第三章 現場検証

 東京消防庁。大都市東京二十三区の火災に対する対応を一手に引き受けており、ニューヨーク消防局を超える一八〇〇〇人の消防士を抱える文字通り世界最大の消防組織である。行政的な所属は東京都庁でトップは消防総監。本部は千代田区大手町のビル街に存在する。

 なお余談として、よく似た言葉に行政機関である「消防庁」があるが、こちらは純粋な総務省管轄の行政機関で実働部隊は存在せず、各都道府県消防本部への政治的な助言や指導のみに携わる。これは警察と違い消防は各都道府県自治体が独立して管理しているためであり、ゆえに消防庁と東京消防庁は完全に独立した別組織として扱われる事が多い。また、そもそも身分自体も消防庁職員が総務省職員、各都道府県消防本部職員が消防士と全く別の職種なので、警察のキャリア組などと違って消防庁から各都道府県消防本部へ出向が行われる事もほとんどなく、あったとしても総務省職員が現場の指図をするなどという事は皆無である。ゆえにキャリア、ノンキャリアという区分自体が消防には存在しない。この辺、変に官僚臭いピラミッド構造の警察組織よりもさっぱりとしていて、政治的なしがらみとは無縁に柔軟に対応できるメリットがあった。

 さて、そんな東京消防庁本部の玄関口に、中年探偵の榊原と女子高生の瑞穂という何ともアンバランスなコンビが姿を見せていた。榊原が受付で何事かを頼んだ後、そのまま受付前で待たされている状態である。

「先生、私たち、何を待っているんですか?」

「なぁに、ちょっと昔の知り合いを呼んだんだ」

「知り合いって……警察出身の先生に東京消防庁に知り合いがいるんですか?」

「東京消防庁は警察と違って官僚的・政治的なしがらみのほとんどない組織ではあるが、さすがに放火などの犯罪に対しては警察とも共同戦線を張る事がある。特に火災の原因を調査する原因調査係の職員ともなれば専門家として一緒に原因究明をする事も何度かあった。私もかつて警視庁捜査一課にいて放火殺人事件を担当した事があって、その際東京消防庁の原因調査係の職員と何人か知り合いになっている。その縁だよ」

「ふーん……あれ? でもそういう放火事件を捜査するのは同じ警視庁捜査一課でも火災犯捜査係ですよね。先生が所属していたのは警察庁が優秀な刑事ばかり集めて設立した係にとらわれない特別捜査班だったはずですけど、基本的な所属は殺人犯捜査係だったはずでは?」

「よく覚えていたね。まぁ、軽く解説しておくと、いくら放火でも事が放火殺人となれば同じ捜査一課内で殺人犯捜査係と火災犯捜査係が合同で捜査する事になる。単なる放火事件の捜査はさすがに放火犯捜査係の連中に任せていたが、放火殺人事件の捜査なら私も何度かやった事があるんだ。そして、その際は火災原因究明のために東京消防庁の原因調査係の面々が専門家として捜査本部に呼ばれた事もあった」

「その時の知り合い、という事ですか?」

「ま、そういう事だ。お、来たかな」

 そんな話をしているうちに、エレベーターからスーツを着た五十代前後の男性が姿を見せた。今でこそスーツを着込んだ官僚めいた格好だが、その内側に隠された肉体は今なお鍛えられた痕跡が見られ、この男もかつては生粋の現場で働く消防士だった事をうかがわせる。

「よぉ、榊原。随分懐かしいな。元気そうじゃないか」

「大塚さんもお元気そうで何よりです」

 相手の豪快な挨拶に対し、榊原は丁寧に頭を下げた。瑞穂も慌てて頭を下げる。

「まぁまぁ、固い事はなしだ」

「それでも礼儀というものがありますから」

「礼儀とは……お前からそんな言葉が出てくるとはな。驚いたよ」

 榊原はその言葉に答える事なく、瑞穂に相手を紹介した。

「東京消防庁予防部調査課原因調査係の大塚正輝おおつかまさてるさんだ。私の現役時代に、何度か放火殺人事件で一緒に原因究明をして以来の知り合いだ。もっとも、会うのは数年ぶりになるが」

