。

 程なくして、鍵が解錠された音が鳴った。

 ゆっくりと開放されていく扉の隙間から覗く住居人に、みことは安堵の息をそっともらす。



「一颯さん!」



 いつもと変わらない様子の彼が、目の前にいる。

 大蛇の怪異によって負ったであろう重症も、きっともうなんともないのだろう。

 けろりとした様子にみことも「元気そうでよかったです!」と、にこりと笑った。

 しばし……時間にすれば1秒にも満たない、ほんのわずかな時間。

 不気味すぎるぐらい静寂が流れた後で――



「あぁ、お前が例の細川みことってやつか」



 と、今更すぎることを口にした。



「……え?」



 これにはさしものみことも、素っ頓狂な声をもらす。



「ど、どうしちゃったんですか一颯さん。いきなりそんなに他人行儀に……私達、もうそんな関係じゃないじゃないですか!」

「……なるほど。どうやらアレ・・の内容はどうやら本当らしいな」

「え……? えぇ……?」

「ん~……こんな朝早くから誰がきたッス――って、あぁ君だったッスか」

「あ、あなたは確か……」



 一颯の背後より、ひょこっと顔を覗かせたのは時雨カナデだった。

 朝早くとだけあって、彼女の顔はとても眠そうである。

 おまけに服装は酷く乱れていて、赤のワイシャツ一枚だけど恰好は破廉恥極まりない。

 細川みことも、もう幼い子供ではない。

 性についての知識は授業でもそれなりに受講しているし、本人も興味がまったくないわけではない。二人が恋人関係であるか否かは定かでなくとも、仮にも年齢的にも近そうな男女が二人。同じ屋根の下で何かがあったとしても、それはなんらおかしな話ではない。

 たちまち頬を紅潮するみことに「今エロいこと想像したッスね?」と、慈悲の欠片もない一言が容赦なく突き刺さった。もちろん図星であるので「ち、違います!」と、みことは否定するが、その言動に説得力は皆無である。


 よりにもよってなんで一颯さんの前で……! ちらりと見やった一颯は、特に何の反応もない。物珍しそうな表情かおこそしているが、みことについて嫌悪感などの感情いろの類は一切なかった。



