第32話 side:天羽優衣
「あっ。いや違う。違わないんだけど違うんだよ優衣。まあ? そりゃね、まったく何も思わなかったなんてことはないよ? 割と落ち込む。優衣に嫌われていたのも、あのときの言葉にそういう意味があったっていうのもどっちもな。うん。それは……そりゃ、落ち込むって。俺は優衣に救われたと思ってたし、優衣のこと好きだし。そりゃあな……何も感じないなんてことはない」
慌てた様子で彼は言った。いや……うん。確かに、そういう反応にもなるだろうとは思う。しかし、何と言うか……締まらない。
慎一郎らしいと言えばらしいものの、このシチュエーションであんな反応をするだろうか。『えっ』って。『そっかぁ……』って! そんな抜けた反応ある? ついさっきまでめちゃくちゃいいこと言ってくれてたじゃない! そっ、それなのに……そんな、気の抜けたような反応って……!
涙も引っ込んでしまった。慎一郎は落ち込んでいる様子だし、罪悪感を抱かないわけではないのだが……それにしても、あまりにもな反応だと思う。
……しかし、よくよく考えてみるとおかしい反応ではないのかもしれない。優衣は責められること、糾弾されることを恐れていたが、それは優衣の被害妄想じみた予想であり――『自分』しか見ていない思考だ。
ほんとうに慎一郎のことを考えているならば、そうならないことくらいはわかる。……『糾弾されるかもしれない』と思っていたのは自分を過剰に悪く考える思考だ。精神的な自傷行為に近い。
優しい人が落ち込むようなことを言われたとき――どう反応するものだろうか。実はあなたのことが嫌いだったと言われて、騙していたと言われて……優しい人が逆上するなんてことはない。なんでもないようなふりをして、大丈夫だよなんて言って笑う。
ただし、思ってもみなかった、ものすごく落ち込むようなことを言われて……取り繕うことすらできないこともあるだろう。
そう考えれば「そっかぁ……」という彼の反応はおかしいものではないのかもしれない。それよりも、取り繕うことができないほどに傷ついた彼に対して……私は『締まらない』なんて失礼なことを考えてしまった。
「……ごめん、なさい」
「あ、べつに謝ってほしいわけじゃなくてな……いや、でも謝ったほうが優衣は楽になるのか? なら謝ってもらったほうがいいのかもしれないな。ただ、その前に俺の話を聞いてほしい」
「……話?」
そう、と慎一郎が肯定する。……確かに、謝罪を求めていない相手に対して執拗に謝罪を重ねるのは自己満足でしかないだろう。優衣は謝罪したい気持ちを抑えた。
「うん。ありがとう、優衣。……それで、話なんだけど、端的に言えば今の言葉は今の言葉で落ち込んだが、そこまでじゃないってことだ」
そこまでじゃない? そうなのだろうか。安易に信じることはできない。
慎一郎は言った。
「だって――今は違うだろう?」
その言葉には、微かに不安が混じっていた。
今は……今、優衣は慎一郎のことをどう思っているのか。
少なくとも……。
「……嫌いじゃ、ない」
「だろ?」
まあ、そこは『好き』って言ってほしかったけどな。慎一郎は笑う。
好き……好き、なのだろうか。
嫌いじゃないということは認めよう。今まではそう思わないようにしてきたが、それは単なる意地のようなものだ。聡い彼女がそれに気付かないわけがない。単に目をそらしてきただけで。
しかし、好きかどうか。好意を持っているかどうか。
感謝はしている。自分を受け入れ、甘やかしてくれる彼に感謝している。
自分にとって彼は大きな存在になっている。悪いことが起これば彼に甘やかしてもらう口実ができると思っていたほどには大きな存在だ。
早くも生活の中に彼の存在が組み込まれている。なくてはならない存在だ。
……そう考えると。
「好き、かも」
結論だけ口からこぼれた。
「……えっ」
通話越しに唖然とするような声が聞こえて――すぐに自分が何を口にしたのかを理解した。
「す、好きって言っても恋愛的な意味じゃないわよ? そういうのじゃなくて、私を甘やかしてくれるし、感謝の気持ちが大きいと言うか……」
「お、おう」
つい早口でまくし立ててしまう。誤魔化しているようで恥ずかしい。ほんとうに違うから。そういう意図はないから。恋じゃない。
「優衣、優衣。深呼吸、しんこきゅー……」
言われた通りゆっくりと息を吸って吐く。……少し落ち着いた。
「落ち着いたか? ……とにかく、優衣に嫌われていたってことはショックだが、今は違うならいいんだよ。それがいちばん大事だからな」
彼はそう言って笑ってくれる。
だから。
「……なんで」
優衣は言った。
「なんで……そんなに、優しいの?」
ぽつり、と。思わずこぼれたといった様子で彼女は言った。思い詰めたような様子ではなく――ほんとうに、日常の疑問を尋ねるように。
口にした瞬間、自分はなんてことを聞いているんだろうかと思った。しかし、それを撤回はしない。なんでそんなに優しくしてくれるのか。今だけじゃない。今までずっと。そのことに対する疑問を持っていなかったわけではないのだから。
慎一郎は笑った。声を上げるようなものではなく、弛緩するように息が漏れ出る。
「まさにそれが理由だよ。優しいって思われたいからだ。優衣のことが好きで――あわよくば優衣に好かれたいって思ってるから。だから……今、俺のことを好きでいてくれるなら、昔のことなんて吹き飛ぶくらい嬉しいんだよ」
下心だと彼は言う。……下心だと口にする。
それは嘘ではないのだろう。本心でもあるはずだ。でも、それだけじゃない。
慎一郎はわかっている。無償の愛は信じられない。下心があるなら安心できる。利がない契約は信頼だけを担保にしたものだ。それを優衣は信じられない。金銭の授受が含まれるのであれば信じられるように――明確に『下心がある』なら信じやすい。そんな優衣の心を慎一郎はわかっている。だからわざわざ下心だと口にしている。
