第二章⑥ 社会人になるとMPの概念が身を持って理解できる

 ―――吸血種!

 その言葉を聞いた瞬間、俺は弾かれたように前方にダッシュする。脳裏には昨晩戦ったカインの姿が浮かんでいた。

 このアイリーンとかいう女の目的はなんだ?

 報復だろうか。だとしたら躊躇するわけにはいかない。

 聖を呼ぶか? いいや、大学の構内でガールズバーをぶちかますわけにはいかない。それはあくまで最終手段だ。

 つまりここでの最適解は、できるだけ手短に勇者の身体能力を使って彼女を拘束、無力化すること。

 勢いよく飛び出した俺を見て目を見開いたアイリーンが両手をばたばた振りながら「え、ちょ、ちょっと待ってよ。ボク戦うつもりなんて微塵もないよ!」と言っているのが聞こえた気がしたが、それが嘘か本当かわからない今、どちらにせよ拘束するしかない。

 俺は右足で地面を蹴りつけ、アイリーンに飛び掛かりながら左足を振り上げる。

「危ないって!」

 アイリーンは上半身を捻ることで間一髪俺の蹴りを躱す。

 しかし俺は着地の勢いをそのままに一回転し、彼女の足を払う。

 バランスを崩した彼女を後ろから支えるかのようにぴったりとくっつき、右腕で彼女の首を拘束した。

「お前の目的はなんだ?」

 背後をとったことでひとつ安心した俺は低い声でアイリーンに質問をする。

「初対面でこんな乱暴してくる人に答えられることなんて何一つないぜ?」

 俺は無言で首を締めあげている右手に力を込めた。

「あぐぐぐぐ、ギブギブ」

 バシバシと手を叩かれるが無視してもう一度「目的はなんだ?」と質問する。

「……はぁ、仕方ないな、戦うつもりなんてなかったんだけど」

 するとアイリーンが突然低い声でため息をついた。

 何か来る! と俺が警戒心を強めた瞬間。

 ぬぷん、と、

「ひっ」

 驚いた俺は思わず手の力を緩めてしまう。アイリーンはその隙を見逃さず、彼女は俺の拘束から逃れて再び俺と対面した。

 彼女の首を見ても不審な点はなく、腕に残る先ほどの粘土のような不快な感触が不思議に思える。俺は彼女に何をされた?

「不思議そうな顔だね、ほら、一回落ちつけよ。どうせキミの攻撃はボクには効かないんだからさ」

 かっちーん。

 アイリーンのその言葉は俺の神経を著しく逆撫でした。

 別に自分の強さに自信を持っているだとかそういうのはないが、彼女の飄々とした態度が何だか腹立たしかったのだ。

 俺はノーモーションで右上段蹴りを彼女の顔面に叩きこむ。

 捉えた! と思った瞬間、アイリーンの顔があり得ない形に歪んで、俺の蹴りは空を切った。

「は?」

「ふうん、その驚きよう、もしかしての吸血種と戦うのははじめてかい?」

 肉体変化だって?

 俺が呆然としていると、聖の声が聞こえてきた。

「『吸血種の中には、自分の肉体を好きな形に変化させることができる存在がいるって聞くわ。あんたに攻撃を受ける瞬間、的の形のほうが変わっているのよ。だからあんたの攻撃が当たらないってワケ』」

「……解説ありがとう」

 俺は小さい声で感謝を告げる。聖の解説で大体理解できた。最初の拘束から抜け出したときは、本当に首を柔らかい粘土のような材質に変化させて俺の締める力を緩めていたんだ。そして二つ目の蹴りは顔の形を歪ませて俺の攻撃を躱していたらしい。

 幻覚ではなく、物理的に体の形を変えているようだ。

「もう一回いうけど、ボクに敵対意思はないよ。ゆっくり話そうぜ」

 彼女がそう告げたが、まだそれを信用できなかった。

「言葉じゃわかんないのかい? どうしたらいいのかなあ。ただゆっくり話をしたいだけなんだけど」

「それを心から信頼できるだけの情報が俺の元にないんだよ」

「……それは、昨日君がボクの同胞を殺したから、かい?」

「……」

 彼女は当然のように俺がカインを倒したことを知っていたようだった。

 俺は無言で頷く。

「そっか、復讐だと思われているのかな。だったら安心していいぜ、それはない」

 しかし俺の警戒心を絆していくかのように、彼女は半笑いで手を振ってそれを否定した。

「それはないって。同じ吸血種だろ?」

「違うね。お互いに吸血種だけど、んだ」

 アイリーンはじり、と一歩こっちに寄ってきた。

 俺はそれに合わせて一歩後ずさる。

「同じ吸血種ではない? どういう意味だ?」

「だからその辺の話をゆっくりしたいって言ってるだろ。先に話し合いの場を放棄したのはキミの方だぜ?」

「……」

 アイリーンの言う通りだった。

 だけど、別に今だって彼女と交戦しなくていい保証はない。

 俺はまた昨晩のカインとの戦いを思い出す。

 俺が到着する直前にちらりと見えた真帆をいたぶるカインは、とても楽しそうな顔をしていた。まるで戦いそのものを楽しんでいるかのように。

 そのカインと同じ吸血種が、真っ当な存在だと思う方が難しい。

 やはり目指すのは話し合いではなくて、俺が圧倒的優位に立ったままの一方的な尋問なんじゃないか?

