第五章 論理構築

 それから三十分後、三人は再び移動し、現場となったホテルの九階にいた。

「何を調べる?」

「各部屋の灰皿の有無を調べてください。まずは浮島の言った事が本当かどうかを確かめたい」

 榊原の指示に、大塚と瑞穂は一部屋一部屋確認していく。が、確かに浮島の言った通り、問題の灰皿がないのは九階では九一八号室だけだった。

「九一八号室は天井の崩落がひどかった。実際、静川優里亜はそれで死ぬ前に全身打撲の重傷を負っているわけだからな。その際に砕けたんじゃないか?」

「そう思って崩れた瓦礫の下を調べてみましたが、その欠片も見当たりません。いくら火災が起きたからと言って、ガラス製の灰皿の欠片が跡形もなく消えるはずがありません」

 そう言いながら、榊原は何かを考えている。

「しかしな、何度も言うように灰皿が消えたのは九一八号室なんだ。しかも九一八号室のドアは閉じられていてこじ開けられた形跡もない。蒲生隊長の死に関係あるとは思えないんだが」

「あの、先生。もしかして、その灰皿が蒲生隊長を殴った凶器だと思っているんですか? つまり、静川さんが犯人だと? それなら彼女自身がドアを開けて蒲生さんを殺害し、犯行後また部屋に戻ったわけですから、ドアが破壊されていない事に対する矛盾は消えますけど」

 瑞穂の問いに、榊原は首を振った。

「だとしたら、ますます灰皿が消える意味が分からない。静川が犯人だとしたら現場から脱出できなかった彼女は灰皿をこのフロアから持ち出す事は出来ないし、かといって容疑者となっている宿泊客や消防士がそんなものを持ち出したら絶対に目立つ。第一、凶器をわざわざ火災現場から持ち出す意味が分からない。蒲生隊長の死が殺人だとしても、灰皿が凶器だというのは考えにくいんだ」

「静川が犯人だとして、窓から投げ捨てたというのはどうだ? なぜそんな事をしたのかはわからないが、それなら灰皿は現場に残らない」

 大塚の意見に対し、榊原は少し考えていたが、

「確か、さっきの話だと問題の火災はマスコミによって報道されていたという事ですね」

「あぁ、朝のニュースでわんさかやっていたはずだ」

「それなら、火災現場の窓を映している映像があるはずです。それを見れば、火災当時の窓の状況がわかるかもしれない」

「でも、テレビ局が映像を見せてくれるか? 見せてくれても時間がかかるぞ」

 大塚は不安そうな顔をするが、その時瑞穂がポンと手を打った。

「そう言えば、あの火災のニュース映像が動画サイトに流れていたような気が……」

「動画サイト?」

「あぁ、二年くらい前からネット上で話題になっている動画投稿サイトの事ですよ。『ニコヤカ動画』っていう。私も会員登録しているんですけど、確かそこにアップされていました」

「著作権法違反じゃないのか?」

「いえいえ、テレビ局が正式にニュース映像をアップロードするサービスをしているみたいですね。とにかく、正式には後でテレビ局に申請するとして、ひとまず見てみませんか?」

 榊原的には色々言いたい事はあるようだったが、とりあえず時間が惜しいので一階に下りて事務室のパソコンを借りる事になった。瑞穂が自分のアカウントを入力すると、画面に問題のニュース映像が流れる。それは、まさに火災発生のその瞬間を写した映像だった。

『たった今、救助隊と思しき車両が現場に到着しました! 救助隊員たちが次々とホテルの中に突入していきます! ご覧ください! ホテルの窓からは黒煙が立ち上っており……あ! 今窓から誰かが身を乗り出して助けを求めています!』

 カメラがその窓の辺りを移す。そこには必死に助けを求める女性の姿が映っていた。

「淀村伊織だ。本人に会った事があるから間違いない」

 大塚が言い添える。つまり、この映像はホテル南側から撮影したものだという事だ。そして、カメラは燃え盛るホテルの南側をしっかり映し続けていた。もちろん、問題の九一八号室の窓も映っている。

「九一八号室の窓を確認しておいてくれ。大塚さんの推理が正しいなら、そこから灰皿が落下するはずだ」

 全員が緊張しながらその窓を凝視する。が、いつまで経っても窓に変化はない。そうこうしているうちに、窓から身を乗り出していた淀村の背後から救助隊の一人が姿を見せ、彼女を部屋の奥へと連れて行ってしまった。

