第三話『ハゲタカの夜』その7


 目覚めるのは簡単だった。


「――げ、げっほ、げっほ……ッッ」


 口と鼻から溢れ出るのは――、水だった。どうやら勢十郎は、水を張ったバケツに頭を沈められ、強制的に覚醒させられたらしい。


「……よぉ、また会ったな」


 白のワイシャツにスラックスという、どこにでもいそうなサラリーマンスタイルの中年が、勢十郎の頭をわしづかみにしていた。水滴で歪んだ視界には、対面のソファーに座る中年男の、狼のような目だけが見えている。


「……先に言っておくが、暴れても無駄だ」

「やってみねえと、わかんねえだろ」


 勢十郎をソファーに縛り付けているのは、東条が霊的処置を施した荒縄だった。


 だが、霊媒知識にうとい勢十郎は、そんなカラクリなどつゆ知らず、力任せに何度も脱出を試みてしまう。やがて、縄の食い込んだ手首が血だらけになった頃、彼はついに抵抗を諦めた。


「本題に入る前に、一つ聞いておきたい」

「……なんだよ?」

?」


 言われて、勢十郎はようやく、自分が下着一枚きりだという事に気が付いた。殴られた顔面が無闇に火照って、体まで意識が回っていなかったのである。


「どうやって、作った?」

「さぁな」


 鍛錬たんれん、という言葉がある。

 それが、


 透明な容器に無理矢理肉を押し詰めたような、めちゃくちゃな割れ方をした腹筋と広背筋が、特に目を引くだろう。筋繊維が織りなすストリエーションが、電子回路のように彼の胴体のあらゆる場所へ伸びている。


 ただのトレーニングでは、こうはなるまい。

 東条の見立てでは、勢十郎の体は下腿から腰までの深層筋を徹底的に鍛え抜いているものと思われた。無論、手足も十分に絞られているのだが、それに比べると、体幹部の鍛え方があまりにも異常すぎるのだ。


 ふと、東条の脳裏に『身体変工しんたいへんこう』という言葉がよぎる。

 肉体の一部に手を加えて変形をうながす身体変工は、広義では入れ墨や整形も含まれる。だが、大槻勢十郎の肉体は、いきすぎた鍛錬によって一部の筋肉だけが異常に発達し、その影響で骨格の成長が阻害されているような有様だ。

 事実、彼は中学一年の夏から、一ミリも身長が伸びていない。事情を知らない周りの人間達は、それをただの早熟だと思っているのかもしれない。


 勢十郎の体がボディービルの失敗作だと判じた東条は、テーブルに用意されていたティーカップを持ち上げた。


「さて、何から話そう? それとも、何か飲むかな?」

「手短に頼むぜ、俺はアンタみたいに暇人じゃねえんだ」


 言いながら、勢十郎は不自然にならない程度に室内を見渡した。

 ソファーとテーブル、大型テレビに観葉植物と、ありきたりなセットが並んでいる。本棚がないのは、勢十郎には少し意外だった。


「ここは市内の旅館だ。君と違って、私は家を持たない」

「刀仙、だっけか? そんな事やってっからだよ」

「ほう。色々と勉強したんだな」


 命懸けになれば、勢十郎でもその程度の知識はつく。実際、黒鉄に説明されたモノガミの事よりも、切絵の話した刀仙の情報の方が、彼には強く印象に残っていた。


 いわく、刀仙は日本刀が目的。刀の為なら、人も殺す。


 ティーカップをソーサーに戻した東条は、心外そうにため息をついた。


「法力僧の小娘に、何を吹き込まれたのかは知らないが、君は刀仙を誤解している」

「刀好きの人殺しだろ、違うのか?」

「違わない。しかし君はなぜ、刀仙が日本刀を求めるのか、説明を受けてはいないはずだ」

「あんたの言う『法力僧の小娘』は、刀仙が変態だからだ、って言ってたよ」

「ふははははっ! 変態ときたか! 実に法力僧らしい、いい加減な解釈だ!」


 東条は膝を叩いて大笑いした。


 子供のように笑う東条の姿が、なぜか幼い頃に見た祖父の姿と重なって、勢十郎は複雑な気分になる。


 そういえばこの男は、八兵衛の事も知っていた。

 一体、どういう関係だったのだろうか。


「刀仙という呼び名は、法力僧がつけた蔑称だ。本来は侍が、剣の境地を体現・体得する手段の一つにすぎない。それは己に最も適した刀を求める『一期一振いちごひとふり』という思想からきている」

