第3幕 頭取探偵 ~もう一つの「頭取」ものがたり~


( 1 )


 四条大橋を東から西に渡り東華菜館の前で振り返る。

 これは鴨川登志夫のいつもの儀式に近い癖だった。

 鴨川を挟んで見える劇場南座」の優美な姿を再確認する作業のようなものだった。

 昨日まで東京で仕事をしていた。

 やはり京都に来るとほっとする。

 町がコンパクトで中央に背骨のように鴨川が横たわる。

 何より良いのは東京と違って、川の上に高速道路が掛かっていない事だった。

 さらに西に向かって歩き出す。

 四菱銀行河原町支店に入る。

 ここで口座を作るためである。

 受付台には四菱銀行の名前が入ったメモ用紙があった。

 何枚か拝借した。

 丁度良い大きさが気に入った。

 役者の楽屋に云った時、何か云われる時が多い。

 すぐにメモするのに具合がいいのだ。

 必要書類に書いたものを受付係に差し出す。

「今日は、身分証明書のようなものをお持ちですか」

「はいこれ」

 車の免許証を差し出す。

「ああ、それとこれも」

「名刺ですね」

「そうです」

 その名刺を見ていた女子行員の表情が見る見るうちに変わる。

「少しお待ち下さい」

 すぐに女子行員は近くの男性社員に名刺を見せる。

 さらに名刺を持った男性社員が奥の別の男性社員に見せる。

 さらにさらに、名刺が行員を介してどんどん流れて行く。

 ようやく、一人の男性行員がやって来る。

「お待たせしました鴨川様。どうぞこちらに」

 頭を下げて奥にある応接間に案内しようとしていた。

「いや、私はここの銀行の口座を作るだけですから」

「ええもちろん解ってます。とにかくこちらに」

 鴨川は従った。

 通された応接間は広さは10畳はある。

 ふかふかのソファに座るが居心地が悪い。

 口座作るだけなのに、何か勘違いしている!

 先ほど女子行員に渡した名刺は、文字だけの白地の昔からある名刺だ。それには、


 竹松株式会社 頭取 鴨川登志夫


 と書かれているだけで、住所は竹松東京演劇部の住所である。

 女子行員がうやうやしく、コーヒーとお茶を運んで来る。

「あのう口座作りたいだけなんです」

「ええもちろんですとも」

 満面の笑みを浮かべ深々とお辞儀してドアを閉めた。

 入れ違いに男が入って来た。

「お待たせしてすみません」

 その声に反射的に鴨川は立ち上がった。

「いや私はただ、口座作るために」

「はい出来上がっております」

 男は黒の漆の器に入った鴨川名義の通帳を目の前に差し出した。

「ああ、どうも」

 鴨川はすぐにでも帰りたかった。

 しかしそうはさせない雰囲気を男は持っていた。

「申し遅れました。四菱銀行河原町支店店長の」

 とここまで云ってから、言葉を中断する。

 そして名刺を鴨川に渡す。

「支店長 堀川 進」

 一字一句目で追いながら鴨川は声に出していた。

「さようでございます。まあどうぞお掛けになって下さい」

 鴨川が堀川と向かい合って座る。

「黒、柿、萌黄色の三色のストライプのネクタイ、似合ってますね」

 目ざとく見つけた鴨川がつけていたネクタイの事を褒めた。

「頭取と云う重職。大変ですね」

「いやあ銀行界では重職ですが、我々の世界では下っ端です」

「と云いますと」

「歌舞伎です。歌舞伎界で頭取やってるだけです」

「いやあどんな世界であろうと、頭取は大変なんです」

 堀川は、本当は知らないのだろう。

 堀川の背後に棚があり、陶器が目に入った。

 黒っぽくてうずら卵のようで、ロケットの先を形どっていた。

「あれは何ですか」

 鴨川が指をさした。

 その指先に誘われて、堀川は後ろを向く。

「ああ、ケンですね」

「ケン?何ですか」

「中国の古来の楽器です」

「楽器!」

「ええ、まあ土笛の一種です」

 堀川は立ち上がり棚に行く。

 鴨川はスマホで素早く写真を撮った。

ケンを手に持ち鴨川の目の前に差し出した。

「両側に穴があってこのように、包み込むように両手で持ちます」

 堀川は口に持って行き鳴らす。

「縦笛のような、フルートのような感じですね」

「そうです。まあオカリナの一種です」

「趣味でお集めなんですか」

「そうです」

「よかったら差し上げます」

 堀川は、別の同じケンを差し出した。

「いいんですか」

「ええ。お近づきの印です」

「有難うございます」

 堀川はまだ何か話したそうだった。

 しかし鴨川は再び座らずにそのまま出口に向かう。

「有難うございました」

「鴨川さん、また逢いましょう」

 もちろんそれが社交辞令なのはわかっていた。

 恐らく二度と逢う事もないだろうと思った。

 鴨川は南座に戻ると屋上に向かう。

 毎日、ここへ行き、一日の公演の無事を祈願している。

 今日は昼1回公演で12時開演だった。

 通常は昼夜2回公演でその時は11時開演である。

 お参りを済ませてふと屋上の片隅を見た。

 南座のキャラクター「ミヤコ」が座っていた。

「鴨川さん、中に入りますか」

 背後から声を掛けられた。

 振り向くと小道具係の小倉順子と神宮弘美がいた。

「どうしてここに(ミヤコ)さんがいるんですか」

「今日は昼一回公演で、1時間開くのが遅いから虫干しです」

「ああなるほどね」

 今回幕開きでミヤコが出て来て、芝居の流れを説明する。

「今から撤収ですか」

「今日は天気いいので、もう少し干します」

「いい天気ですね」

 3人は空を見上げた。


 歌舞伎頭取の仕事の範疇は広い。

 一言で云えば、役者行政とでも云うのか。

 今回、東京歌舞伎座公演の後、京都南座に役者と乗り込む時、

「荷出し搬出」作業に立ち会う。

 これは役者、裏方の荷物をトラックに詰め込む作業である。

 頭取は荷物を運ぶのではなく、立ち合い、最終点検である。

 役者の荷物と一言で云っても様々である。

 化粧道具、着替え、座布団、寝間着、自転車迄詰め込む輩も出る。

 幹部役者は大目に見るが下っ端は荷物3個までと制限かけている。

 そうでないとどんどん増えて12tトラックに収まらないのだ。

 義太夫三味線奏者の義太夫三味線、鳴り物の鼓、小太鼓、大太鼓、

 衣装、小道具、大道具、場合によっては照明器具まで多岐に渡る。

 それらの大荷物が京都都座に来る。

「荷物搬入」作業に立ち会う。

 前もって決めていた各楽屋への荷物の振り分けを業者に指図する。

 前乗りで役者の付き人、弟子らも来る。

 幹部役者の楽屋作りだ。

 一か月の大半を楽屋で過ごす役者は最近荷物が増える傾向にある。

 テレビ、冷蔵庫、パソコン、タブレット、机、電気スタンド、座布団、部屋着、本、文房具など多岐に渡る。

 中には特別仕様の自転車まで持ち込む者もいる。

 京都南座の目の前に鴨川の遊歩道がある。

 日頃運動不足の役者は昼夜の入れ替えや、昼1回公演の後、走ったりする。

 東京だと劇場と自宅だけの往復の単調な毎日だが、京都公演だと違う。

 飲みに行くのもすぐ祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町の五花街の内、4つの花街が徒歩10分以内にある。