『たった今、窓の女性が救助隊に救助された模様です! しかし、ホテルへの突入からすでにおよそ十分が経過していますが、未だに火の勢いが弱まる気配はありません! 消防隊の必死の放水をあざ笑うかのように、黒煙が夜空に舞い上がっています!』

 アナウンサーが絶叫する。が、九一八号室の窓に変化は一切ない。

「全く何も起こりませんね……」

「蒲生隊長の遺体発見は午後十時四十五分頃。そこまで見る事にしよう」

 しかし、その後も結局窓には何ら変化はなく。あっという間に問題の午後十時四十五分になってしまった。三人はふうとため息をつく。

「……窓から灰皿を落としたという線はなさそうですね」

「というか、今さらですけどそんなものが落ちてきたら下が大パニックになると思います」

 二人に言われて大塚は大きなため息をつく。

「いいアイディアだと思ったんだがなぁ」

「とにかく、灰皿は窓から消えたわけではない。じゃあ、灰皿はどうやってフロアから消え、最終的にどこに行ったんだ?」

 榊原は自問自答する。瑞穂も首を傾げた。

「九階にはなかったし、火災の最中に持ち出す事は誰にもできないんですよねぇ」

「となれば……」

 榊原は何事か考えていたが、不意に立ち上がるとそのまま部屋を出て行こうとした。

「どこ行くんですか?」

「見つからないのなら、探してみようかと思ってね。いっその事、このホテルの隅から隅まで」

「え、えぇっ!」

 あまりにも突飛な考えに瑞穂は絶句したが、大塚は予想外に冷静に尋ねた。

「一応聞くが、その灰皿が今回の蒲生隊長の件に関係あるのか?」

「さぁ、それは見つけてみないと何とも。ただ、事件のあった場所で理屈に合わない事が起こったとなれば、それを放置するのは探偵として失格だと思いましてね」

 その答えに大塚はため息をつくと、

「……わかった。なら、もう何も言わない。我々も手伝おう」

 と、そのまま協力を申し出た。もちろん瑞穂も当然という顔で立ち上がる。

「なら、三人で手分けをする事にしましょう」

 その後しばらく、三人は手当たり次第に一階以外無人のホテルを徘徊する事になった。もちろん、闇雲に探すのもあれなのである程度辺りをつけての調査だったが、それでもホテルすべてを探し回るというのはかなりの労力が必要である。各々の部屋に関してはマスターキーを借りて一つ一つチェックするという気の遠くなるような作業が実行された。

 結局、結果が出たのは捜索開始から一時間半後の事だった。見つけたのは榊原で、連絡を受けて瑞穂と大塚がその場所に行ってみると、そこは一階の従業員専用裏口の近くにあるダストルーム……簡単に言えば、ホテル中のごみが集められている場所だった。

「そこだ」

 榊原が指差した方を見ると、透明なごみ袋の底の方にキラキラ光るガラス片がいくつも確認できた。欠片は相当細かくなっているが、いくつか残っている大きい欠片を見てみると確かにあの灰皿と同一だと確認できる。

「こんなところに……」

「ここのごみは本来翌日の朝にごみ収集車が回収するはずなんだが、例の火事のせいでごみの収集もストップしているらしい。おかげでこいつが残っていたわけだが……」

「えーっと、その前の収集日は……事件の前日、ですか」

 瑞穂が壁に貼り付けられた収集日のカレンダーを確認する。

「つまり、ここにあるごみは事件当日のものという事ですよね。当然、その灰皿も事件当日にここに捨てられた」

「それはいいんだが……何だってあの部屋の灰皿がこんなところに砕かれて捨てられているんだ?」

 大塚の疑問に対し、榊原は苦笑した。

「それはまだわかりません、いずれにせよ、ここから先は専門家の力が必要です」

「専門家?」

「さっき呼んでおきました。もう来るはずです」

 そう言った瞬間、ダストルームのドアが開いて誰かが入ってきた。

「どこにいるのかと思ったら、こんなところにいやがったのか」

 その人物はぶっきらぼうに榊原に話しかける。見た目は二十代ながら白髪で、それでいながら実は榊原と歳があまり離れていないというあまりにも特徴的な外見。その姿と喋り方に、瑞穂は覚えがあった。

「あなたは、圷守警部?」

「おう、久しぶりだな、嬢ちゃん」

 警視庁刑事部鑑識課係長・圷守あくつまもる警部……それがこの男の名前だった。警視庁の鑑識課を率いるベテラン鑑識官で、榊原の刑事時代によく一緒に捜査をした仲らしい。瑞穂とは昨年六月に立山高校で起こった同時多発殺人事件の際に面識があった。

