或る向日性

伊島糸雨

或る向日性


 大人になる喜びは生活の澱に置き去りにした。

 そんな感覚ばかりが部屋の隅には蟠り、忙殺の合間に訪れる休息も滞留する毒の渦に呑まれて消える。飲み残した缶の底には灰が溜まり、じくじくと膿んだような吸殻の染みがこびりついている。こんなふうに在りたいと願ったことは一度もない。幸福に満たされていられるのならそれがよかった。さもなければ、あの子のように。

 神などと呼ばれるものに連れ去られて、消えてしまえたらと考えていた。

 子供の時代は決して美しいものではなかったはずだ。私は憶えている。人並みの脳味噌で生まれたばかりに心を蝕む孤独も寂寞も、向けられる切っ先への恐怖も、不安も、このどうしようもない肉体の重みと痛みも。それらは成長の先、老いの断崖に蹴り落とされた今もなお存在し続け、向上と改善を頑なに拒む私の日々に取り残されている。漂う汚泥の水槽に横たわり、窒息する日を待つ一分一秒の積み重ねが、連続して分かち難く生涯を貫いている。一廉ひとかどの人になろうとは思わなかった。悲観と消極が本性で、どうにかしようと思えたこともない。でも、こんな私しか得られないなんて、小学生の私には想像することもできなかったのだ。

さやちゃん」

 ずきずきと痛む眼球の奥底であの子が笑う。小学二年で出会った時から、私の前を歩み、立ち止まって振り返っては私に手を差し伸べる少女の姿が今も見える。クラスが同じで近所に住んでいたからと親同士から親しくなり、必然私たちもまとめて扱われることが多くなった。部屋の隅、建物の陰にいる私を幼い彼女は日向に連れて行きたがった。私の事情も内心も構うことなく、あどけない爛漫さで、強引に。周囲はそれを良しとして、私は抵抗しなかった。「仁藤にとうさん」呼べばすぐに寄ってきた。こちらに顔を向けて俯く私に視線をぶつけた。私は変わらなかった。最後まで隅と陰を望み、そこから日向を臨むのが相応しいと思い続けた。日差しはいつでも眩しかった。けれど、そこにまで陽光が顔を出すときには、わずかでも顔を上げる気くらいにはなりもしたのだ。

 太陽も夏も嫌いだった。あの子の影が色濃くなるから。

 五年生の夏までのわずか四年。クラスが変わろうが私がどこにいようが、あの子は少しも変わらなかった。いつもひとりで訪れては、手を差し出して引っ張っていく。幼さと拙さの中で、同年代の同性と触れ合うことに救われたものは確かにあった。彼女は必ずしも優等生ではなかったけれど、それでも構わないのだと理解した。私には過ぎた熱だった。あの子の視線は私を溶かし爛れさせるには十分に過ぎ、結果歪に癒着した傷は数えきれない。私が目を逸らしていたたくさんのこと。それらすべてを明るみに出すのもあの子だった。私の怠慢。私の醜さ。私の浅ましさ。不安も恐れも、言語化以前の揺らぎのぜんぶを。

 私が持ち得ないすべてでもって、あの子は否定した。

 爛漫なあの子。彼女に救われ、彼女を妬み、彼女を憎み──それによって、生かされていた。


 五年生の夏。昼過ぎに虫取りに行こうと誘われて、嫌々ながらも背中を追った。畦道の砂利を蹴り飛ばし、帽子の陰で俯きながら、鼻歌に導かれて神社のある林に辿り着く。「カブトムシかクワガタが欲しいな」「……飼うの?」「飼うし、闘わせるの」別段乗り気でもなく、そう、とだけ呟くと「二番目に大きいのあげるよ」と彼女は言って、眩しそうに目を細めながらにこりと笑う。

 それから先、五時間ほどの記憶が私にはない。

 気がつくと、私の両手は何かを掘り起こしたみたいに土に塗れて、割れた爪の間からは血が滲んでいた。周囲は暗く、鳥居から本殿までの砂利道でチカチカと電灯が瞬いていた。足元に折れた網を置いて、涙と汗に塗れながら呆然と足を動かした。そして光の下に立って初めて、首から下げた虫籠が、大量の土と黄色い花弁で満たされているのを私は見る。

 あの子は消えた。私とあの子以外に人の形跡はなく、私が掘った土も神社のものでない以外はわからなかった。すべては焼けたフィルムのように穴が開き、色褪せて緩慢として吐き出せない。爪の形は歪に治り、他人の悲嘆と束の間向けられた懐疑の視線がひどく痛んだのを憶えている。それは耳鳴りによく似ている。ぼんやりとした恐怖が、脳の襞にこびりついて離れない。

 存在しない五時間の行方を私は知らない。一切は断絶の彼方に在り、再生すること能わない。あの子と一緒に神が隠したのかとかつての私に人は囁く。そんな神を語る言葉は、どこにもなかったというのに。

 私の預かり知らぬどこかで、私の知り得ぬ何かにあの子を奪われたという事実が、私は気持ち悪くてたまらない。あの手は、あの瞳は、あの声は、私のものであるはずだったから。成長するにつれて、消えたあの子の存在は呪いのように私を満たし、蕩けた偏執に変わっていった。戻れと願った。あんなことになるくらいなら、私が奪っておくべきだったと夢想した。きっとそうすれば、この膿んだ泥濘も晴れるだろう、と。

 だから今、ぐずぐずに腐り果てた肉片を喉に詰まらせ喘いでいる。記憶の断片は蠢き続けている。二十年近くずっと、私の内奥に潜んでいる。


さやちゃん、こっち」


 私は耳を塞ぐ。あの子の声が聞こえている。一切の努力は意味をなさず、秘された引力によって私を引き摺って行く。やめて、と叫んでもそれは耳を貸すことがない。私の願いは叶わない。神など最初からいるわけもなく、歪み狂った異常な何かだけが私たちを見つめている。仁藤さん。あの子の顔で、あの時の微笑みで、コツコツと扉を叩いている。

 コツコツ、「開けて」コツコツ、コツコツ……

「私を見て」

 その声が誰のものか、私にはもう判別がつかない。あの子が求めたものも、私の欲動も、語られぬ何かが欲したものも、渾然とした過去と時間の波濤に攫われてしまった。「私を見て」幼く愛らしい声音が鼓膜の奥を舐り、暗がりの視線が私を犯す。

 もしも、と思う。もしもこれが、私の願いの、私の呪いの産物なら。

 黄色い花弁が舞っている。裂け落ちたカーテンから、眩い熱が私を焦がす。

 さやちゃん、とあの子が呼んでいる。

仁藤にとうさん」

 いつかの夏の陰の底から、俯く私がおもてを上げる。

 あの子は眩しそうに目を細め、記憶のようににこりと笑う。

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