「大塚だ。で、そっちのお嬢ちゃんは? まさか榊原の……」

 大塚が何か言う前に、瑞穂は先手を打ってぺこりと頭を下げた。

「先生の助手の深町瑞穂です。よろしくお願いします」

「自称、だが。本業は都立立山高校一年生で、ミス研の会長だ」

「ふーん、弟子ねぇ。まぁ、変な事じゃなきゃいいんだがよ」

 そう言って笑う大塚に、榊原は咳払いして本題に入った。

「それで大塚さん、今日ですが……」

「あぁ、待て。何となく予想がつくぞ。この時期に俺を訪ねてくるって事は、高円寺のホテル火災の一件か?」

 大塚の言葉に榊原は苦笑した。

「その通りです。さすがですね」

「ははっ、この程度、榊原ほどの推理力がなくてもわかる」

 大塚は気楽に言う。

「でもって、お前の狙いも何となくわかる。あの火事に関する情報をよこせ、とでも言うつもりだろう」

「御明察です」

「俺の事を見直したか……と言いたいところなんだがな、実はこれにはタネがある。ついさっきなんだが、杉並第三消防署の南田特別救助隊副隊長が俺に連絡をしてきた。火災の被害者の情報を第三者であるお前に話した事を謝罪した上で、問題の火災における蒲生隊長の死の不審を訴える陳情だった。どうやら向こうさん、相当追い詰められていたようだな」

 榊原と瑞穂は顔を見合わせた。あの後、南田がそんな行動に出ていたとは思わなかったのだ。

「それで、大塚さんはどうしたんですか?」

「まぁ、とりあえず南田のやつはこの一件が終わり次第しばらく謹慎してもらうつもりだ。あくまで、この一件が終わった後でだが」

「……つまり、大塚さんは南田さんの要請を受理すると?」

「そのつもりだ。というより、俺らも蒲生の死には不審な点があると極秘に結論付けていたところだった。どのみち調べるつもりだったから、お前が出てくるというならこれは渡りに船だ。何しろお前の実力は嫌と言うほど知っている。そこで、あくまで南田の依頼という形で、我々東京消防庁は必要最低限お前に協力する事が決定された。問題の被害者の名簿も正式に閲覧を許可するものとする」

「随分素早い動きですね」

 警察ではこうはいくまい。榊原は感心したように言った。

「ここに来た以上、お前もこの一件にかかわるつもりなんだろう。互いに協力というこうじゃないか」

「まぁ、最初からそのつもりでしたが……先手を打たれるというのは何とも不思議なものですね」

 榊原はそう言って苦笑しながら、いよいよ事件の話に入っていった。

「それで、例の火災の件ですが……」

「お前もある程度は南田から聞いているんだろう。出火原因は九〇五号室における寝タバコの不始末。これは覆らない。本部も正式にこれを出火原因として公表した。九〇五号室の燃え具合が他の部屋に比べて明らかにひどかったし、その中でもベッド横にある灰皿付近の焦げ方が凄まじかった。その上、他の部屋と違ってこの部屋は床までしっかり焼け焦げていたから、ここが火元なのは間違いない」

「えーっと、床が燃えているとどうして火元になるんですか?」

 瑞穂が素朴な疑問を投げかける。大塚はその問いに対して丁寧に答えた。

「当たり前の話だが、火というものは通常上へ向かって燃えていくものだ。したがって出火からあまり時間が経過していないと、床ではなく天井に向かって炎は広がっていく。床が燃えるのは炎が天井を焼き尽くして、行き場をなくして下に戻ってきたときだけだ。つまり、床が燃えている部屋というのは比較的長時間炎上していたという何よりの証拠になるんだ。今回の現場は、この九〇五号室の床の燃え具合が一番ひどかった。相当長時間燃えていたのは確実で、これは火元と考える以外に説明がつかない」

「はぁ、なるほど……」

 瑞穂が納得したような声を上げる。

「つまり、火元が九〇五号室なのは動かせない、と」

「あぁ。問題の部屋の宿泊客は甲嶋昭太郎。横浜の建設会社社員で、高円寺へは近々受け持つビル建設の下見に来ていた。社長に聞いたが甲嶋はかなりのヘビースモーカーで、寝る前に喫煙する癖もあったらしい。実際、他の部屋の遺体が逃げようとした痕跡があったのに対し、甲嶋の遺体は部屋のベッドの上で寝たままの状態だった。おそらく、目を覚ます間もなく一酸化炭素中毒で死に至ったんだろう」

「となると……甲嶋は出火直後に死亡していた事になるのですか」

 つまり、甲嶋が蒲生を殺す事は絶対に不可能という事になる。榊原はそれを確認したのだった。と、瑞穂がまた手を上げる。

「あの、蒲生さんたち救助隊が突入する前に亡くなっていた人って何人くらいいるんですか?」

「今回の火災は炎よりも発生した一酸化炭素の中毒による死者が多いのが特徴だ。詳しい事は死体が燃えてしまっているので何とも言えないが、九〇二号室の平良木敦美と九一〇号室の小堀秋奈は死亡推定時刻が出火時間直後と思われている。救助隊到着時にはすでに死亡していたとみてもいいだろう」