 遅くまで飲んでも、徒歩でホテルに帰れる。

 もう遊んで下さいと云ってるような環境なのだ。 

 だから役者の中で京都公演は好評である。

 さて公演が終わった後の搬出も大変である。

 東京歌舞伎座に戻る便、大阪松竹座行き、巡業行きと3つに分かれる場合もあり大変である。

 次に東京の役者が京都に乗り込む時、ホテルの手配がある。

 これは都座監事室と協議して行う。

 幹部役者と下っ端では自ずとホテルのランクも違う。

 最近、ビジネスホテルの設備が格段によくなり、大差はなくなる。

 役者中には自分でレンタルホテルを取ったり、馴染みの旅館に泊まったりする。

 その時は「引き(ひき)雑用(ぞうよう)」制度が適用される。

 これは1日幾らと定まった金額を支払う。

 役者によってその金額は変わる。

 この金額を巡って役者からクレーム来る。

 役者からスタッフへの初日祝い、中日祝いを取りまとめるのも頭取の仕事である。

 役者自身が、付き人使ってそれぞれの部署へポチ袋持って行くがこれが難儀である。

 照明、大道具、小道具、音響、烏屋口、楽屋、衣装、床山、イヤホンガイド、支配人、副支配人、営業、業務、切符売り場、案内、清掃、管理等多いのだ。

 劇場の中だけと云うが、本番中はどこの部署も受け取れない。

 開場の時、昼夜の入れ替えの時など時間が限られているので、中々上手くさばけない。

 頭取一人に渡しておけば、さばいてくれる。

 頭取は朝は誰よりも早く出勤する。

 楽屋口に着倒板(ちゃくとうばん)と云うものが置かれている。

 檜の板で墨文字で出演する役者、鳴り物連中の人の名前が書かれている。

 名前の上には黒い小さな穴が開いている。

 役者が劇場入りするとその穴に赤い着到棒をさす。

 すると、頭取はそれを見ると今誰が劇場入りして、誰が来てないかたちどころにわかる。

 役者が来ないとなるとまずスマホに電話する。

しかし、出ない時がある。

その時は泊まるホテルに電話するのだ。

 幹部役者の楽屋入りになると、鴨川は頭取部屋を出て、楽屋口に立つ。

 扉を開けて待つ。

 弟子も付き人も待っている。

 今月の主役紀ノ川鯨蔵を待っていた。

 鯨蔵は車でもなく徒歩でもなく、現れた。

 サイクリング自転車に乗り、黒のサングラスを掛けていた。

 坊主頭なので威圧感が凄い。

「若旦那お早うございます」

 近寄り、鴨川は声を掛けた。

「ウイッス!どう慣れた?」

 鯨蔵は鴨川の顔を見るなりそうつぶやく。

 実は昨年まで鴨川は紀ノ川一門の役者をしていた。

 突然鯨蔵に呼び出されて「頭取」業務を告げられた。

 呆然と立ち尽くす鴨川に、

「いや何も専属じゃないよ。最初は役者と兼務で」

 そうフォローしてくれたが、今はほぼ頭取業務専属となる。

「頭取は役者の成れの果て」

 歌舞伎業界でよく云われる言葉でもある。

 実は歌舞伎界は「頭取」不足なのだ。

 歌舞伎ブームに乗っ取り公演が増えるが頭取のなりて不足なのだ。

 頭取にもなる条件がある。


1顔が知られている。

2歌舞伎界の事を知っている。

3真面目である事


 1はどの世界でもそうだが、ある日突然若造が

「頭取でーす」と手を挙げて出て来るのはよくない。

 2は歌舞伎界の色々な儀式、決まり事に精通している事。

 3はどの業界にも云える事だ。

 他の世界の様に、週休二日制、夏休み、お盆休み等はない。

 一か月公演が始まれば休みはない。

 それが続けば当然休みはない。

 高給取りだといいのだが、役者の時よりも待遇は一気に落ちる。

 何故落ちるかと云えば、下っ端の役者でもそれなりに谷町がついている。

 谷町とは、支援者、ファンである。

 公演中、食事や呑みに連れて行ってくれる。

 しかし頭取職になると当然舞台に出なくなる。

 するとさーと谷町は引く。

 それぐらい人気がない。

 ある役者は頭取職を打診された時、泣いて断り役者を廃業した。

 鯨蔵に続いて羊が入って来た。

 羊は鯨蔵の息子で12歳。

 同じホテルに泊まっていたが、羊は鯨蔵の弟子の蛸蔵に手を引かれて楽屋入りした。

 まず着倒板に自分の名前が書いてある。

 名前の上に小さな穴が空いている。

 そこへ着到棒をさす。

 これは自分やらないといけない。

 羊は着倒板の前で立ち尽くす。

「お坊ちゃま、さあさして下さい」

「嫌だ!」

 鴨川は、またかと思った。

 最近毎日羊が駄々をこねる。

「何やってるんですか」

 それでも動かない。

 強情な所は父親に似ていた。

 その時だった。

 すっと手が伸びて羊の手に着到棒握らせて強引にさした。

 はっとして羊は振り返る。

 同じ子役の大地だった。

 大地は梨園の生まれではない。

 子役プロ所属である。

 今回は羊とのダブルキャストの予定である。

 子役は、急に熱を出したりして舞台に出れなくなる。

 さらに労働基準監督署には子役申請と云って、書類を出す。

 一か月公演で休みなく舞台に出るのは禁止されていた。

 そこで劇場側は2人用意していた。

 予定では、交代で出る事になっていたが、羊を今回前面的に出したい鯨蔵は初日前の稽古で、

「ずっと出させてよ」と云い出した。

 子役プロには手配済みだったが座頭鯨蔵の申し出なので断れない。

 そこで初日開いても、劇場に来ていた。

 万が一のためだ。

 初日開いてから今まで何もない。

 大地の後ろには母親の那智輝美もいた。

 大地は自分の分の着到棒を済ますと、

「羊、さあ行くぞ!」

 手を取りすぐ横のエレベーターに乗り込む。

「すみません」

「いえ助かりました」

 蛸蔵と鴨川はお辞儀した。

 エレベーターには羊、大地、蛸蔵が乗り込んだ。

 輝美は乗らなかった。

 鴨川は頭取部屋から一枚の半紙に書かれたものを持って来て楽屋口の掲示板に貼った。

 本日、御社日です


「今日、御社日なんですね」

「輝美さん、よく読めましたね」

「長年いますから。おしゃび。記者総見日つまりマスコミ各社の人が見に来る日なんですよね」

「正解です」

 再びエレベーターが降りて来た。

 