「ったく、いきなり呼びつけやがって。何の用だ?」

「実は、折り入って頼みがありましてね。こいつを調べてほしいんです」

 榊原はそう言うと、黙って欠片の入った袋を差し出した。圷がじろりと睨む。

「こいつは?」

「ちょっとした証拠品です。もしかしたら犯罪に絡んでいる可能性もあります。そっちで調べてくれませんか? 無理なら科捜研に回しますが」

「冗談じゃねぇ。科捜研なんかに回されてたまるか」

 圷はそう呟くと、手袋をした手で袋をひったくる。

「ふん……何の欠片なんだ?」

「灰皿のようです。この欠片からわかるあらゆる事を調べてほしい。指紋、成分、何でもです」

「そりゃ構わねぇが、どういう意図があって?」

「私にもまだわかりません。ただ、調べる価値はあると判断します。私にとっても、それに警視庁にとっても」

「ふん」

 圷はもう一度欠片を眺めまわした。

「いいだろう。ただし、時間がかかる。明日まで待ってもらおうか」

「構いません。それでも、できるだけ早くやって頂きたい」

「わかった。ついでに聞くが、他に何かあるか? また呼び出されるのはうんざりなんでな」

 圷の嫌味たっぷりな言葉に、榊原はしばらく考えると答えた。

「それなら、お言葉に甘えて。先日、このホテルで火災があって、そこで消防士が一人殉職した事は知っていますか?」

「あぁ。ニュースでいやになるほど流していたからな」

「公式見解では、この消防士は救助作業中に落下してきた瓦礫で頭部を強打した事により首を骨折して死んだ事になっています。それで、私としては消防士を死に至らしめた問題の瓦礫が具体的にはどの瓦礫なのか知りたいと、こう思っているわけです」

「……その瓦礫とやらを探せってか?」

「平たく言えばそうなります。現場を探る許可は、そこの東京消防庁のお偉いさんがくれるでしょう」

 そう言って、榊原は目で大塚を示した。一方、圷は難しい表情をする。

「それを調べるとなると、俺一人じゃ無理だな。鑑識複数人でそれこそこの灰皿以上に時間がかかるが、それでも構わんか?」

「いいでしょう。ただ、灰皿同様に急いでくれるとありがたいです」

「まぁ、こうなったらやるだけやってやる。後で酒でもおごってもらうぞ」

 そう言うと、圷は部屋を出て行った。

「さて、遅くなってきましたし、そうなると今日の捜査はここで打ち止めですかね。後は淀村伊織の話を聞ければ最高なんですが……」

「それなんだがな……」

 と、ここで大塚が言いにくそうに言った。

「実は、さっきそれについて病院に問い合わせてみたんだが、淀村伊織はもう退院してしまっていた。すでに本籍地の名古屋に帰郷してしまったそうだ」

「え、だって病院にいるって……」

 驚く瑞穂に、大塚は忌々しそうに言った。

「俺らが知らないうちに病院が勝手に許可したんだそうだ。連絡ミスだよ、畜生が。というか、蒲生隊長の死に疑惑がある事を通達していなかったせいで、病院側としても引き止められなかったそうだ」

「つまり、淀村伊織の話は聞けないという事ですか?」

 榊原の言葉に、大塚は頷いた。

「まぁ、こちらからお前が話を聞きたがっているという連絡は入れてはおくが……まず、わざわざ証言しに来てはくれないだろうな。何しろ相手はやり手の女弁護士だ。少なくとも、彼女の証言が必要だという事が公に証明されない限り、彼女から証言を聞く事は難しくなった。こちらの不手際だ。申し訳ない」

「……いずれにせよ、今日はこれ以上の調査はできないという事ですね」

 榊原はそう言うと、瑞穂の方を振り返った。

「それじゃあ、今日はここまでにしよう。続きはまた明日以降だ」

 それが、この日の榊原の調査の終了を告げる合図となったのだった。


 翌日、一月十五日火曜日の昼過ぎ。瑞穂が学校帰りに事務所に顔を出すと、榊原は難しい表情でデスクワークをしているようだった。平たく言えばデスクに大量に積まれた書類を真剣な表情で見ているのである。亜由美の姿はない。どこかに出かけているようだ。

「あのぉ、先生。早速ですけど、それ、何なんですか?」

「瑞穂ちゃんか。もちろん、昨日の依頼に関する事だ。問題の九階にいた容疑者の経歴や噂話なんかを徹底的に調べ上げている。今回の一件、私は関係者たちの事を詳しく知っているわけじゃないからね。ひとまず基本に立ち返る事にした」

