第八章 密室は暴かれた

「最初に事件の情報を整理しよう」

 素人とは思えない落ち着いた様子でマイクに向かってしゃべる榊原を、中木は感心した様子で見ていた。どうやら、榊原はあくまで建前上は中木が話している事にしてこの事件を解決するつもりらしい。榊原の声と中木が演じるサッカキバーの声が似ているからこそできた裏技である。おそらく、リスナーたちは中木が恋人の敵を討つためにこんな事をしているものと解釈しているのだろう。

 榊原いわく、犯人を絶対に逃れられない状況で追い詰めるために今回の作戦を練ったのだという。確かに、これならこの場から逃げ出すわけにはいかない。何しろ全国のリスナーがこの会話を聞いているのだ。榊原が荒切や京をどう説得したのかはわからないが、中木も依頼人としてこの作戦に協力した。もう後には引けない。ここから先は、榊原と誰ともわからぬ「犯人」との一騎打ちである。

「事件が起こったのは十二月五日。この番組でスノーホワイトを演じていた北町奈々子が自室で首を吊った状態で死んでいるのが見つかった。死亡推定時刻は同日午前二時から三時の一時間。現場マンションには鍵がかかっており、なおかつマンションの出入りには警備員のいる玄関を通るしかなく、いわば二重の密室ともいえる状況なっていた。警察はこれを自殺と判断し、影響を考えて事務所側はこの番組終了まで彼女の死を病死とする事にした。これが表向きの結論だ。だが、本当にそうなのか。私はこの結論に納得ができず、独自にこの事件を調べた」

 そう言ってから、榊原はガラスの向こうにいる六人の声優を見つめる。

「結論から言おう。私はこの事件が殺人事件だと確信している。そして、その犯人がここにいる声優の中にいると考えている。今からそれを説明したい」

「黙って聞いていたら、好き勝手な事を……」

 最初に声を発したのは香穂子だった。

「あんた、こんな事をしてただで済むと思っているの?」

「そんなわけはない。これでもし私の推理が間違っていたら、その時は私の身の破滅だ。つまり、私も自分のすべてを賭けてここに立っている。それが私の覚悟だと思ってもらって結構だ」

 そのリスクは、事前に中木も了承していた。もしそうなったら榊原は自分の正体を明らかにした上で潔く敗北を認めると言っていた。そうなれば榊原も探偵として終わりだが、自分もただでは済まない。それでも、中木は榊原にすべてを託す道を選んだのだった。それが、死んだ奈々子のためだと思っての事だった。

 相手方もそれを悟ったのだろう。全員の表情が真剣なものになる。

「いいわ。相手になってあげる。あなたと私たち、どっちか勝つか、真剣勝負といきましょう」

「望むところだ」

 榊原と六人の声優の間に火花が散った。

「じゃあ、聞くけど、奈々子が死んだあの部屋はあんたの言うように密室だったのよ。あの事件が殺人だというのなら、まずはその密室の謎を解き明かしてもらおうじゃない。みんなもそう思うよね」

「そうですね。あの部屋は間違いなく密室だったと聞いていますし、そもそも死亡推定時刻にマンションに出入りした人間はいないと聞いています。普通に考えれば自殺判定するのが当たり前です。にもかかわらず、なぜあなたがこの件を殺人と思うのか。また、この二重密室がどのように突破されたのか、まずはその点を教えてもらいたいと思います」

 香穂子の言葉に、翠が同調する。他の四人も頷いた。

「それは当然の疑問だ。もちろん答えるつもりだが、この密室はかなり複雑な構造の上に成り立っていると私は考えている。したがって一言で説明するのが難しい。なので、説明する前にいくつか前提となる情報を述べておきたい。一見すると密室と関係なく見えるが、しっかり最後まで聞いてほしい」

「もったいぶるわね」

「必要な事だ」

 そう言うと、榊原は推理を語り始めた。

「事件が起きたのは彼女の住む十階建マンションだった。部屋は五階の五〇八号室。だが、このマンションでは事件前後にいくつか不可解な事件が起こっている。それについてまずは述べておこう」

 榊原は指を一本立てる。

「一つ目は、事件の五日後の十二月十日、このマンションの六階六一二号室に住む石渡美津子という女性が部屋の中から忽然と失踪しているという事だ。彼女の名前は君たちもニュース等で知っていると思う。奥村義三代議士の汚職疑惑の証拠を持っているとされ、先日麻薬密売容疑で指名手配された代議士秘書の名前だ。ちなみに、夕凪哀さん、あなたはこの石渡美津子とは大学時代の同級生だな?」