    ( 2 )


 頭取部屋の内線電話が鳴る。

「鴨川さん、すぐに来てくれ。羊の楽屋に」

 鯨蔵の切羽詰まった声だった。

「わかりました」

 こう云う緊迫した時に理由を尋ねられるのを鯨蔵が一番嫌うのだ。

 長年一門についていた鴨川だったので、すぐに返答した。

 羊の楽屋に鯨蔵、蛸蔵、大地、輝美がいた。

「羊がいなくなったんだ」

「さっき、大地君と一緒に上がったでしょう」

「ほんの僅かな時間にいなくなったんです」

 大地が答えた。

「トイレじゃないですか」

「トイレも風呂場も見た」

「じゃあ屋上とか」

「そこも見た」

 本来羊は、今まで鯨蔵と同じ楽屋だった。

 先月の東京歌舞伎座までそうだった。

 それが今月の京都南座公演から一人部屋にした。

 鴨川の楽屋割の時、鯨蔵自ら云い出した。

 その意図を組んで鴨川は独り部屋にした。

 しかしいつでも鯨蔵が行ける様に隣の部屋にしていた。

「若旦那の所に行かなかったんですか」

「挨拶に来て、すぐに自分の楽屋に戻って行きました」

 大地と羊は同時に鯨蔵の楽屋に顔を出してその後、各自の楽屋に行く。

「12時開演まで時間ありません。手分けして探してくれ」

「こう云う捜索は多人数でやった方がいいです。劇場側の応援を頼みましょう」

 鴨川は、廊下に出ようとしたが、ふと羊の化粧前を見た。

 化粧前とは楽屋にある鏡台である。

 都座の楽屋は全て畳敷きである。

 文机の上に三方の鏡台があった。

 その台にお守り袋があった。

 鴨川は近づき、拾い上げた。

「これは何ですか」

「車折神社のお守りだ」

 鯨蔵が近づく。

 ふっくらと膨らんでいた。

 中には紙を丸めてあった。

 鴨川は紙を伸ばした。

「人の形ですか。でも何で丸めて中に入れていたんだ?」

「公演前にお参りに行ったんだ」

「芸能社がありますからね」

 京都では有名である。

 境内には芸能人の名前が書かれた玉垣が無数に並んでいる。

 お目当ての芸能人の玉垣と一緒に写真や動画を撮り、それをインスタに上げるのが流行っていた。

 羊の楽屋を一同は出た。

 鴨川はすぐに行動に移した。

 鴨川は監事室の竹田陽子に依頼。

 陽子は事務所にいた市原支配人に報告。

 各部署全面応援となった。

 各部署の代表が頭取部屋に集合した。

 ここは畳敷きの部屋なので車座になってキツキツである。

 まず管理係が話し出す。

「南座の出入り口は2か所。楽屋口と地下事務所です。2つの個所の防犯カメラを解析しましたが、羊君は外に出てません」

「じゃあ今も中にいるのか」

 鯨蔵がつぶやく。

「その通りです」

 各部署は、楽屋係、大道具、小道具、照明、音響、舞台操作、案内、イヤホンガイド、売店、清掃、テナント、事務所の代表が探した場所を報告。それを受けて監事室の竹田陽子は、都座の平面図出して赤い斜線を引く。