「はぁ、大変ですねぇ。じゃあ、今日は一日書類仕事ですか」

「いや、これだけ調べ上げるのに今朝からあちこち歩き回ってきたところだ。探偵は足とはよく言ったものでね。ついさっき帰ってきたところで、これから全体的なまとめ作業をしていくところだ。もっとも、それでも何人かはまだ資料が集まっていないのだがね。例えば県外在住の淀村伊織とか、ハンクやパトリックのような外国人なんかだが……」

 そう言いながらも、榊原は書類から視線をそらす事はない。普段からこれくらい真剣に仕事をしてくれれば事務所に閑古鳥が鳴く事もないのにと、瑞穂は思わずため息をついた。

「私に手伝えることはありますか?」

「そうだね。じゃあ、そこの書類を取ってくれるか?」

 榊原に言われた書類を手に取ると、そこには人物の情報のようなものが載っていた。


田丸治一たまるはるかず……二十三歳、大学院生。全身打撲ののち一酸化炭素中毒で死亡。経歴等は次ページ』


大葉良美おおばりょうみ……二十一歳、大学生。全身打撲ののち一酸化炭素中毒で死亡。経歴等は次ページ』


 今まで見た事もない名前に瑞穂は顔を上げる。

「あのぉ、この人たちは?」

「ん? あぁ、問題のホテルの十階、一〇〇五号室で死んでいた例のアベックだよ。まず事件に関係はないだろうが、細かいところまで調べないと気が済まないたちでね」

「そ、そんな人たちのデータまで……律儀というか、何というか」

 瑞穂はもはや呆れ気味に言った。

 と、その時卓上の電話が鳴った。榊原が受話器を取る。

「はい、榊原探偵事務所」

『俺だ』

 その声だけで相手がだれかわかった。昨日、ブツブツ言いながらも鑑識作業を引き受けてくれた圷警部である。

『ったく、面倒な仕事を押し付けやがって。昨日は酒をおごれと言ったが、この労力はフランス料理のフルコースをおごってもらうくらいじゃねぇと釣り合わねぇな』

「フランス料理が好きなんて初耳ですね」

『物の例えだ! おごってもらえるなら懐石料理でも頼みたい』

「考えておきましょう。それで、結果は?」

 そこでようやく圷は仕事の話に入った。

『結論から言うと、あれは間違いなくホテルの灰皿だ。ガラスを繋ぎ合わせてある程度まで復元した。一応あのホテルを調べたが、九一八号室以外に灰皿がなくなっている部屋はどこにも存在しなかった』

「やはりそうですか……痕跡は?」

『それなんだがな、灰皿の淵の辺りから血液反応が出た』

 その言葉に、榊原も瑞穂も緊張した。

「確かですか?」

『間違いねぇ。一見すると拭き取られていたが、ルミノールがはっきりと反応しやがった。ただ、どこの誰の血液なのかまではわからない』

「検出されたのはそれだけですか?」

『あぁ。あとは綺麗なものだ。指紋一つ検出されていない』

「なるほど。では、もう一つ頼んでおいた瓦礫の方は?」

『九二〇号室を這いずり回ってようやく見つけた。解剖記録の傷口と一致する瓦礫が九二〇号室のベッド付近に転がっていたよ。こんなもんが天井から降ってきたら、いくら防火服を着ていようが意味はないだろうな』