「――、とりあえず家の中に入れ。玄関先でぎゃあぎゃあ騒がれたら、俺が近所迷惑で追い出されかねない」

「いぶきん~ボクお腹空いたッスから朝ごはんよろしく頼むッスねぇ」

「あぁ、パンとご飯、どっちがいい?」

「そんなの聞くまでもないじゃないッスか――両方っスよ」

「だと思ったよ――ほら、細川みこと、お前も早く入れ」

「あ、お、お邪魔します……」



 おずおずと中へと入ったみこと。

 室内に特に異変はなし。一部衣服が散らかっているが、それは恐らく時雨トキウカナデの私物だろうからみことも気にしない。



「一颯さん、どうしちゃったんだろ……」

「あ~やっぱりそうなるッスよねぇ」

「あ、カナデさ……カナデちゃん」

「おっ、ちゃ~んとボクの言ったこと憶えてくれてたッスね。えらいえらい」

「そ、それよりも! 一颯さんどうしちゃったんですか……?」



 頭を優しく撫でられる傍らで、みことは一颯の方に視線をやった。

 慣れた手つきで朝食の支度に入る彼の後姿は、やはりなんの違和感もない。

 自分の時だけ、何かがおかしい。突然の他人行儀な振る舞いについて、みことは不安と困惑が拭えなかった。


「あ、あの……」と、みこと。


「ん~? どうしたッスかぁ?」と、カナデはぐでんとしたままだ。



「なんか、その……今日の一颯さん、なんだかおかしくないですか?」



 みことは単刀直入にカナデへと尋ねた。

 どう尋ねてよいものか、みこと自身でさえもよくわかっていない。

 とりあえず思った疑問を、そのまま口にする。



「一颯さん、今日はやけに他人行儀というか……」

「あぁ、君……もしかして知らなかったんスか? てっきりもう、いぶきんから聞いてたと思ってたッスけど」

「え? ど、どういうことですか?」

「いぶきんも、まっきー……あ、杵島舞姫きしままきのことッスよ? やボクとかと同じ“屍人シビト”なんス」



「えっ!?」と、みことは痛く驚愕した。


 これまで行動を共にした相方がまさか“屍人シビト”だったとは、当然思うはずもない。


 この極めて衝撃的すぎる事実に激しく狼狽するみことを他所に「マジで知らなかったんスねぇ」と、カナデは至って呑気にしていた。



「【衛府人えふびと】には“屍人シビト”が実は少なからずいるんスよ。いぶきんもその内の一人ッス」

「一颯さんが……“屍人シビト”だったなんて……。ど、どうして?」



 みことのこの問い掛けにカナデは小首を軽くひねった。

 要するに彼女も理由までは知らないらしい。



「そりゃあボクにもわからないッスよ。ただ、ボクらみたいなケースは私利私欲のために怪異を食らったわけじゃないッス。みんなそれなりの理由があるんスよ」

「理由……」

「――、【衛府人えふびと】については……まぁ知ってるとは思うッスけど、何かしらの代償を伴う。いぶきんの場合、その代償は『記憶・・』ッス。力を行使する時間が長かったら長いほど、失われていく『記憶』も大きくなる。今回は割かし短めだったから、だいたい二週間前後ってところッスかねぇ」



「に、二週間って……」と、みことは愕然とした。


 ちょうどその時期は、みことは一颯と共に行動している。

 何も憶えてないってこと……!? 一緒にすごした時間を忘れ去られると言う辛さを、みことは知っているだけに顔色は著しく悪い。

 認知症……早い話が高齢化に伴って、人間誰しもが患う可能性を秘めた病気。個人差はあれど、大前提である過去を忘れてしまう、という点に関してはなんら変わらない。

 彼女の祖母もこの認知症で、特に重度とだけあって、孫の顔はおろか存在そのものが忘却の彼方へと消失した。



「一颯さん……」

「だからいぶきんは、いっつも日記をつけてるんスよ」



「日……記?」と、みことは尋ね返した。



「いぶきんは、いつも日記を書いてるんスよ。もしも忘れてしまった時のために、それを見て自分がどんなことをやっていたのか、どんなことがあったのか、照らし合わせるためにってね」



 この時、みことは「そう言えば……」と、ハッとする。


 一颯の自室には日記があったことを、ふと思い出した。



「あの日記が……」



「――、おいできたぞ」と、エプロン姿の一颯がやってきた。


 手には二つの丸皿が用意されていて、上にはソーセージに目玉焼きにサラダと、朝食の定番とも言える料理がきれいに盛り付けられている。視覚情報だけでも、今のみことには十分すぎるぐらい

効果的で、腹部からはくぅくぅとなんとも情けない音が鳴った。



「細川みこと、お前も食べるだろ?」

「え……?」

「お前、俺の飯を結構食いにきてたみたいだからな。まぁとりあえず用意しておいて無駄にはならなくて済みそうだな」

「…………」



 困惑冷めやらぬまま、みことは一颯とカナデ、その三人で食卓を囲った。

 味は、言うまでもなくおいしい。

 空腹こそが最高のスパイスである、とこう言うように今のみことには最高のご馳走と言えよう。

 しかし、黙々と食べるみことの表情かおはいつになく暗い。

 なんだか落ち着かない……、いつもならあるはずの談笑が今日は嘘のようにない。BGM代わりのテレビの音も虚しく食卓は完全に静寂が支配していた。


「味、うまくないのか?」と、不意に一颯が口を切った。



「え、あ、いや。大丈夫ですよ!?」



 しどろもどろになりながらも、みことはなんとか返答した。

 なんとか笑みも浮かべるが、鏡がなくとも自分の顔はきっと酷くぎこちない。

 心中で自嘲気味に、みことは小さく笑った。



「そうか。日記に書いてる印象と随分と違うから、まずいのかと思ったぞ」

「え?」

「以前の俺が見た限りじゃあ、お前は飯を食う時は本当に幸せそうで、たくさん話しかけてきて忙しないけど明るく退屈しない奴だって、書いてあったんだけどな……」

「あ……そ、その、ごめんなさい一颯さん! 私、ちょっと色々と考えてて……あ、朝ごはんご馳走様でしたまた作ってくださいね!」



「あ、おい……!」と、呼び止める一颯にみことは逃げるようにその場を飛び出した。

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