「聞いた話だと、九〇五号室が出火元だったため非常口への廊下を炎で塞がれてしまったそうですが」

「その通りだ。九一〇号室の小堀秋奈は就職活動中の大学生で、火災翌日に都内の大手企業で面接の予定だった。遺体は部屋の入口付近にドアを開けた状態で倒れていた。おそらく火災に気付いて慌ててドアを開けて逃げようとしたところ、漂っていた一酸化炭素が流入。それを吸ってしまってその場に倒れたと思われる。ほぼ即死だったはずだ」

「九〇二号室の平良木夫婦は、夫だけが生き残っているんですね」

 榊原が確認する。

「この夫婦は静岡在住で、二人で観光旅行に来ていたらしい。しかも旦那の方は車椅子だ。そんなわけで脱出に手間取っているうちに煙が充満して車椅子を押していた奥さんの方が先に死亡。一方旦那はその際に床に放り出されたものの、逆にそれが功を奏して煙を吸わずに済み、やがて駆けつけた救助隊に救出された。北廊下の部屋の中では唯一の生存者だ」

 その説明に首を傾げる瑞穂に、今度は榊原が解説する。

「煙というものは空気よりも軽いから、部屋の上部に充満する傾向がある。逆に言えば地表近くには一酸化炭素に汚染されていない空気があるわけで、火災の際にしゃがんで避難する事は有効な処方とされている。今回の場合、生存した平良木周平は床に放り出されて立てなかった事が逆に幸運に働いたというわけだ」

「おまけに彼はやや風邪気味でマスクをかけていた上に、火災は九〇五号室から東方面に向かって延焼していた事もあって直接的な炎上被害、及びフラッシュ・オーバーやバックドラフトのような現象も起こらなかった。いくつかの偶然が重なった末の生還といってもいいだろう」

 榊原は少し考える素振りを見せると、大塚にこう告げた。

「では、より詳しい火災の状況について教えてください。できれば時系列に沿って」

「構わんよ。だたし」

 そこで大塚はにやりと笑った。

「続きは現場で話す事にしようじゃないか」

 榊原は一瞬考えたが、すぐに小さく頷いたのだった。


 それから一時間後、三人は現場となった高円寺の「ホテル・ミラージュ」の前に立っていた。当然ながらホテルは営業停止に追い込まれており、九階以上は無残にも焼け焦げた姿をさらしている。一階には経営者たちの逮捕による後処理に追われる従業員たちの姿が何人か確認されたが、それ以上の階への立ち入りは全面的に禁止されているらしい。

「『ホテル・ミラージュ』は関東圏内に十のビジネスホテルを持つホテル経営会社だが、今回の一件で経営者による杜撰な防火体制が明らかになった事もあり、会社自体の命運はもうお終いとも言われている。おそらく、近日中に破産手続きが行われ、各地に点在するホテルも全面的に廃業という形になるだろうな」

 そう言うと、大塚はそのままホテルの中に入り、堂々と非常階段の方へ歩き始めた。立入禁止のロープが張られているが、大塚はこれを無視して潜り抜ける。

「当然ながらエレベーターは稼働していない。階段で行くが、体力に自信は?」

「なくても行きますよ」

 三人は非常階段を上り始める。

「出火時刻は曖昧だが、おおよそ一月十一日金曜日の二十一時五十分から二十二時までの間と推察されている。通報者はこのホテルの向かい側にある証券会社の社員からで、残業中に向かいのホテルから火が出ている事に気付いて通報した」

「ホテルが通報したんじゃないんですか?」

 瑞穂が少し驚いて言った。

「言った通り、ここの防火設備は杜撰だった。いくつかの火災報知機は点検されておらず、結果運悪く出火元の部屋の火災報知機は故障していた。このため出火そのものに気付かなかったようだ」

「何てお粗末な……」

「とにかく、通報を受けて杉並第三消防署が出動し、蒲生隊長たちが現着したのは通報から十五分後の二十二時十五分だった。この時点でさっき言っていた平良木夫人、甲嶋、小堀の三名は一酸化炭素中毒で死亡していたと考えられている。同時に、火の手は十階及び九階の他の部屋にも延焼し、事態は急速に悪化していた」

 九階に近づいていくにつれて、何とも嫌な空気が漂っていく。何と表現していいのか瑞穂にはよくわからなかったが、しいて言えば「死の臭い」とでも言うだろうか。まだ火災で延焼していない八階より下の階にもかかわらず、一見何ともないフロアの景色の中にその空気は漂っていた。