 その言葉に、哀の表情が変わる。

「えぇ……」

「その石渡美津子は、北町奈々子の死後一時間半後に相当する十二月五日午前四時半頃にマンションに帰宅し、以降失踪当日までマンションから一歩も出ていない。これは警備員の証言から確実な事だ。それまで彼女が何をしていたのかに関しては……まぁ、これは後で話すとしよう」

 あえて梯子を外すように言う。案の定、実はそれまで石渡美津子と一緒に飲んでいた哀の表情が少し青ざめていた。

「二つ目。これは私が事件現場となったマンション周辺を調べた結果だが、事件当日にあのマンションの前を偶然通った人物が見つかった。名前はこの場では明らかにしないが、その人物が言うに、事件当夜、あのマンションには幽霊が出たという事だ」

「幽霊?」

 思わぬ話に全員が顔を見合わせる。

「先程も言ったように北町奈々子の死亡推定時刻は午前二時から三時の間。だが、死亡推定時刻から少し過ぎた午前三時過ぎ、問題のマンションの駐車場で、北町奈々子が青白い顔をしながらマンション外壁の傍に立っていたという目撃証言が出た。言ったように、この時点で北町奈々子はすでに死亡している。これは警察や監察医による解剖ではっきりしている事だ。にもかかわらず、死んだはずの人間がマンションの傍で立っていたという。改めて言うまでもないが、明らかに矛盾した話だ」

「見間違いじゃないの?」

 香穂子があっさり切って捨てる。が、榊原は小さく首を振った。

「確かに、そう思うのが普通だろう。だが、事は殺人事件直後の話。もしこの話が事実だったとしたらどう考えられるか……。私はそこから推理を進める事にした」

 榊原の言葉に、誰もが言葉を挟めないでいた。

「まず、問題の幽霊が彼女自身だったと仮定した場合、そこに立ちはだかる問題が二つある。一つは、当然彼女自身が当該時刻に死亡している事。当たり前の話だが、死亡している人間が立つ事など普通は不可能だからだ。二つ目の問題は、問題の密室の逆説。事件当夜の死亡推定時刻、あのマンションに誰も入っていないのはさっきも言った通りだが、逆に出た人間もいない。これは被害者も同様だ。つまり、今度は彼女が外に出た方法、さらにはその理由がわからなくなってしまう。一見するとこの二つは実現不可能な命題で、この話が幽霊話と言われてしまうのも無理はないだろう。言ってしまえば、あり得ない事が起きたという話だからな」

 と、ここで榊原の視線が鋭くなった。

「だが、もしこれら二つの否定条件を説明できる推論が成立するとすれば、これは問題の密室を暴く重要な証拠になる。何しろ、密室だったマンションから被害者が出たという事が証明されるわけだからな。では、この二つの条件を突破できるか」

「無理よ、そんなの。覆せるわけないじゃない」

 哀が思わずそんなコメントを言う。だが、榊原は不敵に笑った。

「ところが、これが実に簡単に実行できる。本当に呆れ果てるほど単純なやり方で、だ」

「もったいぶらずに早く言いなさいよ!」

 香穂子が苛立ったように言う。それに対し、榊原が告げたのはとんでもない言葉だった。

「彼女がどうやって密室状態のマンションから脱出したのか。何の事はない、自室の窓から直接外に出たとすればすべてが解決する。あの部屋の窓に密室を阻害する要因は全くないから、物理的には可能なはずだ。そして、死んだはずの彼女がなぜ立つ事ができたのか。これに関しては前提条件……『死んだ人間は立てない』という条件が間違っていて、死んだ人間が立つ方法が存在した、と考えればどうだろうか。つまり、彼女は自室の窓からマンションの外に出て、死んだ状態でマンションの外に立っていたという推論だ」