 瞬く間に、平面図は真っ赤になる。

 つまり全ての個所を探したが見つからないとなった。

「万が一の事考えて舞台の盆回し、セリの上げ下げは止めましょう」 

 平面図見ながら鴨川は指図した。

「どこに消えたんだ」

 鯨蔵の言葉が詰まる。

「子供は大人が想定外の所に隠れます。万が一です」

「わかりました」

「念のために舞台操作さん、奈落をもう一度見てください。奥まで」

「わかりました」

 解散となる。

 しかし各部署から「見つかった」との一報は入らない。

 大地が頭取部屋に一人でやって来た。

 見るからに顔色が悪い。

「大地君、どうしたの」

「このまま羊君、見つからなかったら、今日の公演中止ですか」

「中止も何もまだ何も決まってないよ。どうしたの」

「お母さんが聞いて来いって」

「そうなの」

 この時内線電話が鳴る。

「ちょっと待ってくれないか」

 鴨川は大地を待つように云う。

 電話は鯨蔵からだった。

「今後の事で話がある。来てくれそれと・・・」

「わかりました」

 電話切ると鴨川は大地と共に、鯨蔵の楽屋を訪れた。

 鴨川が楽屋の暖簾かき分けて中に入る。

 鯨蔵と市原支配人がいた。

 鯨蔵は大地の顔を見ると

「お母さん呼んで来て」と伝えた。

「今後、つまり今日の事だ」

 鯨蔵が睨みつけるように鴨川を見た。

「子役の羊がいなくなったからと公演を中止するわけにもいかない」

「そうですね。で、代役は」

「ちょっと待ってくれ。その前に羊の捜索はどうなってる」

「関係各所総動員で、探してます」

「そんな抽象的な事を俺は聞いてない!」

 久々に聞く鯨蔵の激昂の嵐だった。

 一門から退き、頭取職に専念してからは聞かなくなった、体感しなくなった鯨蔵の怒りのオーラだった。

「すみません」

 鴨川は頭を下げた。

 その姿を見て鯨蔵ははっとする。

 最早、目の前にいる鴨川は一門の人間でなくなったのだ。

 頭取と云う大切な部署の人間なのだ。

「すまぬ。云い過ぎた」

 微妙な空気が流れる。

「今日は特に特別な日でございます。中止は避けないといけません」

 市原の落ち着いた声が空気の澱みを少しでもなくそうとする気配を感じる。

「特別な日?」

「若旦那、今日は御社日。記者総見日です」

「ああそうだったな。演劇評論家も来る。東京からわざわざ来る評論家もいるからな」

 話していると輝美と大地が暖簾から顔を出す。

「すみません。遅くなりました」

「二人とも中に入って」

 鯨蔵が手招きをした。

「はい」

 二人は中に入る。

「実は、羊探しだけど、このまま時間切れで幕が開く時が来るかもしれない。それで、今日、羊の代役」

 鯨蔵は敢えて言葉を区切り輝美、大地の顔を交互に見つめた。

 二人は同時に手のひらを拳骨に変えた。

「大地君にやって貰いたい」

「大地ですか!」

「大地、わかったか。出来るな!」

 輝美は大地を見た。

「お返事は」

「はい。やります。やらせて下さい」

「開演までに見つかったら、この話はなかった事で」

 市原が付け加えた。

「もちろん、わかってます」

「いや支配人、例え今すぐ見つかっても、今日は羊の出番はなしだ」

「でも今日は御社日で」

「だから、敢えてそうさせる」

「と云いますと」

 珍しく市原は突っ込んだ。

「これだけ多くの劇場関係者に迷惑かけたんだ。はい見つかりました。すみません。続けますでは幾ら何でもそりゃあ駄目だろう」

 大地の顔がみるみるうちに歪む。

「どうしたの大地君。具合でも悪いの」

 鴨川はすぐに異変に気付く。

「すみません、すみません」

 大地の大泣きが始まった。

 こうなるともう泣きが収まるまで待つしかなかった。

「僕、羊の場所知ってます!」

「何!」

 鯨蔵が立ち上がる。

 鴨川は手で制す。

「そうかあ。よく云ってくれた。有難う。じゃあ案内してよ」

 鴨川は鯨蔵の顔を見てこっくりとうなづく。

 一同は大地の後ろに続く。

 舞台の奈落。

 つまり地下に行く。

 この一角に特製の仕切りがある。

 小道具部屋だった。

 いきなり一同が乗り込んで来たので小道具係の順子と弘美はあっけに囚われていた。

「何かあったんですか」

「あれ!いつもここにある縫いぐるみのミヤコさんは」

 大地が尋ねる。

「屋上で虫干し。もう今から取りに行く所です」

 その言葉で大地の顔色がますます暗くなる。

 順子、弘美が加わり今度は屋上に連れだって行く。

 ミヤコの縫いぐるみはあった。

「羊くんいない!わからない!」

 大地は頭を抱えた。

 大地は半分泣きながら説明してくれた。

 数日前から羊は大地に、芝居に出たくないと云っていた。

 大地は、

「じゃあ出なくていいよ。僕とかくれんぼしよう。僕が見つけるまで決して出て来ないでね」

 と云って二人で隠れる場所を考えた。

 それが小道具部屋にある縫いぐるみのミヤコの中だった。

「でもミヤコの出番来るとすぐにわかるよ」

「ええ、だから軽い気持ちだったんです。すみません」

 鴨川がミヤコをどかそうとした。

「ああ、私達やります」

 順子が慌てて鴨川の手を振りどけた。

 順子と弘美がミヤコを抱えた。

 置いていた底から紙片が出て来た。


 かくれんぼ

 みいつけた


「かくれんぼ。みいつけた?」

 鴨川が拾い上げて一同が声を出して読み上げる。

「大地君、これは?」

 努めて明るく鴨川が尋ねた。

「こんな紙切れ知らない」

 顔を見ると再び大泣きの噴火が来る気配なので、それ以上鴨川は尋ねるのをやめた。

「もうそろそろ、皆さん準備しましょうか」

 頭取は胸からぶら下げる秒付きのデジタル時計を手のひらに落として見た。

「そうしよう」

 鯨蔵の重い声が被さる。


「お客様にご案内申し上げます。

 本日○○○役は、紀ノ川羊に代わりまして、那智大地、那智大地が相務めさせて頂きます。何卒よろしくお願い申し上げます」

 先ほどから各楽屋から案内係の案内放送が幾度も流れていた。

 番付(筋書)を販売している案内所には、筋書を買いに来た客の何人かが

「羊くん、どうしたの?病気なの」

 と問い合わせがあった。

 子役なので、大した突っ込みがなかった。

 しかしSNS上では違った。

 公表して1分のしないうちに、あちこちのツイッターがアップしていた。

「今日は記者総見日。なのに鯨蔵の息子が出ない!何かあったの!」

「誘拐されたとか!」

「まさか!それはない」

「子供の事だ!出たくないとわめいている!」

「父親に似て、床で泣きじゃくってるとか!」

「共演者に刀投げるとか」

「はい。その仕返しに、関係者は、刀ではなくて、サジ投げてます」

「上手い!座布団三枚!」

「子役だけど、いい面してるから、二枚だろう」

「上手い!それに座布団二枚!」


 完全にツイッター上では大喜利状態だった。

 一番てんてこ舞いだったのが、イヤホンガイドである。

 すでに、録音されたもので運営している。

 イヤホンガイドでは必ず役者が出て来ると、

「只今登場の役者は○○○。○○○屋です」

 の放送が流れている。

 今回も羊が出て来る場面では、

「只今登場の子役、紀ノ川鯨蔵丈の息子、紀ノ川羊。紀ノ川屋です」

 の解説が入っていた。

 この場面をカットして新たに入れる必要がある。

 しかし録音をやり直す時間がないので、その部分はカットした。

 イヤホンガイドにとってさらに不運だったのは、開演10分前から始まる「対談コーナー」

 これには鯨蔵と羊が出ていた。

 しかし、もうこれを全面カットして入れ替えする具材がない。

 そこで貸し出す時に、

「すみません、今日は羊くん、舞台に出ないんです」

 一言添えて云うしかなかった。


 一つ目のプログラムが始まろうとしていた。

 開演5分前を知らせるブザーが鳴り響く。

 鴨川は、立ち上がり舞台へ行く。

 頭取は各幕必ず舞台に顔を見せる。

 役者が全員揃っているか、最終チェックでもある。

 この始まるまでの5分が重要だった。

 エレベーターのドアが開く。

 鯨蔵だ。

「おはようございます」

 大道具、照明の代表が挨拶する。

 いつもなら、

「ウイッスー」

 と陽気な声で返答するが、今日は睨みつけるだけで何も云わない。

 今の時点で息子の行方が掴めない。

 都座の何処かにいるのに、捜索に参加出来ないもどかしさがある。

 付き人の蛸蔵が差し出す折りたたみ椅子に座る。

 鴨川が近づく。

「一体どこへ消えたんだろう」

「必ず探し出します」

「いつまでに?」

「昼の終演までに」

「何かあてはあるの」

「あります」

 鴨川が力強く断言した。

 本心は全くなかった。

 しかしここで、仮に

「全くわかりません」

 等と余計鯨蔵のこころの中の不安を煽る文言だけは避けたかった。

「まかしたよ」

 鯨蔵は軽く鴨川の胸を突く。

 二人に笑みが生まれた。

 狂言作者が胸にストップウオッチを下げ、両手に析頭を持って近づく。

「若旦那、お時間です」

「うむ」

 鯨蔵は立ち上がる。

「開けよう」

 舞台の中央に立つ。

 俗に云う「板付き」である。

 板付きとは幕が開いた時、すでに舞台にいる事を云う。

 狂言作者の析頭が鳴り響く。

 析頭の刻みに合わせて定式幕が下手から上手に向かって静かに開いた。

 一つの目のプログラムは、鯨蔵解説の「歌舞伎の時間」だった。

 幕が無事に開いたのを確認して鴨川は再び頭取部屋に戻る。

 芝居が始まる。

 同時に羊の捜索も続行していた。

 鴨川は「ミヤコ」の底から見つかった紙片をもう一度取り出して見た。


 かくれんぼ

 みいつけた


 何度もその文言を唱える。

 これが羊のメッセージに思えてならない。

 しかし何度読み直しても全くわからない。

 楽屋口の扉が開く。

 宅配便の業者だった。

「鯨蔵さんあての荷物です」

 楽屋番が対応した。

「ちょっと幅があります」

「じゃあこちらの扉も開けます」

 いつもは人だけの往来なので、観音扉の内、片側だけ開閉していたのだ。

 ロック外して両面開放した。

 宅配便の片割れが中へ入れようとした。

「おい!そのままだと入らない!縦を横にしろ!縦を横にだ!」

 怒鳴り声が鴨川の耳にも入る。

「縦を横にしろ!」

 その言葉が何度も鴨川の耳に響く。

「縦を横に!そうか!」

 鴨川は立ち上がる。

 さらに紙片の端を見た。

「これは・・・」

 今まで何度も見ていた紙片。

 今頃続いて気づくなんて!

