第2話 結局史実通りになりそうです(泣)

 「泣いて馬謖ばしょくを斬る」

 この言葉と共に現代にまで不名誉な評価をされ続けているのが、蜀漢しょくかんの武将、馬謖である。


 馬謖は、極めて優秀ではあったとされている。生まれついて頭の回転が速い上に古今の知識を修めてその識見は群を抜いていた。

 だが、蜀漢を建国した初代皇帝の劉備りゅうびは、馬謖は確かに頭は良いが口先だけで行動が伴わないので重用ちょうようしないようにと、諸葛亮に釘を刺していた。


 しかし、諸葛亮は馬謖の才能を高く評価し、自身の策謀相談役とも言える参軍に取り立てて重用した。更には、満を持して宿敵の魏を討つべく起こした第一次北伐において、諸葛亮は作戦のかなめである街亭がいていの守備に馬謖を抜擢した。


 だが馬謖は、隘路あいろ(両脇を山に挟まれているような狭い道)となる街亭の街道を封鎖して守備せよ、と言う諸葛亮の命令に背き、独断で隘路を捨てて付近の南山と言う山の頂に布陣した。馬謖としては、合戦では高地にる方が有利であると言う、兵法の基本にのっとった行動であったのだろう。

 だが、それは教科書を信じすぎて現場の状況を無視した浅はかな行動であった。馬謖が布陣した山には水が無かったのである。その為、副将につけられたベテラン武将の王平は、水源を敵に絶たれたら終わりだと再三いさめたが、馬謖は聞く耳を持たずに無視して南山に登った。


 だが、その結果は王平が危惧きぐした通り、襲来した魏の張郃ちょうこうによって南山を包囲されて水源を絶たれた挙句、渇きで士気が落ちたところを攻撃されて大敗してしまった。

 これが原因となって諸葛亮の第一次北伐は水泡すいほうすことになり、馬謖はその責任を問われて諸葛亮によって処刑されることとなる。(史実では獄中で没した、と記されているが)

 諸葛亮は馬謖の才能を高く評価して重用していたことから、涙ながらに処刑を命じたとされ、これが後世に「泣いて馬謖を斬る」と言う故事成語になる。


「じゃあ俺、また死ぬじゃん!」


 将平は思わず叫んだ。


「将軍、どうしました?」


 丸顔で髭の長い男が不審そうに訊いた。彼は馬謖の昔からの側近で、李盛りせいと言う。

 将平は、李盛を見て、


「李盛さん、水は今どうしている?」

ふもとからんで来ておりますが」

「やっぱりそうなのか。それは駄目だ。このままでは張郃ちょうこうに水源を絶たれてどうにもならなくなる」


 李盛は眉根を寄せて、


「……王将軍が心配されていたことですな。しかし、馬将軍は、水が絶たれてもその日のうちに高所から一気に駆け下りて敵を撃破すれば問題ない。高所に布陣する利が勝る、とおっしゃられました」

「馬謖はそう考えていたのか」

「は?」


 他人事ひとごとのように言う将平を不思議に思ったか、もう一人の面長の男がぽかんとした。彼も馬謖の昔からの側近で、張休ちょうきゅうと言う。


 その時、将平の頭の中に、一つの記憶が鮮明に浮かんで来た。

 街亭に到着したばかりの時のことである。


 自分ーー馬謖は、周囲の地形をよく見回した。

 今いるところは左右に山がある谷間の隘路で、中央に幅の狭い川が流れている。この先をもう少し進んで行くと両脇の山が開け、盆地状に平野が広がっていた。


 魏の張郃が街亭を目指して来る目的は、街亭を抜けて今は蜀漢軍が占拠している天水郡に出て、蜀漢軍の糧道りょうどうと退路を絶った上で後背を衝くことである。これをやられてしまうと蜀漢軍は補給が絶たれてしまうのみならず、北伐など夢幻どころか、最悪は全軍壊滅の恐れもある。


 それを防ぐ為の街亭防衛戦であり、馬謖がその総大将に抜擢されたのだが、兵数は魏の張郃軍の方が多いことがすでにわかっている。加えて、率いる張郃は戦歴豊富な百戦錬磨の名将であるのでそう簡単には勝てないであろう。

 それ故に、諸葛亮は大軍が一度に展開できずその兵数の優位を発揮できない街亭の隘路あいろに布陣し、柵や砦を築いて張郃軍を防げ、と指示したのであった。


 だが、実際に街亭の地形を確認した馬謖は、先述の通り隘路ではなくその先の平野の右手にある山を指して言った。


「あの山頂に布陣する」


 それを聞いて、副将の王平は仰天ぎょうてんした。


「なんですと。それでは丞相のご命令に逆らうことになってしまいます」

此度こたびの戦の目的は張郃軍を撃退することだ。張郃軍の方が兵数が多い為に、丞相は大軍が展開できぬこの隘路で戦えと言われたのだが、結果的に張郃軍を撃退できれば同じことではないか」

