第弐章 第弐節:笑う女

 どんよりとした鉛色の雲から次第にぽつり、ぽつり、と雨が降り始めた。

 程なくしてざぁざぁと激しく雨が降り頻る。

 傘のない二人は、この雨から逃れるべく近くの建物へと避難した。



「いきなり雨が降ってくるなんてついてないですね……」

「まぁ、こればっかりは仕方ないだろ。近くにコンビニもないし……止みそうにもないな。とりあえずタクシーでも呼んで商店街の方にでも行くか」

「あ、それじゃあ私、ちょっと欲しいものがあるからお買い物したいです!」

「……お前、俺達が今何をやってるかわかってるよな?」

「も、もちろんですって!」



 本当かよ……。訝し気な視線を送る一颯に、みことはサッと目線をそらした。


 一颯が言うように、雨が止む気配は微塵もない。

 ざぁざぁと相変わらず降り頻る雫は容赦なく地面を打つ。

 そこに蒼い炎・・・がごうと燃え上がれば、違和感しか生まれない。



「ま、また蒼い炎・・・だ……!」

「え? ど、どこですか!?」

「あそこだ! あそこに停まっている車だ!」



 一颯の視界には、停車中のワゴンから蒼い炎・・・が燃えていた。

 そして屋根の上には、あの|奇妙な怪異が一颯のことをジッと見つめている。

 何をするわけでもなく、七つの赤い眼で静観に徹する。

 みことは、それがまったく見えていない。



「ほ、本当に燃えてるんですか!?」

「……あぁ。どうやら俺だけにしか見えていないみたいだな」



 一颯も怪異を見据え返した。

 厳密には、今の一颯にはそうすることしかできない。

 午前中の休日、いきなりの雨が降ったとは言っても人の気配は多い。

 ここで刀を振り回そうものなら、異常者として認識されるのは他でもない一颯本人である。

 時間だけがどんどんいたずらに流れていく。

 進展は、特になし。両者睨み合ったまま――不意にその進展が訪れた。

 にたっと怪異が笑うと、屋根から建物の屋上へと飛び移った。その高さはゆうに10mはあろうが、怪異の身体能力はたったの一脚でそれをも容易にしてしまう。


「あ、待て!」と、制止する一颯。


 当然、怪異がそれに素直に従おうはずもなく。あっという間に一颯の前から姿を消した。



「一颯さん、どうしますか!?」

「……とりあえず、このまま奴を追いかける」

「でも、どこに行ったのかわかります? 私はその、怪異の姿が見えませんし……」

「……考えるよりもまず行動。どの道【現代の神隠し事件】についても調べなきゃいけないんだ。行くぞみこと」



 一颯は最後に、ちらりとワゴン車の方を見やった。

 さっきまでは確かに燃えていた蒼い炎・・・は、いつの間にか鎮火していた――否、最初から火の手など上がっていなかった。自分だけにしか見えない蒼い炎・・・に一抹の不気味さを憶えて、一颯は土砂降りの中、怪異の追跡に入った。


 道中立ち寄ったコンビニで買ったビニール傘も、この時点ですっかり全身すぶ濡れである一颯達にはもう無用の長物に等しかったが、かと言って傘も差さず歩くのも他者の目には変わり者としか映らない。

