第32話 主人公の相手
「さて。ハートラブル公爵家の代理人として、エルダー園芸店に仕事の依頼をしたい。はい、こちらが正式な依頼書」
ジャックは書類を差し出す。そこには依頼内容とそれに対する報酬が細かに記されていた。
「ハートラブル公爵家にある花の入れ替えを定期的に行うこと。屋敷内の花は、すべて赤い薔薇を使うこと。ただし、ヴィクトリア・ハートラブル公爵の寝室を含む私室のみ、花屋が選んだ花を飾ること――要するに、この前みたく、リアちゃんに花を選んでほしい、ってこと」
「へっ……私?」
リアは驚いて目を丸くする。まさかハートラブル公爵から直々にご指名をいただけるとは、思ってもみなかった。ポカンと開いた口が塞がらない。
「気に入られたってことだよ。僕もリアちゃんなら大歓迎――」
「――おい、触れるな」
リアにハグするかのごとく、両腕を開いてみせたジャックに、すかさずアッシュが睨みを利かせる。ジャックは残念そうに肩をすくめると話を続けた。
「報酬については記載されているとおり――なんだけど、まあ見てわかるようにさっき最初に案内した店舗が報酬の一部だったわけだけど……」
「「全力でお断りします!」」
間髪入れずに二人が答えると「そうだよね。僕もそう思ったんだけど。公爵様がさぁ……」と愚痴をこぼす。先ほどのあれはこれのことだったのか、とリアはようやく理解した。
「二人から直接、公爵様に断ってね。一応、こちらの契約書類にも訂正して記載しておくけど」
「えぇ……」
さっそくハートラブル公爵との面会予定が入ってしまい、リアの肩がずしりと重みを増した。
公爵様が留守の間にささっと仕事を終えて、ささっと帰る予定だったというのに。
ただ、定期的に行っていれば、いつかは出会ってしまう日もあると覚悟はしていたのだが……それがそんなに早くなってしまうなんて。リアにとっては計算外だった。
「正式な契約はハートラブル公爵家でヴィクトリア様が直接なさるそうだから」
「えぇっ……!」
あの威圧感にまた耐えられるだろうか、とリアは複雑な面持ちでジャックの言葉を受け入れていた。
◇◇◇◇
「リア、大丈夫?」
しばらく放心状態だったリアは、アッシュに声をかけられ、ハッと意識を取り戻す。
商業ギルドからの帰り道。最近、乗り慣れてきた荷馬車に揺られながら、リアは遥か彼方へ飛ばしていた意識を戻すと、心配そうな瞳を向けるアッシュに微笑んでみせた。
「大丈夫。少し疲れたみたい。そういえばアッシュは大丈夫?」
「僕? うん、大丈夫だけど……?」
「そう、それなら良かった」
「?」
不思議そうに首を傾げるアッシュに話題を変えるべく今後の予定を伺う。
「クレメンタイン教授は約1か月後に開店できるように準備、と言っていたけれど……できるかしら」
新店舗の開業など、前世でも経験はない。しかも花屋で働き始めてから、まだ約2か月半ほどしか、経っていない。リアには不安しかなかった。
「心配ないよ。店内の改装も、生活空間の整備も、僕ができるから」
アッシュは優秀だ。リアは昔から知っているが、いつも頼りになる。なんて心強い――と、思った瞬間、嫌な感覚がよぎる。
(まさか、アッシュが……主人公の相手、なの?)
彼はあまりにも優秀すぎる。身分は平民だけど、それも確実ではない。そして、ローズマリーは彼を知っている。それが、何よりの証拠――
リアの瞳からポロリと雫が落ちる。
「えっ、リア? いったい、どうしたの?!」
アッシュが慌てる。
まるでリアを迎えに行ったあの日に見た、あの涙のようだ。コップの水があふれかえるかのように、自然にこぼれ落ち、それを本人は自覚していない。
きっと今も、自分が泣いていることに気がついていないのだ。
アッシュは握っていた手綱を片方はずし、リアの頬に手をあてる。藤色の瞳とヘーゼルの瞳が合うとアッシュはそっと親指を動かした。
「何を、隠しているの?」
見つめたまま、優しく問いかける。
「あふれてしまうほど、我慢しないで。あふれる前に、僕に吐き出して。しっかり受けとめるから」
リアは瞳を揺らす。
――言えるはずがない。前の世界のことなど。今を生きている自分たちが、何かの物語の一人であることなど。
リアはうつむき、黙ったまま、ただ涙を流すことしかできなかった。
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