「天井……やっぱりそういう話になりますよね」

『ホテルの壁と天井の材質を調べたが、こいつは天井と同じ成分だった。九二〇号室の天井も半ば崩落していたし、間違いなと思うぞ』

「……なら、もう一つついでにお願いした事があります」

 そう言うと、榊原は小声で何事かを圷に頼んだ。それを聞いた瞬間、圷の声が険しくなる。

『おい、ちょっと待て! お前、俺をどこまでこき使えば気がすむんだ!』

「物のついでです。ここまできたら最後までやって頂けませんか?」

『ったく、あぁ、もうどうでもいい! こうなったらとことん付き合ってやらぁ。だが、もう一日もらうぞ。それと、この代償は鑑識課職員全員へのおごりだ!』

「前向きに検討しましょう。それじゃあ、よろしくお願いします」

 そう言って軽くあしらいながら榊原は電話を切った。

「最後、何を頼んでいたんですか?」

「まぁ、ちょっとした確認作業だ。大したことじゃない」

 そう言った時だった、不意に事務所のドアが開くと、亜由美がひょっこりと顔を出した。

「あら、瑞穂ちゃん、来ていたの?」

「お邪魔しています。亜由美さんこそ、どちらへ?」

「ちょっと事務用品が不足していたから、その買出しに。榊原さん、経費から落としておきますけど、それで構いませんね?」

「あぁ、後で領収書を見せてくれ」

 榊原がそう言うと、亜由美は買ってきた事務用品を秘書席に置きながらこう告げた。

「それはそうと、どうしたんですか? 随分千客万来みたいですけど」

「どういう意味だね?」

「昨日に引き続き、ビルの前でこの事務所を見ていた人がいたんです。ドアの外で待ってもらっているので、入ってもらってもいいですか?」

 亜由美のその言葉に、瑞穂は思わず榊原を見やった。

「先生、また何か依頼ですか?」

「いや、さすがに南田副隊長の依頼を受けているのに他の依頼を受けるつもりはない。多分、昨日同様の飛び入りかな? とにかく待たせるのもあれだから、入ってもらってくれ」

「わかりました」

 亜由美はそう言うとドアの外に声をかける。すると、ドアの向こうからどこか見覚えのある三十歳前後の女性が姿を見せた。真っ先にその正体に気づいたのは瑞穂である。

「え、あれ? 確かあなたは……」

 瑞穂がその名前を言う前に、女性は頭を下げると自分から挨拶した。

「こんにちは。名古屋で弁護士をしています淀村伊織です。先方から私を呼んでいると聞きましたので、こうしてやって来ました。榊原恵一さん、ですよね?」

 それは、例のホテル火災から見事に生還し、結局先日話が聞けなかった女性……淀村伊織その人だった。ニュース映像でも見たその顔は、眼鏡をかけたいかにもやり手の弁護士と言った風の女性で、胸には弁護士バッジが誇らしげに光っている。瑞穂はもちろんだったが、榊原も少々意外そうな顔でその女性を見ていた。

「あぁ、どうも……。いや、確かにあなたのお話を聞きたいと連絡はしましたが、まさかわざわざ名古屋からこんなところまで来て頂けるとは思っていなかったもので……。しかし、またどうして……」

 榊原が戸惑い気味にそう言ったが、それに対する淀村伊織の返事は意外なものだった。

「あの、覚えていらっしゃいませんか?」

 予想外の言葉に、さすがの榊原も戸惑ったような表情を浮かべる。

「覚えているか、と、言いますと?」

「……やっぱり覚えていないみたいですね。少し残念です」

 そう言うと、伊織は苦笑気味にこう続けた。

「私ですよ。ほら、今から十二年前に……」

「十二年前?」

 榊原はすっかり考え込んでしまった。十二年前といえば、榊原がまだ警視庁の刑事だった頃の話である。瑞穂は後ろから小声で榊原に尋ねた。

「先生、お知り合いなんですか?」

「いや、名前や姿に聞き覚えはないんだが……」

 榊原はしばらく唸っていたが、やがて首を振って亜由美に呼びかけた。

「すまないが、そこにある事件ファイルの中から十二年前のものを選んで事件名を言ってくれ。当時の私が誰かと知り合っているというなら事件絡みだとしか思えない。一九九五年のものだが……」

「一九九五年ですか? でも、この年の事件ファイルってかなり数が多いですよ。『地下鉄サリン事件』とか、『警察庁長官狙撃事件』とか……」

 ギョッとするような事件の名前がずらりと出てくる。言われてみれば、歴史にその名を残したあの宗教団体の犯罪が起こった時、榊原は現職の警視庁捜査一課所属の刑事だったのである。今までその話は聞いた事がないが、当時捜査一課のブレーン的立場にいたはずの榊原もあの事件の最前線で戦っていたはずである。

 そんな事を瑞穂はぼんやり脱線気味に思っていたが、続けて読み上げた亜由美の言葉に榊原が反応した。

「それ以外ならあとは……『サイレントキラー事件』とか『港区女子高生連続殺人事件』とかありますけど……」

「待ってくれ。『港区女子高生連続殺人事件』……」

 そう呟いた後、榊原は大きく目を見開いてこう告げた。

「もしかして……『水川イオ』さんですか?」

「思い出して頂けたようで何よりです」

 ここで伊織はにっこりとほほ笑んだ。一方、わけがわからないのは瑞穂である。

「せ、先生、水川イオって?」

「あぁ、今から十二年ほど前に活動していた高校生アイドルグループのメンバーだよ。当時、港区で女子高生が連続して殺害されるという事件があって、私のいた捜査班がその捜査を担当した。で、捜査の結果犯人の新たな標的が当時大人気だったアイドルグループの一人である事が判明して、私がそれを護衛したんだが……」

