第3話 本物の戦場は涙が出るほど恐ろしかったです

 およそ半刻の後、将平――馬謖軍は準備が整い、先鋒の第一隊から下山を開始した。

 ところが、ふもとに近づいたところで、目を疑う光景が広がっていた。

 眼下の平野に見知らぬ騎兵部隊が三隊に分かれて待ち構えていたのであった。

 その三隊の中のあちこちに、「魏」の一字を染め抜いた旗がいくつも翻っている。


 将平はそれを見て愕然とした。


 ――魏軍? 


 側近の張休が青い顔で駆け寄って来た。


「馬将軍、張郃の騎馬隊です」

「マジ?」


 将平は思わず日本語で言ってしまった。


「は……? 罵極マージー? なんでしょう?」

「ああ、ごめんごめん。本当に張郃軍なのか?」

「間違いございません。他にどの軍が来ると言うのです」

「そうだよな」


 将平の頭の中には、豊富な知識量と計算に長けた馬謖の頭脳が入っている。

 眼下の騎兵隊を見て、ざっと三千人と見積もった。


「こっちの動きを読んで、脚の速い軽装騎兵だけで潰しに来たってわけか」


 張郃の、何と言う判断力と動きの速さであろうか。

 将平は背筋が寒くなった。


「恐らくは。いかがいたしましょう」


 張休も青い顔で訊くと、将平は少し考えてから、


「どっちにしろ、山にいたままでは俺は孔明に泣いて斬られるんだ」

「は?」

「相手は三千、こっちは一万近い。これならまだ行けるはずだ、切り抜けよう」

「承知仕りました、ではご命令を」

「命令?」

「はい。どう戦えばよいのでしょうか?」

「どうって、ええっと……」


 将平は考えた。馬謖の頭脳を隅々まで探って考えた。

 だが、どうすればいいのか何も出て来ない。どう動くように指示すればいいのか何もわからないのである。


 ――おい馬謖! 軍をどう動かすのか知らないのかよ!


 将平の額から冷や汗が落ちた。


「将軍……ご命令を。兵士たちが動揺し始めております」


 張休が小声でささやいた。

 見回せば、確かに兵士たちがみな不安そうにざわついている。


 ――とりあえず、映画みたいにやってみるか。


「みんな、あの三隊に向かってそれぞれ突撃、突破して王平がいる南西の隘路へ向かえ!」


 将平が大声で言い渡すと、全軍が大声で応えた。

 張休と李盛は馬を駆って手早く全軍に指示を行き渡らせると、兵士たちを走らせた。


 馬謖軍の兵士たちがふもとの声を上げ、麓に向かって駆け下りた。

 無数の足音が巨大な地響きとなって全山を揺らし、熱く殺気立った兵士たちは炎の転がるが如く麓へ殺到した。

 まるで耳から脳天へと突き抜けるような凄まじい勢いと迫力に、


 ――これが昔の集団戦争か。


 将平は思わず呑まれて動けなくなった。

 だが、馬謖も一応一通りの武芸は修め、一軍の指揮は執ったことはなくとも一部隊を率いて戦ったことぐらいはあったらしい。

 すぐに馬謖の記憶と体験がよみがえって来て、心身の硬直が解けた。

 手槍を小脇に抱え、将平も山を駆け下りて行く。

 馬謖の記憶によれば、


 ――戦いは高所にある方が有利だ。きっと蹴散らして切り抜けられるはず。


 だが、第一隊の先頭が麓に着いて、まさに張郃軍に肉薄しようとしたその時であった。


「なんだ?」


 将平は目を見開いた。


 張郃軍の騎兵三隊が鮮やかにさっと引いて行ったのである。

 それを平野部に下りた馬謖軍の兵士たちが追って行くのを見て、将平は「あっ」と気付いた。


 ――まさか、高所の利を活かせない平地に誘い込まれたのでは?


 だが、一般兵士らは当然そのようなことには気づかない。前方にいる張休や李盛も気付いていないようであった。「逃げたぞ、追撃の機だ!」と、兵士らは勢いづいて張郃軍を追って行く。

 その時には、馬謖もすでに軍の勢いに流されて平野部に降りていたが、


 ――やばい気がする。まずいまずい、どうすればいいんだ?


 悪い予感に狼狽うろたえている間に、その予感は的中した。張郃軍は次の展開を見せた。

 引いて行った三つの騎兵隊は、ある程度距離を離すと、中央がくるりと反転し、左右はそれぞれ左と右へと走ってから同様に反転、追って来た馬謖軍を三方向から包囲する形になったのである。鮮やかな指揮と統率であった。


 馬謖の頭脳が危地に陥ったことを悟り、将平の全身が恐怖に総毛立った。

 その瞬間、張郃軍の騎兵隊三隊が、三方向から突撃して来た。


「に、逃げろ、逃げろ!」


 将平は絶叫したが、その時にはすでに張郃軍が馬謖軍に突撃していた。


 張郃軍騎兵は疾風の速さで馬謖軍の奥深くまで突き込んだ。それが三方向からなので、馬謖軍の陣形はずたずたに切り裂かれ、完全に統制を失った。そこへ張郃軍騎兵たちが馬で蹴飛ばし、槍で鎧ごと突き刺して大剣で首をね飛ばす。馬謖軍の兵士たちは血を雨と降らして次々に倒れて行った。


「退け、逃げろ! みんな逃げろ!」


 そう叫び続ける将平のところへも、ついに張郃軍騎兵が現れた。


「敵将か!」


 頬を返り血に濡らしていた敵騎兵は将平を目ざとく見つけると、いきなり槍を繰り出して来た。

 将平は咄嗟に躱した。馬謖の身体が自然と動いてくれた。だが考える暇もない。将平は無我夢中で自分も槍を突き出した。だが、慣れていない。当然の如く穂先は外れて宙を突き、そこに敵が槍を振ると将平の槍はあっさりと吹き飛ばされてしまった。