 あまりに無茶苦茶な言い分に、一瞬、誰もが言葉を失った。はっきり言って、世迷い事以外の何物にも聞こえなかった。

「あのぉ、それ、本気で言ってるんですかぁ?」

 恵梨香が遠慮がちに尋ねる。が、榊原の表情は真剣だった。

「もちろんだ」

「馬鹿じゃないの! 人間がマンションの窓から外に出られるわけないし、死体が自分で立てるわけがないじゃない!」

 香穂子が怒り心頭という様子で絶叫した。だが、榊原は動じない。

「しかし、物理的に窓から出られる事に間違いはないだろう」

「だから、そんな事したら真っ逆さまに落ちて死んじゃうじゃない!」

「つまり、死んでいれば窓から出ても問題ない、という事になるはずだ」

 思わぬ反論に、香穂子は押し黙った。

「……どういう事?」

「言っただろう。マンションの外に立っていた被害者はすでに死んでいた、と。だったら、窓から外に出た時点で被害者が死んでいたとしても問題はない」

「いや、だけど……」

「確かに生きた人間がマンションの五階の窓から外に出るなど自殺行為だ。だが、最初から死んでいる人間、要するに死体なら、物理的に出入りが可能な以上、死体の出し入れそのものは可能なはずだ」

「そりゃ、確かに理屈はそうだろうけど……」

 香穂子は言葉を濁らせる。だが、榊原は止まらない。

「死体であるならあのマンションを脱出する事はできた。その上で『立っていた死体』という事象を考えるとどうなるか。もちろん、普通に考えれば死体が立つなどという事はあり得ない。しかし、死体を立たせる方法が全くない事はない。非常に古典的な方法で、死体が立っているかのように見せかける事は可能だ」

「古典的な方法?」

「命なき人形を立たせるには、どうすればいいか? そして、北町奈々子の死因は何だったのか? これを考えれば、おのずと答えは出る」

 その言葉に全員がハッとする。

「ま、まさか……」

「そう、見えない紐で吊り上げた。ただそれだけの話だ。要するに、目撃された被害者は立っていたわけじゃない。首にかかった紐で、地面すれすれのところで吊り上げられていたにすぎないって事だ」

「ちょっと待って! 気軽に言ってくれるけど、どうやったらそんな事ができるのよ! 人形劇なんかと違って、あのマンションに糸を吊るすような天井は存在しないのよ」

 香穂子が思わず反論する。が、榊原は全く動じない。

「あのマンションの屋上を調べてみたが、その手すりの一ヶ所に糸でついた傷のようなものを確認できた。あのマンションは内部に入る事は難しいが、非常階段を使って屋上に勝手に侵入する事は不可能ではない。だとすれば、犯人が屋上に勝手に侵入して、そこから地面に向ってワイヤーか何かを垂らして被害者を吊るす事は不可能ではない。ちなみに、一応言っておくと、その痕跡があったのは被害者の部屋の寝室の窓の真上だった。この場所は、例の幽霊が立っていた場所の真上でもある。これが偶然だと思うほど、私は甘くない」

 榊原の反論に、香穂子は押し黙る。が、今度は友代が質問を投げかけた。

「あの、いいですか? 犯人が屋上から北町さんを吊るした……それはわかりました。でも、どうしてそんな事をしたんですか? 私が言うのもなんですけど、無駄以外の何物でもないと思うんです。まさか幽霊話を広めるためにそんな事をしたとも思えないし……そもそもさっきの話だと、その目撃者が通りかかったのも偶然だって事じゃないですか。つまり、本来なら誰も目撃者はいないはず。ますますそんな事をする意味がわかりません」

 当然の疑問だった。それに勢いづいたのか、続いて翠が質問する。

「えっと、その話だと犯人は北町さんの死体を部屋の窓から引きずり出した事になりますけど、その場合犯人は事前に部屋に入って北町さんを殺しておく必要がありますよね。でも、それだと話は何一つ解決しません。結局、犯人はどうやって部屋に入って北町さんを殺したんですか? 部屋は密室だったんですよね?」