 きっと瑞穂のみならず、榊原や大塚もそれは感じ取っていただろう。だが、二人はこんな空気は慣れていると言わんばかりに話を続けていた。

「この時点で火は九階のエレベーターホール付近に達し、南の廊下側の九一一号室から九二〇号室にいた客も非常階段からの避難が不可能になりつつあった。一部の南側の部屋にはすでに延焼が始まっていたらしい。一方十階は比較的宿泊客が早めに気づいて大半は屋上などに避難していたが、火元である九〇五号室の真上に当たる一〇〇五号室にいた若いカップル二人が一酸化炭素中毒でこと切れていたのが発見された。この二人が十階における唯一の死者だ。二十二時二十分、蒲生隊長たちは九階非常階段入口に到着し、南部副隊長と隊員二名は十階の避難活動のために十階へ。蒲生隊長と残った隊員四名がポンプ隊の後方支援を受けて九階に突入した」

 そう言っているうちに、ようやく現場となった九階の入口に到着した。今までと違ってフロアの向こうから焦げ臭いにおいが今でも漂ってくる。ドアから中を覗くと一面真っ黒で、今までと違ってその有様は明らかな廃墟だった。

「ここが現場だ。入るときは靴袋と手袋をつけてくれ」

「あぁ。心得ている」

 榊原たちは言われた通りにすると、いよいよ現場となった九階に足を踏み入れた。

「どこまで話したかな。それで、九階に蒲生隊長たちが突入した後の話だが……正直に言ってここから先の話はどうも不明瞭と言わざるを得ない。隊員たちは救助活動に必死であまり他の事に気が回っていなかった上に、現場は煙と炎で充満していた。ゆえに本人たちも自分がどの部屋を調べて誰を救助したのか曖昧だ。確かなのは、いつの間にか蒲生隊長の姿が消え、他の四人が調べ直したところ、九二〇号室で倒れている蒲生隊長を見つけたという事だけだ。時間は二十二時四十五分頃だったそうだ」

「つまり、突入から二十五分……これが蒲生隊長の死亡した時間という事ですか」

 大塚は頷いた。

「隊員たちによってその場で死亡が確認された。火災の影響と装備の重さから、さらにこの頃には火の勢いが一段と強くなっていた事から、二次災害の危険性があるとしてその時点での蒲生隊長の遺体の搬出は不可能と判断された。やむなく隊員たちは一時撤退し、その後ポンプ隊の消火活動の結果二十三時三十分頃に火災は鎮火。その後撤退していた救助隊が再突入し、ようやくすべての遺体が搬出された。消火の一時間後には消防隊は撤収し、我々原因調査係や地元所轄警察署の刑事が現場入りして現場検証を行った。これがこの火災の一連の流れだ」

 と、大塚は足を止めた。そこが蒲生の遺体発見現場である九二〇号室の前だった。ドアは破壊され、中が素通りになっている。

「言うまでもないが、証拠の大半は火災で焼失してしまっている。我々や所轄警察署の刑事もそれなりに調べたから、ここから新たに何かを見つけるのはかなり大変だぞ」

「わかっています。この部屋の宿泊客は確か死亡していましたね」

「パトリック・シェルダン。ロンドンのイギリス人証券マンで、日本へは出張で来ていた。来日二日目でこの惨事だ。彼の遺体もこの部屋から発見された。死因は一酸化炭素中毒による窒息死」

 部屋の中を覗くと、一部で天井が崩落しているようで、室内には大量の大型の瓦礫が散乱していた。

「蒲生隊長とパトリックの遺体はあの瓦礫の下に押しつぶされた状態で見つかった。そのため両者の遺体には火傷だけではなく全身に打撲も見られた。だから蒲生隊長の『首の骨折』という死因にも一応説明はつくのだが……それにしても百戦錬磨の蒲生隊長らしくない死に様だ」

 榊原はしばらく部屋を調べていたが、やがて大塚の方を振り返った。

「他の客の情報は? 確かこの階には全部で十人いたはずです。そのうち四人が生還、六人が死亡したと聞いています」

「九〇七号室の立浪権之助は高円寺の暴力団員。九一二号室の谷松慎太も同じく暴力団員で、こちらは立浪の所属する暴力団から最近分離独立した新興暴力団のナンバー2だ。とはいえ、これは独立というより勢力拡大のための戦略だったようで、新興暴力団は元の暴力団の傘下組織のような扱いらしい」