「そうでございますが、もし負けてしまえば全軍が崩壊する危険があるのです。しかも敵は先帝陛下も恐れていた張郃で、兵数も我らより多い。ここは丞相のご指示に従うべきです」


 馬謖はそれを聞くと、王平をあざけるように笑った。


「王平どの、孫子兵法に、君命くんめいに受けざるところあり、と言う言葉があるのをご存知か?」

「は? ええ、聞いたことぐらいは……」


 王平は短く答えると、口をつぐんだ。

 王平は学問をしていない。それどころか、文字もまともに読めず、知っている文字は自分の名前を含めて十文字程度であった。当然、兵法書のたぐいなど読んだことはない。


 だが、彼は戦場で一兵卒から部将にまで上った文字通りの叩き上げであり、兵法書は読んだことなくとも同僚などからその要点を聞いて覚え、戦場で実践しては戦争の何たるかを体得した人であった。体系的に学んでいなくとも、数々の戦場で兵法は身体の髄にまで叩き込んでいた。


 だが、学問の面で言えばエリートである馬謖は、文字すら知らない王平の無学を密かに馬鹿にしていたのか、見下すように王平を見て、


「主君の命でも、その場の状況によっては受けてはならないこともある、と言う意味です」

「…………」

「皆、張郃張郃と言うが、奴はすでに老人で恐るるに足らん。ただ追い払うだけでなく、ここで奴の首も取るのです。さすればわが軍の士気も大いに上がるでしょう。それ故にあの山頂に布陣し、登って来た張郃軍を高所の利を活かして一気に殲滅するのです」


 馬謖は澱みなく言ってのけたが、王平は口をあんぐりと開けて、


「いやいや、戦争においては年齢は関係ありませぬ。むしろ命のやり取りが絡む戦場では経験が最も重要になります。それに将軍もご覧になったでしょう、あの南山には水がございませんでした。数の多い張郃軍がそれをを知って水源を封鎖し、山を包囲したら飲み水が枯渇こかつしておしまいでございます」


「はっはっはっ……普通の人間であればそう考えるでしょう。ですが、背水の陣と言うのがあります。もし包囲されたとしても、水が絶たれたことを公表して張郃軍を撃破するしか生きる道は無い、と全軍に知らせるのです。それによって背水の陣と同じ死に物狂いの覚悟を兵士たちにさせるのです。その決死の勢いに高所の利を加えれば、必ずや張郃軍を撃破できるでしょう」


 馬謖は得意げに戦術を披露した。

 だが、王平は呆れた顔で呟いた。


「馬鹿な……」

「馬鹿だと?」


 馬謖は、カッとまなじりを吊り上げた。

 だが王平はそれに構わず一歩寄り、


「馬将軍は理屈で考えすぎます。戦と言うのは常に浮動状況で、事前に考えた作戦通りに行くことは十のうち三もあればいい方です。丞相や、あの魏の曹操でさえそうでした。ましてや将軍はこれが初めて自分で指揮を執る戦です。この策は危険性が高すぎます」

「王平どのは兵法を知らぬのだ」


 馬謖は、むっとして言った。


「いえ。背水の陣ぐらいは知っております。そしてそれが事前に作戦に組み込むべきでない下策げさくであることも。背水の陣とは、戦いの末に追い詰められた際に仕方なく使うものでございます。しかも、率いる将は自ら兵士たちの先頭に立って戦う必要がある為、西楚覇王(項羽)の如き群を抜く武勇を持っていることが必須であります。失礼ながら、馬将軍にはそれほどの武勇はなく、とても背水の兵士たちの先頭に立てるとは思えませぬ」

「何だと? 王平どの、控えられよ」


 馬謖は、腰の長剣に手をかけようとした。

 だがそれでも王平は退かず、


「いいえ、ここで負ければ兵站を断たれ、ここまでの戦果を全て失ってしまいます。ひいては先帝陛下よりの魏賊討伐の悲願は遠のきまする。これだけは譲れませぬ」


 先帝、つまり蜀漢初代皇帝の劉備のことである。

 劉備の名前を出されては流石に馬謖も口を閉じたが、すぐにまた王平を睨んだ。


「この軍の総大将は私ですぞ」


 今度は王平が口を閉じた。が、ため息を一つつくと、


「わかりました、もう何も言いますまい。ただ、私だけは仰せつかった作戦通り、ここの隘路に布陣させてくれませぬか? 将軍に万が一のことがあった場合、すぐに救援に駆け付けられるようにしたいと思います」