「敵将、覚悟!」


 勝利を確信したか、敵兵がにやっと笑って槍を構えた。

 経験したことのない凄まじい恐怖に襲われ、将平は歯の根が合わなくなった。


 だがそこで、敵兵は呻き声を上げて馬上から落ちた。


「将軍、ご無事ですか?」


 その背後から、李盛が丸い顔をのぞかせた。

 李盛が偶然将平の危機を見て、間一髪背後から救ってくれたのだった。


「将軍、三方向を囲まれております。ここはまず元の山の上へ退き、反対側の麓から逃げる他はございませぬ」

「……わかった、急ごう」


 将平は震えながら頷いた。


「張休どのとそれがしで敵を食い止めつつ兵士をまとめますゆえ、将軍は先に山の上へ!」

「あ、ありがとう」


 将平は馬を走らせ始めたが、すぐに振り向いた。


「李盛さん、死なないでくれよ、張休さんも」


 李盛はそれを聞いて笑った。


「もちろんです。さあ、早く」


 李盛が急かし、将平は再び馬を走らせた。



 地獄を垣間見た時間は終わったが、将平は退しりぞいた南山のいただきで呆然としていた。


 創作物の中でしか知らなかった近接戦を行う古代戦争。

 命を懸けて殺し合う、死が隣や一秒後にある空間。

 骨の髄まで痺れたその恐ろしさが脳裏からぬぐえず、流血とは無縁の平和な日本にいた将平は未だに歯の根が合わなかった。


 ――初めて三国志を読んだ時は馬謖を笑ってたが、すごいよ馬謖。いや、兵士さんたちみんな凄いよ。いつもあんな戦いをしてるのか。恐かった、なんてどころじゃない。


 将平は、震える両肩をさすった。


 ――とりあえずは助かったが。


 馬謖らが元の南山の上へ逃げた後、何故か張郃軍は追って来なかった。


 張休、李盛らが奮戦しながら退いたおかげでもあるだろうが、ぼろぼろになって戻って来たその二人が言うには、


「敵は軽騎兵のみ。騎兵は山を上る戦には不利なので、予期せぬ損害を避ける為かと思われます。しかしもしかすると、恐らくここには水が無いことをすでに知っており、包囲して我らの自滅を待つつもりかも知れません。さすれば敵はより損害を小さくして勝てますゆえ」


 とのことであった。

 事実、将平ら馬謖軍が山上に撤退した後、麓では夜近くになって張郃軍の本隊がやって来て合流し、悠然と南山周辺に展開して包囲を完了させた。


 ――結局歴史の通りじゃねえか……あっ、でもそれならここは逃げられるんだっけ。


 将平は、俯いていた顔をぱっと上げたが、すぐに泣きそうになった。


 ――その後、孔明に斬られるじゃん……。


 その時、将平の幕舎に、兵士が一人やってきた。


「将軍、夜食でございます」


 兵士が、食事を乗せた盆を将平の机の上に置いた。

 雑穀混じりの飯と、塩焼きの獣肉じゅうにく、それに水を入れたはいがあった。

 それを見て、将平は兵士に訊いた。


「水はまだあるのか?」

「ええ。今日、明日の分はくんで来てあります」

「では明後日の分はないのか?」

「はい……」


 気まずそうに答えた兵士を見た後、将平はじっと杯の水面を見つめた。


 その晩、将平ら馬謖軍は、張郃軍の夜襲に警戒しながら一夜を過ごした。

 将平は一日であまりに色々なことがあったせいか、当然の如く眠れなかった。


 翌朝、目の下に隈を作った将平は、自陣から街亭盆地の麓を見回した。

 一目で自軍よりも多いとわかる大軍勢が、整然と八隊に分かれて山の周りを取り囲んでいる。


「流石は張郃、見事なものです」


 側で、李盛が驚嘆した。


「うん……」


 将平はため息をついた。

 すでに、かなり馬謖と一体化が進んでいるらしい。張郃軍の陣容を見て、これを撃破するのは至難だと言うことがすぐにわかった。


「曹操に重用され、我が漢でも先帝陛下がその名を挙げて恐れていただけあります」


 張休も険しい顔で言うと、将平はふと、あることが気になった。


「先帝……そう言えば、劉備ってどんな人だった?」


 と、将平は二人に訊いてみた。

 すると、二人とも驚いて目を丸くした。


「名で呼び捨てとはなんと畏れ多い」

「不遜でございますぞ」


 劉備の備はいみなであり、当時の慣習として目下の者はそれを呼んではならない。かと言って、通称であるあざなの玄徳と呼ぶのももってのほかであった。

 将平はその辺りのことは全く知らなかったので、わけがわからなかったが、とりあえずかなり失礼だと言うのは察したので、


「あ、ああ、申し訳ない。ちょっと言い間違えたんだ。で、その先帝陛下はどのような人だったんだ?」


 と、重ねて訊いたが、二人は不思議そうな顔をして、


「何をおっしゃいますか。我らなど戦場で一言二言、お言葉をかけていただいたぐらいで何も知りませぬ。むしろ、馬将軍の方がよくご存知でございましょうに」

「え? あ、ああ……」


 その時、将平の脳裏に、一片の馬謖の記憶が浮かんで来た。


 荊州にいた時代、長兄の馬良と共に劉備に召し出されてから劉備の下で働いて来た日々のこと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る