「そんな二人が同じ階に?」

「もちろん偶然じゃない。これは捜査を担当した所轄署の刑事の話だが、この二人は麻薬取引のためにこのホテルに宿泊していたようだ。取引場所は谷松が宿泊していた九一二号室で、火災発生時二人はそこにいた。立浪は一酸化炭素中毒で死亡。谷松は意識不明の重症だったがかろうじて救助され、現在は警察病院に入院中だ。消火後の九一二号室からは麻薬の痕跡も発見され、谷松は退院後に逮捕される見通しになっている。まぁ、俺らには関係ない話だがな」

「残る三人は?」

「九一三号室のハンク・キャプランはニューヨークの旅行代理店勤務で下見のために東京入りしていた。彼は部屋の中で煙に巻かれて倒れていたが、突入してきた救助隊に何とか救助されて生還。ただし、意識はまだ戻っていない。九一五号室の淀村伊織は名古屋の弁護士で、仕事で逗留中に火災に遭遇。こちらは幸い火災に気付いてすぐに窓を開けてそこから助けを求めていたため一酸化炭素中毒にはならず、部屋に突入してきた救助隊に救助されて生還した。生還者四人の中では一番軽傷で、今は念のために病院で様子を見ている。九一八号室の静川優里亜は埼玉の出版会社勤務で、残念ながら死亡。直接の死因は一酸化炭素中毒だが彼女の部屋も天井の崩落がひどく、それに巻き込まれた事もあって死体は全身打撲がひどかった。どうも九一六号室から九二〇号室にかけては天井の崩落が著しかったらしい」

「あのー、いくら火災中でも、そんなに簡単に天井って崩れる物なんですか?」

 瑞穂が素朴な疑問を発する。が、大塚は首を振った。

「そんなわけがないだろう。詳しくはまだ調べきれていないが、何度も言うようにこの建物はかなり防火対策がおろそかになっていた。しかもこの辺は出火元からかなり遠いにもかかわらずこれだけの被害が出てしまっている。そこから我々はこの建物が建築段階時点ですでに手抜きだった可能性を考えている」

「えぇ……そんなのありですか……」

 瑞穂はもはや呆れ果てていると言わんばかりの声を出した。

「まぁ、ありじゃないから経営者が逮捕されているわけなんだが……」

「直接の原因は、この通風孔ですか?」

 と、榊原が部屋の上を見ながら呟いた。見ると、部屋の隅の天井部分に通風孔と思しき穴が開いている。

「さすがだな。この通風孔は北側と南側それぞれの部屋を貫いていて、火災時に炎がこの通風孔を伝ってしまった。で、遠く離れたこの場所まで炎が到達し、この周辺の天井が炎上してしまった。この辺りだけ燃えたのは、通風孔内部の空気の流れの状態がたまたまそうなってしまったからだと結論付けているが」

「どっちにしても、随分な話ですね」

 瑞穂が大きくため息をつきながら答える。

「現場の状況は、蒲生隊長がパトリックを助けようと突入した際に天井の崩落にあって死亡したというものだ。だが、さっきも言ったようにこの結末に納得していない人間がいるのも確かだ。で、榊原、現時点でのお前の見立てはどうだ?」

「まだ何とも言えませんね。ただ……少し妙だとは思います」

「ほう」

 榊原はそう言うと、いったん外に出て近くのドアを指さした。こちらのドアは破壊される事なくそのままになっているが、その表面は黒く焼け焦げている。

「静川優里亜という女性がなくなっていたのはそこの九一八号室ですよね?」

「そうだ」

「ドアは開いていましたか?」

「いや、閉まっていた。最初に来た時に俺が確認している。何か問題でも?」

「問題があるのは被害者の蒲生隊長の方です」

 そう言うと、榊原は軽く解説し始める。

「通常、こういう救助作業では突入した場所から近い順に片っ端からドアを開けて……というか、開かなければドアを叩き壊してでも中を確認していくはずです。このホテルのドアはオートロックですから普通は鍵がかかっているはずですし、火災の熱で鍵穴やドアそのものが歪んでいて、鍵が開いていたとしても開かない可能性の方が高いはずですから。突入した非常階段の位置から考えれば、この廊下を選択した場合例えば九一六号室、九一七号室……という風な順番でドアを開けていくのが普通でしょう。しかし、今回蒲生隊長はなぜかいきなり廊下の一番奥にあるこの九二〇号室に突入して、そこで亡くなっていると思われます。もし手順通りに近い順番にドアを開けていたとするならそれまでのドアに何らかの痕跡があるはずですし、何より九一八号室を開けた時点でその部屋にいた被害者……静川優里亜の救助に取り掛かっているはずですから」