 要するに形だけビニール傘を差しながら、一颯とみことは町中を徘徊した。


「……いませんね」と、みことがもそりと呟く。


 彼女には一颯のように蒼い炎・・・も怪異も視認できない。

 だからみことが頼れるのは、唯一視認できる一颯以外ないのだが、その当事者が見えていないのだから手詰まり状態であった。



「くそっ……あいつは、どこに行ったんだ?」

「ん~……せめて何か、法則性でもわかればいいんですけど」

「法則性、か……それをするには、情報があまりにも少なすぎる。せめて後2回ぐらいは、あの怪異と接触を試みたいところだけど」



 ちらりと、一颯は腕時計に視線を落とした。

 最初の遭遇からずっと、怪異を追っているがこれといった成果はない。

 同様に【現代の神隠し事件】についても然り。

 時間だけをいたずらに費やして、短針はもうすぐ5の字を差し示そうとしていた。

 そろそろタイムリミットだな……。一颯はみことの方を見やった。


 見えないなりにも「ん~ここも別に怪しくないなぁ」と、みことは調査に精を出している。


 そのひたむきな姿は自然と一颯の頬を緩めると、すぐに表情を元に戻した。



「みこと、今日の調査はもう終わりだ。また明日調査しよう」

「わかりました。それじゃあ一颯さん、今日はお疲れ様――」



「ん? どうかしたのか……」と、みことの視線を追った一颯の顔は、瞬く間に険しさを帯びる。


 雨の中、その女は傘も差さずにいた。降り頻る雨を一身に受けて、せっかくの黒のスーツもぐっしょりと濡れてしまっていた。


「舞姫……」と、スーツの女を見やる一颯の目は刃のように鋭い。


「もう、そんなに邪険にしないでほしいにゃあ」と、舞姫は差して気にしていない様子である。


「い、一颯さん……この方は?」と、彼女とは初対面であるみことだが、杵島舞姫きしままきを明らかに警戒していた。



「ん? ねぇイブキッチ。その子は?」

「こいつか?」



 一颯はちらりとみことの方を見やってから「こいつは俺の助手みたいなもんだ」と、答えた。



「助手……? 君、助手をつけたの?」

「訳あってだがな。お前には関係のない話だろ」

「――、ルいなぁ……」

「え?」

「ズルいなぁ。なんで君みたいなのがイブキッチのバディー組めてるのかなぁ」



 身体をゆらゆらと揺らす舞姫だが、みことに対するその眼差しは氷のように冷たいものを感じさせる。



「え、ちょ……」

「ズルいなぁ……ズルいなぁ……」



 激しく困惑した様子で後退るみことを、舞姫は見据えたままゆらゆらと揺れる。

 次の瞬間、一陣の疾風が雨の中を吹き抜けた。


「舞姫!」と、みことの前に立った一颯から鋭く肉を弾く音が鳴り響いた。


 彼の右掌には、固く握った舞姫の拳がすっぽりと収まっている。

 彼女はあろうことか、みことの顔を殴ろうとしたのである。


 突然の出来事にみこともしばし放心状態だったがハッとして「ちょ、いきなりなんなんですか!?」と、舞姫を強く睨んだ。


 こいつ何考えてやがる……! 一颯もまた舞姫を睨んだ。


 あろうことか公的組織の人間が民間人に手を出すなど、ご法度以外のなにものでもない。


「だって、ズルいんだもん」と、舞姫はまるで反省の色がない。


 自分は正しいことをした、とそう言わんばかりにむっとした表情かおを浮かべる。

 この外見年齢不相応な彼女の反応には、一颯も唖然とせざるを得なかった。

 そして、不満を露わにしても舞姫の顔は相変わらず、にたりと薄気味悪い笑みを示していた。



「ズルい……?」

「だって、ウチがいずれ君のパートナーとして組む予定だったんだよ? あいつ・・・が消えてやっとチャンスが巡って来たって思ったのに、イブキッチはウチを置いて組織に全然顔を出さなくなった……そればかりか、ウチ以外の女が隣にいる……」

「い、一颯さん……」

「……お前には関係のないことだ、舞姫。とにかくこのことは上の方に報告させてもらうぞ。仮にも民間人に手を出そうとしたんだ。お前だってそれぐらい理解できる頭はあるだろ?」

「……いいなぁ、君」



 にたにたと不気味な笑みに宿る負の感情いろに「な、何がですか……?」と、おずおずとながらもみことが返した。


 しかし舞姫からの返答は「いいなぁ、いいなぁ」と、同じ言葉を繰り返すばかり。


 それが彼女の不気味さをより一層強めたのは言うまでもない。



「な、なんなんですか一颯さんこの人は!」



 そう言ったみことの顔は、今にも泣きそうだった。



「……とりあえず、俺と一緒に来い」



 一颯はみことの手を掴むと、足早にその場から立ち去った。


「ねぇイブキッチ」と、後ろから呼び止める舞姫の言葉を一切無視して、一颯が向かったのは彼の自宅である。転がり込むように中へ入ると素早く施錠する。


 施錠したところで意味なんてないけれど……。ドアスコープ越しに見える小さな景色に、誰もいないことに一颯は心から安堵の息をもらした。



「な、なんだったんですか一颯さん……あの人、なんだか普通じゃないですよ……」

「……まぁな。あいつは組織内でも一番の変わり者として知られているからな――杵島舞姫きしままき、歳は俺よりも2つ上で一応先輩に当たる」

「一颯さんに先輩がいたんですね!」

「そりゃいるだろ……――あいつは、どんな時でもいつもニタニタとした笑みを崩さない。だけど実力は本物マジもんだ。あいつと出会って生き延びた怪異は……一人もいない」



 杵島舞姫きしままきの実力について、一颯は一切の配慮も誇張もしていない。

 怪異を鮮やかに、迅速に、そして誰よりも惨たらしく殺す。そしてニタニタとした笑みが相まって、彼女についた異名は“死神”。敵味方問わず畏怖の念を抱かせる彼女だが、間違いなく組織内トップランカーに入る【衛府人えふびと】なのは確かである。一颯は舞姫のことを高く評価していた。