「いちご、ひとふり、だぁ?」

「刀仙は皆、一期一振を求める。特に、モノガミきの日本刀を、だ」


 勢十郎は知る由もなかったが、『一期一振』とは、かの豊臣秀吉の愛刀の名前である。ただ、東条の言うそれが、刀仙にとって重要課題であるという事だけは、彼にも理解できた。


 椅子に深く腰掛けた東条は、日本人にしては長い脚で膝組みをつくっている。


「実をいえば、刀仙にとっての一期一振がモノガミ刀である必要はない。しかし、モノガミと意思疎通ができれば、刀仙はその日本刀の力をより引き出すことができる」

「そりゃ普通の日本刀よりも、一期一振になる可能性が高い、って事かい?」

「ああ。だから刀仙も積極的にモノガミ刀を求めるようになった。昔ながらの修行もいいが、ある程度の効率は考えなければ、な」


 身も蓋もない言い草だ。

 だが人生が有限である以上、効率を求めるのは悪ではない。刀仙の目的である『剣の完成』が、精神的なものでなく、物理的な『強さ』だというのなら、東条の言い分はもっともだ。


 リビングに立ちこめる紅茶の香りが、濃い。


「……あんた、俺のじいさんとどういう関係なんだ? どう見ても、お友達って年じゃねえ。あんたが大花楼に来たのは、じいさんの事を知ってたからなんだろ?」


 東条は無精髭の目立つ顎を指で擦り上げ、勢十郎が思いもよらぬ事実を告げた。


「私は今年で百五十歳になる。君の祖父、八兵衛と出会ったのはもうずいぶん前になるかな。そう、第二次世界大戦の直前、日中戦争のまっただ中だった」

「真顔で冗談言ってんじゃねえよ、おっさん」


 勢十郎は東条を見て毒突いた。


 確かにこの男、多少老け込んではいるが、どう見ても五十は越えていそうにない。顔の印象だけなら三十代、どんなに老けて見積もっても、四十代前半がいいところである。

 ところが、東条がYシャツのボタンを外した途端、勢十郎は言葉を失っていた。


「……昔、ある刀仙にやられてね」


 その『傷』が、人間には致命傷になる事ぐらい、勢十郎にも容易に想像がついた。

 東条の首元には、頭を一周する形でとんでもない刀傷が刻み込まれていたのだ。傷の幅は数センチにも及び、普通に考えれば、首が落ちるほどの重傷だったはず。


「どうやって生き延びたのか、不思議だろう? 君は神通力を持つモノガミがいるのを知っているかな? 私を斬った刀には、ツクモガミが宿っていた。『斬った者を、この世の法則から切り離す』という神通力を持った、ツクモガミがね」


 神通力と聞いて、お蘭の変身能力を思い出した勢十郎は、はっとした。


「あんた……、寿?」

「は! 寿


 東条は右手でティーカップを持ち上げると、左手に叩きつけた。その衝撃に耐えきれず、陶製のカップは爆ぜ割れて、破片が手の甲に突き刺さる。


 その直後、恐ろしい事が起こった。


 東条の皮膚から滲み出た血液が、生き物のように動き出し、彼の体内へ戻りだしたのだ。刺さったカップの破片は内側から肉に押し出され、口を開いた皮膚がもぞもぞといごめきだしたかと思うと、傷の裂け目を元通りに埋めてしまう。


 吐き気をもよおすようなその光景に、勢十郎は口の端を引きつらせた。

 東条は何事もなかったかのように、左手を握ったり、開いたりしている。


「……と、まあこんな塩梅あんばいだ。で、何の話だったかな? ああ、八兵衛だったか。懐かしいな、私達はすぐに意気投合して、終戦後も二人で日本に帰国した。焼け野原になった東京のドヤ街で、ガソリン臭い焼酎を呑んだものさ」


 東条は遠い目をするが、しかし勢十郎は懐疑かいぎ的だった。


 モノガミ刀によって寿命を失い、八兵衛と出会った東条は、今、刀仙として完成するために一期一振を求めている。確かに、それは間違いないのだろう。


 だが、八兵衛と東条が意気投合した、というフレーズに、勢十郎は強い違和感を覚えるのだ。お世辞にもコミュニケーション能力の高い方でなかった祖父が、一体この男のどこに共感したのだろうかと。


 勢十郎の思考回路に、ある光景がフラッシュバックしたのはその時だ。

 大花楼の地下空洞で見た、あの刀の山。


 瞬間、脳裏を駆け抜けた直感に、勢十郎は震えていた。


「ま、さか……、じじいも、あんたと同じ……?」

「ああ、そうだよ。


 残念ながら刀仙の言葉には、嘘を付いている様子がなかった。

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