 慌てて確認すると、九一六号室から九一九号室にかけてのドアはどれも閉じられて綺麗なものであり、遺体が見つかった九二〇号室のドアだけが蹴破られたかのように破壊されている。言われてみれば確かに不自然だ。が、大塚は反論した。

「突入した際にすでに被害者がこと切れていたとすればどうだ? この状況では消防士はあくまで生存者の救助を優先して遺体の回収はしない。すでに死んでいると判断して次の部屋に回ったという事も……」

「言った通り、その場合でもドアは破壊されているはずです」

「それはわからない。火災の熱で逆に鍵が効かなくなってドアが開いてしまう可能性だってある。このドアがそうだった可能性も……」

「それはこの場で確かめれば済む話ですが……だったらなぜドアを閉めたんですか? その場合、鎮火後に遺体収集作業がスムーズにいくようにドアを開けるなりして目立つようにしておくはずでは?」

「それは……確かにそうだな」

 大塚も思い当るところがあるのか素直に頷いた。

「にもかかわらず、九一八号室のドアが閉じていたという事は、蒲生隊長はこのドアを開けなかった……というより、他のドアを飛ばしてわざわざ一番奥の九二〇号室に入った事になってしまいます。これは火災現場のベテランである蒲生隊長らしからぬ行動です。つまり、蒲生隊長自身の行動に矛盾が生まれてしまうんですよ」

 その指摘に大塚も考え込んだ。

「確かにそう考えると、蒲生隊長の行動には疑問が生じるな。なぜ蒲生隊長はセオリーを無視していきなり九二〇号室に向かったのか?」

「何か目的があったのか……あるいは、炎の中の九二〇号室で何かを見たのか」

 榊原はそう言って思案する。こういう謎が出てくるのはいい兆候だと、瑞穂は今までの榊原の教えからよく学んでいた。謎があるという事は、その事件には解明できていない何か真実が存在する事になるからだ。

「他に気になる点はあるか?」

「……仮にこれが殺人だとするなら、出火があくまで偶発的な事象である以上、解明すべき事は以下の点です。すなわち、犯人はなぜ火災発生中のホテル内部という異常な空間で、容疑者の数が絞られる危険性を冒しながら殺人を犯さなければならなかったのか。そして、そんな状況にもかかわらず蒲生隊長を殺害する動機とは果たしてどのようなものなのか、です」

 榊原は冷静に今置かれている状況を整理していく。

「事件当時、このフロアにいたのは宿泊客、消防士双方合わせて十五名。火災現場で自分の首を折るなどという事は物理的に不可能ですから、今回は被害者の自殺という結論はあまりにもナンセンスです。また、被害者が突入していた前に死亡していた甲嶋昭太郎、平良木敦美、小堀秋奈の三名は犯人候補から除外しても構わないでしょう。さすがに偶発的に発生した火災を見越して自動殺人装置を仕掛けていたなどという推理は成立しないでしょうし」

「だとするなら、犯行が可能なのは残る十一名……宿泊客七名と消防士四名の合計十一名で、このうち三名の宿泊客は死亡している」

「死亡が被害者の到着後である可能性がある以上、被害者を殺害した犯人が火災の煙に巻き込まれた可能性は捨てきれません。ゆえにこの段階で彼ら三名の死者も容疑者から外す事はできません」

 さて、と榊原は続けた。

「動機という面で見るなら、一番怪しいのはやはり同じ消防署に勤務する消防士たちという事になります。大塚さん、問題の蒲生隊長の評判はどうだったのですか?」

「評判も何も、ベテランの救助隊員で部下の信頼も絶大だった。救助の技術はピカイチで、仕事熱心で面倒見がよく、隊長としてあれほどの人材はいないという評価を下されている。彼の隊長職の定年が一年遅れたのも現場からの嘆願請求によるものだ。念のために内務調査も実施したが、彼を悪くいう人間は誰一人存在しない。正直なところ、動機の面で言うとあの男を殺す人間がいたとはとても思えないのが実情だ」

「表に見えない部分もあるはずですが?」

「それが、複数の関係者に聞いても彼を悪く言ったり、あるいは何か他人とトラブルがあったりという証言が全くない。これはもう、本当にそういう話がなかったとしか……」

「仕事面では完璧ですか……」

 つまり、同僚の消防士たちには彼を殺害する動機がそもそも存在しないというのである。

「彼の過去に関してはどうですか? 彼が救助に失敗した人間の遺族が復讐をしているとか?」

「確かに彼も消防士である以上、救助が間に合わなかった人間も多数存在する。だが、彼はそんな遺族に対しても誠心誠意接していて、命日には必ず遺族への焼香を欠かしていない。これで彼を恨む遺族がいるとも思えないんだ」