「それに、確か問題の寝室の窓って鍵が閉まっていたんですよね。そもそも窓が使えないって事じゃないんですか?」

 哀も後に続く。立て続けに出される疑問に、中木や瑞穂は心配そうに榊原を見やった。

 だが、榊原の表情に焦りの色は全くない。

「その疑問だが……そもそも北町奈々子を殺害するのに犯人が部屋の中に侵入する必要はあったのだろうか」

 唐突な疑問に、質問攻めをしていた声優陣の勢いが止まった。

「何を言ってるの? あなたが『死体を窓から引きずり出した』って言ったんじゃない」

「確かに言った。だが、私は『あらかじめ殺された死体を引きずり出した』とは一言も言っていない」

「同じじゃない」

「違う。例えば、被害者を窓からワイヤーで引きずり出す……この行為そのものが殺害行為だったとすればどうだ?」

「言っている意味がわからないんだけど……」

 本当にわけがわからない様子の香穂子に、榊原は静かな口調で告げた。

「つまりこういう事だ。あらかじめ窓の外側に沿うような形でワイヤーの輪の仕掛けをしておき、被害者が外を覗くために窓から首を出した瞬間に屋上からそのワイヤーの罠を作動。そのまま被害者をマンションの外の空中に引きずり出して吊るし首にして死に至らしめた……。これなら室内に入らず、被害者を殺害すると同時に密室化したマンションの外に引きずり出すという荒業が可能になると思わないか?」

「なっ……」

 思わぬ話に、今度こそ香穂子は黙り込んだ。榊原は、間髪入れずに叩き込むように推理を披露する。

「犯人はこの日のために被害者の自宅寝室の窓に殺人トラップを仕掛けておいた。罠はおそらくこんな感じのものだったはずだ。まず、凶器となるワイヤーか釣糸のような見えにくい紐を用意すると屋上の手すりにその一端を結び付けて地面に向って垂らし、もう一端が被害者の部屋の窓の高さに来るようにする。もう一端の方は被害者の寝室の窓と同じサイズの輪っか状になっていて、紐を引っ張れば輪が縮まって中にある物を締め上げる仕組みだ。その後、何かの機会に被害者の部屋に入った際に密かに寝室に行き、窓の外にぶら下がっていたこの輪っかを窓の周囲に沿うようにテープか何かで軽く固定。屋上と被害者の部屋の間に垂れてある紐は窓の端の方に寄せておき、他の階の住人にも気づかれないようにしておく。これで下準備は完了だ」

 いつしか声優陣も榊原の話に聞き入っていた。それを確認しながら、榊原は推理を進めていく。

「そして犯行当日、犯人は何らかの理由をつけて被害者に寝室の窓の外を見るように指示を出した。その具体的な方法だが、実は事件直前の午前一時頃、被害者が三上友代さんに対して電話をかけていたという事実が明らかになっている。そうだね?」

「は、はい」

 唐突に聞かれて、友代が慌てて返事をする。

「そのデータを私は彼女から預かっている。今この場でそのデータを流そうと思うが、構わないかね?」

 その言葉に友代は一瞬緊張した表情を見せたが、即座に小さく頷いて肯定の意思を示した。その直後、後ろに控えていた瑞穂が何か機器を操作し、二つのスタジオにあの通話内容が響き渡った。それは、生前の北町奈々子が残した最後の音声だった。

 誰もが黙ってその内容を聞いている。やがて会話が終わると、榊原は推理を再開した。

「この通話内容を聞くだけでも彼女が自殺だという可能性は限りなく低くなるが、とりあえずそこは今置いておこう。それ以外でこの通話からわかる事は二つだ。一つは、彼女が最近再びストーカーに悩んでいた事。もう一つは事件当夜に誰かが彼女の部屋を訪れるはずだったという事だ。しかし、監視カメラの映像やマンションの警備員の証言からその来客の存在は確認されていない。なぜか? 可能性としてはこちらも二つある。その来客の訪問が突然キャンセルになったというケースと、その来客自身が犯人だったというケースだ。そして後者だとした場合、被害者に寝室の窓の外を見させるある手法が生まれる事となる」

「そんなものがあるわけが……」

「例えばこうだ。『今、マンションの外まで来ているが、そこであなたの部屋を見ているストーカーらしき人物を捕まえた。ちょっと窓から外を見て確認してもらえないか』。もしこんな事を電話越しに言われたとしたら、何はともあれ窓から外を見るんじゃないか?」

 思わぬ話に、全員が絶句する。

「何しろ外は暗闇だ。室内の明かりがガラスに反射してまともに外を見る事ができないとなれば、窓を開けて顔を外に突き出すくらいの事はする。そこで罠を作動させれば、被害者の首つり死体の完成だ。万が一誘導に失敗しても別のチャンスに回せばいいだけだし、犯人としては文字通り獲物が罠にかかる心境だったはずだ」