 虫眼鏡を取り出して観察した。

 そうだったのか!

 しかし今の所、確証はなかった。 

 鴨川は劇場内にある監事室に電話した。

「はい監事室です」

 竹田陽子の声が耳に入る。

「竹田さん、ちょっとお願いがあるんです」

「何でしょうか」


  ( 3 )


「お客様にご案内申し上げます。次の演目の(連獅子)ですが、これを(二人獅子)に変更させて戴きます。

 なお親獅子を紀ノ川鯨蔵、子獅子を紀ノ川羊、那智大地の両名が相務めさせて戴きます。なお幕開き羊の出演取りやめのご案内は誤報でございました。申し訳ございませんでした」

 

 場内放送が終わると、客席内に小さな悲鳴、歓喜の渦があちこちで発生した。


 すぐにツイッター上で個人のつぶやきがアップされた。


「南座怪事件発生!行方不明の羊見つかる!さらに演目変更なんて」

「羊と大地の子獅子共演なんて!今日の席取ってて最高!」

「鯨蔵!また何か企んでやがるな!」

「そもそも、羊の失踪なんて、これ自体鯨蔵の演出なのかも」

「信じるか信じないかは、あなた次第です!」


 羊は見つかった。

 鴨川が鯨蔵に約束した通り、昼の部公演最中に見つかった。

 鯨蔵の楽屋に鴨川が呼び出された。

 鯨蔵は鴨川の顔を見た途端、手を強く握られた。

「鴨川さん、有難う」

 俯いている顔から大粒の涙が溢れていた。

 それを見て蛸蔵まで泣き出した。

 当の本人の羊は、全く涙一粒も出ていなかった。

「よし、演目の内容を一部変更!」

 鯨蔵の一言で決まった。

 元々、歌舞伎舞踊「連獅子」は親獅子を鯨蔵、仔獅子を息子の羊でやる予定だった。

 それを仔獅子一人付け加えた。

 大地の子獅子を追加したのだ。

「連獅子」と親、子2人で踊るのは別段珍しい事はない。

 平成29年(2017年)博多座では親獅子を中村芝翫、仔獅子を橋之助、福之助、歌之助の3人バージョンでやっていた。

 衣装はアクシデントに備えて子獅子の衣装は2着用意されていた。

 仔獅子が乗る二畳台も予め予備があった。

 だからそんなに裏方で大混乱は起きなかった。

 一つの部署を残して・・・

 イヤホンガイドは大混乱を極めた。

 前代未聞の当日、しかも数十分前の演目変更!

 もはや万事休すと思っていた。

 しかしイヤホンガイドに神風が吹いた!

 元々、連獅子のイヤホンガイドをしていた担当者がたまたま、今日、昼の部を見に来ていた。

 奇跡だった。

「じゃあぶっつけ本番で私が解説します」と云ってくれた。

 イヤホンガイドブースは、都座は下手のフロント明かりの照明のエリアを借りて行われていた。

 担当者も

「生本番は初めてかなあ」とつぶやく。


 本来舞台が始まれば、鴨川は舞台を降りて頭取部屋に戻る事にしていたが、今日は違う。

 前代未聞の当日、しかも30分前の演目変更である。

 鴨川も歌舞伎の世界に入って40年近く経つが、この経験は初めてだった。

 紀ノ川鯨蔵が座頭の公演だから実現出来たのだ。

 公演始まると鴨川は上手舞台袖でじっと舞台を見つめていた。

 もう一人舞台に熱い視線を送る人物がいた。

 大地の母親の輝美だった。

 今日は、御社日(記者総見日)である。

 マスコミ各社、高名な演劇評論家が東京から駆けつけて観ていた。

 いきなりの大地の舞台出演だった。

「大地君、連獅子は初めてですか」

「ええ初めてです」

「でも稽古の時からずっと見てましたよね」

 鴨川は東京の稽古場、都座ロビー稽古、舞台稽古で熱心に見る輝美、大地親子を観て来た。

「でも観るのと、舞台で演じるのとは全然違いますから」

「確かに」

 野球観戦と自分がマウンドでプレーするのは全く違う世界、次元の話なのだ。

 花道から親獅子、子獅子が出て来る。

 ひと際大きな拍手、どよめきが起こる。

 後ろ足で急速に再び戻り、また登場。

 舞台中央で見得を切る。

「バッタリ」

 効果音の役目の附け打ちも決まる。

 観客も知っていた。

(稽古なしの一発勝負の舞台)

(しかも大地はまだ10歳の子役)

(羊は失踪直後の舞台。果たして上手く舞うのが出来るのか)