「プライベートは?」

「奥さんが一人と中学生になる娘さんが一人。家庭関係は良好で、こちらも殺人に発展するとは思えない。近所仲も特に問題なし。正直、殺人だとするならお手上げだ。一体どんな動機が……」

「いえ、逆にそれで確信が持てました」

 不意に榊原はそんな事を言った。瑞穂は首を傾げる。

「先生、どういう意味ですか?」

「私生活や仕事面で一切動機らしい動機が見つからなかった。その事が逆に一つの真実を示している。つまり彼にはこのフロアに突入するその瞬間まで殺害される動機は全く存在していなかった。これを逆に考えるなら、彼が殺害された動機は、このフロアが炎に包まれていたまさにその瞬間に急に発生したものであるという事だ。だからこそ、彼は火災中のホテルというあまりにも異常な空間で殺害された。犯人は狙って火災空間で殺人を犯したわけではなかった。この火災現場で突発的に殺害の動機が生まれてしまったがゆえに、やむなく火災現場で殺人を犯したに過ぎないという事だ」

 動機がない事を逆手に取った斬新な考え方だった。瑞穂は「ない」という事象から、逆にこのような推論を生み出す事ができるのだという事を改めて思い知った。

「という事はつまり……」

「すべての根幹はこのフロアにある。蒲生隊長が殺されたのは、火災中のこのフロアで何かがあったからだ。それが何なのかを暴く事が、真実を明らかにする鍵になる。今からそれを調べる事にしよう」

 榊原はそう言うと、黒こげになった九階フロアを真剣な表情で見つめてそう宣言したのだった。


「現場の状況を整理しよう。まずは殺害現場の特定だ。事が殺人だとすれば天井崩落による首の骨折という説は怪しくなってくる。おそらくは何かで背後から殴られて殺されたんだろう。火災で炎上中のホテルなら、その手の鈍器はその辺にいくらでも転がっているはずだ」

 検証を始めた榊原の言葉に瑞穂が反論する。

「でも、被害者は救助作業中の消防士です。相当な重量の装備を身に着けていますから、殺してから火災で燃え盛る中で遺体を長距離動かすのはまず不可能じゃないんですか?」

 瑞穂の意見に榊原は頷いた。

「それもあるが、廊下に救助作業中の消防士がうろついている事を考慮すると、殺害現場が遺体発見現場の九二〇号室とそう離れていないのは間違いない。当の九二〇号室が犯行現場か、あるいは……」

 榊原はそう言うとフロアの図面を取り出して確認する。

「そうだな、せいぜい遠くてもエレベーターホールからの死角になる九一七号室の前辺りまでが限界だな。殺害現場はそこから九二〇号室までの範囲と見るのが妥当だろう。つまり、犯人は必ず一度はこの領域に足を踏み入れている事になる。この条件で容疑から外れそうなのは?」

「九〇二号室の平良木周平さんじゃないですか。ただでさえ九〇五号室から吹き出す炎で脱出経路をふさがれて逃げ場をなくしていたんです。しかもこの人は車椅子なしじゃ動けないし、問題の領域とは対角線上……一番離れています」

「そうだろうな。そして残る北側の部屋の宿泊客は、彼以外全員が蒲生隊長たちの突入以前に死亡している。残るは南側の客だが……」

「九一二号室には暴力団の谷松と立浪。九一三号室には旅行会社勤務のハンク・キャプラン。九一五号室には弁護士の淀村伊織。九一八号室には出版会社勤務の静川優里亜。そして問題の九二〇号室に被害者・蒲生晴孝と証券会社勤務のパトリック・シェルダン、ですよね」

 瑞穂が確認し、榊原が検討していく。

「まず考えられる可能性は、現場である九二〇号室にいたパトリック自身が犯人で、殺害後にパトリックも天井の崩落に巻き込まれて死亡してしまったというケースだ。問題は、それが正しかったとしてパトリックが救助しに来た救助隊員を火災現場で殺害する動機が果たして存在するのかという事だ」

「室内で何か見られてはまずい事をしていた、というならわかりますけど、パトリックはロンドンの証券会社の社員なんですよね。そんな人間がこの緊急事態に見られて困る事なんてあるんですか? それにあったとしても即座に殺人に走るでしょうか? ここで救助隊員を殺してしまったら自分の命も危険なのは確実なのに。というか、実際に死んでしまっていますし」