「そ、そんなに凄い方なんですね……」

「あぁ、あいつと出会って生き延びた怪異は……少なくとも俺の知る限りじゃあ一匹もいないよ。見つかったら最後、地の果てまでも追いかけて殺す、それは杵島舞姫きしままきだ」



「……でも、そんなに凄い人なのに一颯さんにはすごく執着されてますよね。もしかして……昔付き合ってたりとかしてました?」と、不可思議そうにみことが尋ねた。



 何かと色恋に持っていきがちになるのが、実に女子学生らしい。

 いつの時代も他人の恋話こいバナと噂話には興味津々なのだ。


 それはそうとして、さっきのみことからの質問について「んなわけあるか……」と、一颯はあっさりとかぶりを振った。



「あいつとはそんな関係じゃないよ。本当に仕事上の先輩後輩、後は同僚ってぐらいだ」



「でも、そう思ってるのは一颯さんだけですよきっと」と、みこと。


 あまりにも自信たっぷりな態度に一颯は訝し気に彼女を見やった。



「どうしてそう思うんだ?」

「なんとなくですけど、私わかるんです。あの舞姫さんって人、一颯さんにゾッコンですよ」

「え~……いやまさか」



 みことの発言に一颯はありえないと鼻で一笑に伏した。

 舞姫とは行動を共にする期間は誰よりも長い、それは紛うことなき事実であるし、一颯も素直に認知している。ほぼ同じ時期に所属したから、というのは表向きの理由で要するには単純に厄介払いなのも、一颯は最初ハナから知っていた。


 ――一颯のやつは、な~んであんなにアイツとスムーズに会話できるんだ?

 ――あ、それマジで思った。わったし、あの子何考えてんのかマジでわかんないもん。

 ――いつもニタニタと笑って気持ち悪い……あいつを見てると寒気がする。


 組織内からの評価は、お世辞にも良好とは言い難い。

 しかし成果の方はきちんと挙げているから、面と向かって彼らも言及できない。

 故にこそこそと、陰口を叩くしか彼らにはできなかった。

 その中で一颯だけが、まともに舞姫とコミュニケーションを図った。


「絶対それですよ」と、ふんと鼻を鳴らすみこと。



「……何がだよ」

「もし私が舞姫さんの立場だったら、今頃惚れちゃってますね」



「惚れるかぁ?」と、とことんみことの言葉を疑問視する一颯。



「絶対そうですよ。だって人は一人だけじゃ絶対に生きていけないんですから。友人だったり、恋人だったり、それぞれですけど支え合える人がいてはじめて人間は人間らしくなるんです……って、よくウチのおばあちゃんが言ってました」

「……一人だけじゃ生きていけない、か」

「その舞姫って人、多分一颯さんがくるまでずっと一人だったと思います。だから一緒に仕事できる仲間ができてすっごく嬉しかったと思いますよ?」



「そんなもんか……」と、最後まで一颯は訝し気だった。


 あいつが、本当にそうなのか? これまでのことを、一颯は脳裏に思い浮かべる。


 【衛府人えふびと】内で一颯がよく行動を共にしていたのは、まず杵島舞姫きしままきであることに相違点はない。仕事の仲間であるし、円滑なコミュニケーションは強力な連携力にも繋がる。

 あくまでも効率性を大切にしていた一颯に、舞姫に対する特別な感情はなかった。彼の認識はどこまで言っても、変わった人である。



「それでも、あいつがねぇ……」



 一颯はうんうんと唸った。



「よくデートがどうとか言ってたけど、あれっておふざけじゃなかったのか……?」



「それ絶対にそうですよ」と、間髪入れずにみことが肯定する。


 やっぱり信じられないよなぁ……? これ以上の思考は、身体を冷やす雨の冷たさによって一颯は中断した。


 思考よりもまず先に、そちらの方をするべきだっただろうと今更ながらに己を叱責した一颯は、慌ただしく風呂場へと向かった。

 自分だけならば、まだいい。全身雨に濡れることなど珍しくはない。

 だが、みことは違う。女子が身体を冷やすことはよろしくないと、一颯は「みこと、とりあえず先に風呂入ってこい」と、促した。彼女の身を気遣っての提案で疚しい気持ちは、これっぽっちも彼にない。ただ如何せん、状況と言い方が悪かった。



「お、お風呂に入れって……そ、それって私に何をさせるつもりですか!?」

「いいから風邪引く前にとっととシャワー浴びてこいこのむっつり娘!」

「わ、私むっつりなんかじゃありませんし!」

「事あるごとにそっち方面に思考するくせになにがむっつりじゃないんだ、説得力皆無だあほ!」



 ぎゃあぎゃあと反論するみことを、半場強制的に一颯は風呂場へと押し込んだ。



「まったく……とりあえず、服が乾くまでの服を用意しておくか」



 のそりと一颯は気怠そうに自室へと向かった。

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