感情があふれる。罪悪感と感謝と、それから……。
でも。
慎一郎が、そう言ってくれたとしても。
(――……私が、みにくいことには変わりない)
「と言っても、俺にこう言われたところで優衣の自己嫌悪は変わらないんだろうけどな」
ちょっとは楽になるかもしれないが、と彼は笑う。
その通りだ。慎一郎が許してくれたとしても、優衣は自分を許せない。
私は私を許せない。
そして……慎一郎以外の人が、同じように自分を許してくれるとも思えない。
「だよなぁ……。俺に言われただけで長年の不信がパッと消えるなんてことはないよな」
実際のところ、彼のおかげでずいぶんと楽になったところはある。電話をする前よりは、間違いなく楽になった。
キリちゃんの言葉は逆恨みだと認識されている。天使であろうと誰からも嫌われないなんてことは難しい。疑念はどうしても混ざるものだ。
完全に、とは言わないがそういう考え方もできるようになった。少なくとも頭では理解している。
ただ、心では。
学校に行くという言葉を出そうとすると、声が出なかった。喉を押さえつけられているみたいに息苦しくなって、何も言えない。
足がすくんで、動けない。
斎賀くんがこんなことを言ってくれているのに――私はまだ恐れている。
学校に行けば注目を集めることになる。もとからそうだ。天使のような容姿を持っているというだけであっても注目を集める。優衣は新入生を除けばほとんどの生徒と一定以上の親交を持っている。あまりにも顔が広く、深い。
そんな彼女が学校を数日休んだ。心配されることは間違いないだろうし……休んだ理由についても、気になるところではあるだろう。
疑われる。その可能性は拭えない。……慎一郎の言葉から推測するに、やはり自分に対する懐疑は生まれているらしい。それは容易に消えるものではない。あるいは優衣が実際に接すればたちまち消え去るものなのかもしれないが……何もなければ消えるものではないだろう。
そう思うと、動けない。……弱いな、と思う。これまでの人生で優衣は失敗というものには無縁だった。そういった人間ほど脆いとはよく言われることだ。一度躓けば立ち直るのに時間がかかる。優衣はその典型例だったらしい。
そして。
そんなことはわかっている、と彼は言った。
「優衣。俺の言葉だけじゃあまだ学校に来るのは難しいかもしれない。だから……待っていてくれ」
なんとかする。
そう、彼は言い切った。
「……え?」
なんとか、って。……いったい、どうやって。
と言うか、そんなこと、慎一郎がする理由は――
「失敗したらスマン。でも、成功したら……ご褒美がほしいな」
例えば、天使さまのご寵愛とか、な。
茶化すように彼は言う。下心。それが行動原理だと。
だが、優衣がそれで納得できるかと言えば。
「じゃあ、そういうことで。アニメでも見てゆっくりしてくれ」
「えっ――ちょ、まっ」
ポロン、と音が鳴って切れる。
残された優衣はひとり、つぶやく。
「……どういうことなの」
*
慎一郎の言葉を受けて、優衣の気持ちはいくぶんか楽になった。『待っていてくれ』と言われたことで休むことに罪悪感がなくなった……わけではないものの、小さくなってしまったところはある。
もっとも、慎一郎を頼りにしてばかりではいられないとも思っている。できることならその前に学校に行ければいいと思うのだが……結局、それはできなかった。
と言っても、一日だけのことだ。そしてその一日で――どうやら、状況は変わったらしい。
けたたましく通知音が鳴り響く。休んだ初日はまだしも、いきなりこうも通知が来るのは明らかにおかしい。慎一郎が何かやったのだとしか思えない。
通知欄に並ぶ文字を見る。だいたいが『大丈夫?』『あんなことがあったなんて』といったものだ。……あんなこと? いったい何のことだろうか。そう思って、以前から自分を心配してくれていたグループの画面を開いた。
そこには――
『優衣、大丈夫?』
『気づかなくてゴメンね!』
『知らなかった……あんなことがあったら、そりゃ優衣も学校に来にくいよね』
『ホントに! 心配しなくても、私たちは優衣の味方だからね!』
『悪いのはぜんぶ斎賀くんなんだから!』
「……は、え?」
悪いのはぜんぶ斎賀くん?
それは、いったい、どういう……。
どこかに答えがないかと思って優衣は他の友人たちとのチャット画面を開いて探した。そのどこででも、優衣への心配と慎一郎への非難が記されている。伊織だけは『ごめんね』の一言だ。慎一郎からの連絡はない。
そうやって探していると、着信が入った。
母からだ。今は仕事のはずだが……出る。どうやら父もいっしょに居るようで、ふたりの声が聞こえてくる。
「優衣! あんなことがあったなんて、私たちに言ってくれればよかったのに!」
「優衣は天使のように優しい子だからね。話しにくかったのかもしれない。でも、なんでも話してくれてもいいんだよ」
「そうよ。……あの動画のことなら、気にしなくてもいいからね。優衣は優しいから、拡散されていることに何か思うかもしれないけれど」
「私たちは優衣のことがいちばん大事だ。それだけは覚えておいてくれ」
その言葉に、優衣はうまく返答することができなかった。
しかし……どうして、両親たちが? 動画? それは、いったい……何の?
嫌な予感がした。早く、状況を把握しなければ。
そして優衣はとある動画へのリンクを見つけた。『これって本当?』なんて言葉とともに添えられたもの。
その動画を開いて見る。
そこには――
「……私?」
天羽優衣が、映っていた。
私じゃない私が、そこに居た。
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