 瑞穂が首を捻る。

「見られて困るっていうなら、むしろ九一二号室の谷松と立浪だろう。奴らは室内で麻薬取引をしていたわけなんだからな」

 ここで大塚が口を挟む。榊原は即座に反論した。

「しかし、いくら麻薬のためとはいえ、消防士を殺して自分の命を危険にさらしてまでそれを隠そうとするでしょうか? それに仮にそうだったとしても、実際に殺されたのは九一二号室に救助に着た消防士ではなく、九一七号室から九二〇号室の範囲のどこかにいたとされる蒲生隊長なんです。彼らがいた部屋とは真反対の場所にいる消防士を殺して、しかもその後逃げる事なく自室に戻って実際に死んでしまうなんて、ちょっと考えにくい話です」

「九一二号室に来た蒲生を殺して遺体発見現場まで運んだ……という推理は駄目だったんだな。犯行現場は九一七号室から九二〇号室の間のどこか。それなら、事件当時本当は奴らが問題のエリアにいたとしたらどうだ? そこで何かをしているのを蒲生隊長が目撃してしまい、反射的に殺害。その後どうする事もできなくて自室に戻ったところを煙に巻かれたとか」

「だとしたら、その人たちは重要な麻薬取引の時にそんな場所で何をしていたんですか? 麻薬そのものは九一二号室から見つかっているだけなんですよね?」

 瑞穂の素朴な疑問に、大塚は唸ってしまった。榊原も疑問を呈する。

「そもそも、生存者はそれぞれいつ、どの消防士にどうやって救助されたんですか? それがわからないと話にならないのですが……」

「さっきも言ったように、火災中に無我夢中で初対面の人間を救助しているものだから、本人たちも誰がどこでどの生存者を助けたのかはっきりしないらしい。また、客側も防火マスクをかぶっている消防士が相手だから、誰が自分を助けたのかわからないそうだ。詳しくは本人たちに後々話を聞いてもらうが、関係者全員が無我夢中若しくはパニック状態になっている火災中の殺人というのは予想外に解明が困難だぞ」

 今度は榊原が唸る番だった。

「覚悟はしていましたが……やはりそう来ましたか。これはいつも以上に推理力を働かせる必要がありますね」

「できないと言わないのがお前さんらしいよ」

 大塚は苦笑する。

「犯行場所という点でもう一人怪しいのは、九一八号室の静川優里亜です。この部屋は問題の犯行可能エリアの内側に位置していますし、蒲生隊長が直接救助に来た可能性も高い。彼女なら部屋に救助に来た蒲生隊長を殺害し、その遺体を九二〇号室に運び込む事は出来るかもしれません。何でそんな事をしてわざわざ自分の命を絶つような真似をしたのかはわかりませんが、これならさっき言った蒲生隊長の不可思議な行動の問題も片付きます。ドアを閉めたのは静川優里亜本人だったわけですから」

「ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。さっき言ったように、静川優里亜は天井崩落によるものと思われる全身打撲の傷が激しかった。そのうちのいくつかは生前ついたもので、少なくとも蒲生隊長が救助に来た段階では息も絶え絶えの満身創痍だったと考えられている。こんな状況の女性が、いくら火災中とはいえ完全装備の屈強な消防士を殴り殺し、その遺体を別の部屋に運ぶなんてできると思うか?」

「……無理ですね」

 榊原はしばらく考えてから悔しそうにそんな判断を下した。どう考えても物理的に不可能である。どうやらこの考えも筋違いらしい。

 と、今度は大塚が考えを述べた。

「九一三号室のハンク・キャプランと、九一五号室の淀村伊織はどうだ? こいつらはやろうと思えば問題のエリアと自室を往復できるし、しかも生還しているが」

「確かにそうですが、こちらも他の部屋の客同様に、火災発生中の現場で殺人を犯してしかもそのまま自室に戻るリスクを冒す理由がわかりません。結果的に生還はしていますが、状況いかんでは死んでいたかもしれないんですから。現段階ではどちらとも言えませんね」

「……結局、除外できそうなのは北側の部屋の宿泊客たちだけで、南側の宿泊客に関しては保留する他ないという事か」

 大塚がため息をつく。

「とにかく、こうなれば問題の消防士たちに話を聞く他ありません。大塚さん、今すぐ話を聞く事は出来ますか?」

「あぁ、消防署はここから車ですぐの場所だ。俺の聴取という形であるなら、話を聞く事は可能だろうな」

「ならば、いったんここを離れてそちらで話を聞く事にしましょうか。瑞穂ちゃん、何か異論は?」

 そんなものがあるはずもなかった。三人はそのまま再び階段へ向かい、問題の消防署……杉並第三消防署へと向かったのだった。

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