「ま、待ってください! その推理には疑問点があります」

 話を遮ったのは哀だった。

「そのトリックを実行するには必ず北町さんに電話する必要があります。でも、北町さんの携帯電話にそんな怪しい着信履歴があったらいくら警察でも怪しむはずです。それに仮に着信履歴を消したとしても電話会社には記録が残るはず。調べられたら一発で終わってしまうそんな危険を犯人が負うでしょうか?」

 と、今度は和歌美が声を振り絞るように反論した。

「そ、それに、その電話の内容だと、北町さんは三上さんに話すまで再度ストーカー被害に遭っている事は誰にも話していないんですよね。なのに犯人がストーカーの事実を知っていて、それを罠に利用するのは時系列的に無理があるんじゃないですか?」

 意外にも筋の通った反論だった。が、榊原は容赦なく再反論を試みる。

「後者については単純明快だ。そのストーカーが実は犯人の手によるものだったという場合は、犯人がストーカーの事を知っているのは当然となる」

「は、犯人がストーカー?」

「すべては犯人の計画の一部だった。この殺害計画を成功させるためにわざと相手が気付くようにストーキングをし、それを利用する事で被害者があの夜に窓を覗くような罠を仕組んでいたと考えれば辻褄は合う。つまり、犯人はこの計画をかなり早い段階から計画していたという明確な証拠になるという事だ。それと前者だが……そもそも問題の通話で謎の来客が夜遅くに被害者のマンションを訪れる事になったのは、その来客が被害者の部屋に何かを忘れたのを取りに来るためという事だった。では、一体何を忘れたのか? 想像する他ないが、可能性として考えられるのは……犯人自身の携帯電話だ」

「え?」

 意味がわからず、哀は首を傾げる。榊原はそのまま自分の推理を彼女たちにぶつけた。

「つまり、犯人が電話をかけたのは被害者の携帯電話ではなく、被害者の部屋に忘れた事になっていた自身の携帯電話だったという事だ。犯人は二台の携帯電話を持っていて、そのうちの一方を、機会を見計らって被害者の部屋にわざと忘れておく。あとはその携帯に電話をかけ、例の罠を仕込めばいい。忘れた自身の携帯電話に電話をかける行為は非常に自然だ。こうすれば被害者の携帯に一切着信履歴を残さず彼女に電話をかけ、先程推測した会話で彼女を問題の罠に誘導する事が可能となる。彼女が携帯電話を掛けたまま外に顔を出してその瞬間に首を絞められたとするなら、罠に使った犯人の携帯電話も一緒にマンションの外に落下した可能性が高い。殺害後に地面に落下したその携帯電話さえ回収してしまえば、そんな携帯電話が部屋にあった事など誰にも知られる事はない」

「そんな面倒な事をしなくても彼女の自宅電話にかければよかったのに。あの部屋の電話は旧式だから履歴なんか残らないでしょうに」

 香穂子が不審そうに言うが、榊原は首を振った。

「あの部屋の固定電話はリビングに設置されていて、古めかしいがゆえに未だにコード式のものだった。この電話では彼女を問題の寝室の窓の前まで誘導するのは不可能だ。だからこそ、こんな手間暇かけたトリックが必要になったんだろう」

 思った以上に筋の通った話に、いつの間にか全員が榊原の話に引き込まれていた。

「かくしてすべての仕掛けは成立した。そして、被害者が窓から外を見た瞬間、あらかじめ屋上で待機していた犯人は仕掛けておいた紐を思いっきり引っ張り上げた。窓枠に固定されていた凶器の輪っかは窓から外を覗いていた被害者の首を締め上げる形で閉じ、そのまま被害者をマンション五階の空中へと引きずり出す。いきなり首を吊られた状態で空中に投げ出された被害者はその時点でほぼ即死。抵抗する暇もなかったはずだ」

 中木が苦しそうな表情をする。恋人の無残な死に様に、怒りがこみ上げて来たようだった。榊原はそんな中木を横目に話を続ける。

「さて、犯行終了後、被害者は相変わらず空中に宙吊りになったままだ。このままにしておくわけにはいかないが、いくらなんでもこのまま遺体を屋上まで引きずり上げるというのは人間の体力的にまず無理だろう。普通に考えて、犯人は宙吊りの遺体を逆に地面まで下ろすという作業に移ったはずだ。だが、おそらくは紐の長さが微妙に足りなかったのだろう。遺体は地面につくギリギリのところで止まった。その結果が……」