 その思いは鴨川も同じだった。

 今まで幾多の(連獅子)を観て来たが、今ほど緊張の糸が幾重にも張り巡らされた舞台は初めてだ。

 まるで自分が舞台に立つ錯覚に陥る。

 輝美を見た。

 首から幾筋もの汗が流れていた。

 緊張の汗だ。 

 両手は拳骨を作っていた。

(連獅子)の演目は人気演目の一つだ。

 だから上演回数も多い。

 あらすじは単純である。

 親獅子が子獅子を谷の底へ蹴落とす。

 子獅子が谷底から這い上がる。

 親獅子は執拗に何度も蹴落とす。

 こうして親獅子は子獅子を厳しく鍛える。

 歌舞伎舞踊なので、実の親子が演じる事がよくある。

 その踊りは、歌舞伎伝統芸能を厳しく指導する親子と重ね合わせて観客は観ていた。

 この演目は外国人にも人気だった。

 言葉が分らなくてもビジュアルが派手で、アクションじみた踊りがあるからだ。

 親獅子も子獅子も床に届く長いたてがみの毛のかつらをかぶって登場する。

 この長い毛はヤクの毛で出来ている。

 親獅子が白い毛で、仔獅子は赤い毛である。

 衣装は、能装束から来ていて大口袴、親獅子は紺地の羽織、白地の袴。子獅子は緑地の羽織、赤地の袴である。

 どちらも派手な金箔模様と牡丹の花柄である。

 圧巻はやはり三人同時の髪の毛を振り回す所だ。

 その直前後見によって二畳台が運ばれる。

 さらに左前と右奥片隅に牡丹の花の造花が立てられる。

 獅子の唯一の弱点が身中の虫。

 それ退治してくれるのが、牡丹の雫の膏薬と云われている。

 舞台面まで届く髪の毛を3人同時に振り回す。

 これを毛振りと呼ぶ。

 毛振りには左右に振る髪洗い

 舞台に叩きつける菖蒲叩き

髪の毛を回転する巴(ともえ)がある。

 髪の毛を振り回すにはまず準備がいる。

 だから通常髪洗い➡菖蒲叩き➡巴の順番で行う。

 3人だから息を合わせて同時に行う。

 同時の方が客席から見ていると綺麗なのだ。

 3人バラバラだと汚いのだ。   

 今回は一度も3人同時でやった事がない。

 真ん中に鯨蔵。上手に羊。下手に大地。

 羊、大地は鯨蔵を見ながら毛振りを行う方法もある。

 しかしそれだとどうしてもワンテンポ微妙にずれる。

 羊、大地は知っていた。だから二人とも鯨蔵を観なかった。

 また鯨蔵も二人を見ない。

 ♬獅子は勇んでくるくると

 3人同時にに巴、つまり毛を回転させる動作が始まった。

 ここでまず一回目の大きな拍手が起きた。

 3人ピッタリ呼吸が合っていたためのご褒美の拍手だ。


【イヤホンガイド解説】

 

 実は今日の3人連獅子バージョン。

 今日だけの特別バージョンです。

 昨日まで鯨蔵、羊親子だけの通常の連獅子でした。

 これに那智大地が加わりました。

 この3人の組み合わせの連獅子は初めてです。

 大地くんが、舞台で連獅子を演じるのも初めてです。

 果たして3人息を合わせて巴、つまり毛振り回転出来るか、たっぷりとご覧下さい。


鴨川と輝美も小さく拍手した。

後見役の蛸蔵もそのまま袖で観ていた。

だんだんと回転が速くなる。

輝美の拳骨を握る手と首筋の汗の量が洪水のように溢れ出した。

3人は重い衣装と長い髪の毛の鬘、さらに上、真正面、上手下手フロント、シーリングライト、センタースポットライトを浴び続けていた。

照明の熱さに加えて観客自身から発する熱量を浴びるのだ。

その暑さは、この薄暗い舞台袖の何十倍もあるだろう。

鴨川なら1分も回せない。

今と同じ事したら死んでしまう。

それなのに、子役の二人は努めていた。

「凄い」

 鴨川のつぶやきの声は擦れていた。

「大地あと少し!」

 輝美もつぶやく。

 鴨川は輝美の目から大粒の涙が生まれていたのを知った。

 子役の母親として子供の晴れの舞台。

 この瞬間を迎えるために母と子はどれほどの世間には見えない、云ってない隠れた稽古をして来たのだろうか。

 歌舞伎は世襲制であり、梨園の外の世界の人間は主役になる事はまずない世界なのだ。

 毛振りの回転がとどめもなく続き、その回転の速さがどんどん早くなる。

 舞台後ろの赤毛氈が敷かれた二段のひな壇には上段に唄と三味線、下段に鼓、笛、小太鼓からなるお囃子方が陣取る

長唄連中の笛、太鼓、鼓、三味線の合奏の速度もそれに合わせて気忙しく鳴らす。

 毛振りには邦楽合奏が一番似合う。

 最初長唄に導かれて回転し始めた毛振りだが、途中から立場が完全に入れ替わった。

 今は3人の超高速の毛振りに必死で追いつこうとしていた。

 再び拍手が起き出した。

 連獅子が始まり何回目かの拍手だ。

 今までの拍手と大きく違っていたのがある。

 それは拍手も終わらないのだ。

 毛振りの回転にリンクしていた。

 最初、鯨蔵の毛振りの回転に必死で追いつこうとする羊、大地だった。

 しかし途中から立場が逆転したのだ。

 羊、大地の毛振りの回転が速くなったのだ。

「紀ノ川屋!」

 大向こうも始まる。

 中には口笛を鳴らす人がいた。

 場内も3人の毛振りに影響されて異様な空気を発していた。

 通常毛振りの回転は決まってないが大体30~40回転ぐらいだ。

 しかし今日、鴨川が目の前で見ている連獅子は違う。

 本当に3人は「獅子の精」が降臨したかのように思った。

 それは観客も同じだった。

 そして、この毛振りに終わりは来るのかと云う疑問といついつまでも続けて欲しいと云う観客の勝手な妄想がどくろ巻いていた。

 ようやく、鯨蔵の右足が二畳台に向かって大きくどんと叩かれた。

 これは回転をやめる合図である。

 しかし・・・

 羊と大地は止めない。

 大きなどよめきが、場内を覆う拍手に被さる。

 すでに毛振り回転は60回転を越えていた。

 通常の倍の毛振りだ。

 慌てて鯨蔵が再び毛振り回転を始める。

 2回目の右足ドンが来る。

 まだやめない!