「もしかして、それがこの人なんですか?」

 瑞穂が目を丸くしながら思わず伊織を見つめた。とてもではないが、このいかにもやり手と言った風の女弁護士が元アイドルだったとはとても思えない。

「最終的に、犯人が彼女を襲ったところを私が取り押さえて逮捕した。確かその数年後くらいにグループは解散して、以来名前を全く聞かなくなったと思っていたんだが……まさか名古屋で弁護士になっていたとは」

「元アイドルが弁護士だなんて、びっくりしたんじゃないですか?」

 伊織が自分から楽しそうに言う。

「あの後、私は芸能界を引退して名古屋の大学に進学して、そのまま司法試験を受けて弁護士になったんです。『水川イオ』は芸名で本名は堂上伊織。入学のときに髪形も化粧も全部地味目に変えた上にコンタクトも眼鏡にしましたから、私が『水川イオ』だと気付いた人はほとんどいませんでした」

「だから名前や顔つきに覚えがなかったのか……それはそうと、『淀村』というのは?」

「はい、二年くらい前に結婚したんです。それで今の名前に。榊原さん、十二年前は私を守ってくださってありがとうございます。榊原さんには一度お礼をしないとって思っていたんです。刑事を辞めたという話は聞いていましたけど、探偵をやっていらしたというのは榊原さんらしいと思いました」

 そう言うと、伊織は深々と頭を下げた。榊原は慌てた風に言葉を発する。

「いや、私はただ仕事をしただけです」

「それでもです。それに、私が芸能界を辞めて弁護士になったのも、榊原さんみたいに人を助ける職業が格好いいと思ったからなんですよ」

 悪戯っぽく言われて、榊原は何とも難しい表情をした。瑞穂は興味津々という風に榊原を見つめている。

「とにかく、これ以上あの火災について証言をするつもりはありませんでしたけど、榊原さんがかかわっているなら話は別です。何かお役に立つならと思って、こうして名古屋から駆け付けた次第です。御迷惑でしたか?」

「それは……まぁ、ありがとうございます」

 榊原は戸惑い気味にそう言葉を返すので精一杯だ。一方、瑞穂は後ろで面白そうに笑いながら榊原に話しかけた。

「先生もそんな風に戸惑う事ってあるんですねぇ」

「余計なお世話だ」

「そう言えば、そちらのお嬢さんは?」

 そう聞かれて、瑞穂は丁寧に頭を下げる。

「立山高校一年の深町瑞穂です。淀村さんと一緒で、ある事件で先生に助けられて、その後こうして弟子入りしています!」

「自称だがね」

 もはや定番となりつつあるやり取りをすると、榊原は深いため息をついた。

「とにかく、来てもらえたのなら話は早いです。早速ですが、例の火災の話をしてもらえませんか? 目下のところ、私にとってそれが最優先ですのでね」

「そうですね。じゃあ、思い出話はここまでにして、ここからはビジネスライクにいきましょう。よろしくお願いします」

 伊織はそう言うとソファに腰かける。榊原も反対側のソファに座り、両者は正面から向かい合った。

「最初に、あの日……すなわち一月十一日にあのホテルに泊まる事になった経緯を教えてもらえますか?」

「あの日は東京での裁判に出るためと、高円寺在住のクライアントに会うために東京入りしました。あのホテルに泊まったのは、クライアントのいる高円寺に近かったからです。次の日も東京で裁判の予定だったので、その日はそこに泊まる事にしました」

「チェックインしたのは何時ですか?」

「午後七時頃だったと思います。その後は部屋で次の日の裁判に向けた書類整理をしていました。部屋番号は……確か九一五号室だったと思います」

 榊原は頷いた。この辺はすでに確認してある通りである。そのまま先を促す。

「九時頃に書類仕事は終えて、次の日も早いのでそのままシャワーを浴びた後就寝する事にしました。確か、九時半を少し過ぎた頃だったともいます。疲れていたのですぐに寝入ってしまって……次に気が付いたのは十時を少し過ぎた頃でした。何というか、部屋に変な臭いが充満していたので」

 伊織の表情も厳しいものになっていく。

「それからどうしましたか?」

「すぐに飛び起きて咄嗟に部屋の外へ向かおうとしました。でも、嫌な予感がしてドアを開ける前にのぞき窓から外を確認したんです。そしたら、ドアの外はもう火の海で……これは逃げられないと思って、すぐに部屋の奥に引き返して窓を開けて助けを求める事にしたんです」