「問題の幽霊騒動、という事ですか」

 友代が重苦しい表情で言った。

「元来、密室殺人というものは大きく二つに分類される。犯行当時犯人が室内にいて犯行後に脱出するパターンと、犯人が密室の外にいて遠隔殺人を実行したというパターンだ。だが、今回のケースはこの二種類のどちらでもない特殊なケースだ。犯人が被害者を密室から引きずり出して殺害し、その後被害者を再度密室の中に放り込んだというパターンだからだ」

「被害者を再度密室に放り込んだ?」

 全員がハッとした表情をする。そう、話はまだ終わっていないのだ。

「気づいたようだな。今の説明は被害者を密室から引きずり出して殺害したところまで。この後、犯人にはもう一つ大きな仕事が残っている。死亡した被害者の遺体を、密室状態の被害者の自室に再度入れるという仕事だ」

「条件はあまり変わっていないように思えますが……」

 和歌美が遠慮がちに言う。が、榊原は首を振った。

「いや、話は大きく変わった。今までこの犯行が自殺と判断されていたのは、『死亡推定時刻にマンションに出入りした人間がいない』からだ。しかし、実際の殺害方法は被害者を密室から引きずり出す事で行われており、この場合死亡推定時刻にマンションへの出入りがないのは当然だ。逆に言えば、『遺体を密室であるマンションに入れる』作業自体は、死亡推定時刻から大きく外れていても全く問題ない事になる」

 その瞬間、全員の顔色が変わった。

「それって、まさか……」

「そう。死亡推定時刻にマンションに出入りしていなかった人物でも、それ以降にマンションに出入りをした人物ならこの犯人の条件に当てはまるという事だ。そして、死亡推定時刻から一時間半後の午前四時半、このマンションに入った人間が存在する。それが、最初に紹介した失踪した議員秘書・石渡美津子だ」

 いよいよ、話は佳境に入ろうとしていた。

「待ってください。それじゃあ、犯人はその石渡美津子っていう議員秘書だって事ですか?」

「いや、それはないだろう。石渡美津子には犯行当時のアリバイがある。そうだな、夕凪哀さん?」

 そう言われて、哀が肩をこわばらせる。

「な、何?」

「事件当夜、あなたは石渡美津子と一緒に居酒屋で飲んでいる。以前聞いた話だと、あなた方が居酒屋『飲兵衛』を出たのは午前二時半。間違いないな?」

「え、えぇ」

「問題の居酒屋から彼女の自宅がある現場マンションまでは徒歩二十分から三十分。この時間に電車は動いていないし、彼女を乗せたタクシーも確認されていない。そうなるとマンションに到着するのは死亡推定時刻ギリギリとなってしまう。仮に二十分で到着できたとしても、そこから屋上に侵入して被害者を窓におびき出せて殺害する……どう見積もっても死亡推定時刻をオーバーするのは確実だ。第一、石渡美津子と北町奈々子の間にはこれと言った接点も存在しない。以上から石渡美津子自身が犯人だというのは考えにくい」

「じゃあ……」

「しかし、死亡推定時刻から遺体発見までにマンションに入った人間は彼女だけだ。彼女がこの犯行に無関係であるはずはない」

「きょ、共犯って事ですか?」

 和歌美が恐る恐る聞く。

「ここで問題の午前四時半の事について検証しておこう。対応した警備員の話では、午前四時半、酔っぱらってフラフラになった石渡美津子が帰宅している。ただし、その際は彼女一人ではなく、彼女の友人と名乗る人物が一緒だった。そして、その『友人』も一緒にマンションに入っている」

「あからさまに怪しいわね」

 香穂子がそんな感想を漏らした。

「石渡美津子は『友人』に支えられながらもなんとか警備員に応対し、マンションに入った。ただし、彼女の部屋は北町奈々子の部屋のある五階ではなく六階。ゆえに二人も六階に入っている。そして三十分後、その『友人』だけがマンションから出てきた。ちなみに、その際残された来客記帳ノートに書かれていた『友人』の名前は、『鈴川由美』」

「それって……哀、あんたの本名じゃない!」

 香穂子の言葉に哀は青ざめる。

「し、知らない! 私は間違いなく居酒屋で彼女と別れたわ!」

「それに関しては後で検証する。とりあえず先を進めるが、何にしてもこれが問題の石渡美津子の帰宅の様子だったわけだ。もし、先程の私の推測が正しいなら、この話のどこかに北町奈々子の遺体をマンション内に持ち込むトリックが使われている事になる」