 鯨蔵がふらつく。

 一瞬上手袖を見た。

 もう何を云いたいか、すぐに分かった。

 蛸蔵、海豚(いるか)の二人の後見が舞台に飛び出す。

 そして羊、大地の背後から強く抱き着いた。

 実力で止めさせた。

 獅子3人が後ろを向く。

 控えていた後見が、獅子のたてがみを整える。

 再び正面を向く。

 鯨蔵が右足を二畳台から外へ一歩前へ出しながら見得を切る。

 と同時に羊、大地も両手をぱっと広げて見栄を切る。

「チョン」

 析頭が鳴る。

 拍手の嵐は最高潮を迎える。

 ゆっくりと緞帳が降り始めた。

 ライトに照らされて3人の顔から吹き出る大汗が光り続ける。

「紀ノ川屋!」

「羊!」

「大地!」

「お見事!」

 大向こうがさらに種類を増していた。

 輝美が飛び出す。

 鴨川も舞台に行く。

 緞帳を通して観客の拍手がまだ耳に入る。

 鯨蔵は羊、大地にそのままそこにいるように合図した。

 鯨蔵は上手袖の制御盤に行く。

 モニターカメラで場内の様子が見えるのだ。

「どんな具合」

「若旦那、誰も帰りません!」

 舞台進行を務める狂言作者が、振り返り答えた。

 コードレスフォン片手に監事室の竹田陽子も上手袖に走って来た。

「これにて終演でもございます。どなた様もお忘れ物無きようお帰り下さい。本日のご来場誠に有難うございました。有難うございました」

 終演を告げる場内放送が、繰り返し流れた。

 歌舞伎にカーテンコールはない。

 それは観客自身がよくわかっていた。

 しかし誰も帰らない。

 全員立っていた。

 しかし顔と身体は出口ではなく、舞台を観ていた。

「若旦那!どうしますか!」

「一丁やりますか!」

「はい」

 狂言作者は舞台の奥ですでにバラシにかかっていた大道具に声を掛ける。

「大道具さん、バラシ待って下さい!」

 一旦飛んでいた松羽目の背景画のバックが再び降りて来た。

 勢揃いの鳴り物連中も座り直す。

 照明ステージ係がレシーバーで

「カーテンコールやるよ!」

 と調光室、センタースポットライト室、上手サイドフォロー室に連絡した。

 舞台照明が作業灯から本番明かりにクロスチェンジした。

 再び舞台にいる演者に強烈な光の束が身体全体を包み込んだ。

 陽子は慌ててどこかに連絡していた。

 緞帳が再び開く。

 同時に場内のあちこちで小さな悲鳴が上がる。

 半場諦めかけていたカーテンコールの幕開けに興奮する観客の魂の叫びでもあった。

 歓喜と拍手がこだまする中をゆっくりと上昇した。

 舞台に上手から羊、鯨蔵、大地の三人が立っていた。

「紀ノ川屋!」

「羊!」

「大地!」

 大向こうも復活した。

 正面、サイドのドアを開けていた案内係が慌てて再び閉めに走る。

 拍手の中、鯨蔵、羊、大地の3人は上手、下手、正面と三方礼を始めた。

 拍手が終わるまで鯨蔵は待った。

 しかし収まらないので鯨蔵は話し出した。

「本日は、ご来場誠に有難うございます」

 一旦収まりかけた拍手の津波がまた起きる。

 しばらくの間。

「本日は色々とアクシデントありました。ね、羊」

 鯨蔵が羊を見る。

 羊は突然振られて呆然となる。

「お前、何か云え!いや、お客様に云う事あるだろうが!」

 羊が一歩前に進む。

「今日はすみませんでした」

 それだけ云うと、また一歩下がった。

「それだけかよ!」

 鯨蔵は苦笑した。

 場内がわあと沸く。

「今日は羊、そして大地この二人の子供が頑張ってくれました」

 大地は自分の名前云われると自然に頭を下げた。

「大地君の頑張り素敵でした。そこで」

 ここで鯨蔵は言葉を切り、大きく深呼吸した。

 この辺りの間合いの取り方の上手さは天性と云えた。

「大地を部屋子として迎え入れたいです」

 今度は場内が大きく揺れた。

 その思いは舞台袖にいた鴨川も輝美も同じだった。

 衝撃の津波が来た。

 全く前触れもなくだ。


   ( 4 )

 

 嵐電始発駅「嵐山」から3つ目の駅は「車折神社」である。

 無人駅で、ホームの目の前に、赤い鳥居が見える。

 ここの末社に「芸能社」がある。

 京都、いや全国的に知られている芸能の神様が祀られている。

 境内には朱色の長細い木の板に墨文字で名前が書いてある。

 玉垣である。

 古い玉垣は石作りだが、最近は取り換えが容易な板になっていた。

 芸能関係だから寄進するジャンルは多岐に渡る。

 俳優、歌舞伎役者、宝塚、OSK、落語家、日舞、アイドル、ジャニーズ等。

 最近は全国からお目当ての人の玉垣を見つけてそれと一緒に写真、動画を撮りインスタ、ツイッターに上げる人が続出。

 それを観てまた別の人が来て・・・

 拡散がとてつもない相乗効果、宣伝効果をしていた。

 今はテレビ新聞広告は古いのだ。

 この日、南座は休演だった。

 今、ここに集まったのが鴨川、鯨蔵、羊、弟子の蛸蔵、海豚、大地、輝美、小道具係の順子と弘美だった。

 芸能社でお参り後、一同は広い本殿に出た。

「皆様、今日は貴重な休演日なのにお集まり頂き有難うございました」

 鴨川が深く頭を下げた。

「頭取!皆忙しいんだ。早く説明しろ」

「どこから説明しましょうかねえ」

「勿体ぶりやがって!皆が聞きたい事からにしろ!」

「と云いますと」

「お前がどうして羊の居場所を突き止めたかだよ」

「わかりました。でももっと皆さんにわかるように、今回の事件の全容の始めからお話したいんです」

「何でだ!」

「今回の事件、前半と後半に分かれるからです」

「何で分かれるんだよ」

 鯨蔵の苛立ちはどんどん増す。

「と申しますのも、今回の事件、前半と後半で犯人が違うからです」

「何だと!じゃあ犯人は二人だったのか」

「はい。じゃあ説明します。時系列で行きます。まず羊君が行方不明となりました。当然皆まず向かうのは羊君の楽屋です。そこにこれが落ちてました」

 鴨川が皆に見せる。

「これ、車折神社のお守りです。膨らんでます。紙を丸めて膨らませてます。紙は人の形に切り抜いてました。人が中に入る」

「ああ、ミヤコの縫いぐるみかあ」

「正解です。さて今回の事件背景を話しましょう。そもそもの始まりは羊君の舞台を出るのがいやになる病からです。歌舞伎役者の子供なら誰もが通る、はしかみたいなもんです。若旦那も子供の頃芝居が嫌になって芝居の途中で花道通って帰りました」

「えっお父さんもそんな頃あったの」

 羊が聞く。

「俺の事はいいから続けろ!」

 鴨川が要領よく、ポイント押さえて話し出す。

 