 結果的に、今回はそれが好判断になったのである。もしドアを開けていたら大量の煙と毒ガスが部屋に入ってきて大変な事になっていただろう。

「そして、窓から外へ向かって助けを求めた」

「正直、賭けでしたけど。そしたらしばらくして……正確な時間はわかりませんが、とにかくしばらくして急にドアを叩く音がしたんです。私が声を上げると、すぐにドアが破られて消防士が飛び込んできました。私に身を低くするように言うと、携帯式の酸素ボンベを私の口に当てて、そのまま非常階段へと連れ出してくれたんです。とてもスムーズな救出で、さすがプロだと思いながら私はホテルを脱出し、そのまま病院に運ばれて簡易検査を受けたんです」

 榊原は少し考え込む。今の証言は確かに古賀の話と一致していた。

「その消防士が誰なのか証言できますか?」

「さぁ……マスクをしていたのでその証言に証拠能力は低いと思います。でも、それが何か大切なのですか?」

「いえ、単なる確認です。それはそうと、火災発生中……つまり、あなたが救助されるまでに火災以外で何か変わった事はありませんでしたか? 何でもいいんですけど」

「変わった事、ですか……。私も必死だったのでよく覚えていませんけど、特になかったように思います」

 伊織は曖昧な表情でそう言った。

「では、火災前、もしくは脱出後はどうですか?」

「そうですね……火災前は私も仕事に集中していましたし、脱出後はそれこそ何かを気にする余裕もなかったものですから」

「そうですか」

「……正直、私に話せる事はそこまで多くありません。私も命がけでしたから。こんな証言ですけど……お役に立ちますか?」

 伊織は不安そうに聞くが、榊原は気にしていない様子だった。

「無駄な証言など存在しません。どんな些細な証言からでも論理を組み立てる。それが私の仕事です。今回はわざわざ証言をしてもらってありがとうございました」

 そう言って榊原は頭を下げた。

「ならいいんですけど……じゃあ、私はこの辺で」

 そう言って、伊織は立ち上がった。

「すぐに名古屋に帰るんですか?」

「いえ、実は一度名古屋に帰ったのは家の事を片付けるためで、東京の仕事がいくつか残っているんです。せっかく来たので、それを片付けるまで二、三日はこちらに滞在する予定です」

「そうですか……」

 伊織は少し笑いながら意味深にこう言い残した。

「帰る前にもう一度寄らせて頂いてもいいですか? 実は、少し話したい事もあるので」

「それは……別に構いませんが」

「ありがとうございます。では、私はこれで」

 そう言うと、伊織は事務所を出て行った。足音が遠ざかっていくと、瑞穂は早速榊原に話しかける。

「先生、あんな人がいたなんて初耳ですよ~」

「いやいや、私も今思い出したばかりだ。もし彼女が『水川イオ』だと最初から知っていたら、わざわざ大塚さんに手間暇取らせたりしない」

「まぁ、それはそうでしょうねぇ」

「私にとってはいくつか担当した事件の一関係者に過ぎなかったんだが……人の縁というものはどこでどうつながるのかわからないものだ」

 榊原はため息混じりにそう言う。

「とにかく、これでひとまず事件の情報に関しては一通り集まったとみるべきだろう。あとはこれをどう組み立てていくか、だ。まぁ、ここまで来れば後はそう難しい作業ではないはずだ」

「そんなものですかねぇ。私には何が何やらです。結局、何もわかりませんし……素直に先生にお任せします」

 瑞穂は投げやりにそう言ってソファに身を投げ出した。と、その時、突然榊原が何気ない口調でこう質問した。

「あぁ、そうだ。瑞穂ちゃん、明日の放課後は暇かね?」

 唐突にそう聞かれて、瑞穂は怪訝そうな顔ながらも頷いた。

「はい。特に予定はありませんけど」

「なら、明日の午後四時半から、昨日行った杉並第三消防署でこの事件に関する私なりの報告を行おうと思っている。興味があるなら来ればいい」

 その言葉の意味を読み取るのに、瑞穂は少し時間を要した。

「という事は先生、もしかして……」

「あぁ、何とかなりそうだ。明日にはこの依頼は解決する。君の事だから来るなと言っても来るんだろう」

「行ってもいいんですか!」

「ただし」

 喜ぶ瑞穂に、榊原はそう付け加えた。

「来るんだったら、前回と同じスーツで頼む。前回スーツで私たちの横に座っていた君がいきなりセーラー服で現れたら、消防士たちも戸惑うだろう。それは私にとってはあまりよろしくない状況だ」