 そんな黒い考えが頭によぎる。

 しかし現状俺はアイリーンに有効な攻撃を与えられていない。

 自由に変形するスライムのような存在に有効な打撃を与えるのは難しい。かといってガールズバーを放つことも気が引ける。

 ……大人しく話し合うしかないのだろうか。

 でも、さっきからこのアイリーンにはなんだか舐められている気がする。

 それは癪だよな。

 あと一撃だけ、あと一回だけ攻撃して駄目だったら話し合いに移ろう。

 そう決めた俺は、両手を挙げて彼女の注意を引き付けた。

「わかったわかった。じゃあ話し合いを―――」

 そう言って、両手と俺の顔を見ているアイリーンの死角である足元から再び蹴りを繰り出し―――

「痛っ!」

 足を振り上げようとした瞬間、に強い衝撃を覚えた。思わず顔を抑えてしまう。

 なんで!? 俺は反撃を警戒して彼女の手と足に細心の注意を払っていたはずだ。彼女が攻撃モーションに入ったようには見えなかった。

 いったい今の衝撃はなんだ?

「キミはまだ肉体変化についての認識が甘いんだな」

 額を抑える俺に向かって、アイリーンがべえっと舌を出した。

「攻撃は手か足。そんな思い込みがあるうちはボクには勝てないよ」

 そのまま突き出した舌が勢いよく俺の方に向かって伸びてくる。

 そういうことか!

 彼女は俺が足を蹴り上げるよりも早く、舌を目にもとまらぬ速さで伸ばして俺にぶつけたのだ。

「念のため言っておくと、伸ばせるのは舌だけじゃないぜ。指や首とかのいかにも伸びそうな部位だけじゃなく、ほっぺや手の甲もいくらでも変形する。この肉体はボクが思い描いた通りに形どるんだ」

「……」

「それはそうと、キミ、今ボクのこと騙し打ちしようとしたよね? それはあんまりじゃないかなあ」

 アイリーンは笑顔を消して俺の方に歩み寄ってくる。

 ……勝てない。少なくとも今は勝てない。

 そんな思考が俺を支配した。

「キミと穏便に話し合うつもりだったけれど、どうやらそれはできないらしい。じゃあ仕方ない。キミはここで」

 アイリーンが冷たい目をして腕を振り上げた。

 駄目だ、どうしようもない。

「『ツルギ! あたしを呼ん」

 俺が目を閉じた瞬間。

「うおっと!」

 アイリーンが、何もない床で躓いた。

「え?」

「あぶなっ」

 そのまま彼女はなすすべなく俺の方に向かって倒れ込んでくる。

 俺は彼女を支えようと手を前に突き出して。

「ひゃっ」

 アイリーンの胸あたりにある丸い塊を掴んだ。

 というか胸そのものだった。

 数秒、時間が止まって、俺は自分の手の感触の正体に思い至る。

 。そんなバカみたいな単語が頭をよぎる。

 アイリーンの顔がだんだんと赤くなっていく。

 それを見て俺は自分のしていることの大きさに気が付いた。放課後大学の教室で女子学生、しかも外国人の容姿をしたいい体の女の子の胸を揉んでいる。

「あっいやっ、ごめんっ!」

 俺はシリアスに敵対していたことも忘れ、慌てて胸から手を離した。

 両手を挙げて頭を下げる。

 アイリーンは顔を真っ赤にしてほっぺをおさえている。白い肌なので紅潮しているのがわかりやすかった。

「ほ、ほー。これが異性に体を触られる感覚か。すご、心臓がまだドキドキしてる。顔が熱い……体が自分のじゃないみたい……そうか! これが、恋?」

 たぶん違うと思う。

「ねえ、キミ。お願いだ」

 アイリーンが真っ赤なほっぺを隠そうともせずキラキラした青い瞳で俺に言い寄ってきた。

「もう一回触ってくれないか? この感覚、なんだかとっても心地いいんだ。なあ、頼むよ」

「は?」

「いいだろ? ボクの胸を触るだけでいい。ほら、ここには他に誰もいないし」

 そのままアイリーンは俺を押し倒して馬乗りの体勢になった。

 教室の冷たい床の感触を背中で感じる。

 アイリーンは俺の顔を挟み込むようにして両手をつく。

 精巧な顔の造りに思わず見とれてしまった。

 彼女の紅潮した顔に引っ張られるかのように俺の心臓も高鳴る。

 なんなんだこの状況は。

 冷静な俺が冷静に状況判断をしようとしたけれどちょっと難しかった。

 うるさいはずの聖も変に気を利かせているのか静かだ。

 ただ俺とアイリーンの心臓の音と息遣いだけが響く。

「なあ、キミ、名前を教えてくれよ」

「……剣。朝田剣」

「そうか、剣か。じゃあ剣、お願いだ」

 そう言って彼女は俺の右手を持った。

 抵抗する気力を失った俺は、誘導されるがまま、右手を彼女の服の中に這わせていく。

 そして次は下着越しに彼女の胸を。

 その時。

「やっほー、剣くん。って、ええ?」

 勢いよく扉が開いて、魔法使いの末裔、打海真帆が入室してきた。

 真帆の声を聞いた俺は一気に平静を取り戻し、右手をアイリーンの服から抜き取る。そのままアイリーンの肩を支えて、「やめよう、な?」と言った。

 アイリーンも真帆の方を一瞥して、「人が来たなら仕方ないなぁ」と残念そうに言った。

 しかし、沈黙を破った真帆は、真っ赤な顔を両手で覆いながらもその指の隙間からばっちり俺たちの方を見ている。

「ほ、ほー。これが友達の男の子が女の子といかがわしいことをしている瞬間を見てしまう感覚なのね。すご、まだ心臓がドキドキしてる。顔が熱い……体が自分のじゃないみたい……そうか! これが、恋? 続けてください!」

「その扉はたぶん危険だから開かないほうがいい!」

 金髪の美女に馬乗りになられたまま、俺は真帆が変な性的指向に向かってしまわないように絶叫した。

 それは、俺の人生で一番大きな声だった。

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