「……いいでしょう。だが、私が張郃軍を撃破したあかつきには、このことを丞相にご報告申し上げる」

「構いませぬ。そもそもそれが丞相のご指示です。結果がどうあれ、私が罰せられることはないでしょう」


 そう平然と言った王平を馬謖は睨むと、心の中で舌打ちしながらきびすを返した。


 以上が、馬謖が街亭の隘路を捨てて南山に布陣した経緯であった。


 だが、結果を知っている将平は絶望を感じながら叫んだ。


「馬謖の屁理屈野郎が! そうは上手くいかないんだよ。とにかくこのままここにいたんじゃ駄目だ。張郃軍が来る前に急いで山を下りるぞ」

「え? 今更でございますか?」


 李盛は慌てた。


「そうだ、急ごう。全員に伝えてくれ」


 馬謖――将平は、李盛、張休、他の兵士らと共に急いで屯営に戻った。

 

 あちこちに、木組みと布だけで作った簡易テントのような物がある。これが兵士たちの幕舎なのだろう。兵士たちはその幕舎と幕舎の間で武芸の訓練をしていた。将平にとっては初めて見る光景だが、今は馬謖となっているせいか、見慣れている感じがした。


 少し離れた広い場所には石を組んで作った即席のかまどがいくつも作られており、その上に大きな鉄鍋が乗っていた。炊事場と見られ、その側には四人ほどの兵士がおり、あくびをしながら雑談している。と、そこへ木桶を両手に提げた兵士たち十数人がやって来て、その木桶を彼ら四人の前に置いた。


 ――やはり水は麓から汲んで来ているのか。歴史通りだ。まずいぞ。


 そこで、陣太鼓が一定のリズムで叩かれ、同時に伝令役の兵士が駆け回りながら叫んだ。


「撤収だ! 急いで片付け、山を下りる! 急げ!」


 将平が、教えられなくてもわかった自分ーー馬謖の幕舎に着くと、一人の従者が馬を引いて駆けつけて来て、もう一人の従者が幕舎の中から槍を持って来た。


 当然、将平は馬に乗ったことはない。槍も持ったことなどない。だが、もう脳は馬謖と一体化しているのであろう、馬の前に立った瞬間、どう乗ればいいのかわかり、差し出された槍を手に取った瞬間、どうやって使えばいいのかわかった。将平はまず槍を両手で持つと、自然と身体が動くままに槍を振った。


 ――武芸は一通り習得しているのか……しかも、結構な腕前なんじゃないか?


 将平は少し驚いた。馬謖にそのようなイメージがないので意外であった。

 だが、同時にどうしても浮かんでこない記憶があった。実際の戦場で刀槍を振るった記憶である。


 ――なるほど、何事にも実践経験が無いわけだ。


 将平は、頷いた。


 再び周囲を見れば、屯営全体は慌ただしさを増し、兵士たちが駆け回っている。その中から、馬に乗った張休が駆け寄って来た。


「将軍、あと半刻もすれば全軍で下山できます」

「そうか、ご苦労さん。今、張郃軍はどの辺りにいるんだっけ?」

「伝令の話では、北東六里の地点とのことです」

「六里か。流石に速い。それでもあと半刻、大丈夫だな」

「ええ」

「だが、できるだけ急いでほしい」

「はっ」



 その頃、その北東六里の地点を街亭目指して行軍していた張郃軍。

 きらめきはせているが鈍い銀光を放つ甲冑を纏った武将が、騎馬でその先頭を進んでいた。


 身長は高いが、この時代の武将にしてはどちらかと言えば細身であるかも知れない。

 だが、その全身からは隙の無い闘気が四囲を圧するように放たれており、かぶとのまびさしの下の目には強い光が宿っている。短めの顎髭あごひげには白いものが混じり、頬にも皺が刻まれているが、その顔立ちは整っており、若い頃はかなりの美男であったであろうことがうかがえる。


 この武将こそ、劉備や曹操、関羽張遼らの、謂わば三国志の第一世代でありながら、未だ健在で天下に武名を轟かせていた魏の名将、張郃であった。

 同世代の有名武将でこの時代もまだ活躍していたのは、他には蜀漢の趙雲ぐらいであった。


 張郃は、行軍中、次から次へと駆けつけて来る伝令の報告を聞いては無言で頷いていたが、一際ひときわあわただしくやって来た一人の報告を受けて、眼光を鋭く光らせた。


南山なんざんの馬謖に動きありと?」


 張郃が訊き返すと、伝令は「はっ、山を下りるようでございます」


「ふむ……」


 張郃は、街亭の方角を見て思案した。


「隘路を捨てて山の上に布陣したのに、今また慌てて下山するとは……何かあったな」


 張郃は天を見上げた。早春そうしゅんの乾いた北天ほくてんには細長い雲が幾条もたなびいていた。


「かつて、夏侯将軍は敵に動きがあると見るや、自分の方から先に動いた。しかも誰よりも速く、雷光の如く」


 張郃はつぶやくように言うと、後背の兵士たちを見回した。


「軽騎兵を切り離す。われと共に雷光となれ、いざ街亭へ」

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