「えぇ……」

 その言葉に対し、瑞穂は思わずげんなりとした声を出したのだった。


 瑞穂がなぜげんなりとした声を出したのか。その理由は、翌日十六日の放課後、立山高校の部室棟を出たところで、これ以上ない形で示された。

「瑞穂……あんたどうしたの?」

 たまたますれ違った同級生で親友の女子バスケ部員・磯川いそかわさつきが呆然とした顔で瑞穂を見ている。まぁ、無理もない話で、瑞穂は校内だというのにパリッとしたリクルートスーツ姿をしていたからだった。

「いやぁ、ちょっと事情があって」

「女子高生がスーツ着る事情って、どんな事情なのよ」

 さつきの突っ込みに対し、まさか「これから殺人事件の謎解きを聞くために消防署に出かけるから」とはさすがにいえない瑞穂である。

 要するに、集合時刻である午後四時半までに消防署に行くにはいったん自宅に帰ってからでは間に合わず、必然的に校内で着替えてそのまま直行するしかないがゆえにこうして部室でスーツに着替えるしかないという事情があるのだが、さすがに高校の敷地内で女子高生がスーツを着ているのはあまりにも目立ちすぎる。

 ちなみに瑞穂の所属する「ミステリー研究会」は現在部員が瑞穂一名であり、部室は事実上の瑞穂の私室状態と化している。なので、部室で着替えること自体に問題はないのだが、実際に着てみるとかなり気恥ずかしいものである。

「とにかく、私、急いでるから。また、明日!」

「あ、ちょっと、瑞穂! どういう事なのよぉ!」

 さつきの絶叫と周りの生徒たちの好奇心に満ちた視線を振り切って、瑞穂は校門を飛び出すと、一刻も早く学校の敷地から離れるように足早で最寄り駅へと向かったのだった。


「死ぬほど恥ずかしかったです!」

 杉並第三消防署の玄関前に到着すると、瑞穂は先着していた榊原に向かってそう言って小声で抗議した。が、榊原は開き直ったように言う。

「そもそも君がそんな格好でついてくるからこういうことになるんだろう」

「知りませんよ! あーあ、明日先生にどう言い訳しよう……。担任の先生が目を丸くして『学校を辞めて就職でもするのか?』とか大真面目で聞いてきたんですけど……」

「大変だね」

「他人事みたいに言わないでください!」

「実際、他人事だからね」

「あぁ、もうっ! 何かあったら先生の事務所で正式に雇ってもらいますからね!」

 よくよく聞けば理不尽な話なのだが、榊原はもはや話を聞き流している風だった。

「で、どうなんですか、実際。私にここまでさせておいて解決できなかったら許しませんよ」

「八つ当たりはともかく……心配しなくとも、今日ですべての決着をつける腹づもりだ」

 そう言った瞬間、榊原の表情が一気に真剣なものになった。それを見て、瑞穂も軽口をやめる。

「先生、行く前に、一つだけはっきりさせてください」

「何だね?」

「今回の事件……先生の推理では、殺人ですか?」

 その言葉に、榊原は立ち止まった。重苦しい沈黙がしばらくその場を支配し、冷たい風がその場を吹き抜ける。やがて、榊原は重々しい声で、しかしはっきりと告げた。

「あぁ、蒲生晴孝の死は……殺人だ。私はそれを前提に今回の推理を組み立てている」

 瑞穂にはそれで充分だった。

「だったら、犯人はかなり抵抗しますね」

「だろうな。殺人である以上、相手も文字通り命がけだ。負けは自分の人生の終了を意味するからな。それだけに、どんな隙も見逃さずに反撃してくるだろう。いつも通り、かなり厳しい一騎打ちになる」

「それで、先生はどうするつもりですか?」

 その言葉に、榊原は小さく微笑んだ。

「もちろん、こちらも全身全霊で叩き潰す。それこそ相手が抵抗する気力がなくなるくらいまで、な。ただし、武器は剣や杖ではなく論理だ。私がこれまでに組み立てたあらゆる論理で、相手に一切の傷を負わせる事無く、それでいて再起不能になるまで完膚なきまでに叩きのめす」

 静かにそう言うと、榊原は消防署へ足を踏み入れながら断言する。

「それが私の仕事であり……私の戦い方だ」

 瑞穂は黙って後に続いた。名探偵と呼ばれる男……榊原恵一の、論理による戦いのすべてを見届けるために。


 二〇〇八年一月十六日水曜日、午後四時半。後に「高円寺ホテル火災殺人事件」と称される事になる殺人事件のクライマックスが、切って落とされた瞬間だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る