 羊は舞台に出るのが苦痛となる。

 その事を大地に告げる。

 大地は、

「じゃあ僕が身代わりになるから隠れてて」と云う。

「どこに」

 大地は小道具部屋にあるミヤコの縫いぐるみの中に隠れるように指図する。

 羊は小道具部屋に行く。


「さてここで二人にとって、アクシデントが起きます。小道具部屋にミヤコの縫いぐるみが置いてなかったんです。そうですね、小道具係の順子さん、弘美さん」

「そうです」

「あの日、ミヤコの縫いぐるみはどこにありましたか」

「天日干しのために屋上に置いてました」

「たまたまですよね」

「もちろん」

「天気よかったからたまたま干した。その事、大地君、羊君は知らなかったよね」

「知りませんでした」

 二人が同時に同じ言葉を発した。

「ここが重要です。知らなかった。でも皆さんよく思い出して下さい。あの時、つまり屋上でミヤコの縫いぐるみを小道具係さんが持ち上げた時、何かありましたよね」

「謎の置手紙が置いてあった」

 鯨蔵がつぶやく。

「そうです。あの紙片がありました」

 鴨川がポケットから取り出して見せる。


 かくれんぼ

 みいつけた


「さてこの文面の解読は後回しにして。じゃあ羊君と大地君が練った作戦。つまり羊君が舞台を休んで大地君が代わりに出る日。何故あの日だったんでしょうか」

 鴨川は一同をゆっくりと眺め回す。

「御社日」

 輝美がつぶやく。

「輝美さん、正解です。入れ替わり作戦は、あの日でないといけなかった。つまり御社日、記者総見日でないといけなかったんです」

「どうしてだ!」

「大地君を世間に知らせるためですよ」

「そうかあ」

「この事件の首謀者は表向きは大地。しかし本当の首謀者は輝美さん。あなたですね」

「すみません。大地を大地の芸を皆に観て貰いたかったんです」

 輝美は頭を下げた。

「結果的にはそうなってよかったですね」

「後半続けてくれ」

「わかりました。先ほどの続きから。羊君は、屋上にミヤコの縫いぐるみの場所があるのを知らなかった。でも屋上からこの紙片見つかりました。変ですねえ」

「屋上へ行って偶然見つけた」

「一目散に屋上ですか。それは無理です。羊君は屋上にあるなんて知らなかった。でも紙片が見つかる。つまりこの紙片を我々に見せるように頼んだんですよ」

「誰に」

「順子さん、弘美さん、あなた方ですよ!」

「すみません。小道具部屋にいる大地君と鉢合わせしたんです。その時、その紙片を渡されました。でもその時、羊君が逃げているなんて思いませんでした」

「わかりました」

「でもどうして気づいたんですか」

「屋上でミヤコ縫いぐるみを私がどかそうとすると慌ててあなたが、制止したからです」

「そうでしたか」

「順子さんはミヤコの縫いぐるみを持ち上げる時、さも底から紙片が出て来たとばかりに仕込んだんです。

先を続けましょう。いよいよ後半です。まずこの紙片の解読からです。かくれんぼ みいつけたと書かれてます。でも何が云いたいのか。わかりません。ある日、頭取部屋に宅配便が来ました。とても大きな荷物でした。宅配員の一人が楽屋口のドアの所でこう云ったのです」


縦を横にしろ!


「この言葉は私にとってまさしく神の啓示でした。おそらく劇場の神様からのプレゼントでした。いいですか かくれんぼ みいつけた この文章ずっと縦読みしてました。でも横読みしましょう」


かくれんぼ

みいつけた


みか いく つれ けん たぼ


 一同がそれぞれ音読した。


「みか。これは羊君の亡くなったお母さんの名前。美香さんです。行く、連れ、つまり連れて行きましょう。けんを持ってたぼへ」

「けんを持って?けんってなんだ」

「それは後程。たぼの場所へ行きましょうなんです」

「たぼは何ですか」

 輝美が聞く。

「たぼとは、日本髪の襟足に沿って背中の方に張り出した部分です。鬘、日本髪と云えば床山部屋なんです」

 鯨蔵は思い出していた。

 羊発見の第一報を聞きつけてすぐに床山部屋に向かった。

 羊は、大きな荷物入れ、通称ボテの中でうずくまっていた。

 羊は鯨蔵を見るなり、

「お父さん、ここ、お母さんの匂いがする」

 と叫んだ。

 疑問に思いながら嗅いでみた。

 確かに5年前に乳がんで亡くなった妻、美香の匂いがした。

「これは美香さん専用のボテでした。美香さんはあなたと結婚する前は祇園流の踊りの師匠していました。よく都座で踊りの発表会をなされていました。その時のボテだったんです。よく使われるので、劇場側が気を利かして預かっていたそうです」

「ああ、美香の匂いだ!」

 鯨蔵はしゃがんで、羊と一緒に匂いを嗅いでいた。

「お父さん、お母さんはここに生きているよねえ」

「ああ生きている。今は3人一緒だ」

 鯨蔵の涙は、駆け付けた一同の目にも涙を生ます原因ともなった。


「さてこの紙片。そもそも誰が作ったか。輝美さん!あなた・・・」

「私じゃあありません」

「そうですね。謎の文字を解明した時、気づいたんです。この紙片のある特徴に!この文を作った作者の登場です!」

 本堂を指さす。

 そこから出て来たのは、竹田陽子に付き添われて堀川進が顔を現した。

「あなた!」

「堀川さん、あなたと羊君はよく知っている仲なんですね」

「どうしてわかった」

「最初に私があなたとお逢いした時、このネクタイをしていました」

 鴨川はネクタイを見せるために胸を張る。

「これは皆さんご存じの定式幕の色、黒、柿、緑色です。でも堀川さんは、緑色の事、正確に萌黄色と云いました」

「そんな事で私が犯人だと云えるのか」

「まだあります。これはボテから見つかった時、スマホで撮られた写真です。竹田陽子さんが撮りました」

「監事室記録として撮りました」

「皆さんよく見て下さい。羊君の胸元を」

 首から黄土色のものをぶら下げていた。

「これは中国の古楽器、ケンと云います」

「ああ、紙片の横文字のケンてその意味だったんだ!」

「これは堀川さん、あなたが集めたものですね」

「知らん!何も知らん!」

「あなた、私にこれと同じものくれましたよね」

 静かに鴨川はポケットから取り出した。

「あっ!」

「それにこの紙片の端、よく見てください。緑色がうっすらと。この紙片の肌触り、何処かで出会った。分かりました。これですよ」

 鴨川がポケットから取り出して見せた。

「これあなたの銀行四菱銀行受付台にあるメモ用紙ですね」

 堀川の顔が益々歪む。

「まだありますよ!」

 鴨川が陽子に合図する。

「この写真は、昔、まだ美香さんが存命だった頃に都座の前で撮ったものです。あなた、輝美さん、鯨蔵さん、そして羊くん、大地君です」

「あなたは鯨蔵家族をよく知っている!今は別れたけど、元の妻は輝美さん、大地君はあなたの子供でしょう。それに羊君、大地君が胸にぶら下げているのはケン。あなたが上げたものですね」

 堀川はここで膝から崩れた。

「今回の計画を輝美さんから聞いたあなたは、もう一つ別の計画を思いつく。保険をかける意味で。それが羊君とあなただけの二人だけの秘密だった」

「ああそうだ。万が一ボテの中で閉じ込められた時のために、ケンを羊に持たせた」

「あなた、何でそんな事したの」

「もちろん、大地を有名にするためだ」

「何てバカな事を」

「バカとは何だ!お前だって!」

「まあまあお二人さん、落ち着いて仲直りしましょう。それよりもっと大地君にとって大事なお話があるでしょう」

「そうだった」

 鴨川が鯨蔵を見た。

 鯨蔵が一歩前へ進む。

「舞台で勢いで云ったけど、大地君を正式に紀ノ川屋の一門に入って貰いませんか」

「はい」

「いいんですか!」

「もちろん!お願いします」

「やったあ」

 大地と羊が片手の手のひらを高々と上げてパチンとタッチした。

 鴨川の今回の事件解明を聞き終えた一同は胸のつかえがおりたようで、清々しかった。

「これで誕生したな」

 鯨蔵が鴨川の顔を観て云った。

「何がですか」

 鴨川が聞き返した。

「頭取探偵の誕生だよ。劇場で起きる様々な事件を迅速に解決する頭取探偵鴨川登志夫!」

「いよっ鴨川屋!」

「早速、大向こうかかりました」

 まんざらでもない鴨川だった。

 紀ノ川屋から正式に認められた。

 しかもその場所が車折神社なのだ。

 鴨川もお守りを買おうと社務所に行った。

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