「でも。人の死体ですよ。そもそもどうやって持ち込むんですか? 普通に持ち込んだら怪しまれるだけだと思います。その二人、死体が入るような荷物を持っていたんですか?」

 友代が榊原に疑問をぶつける。

「いや、警備員の話だとそんな荷物は一切持っていなかったらしい」

「じゃあ、問題外じゃないですか」

「いや、確かに死体は存在した。そして、堂々と警備員の前を通ったんだ」

「何を言っているのか……」

「言っただろう。石渡美津子は酔っぱらったせいなのか正体がなく、その『友人』に体を支えられている状態だった。警備員の話だとまともに歩く事もできず、話す言葉も要領を得なかったという事だ。もっとも、警備員はその『声』で彼女を石渡美津子と判断したらしい。ちなみに、その顔は風邪をひいていたのかマスクをかけていたそうだ」

「……ちょっと待って、それって……」

 声を上げたのは香穂子だった。だが、その顔が妙に青ざめている。

「ど、どうしたの?」

「いや、でも、そんな、まさか……」

「気づいたようだな。犯人の使った『とんでもない方法』に」

 榊原が険しい表情のまま言う。和歌美が混乱した様子で香穂子にすがった。

「う、海端さん、どうしたんですか?」

「……その『石渡美津子』が『死体』だったって事?」

 その言葉に、その場にいた全員がギョッとした。

「な、何を言っているんですか?」

「だって、そうとしか考えられないじゃない。正体がなくて体を支えないとまともに歩けないなんて……『声』の話さえなければ『死体』そのものじゃない」

 文字通り「とんでもない話」に、その場の誰もが絶句した。だが、榊原は淡々と言葉を紡ぐ。

「おそらくそれが正解だろう。犯人は大胆にも北町奈々子の死体を『酔っぱらって帰宅した石渡美津子』としてマンションに入れた。もちろん、その時彼女を支えていた『友人』が真犯人だ。警備員だって、まさか目の前でぐったりしている相手が『死体』だなんて普通は考えない。おそらく、元々二人の雰囲気がどこか似ているからこそこのトリックが考えられたのだろうが、マスクやコートで目立つ部分を隠して髪型を似せさえすれば、多少雰囲気が違っていたとしても夜明け直前の集中力が切れる時間に窓越しに応対する警備員を騙す事は充分可能だろう。それに不明瞭でも本人の『声』があったとなれば、十中八九疑われる事はないはずだ」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 友代が待ったをかけた。

「その『声』は何なんですか! 警備員が通したって事は、少なくとも警備員はその声を本人だって認識した事になりますよね。しかも紛いなりにも応答しているって事はテープじゃない。これをどう説明するつもりですか?」

「説明も何も、その声は隣で支えている『犯人』が言ったんだろう。言った通り『石渡美津子』も『友人』もマスクをしていたから、口の動きでばれる心配もない。腹話術よりも簡単だ」

「だから、いくらそれが可能でも本人そっくりの声が出せるわけが……」

 そこまで言って、友代はハッとした表情をした。

「確かに普通の人間にはそんな事は不可能だ。だが、それができる職種の人間がいる。声で演技する事を仕事にしている……いわば、声のプロが」

「声優……」

 その事実に、当の声優である彼女たちは押し黙るしかなかった。

「声優はそもそもが声で演技するプロだ。おそらく練習次第ではあるだろうが、全く別人の声を出す事も不可能ではないはず。どうだろう?」

「た、確かに、プロとしてそのくらいはできますけど……」

「いずれにせよ、私の推理が正しい場合、犯人が声優、もしくはそれに類する訓練を受けた人間であるのはほぼ間違いない。私が、犯人が君たち声優の中にいると断言したのも、別に根拠なく言ったわけじゃないって事だ」

 その場に重苦しい空気が漂う。

「続けよう。こうして犯人は被害者の遺体を堂々と持ってマンションに入った。ただし、石渡美津子の部屋は六階。あのマンションは警備上の理由から目的階以外に行く事はできないから、犯人たちが下りたのも六階という事になる。そして、犯人は石渡美津子の部屋の鍵を使って、彼女の部屋である六一二号室に入った」

 そこまで聞いて、香穂子が何か気づいたような顔をした。

「そ、そうよ。その話が本当なら、本物の石渡美津子はどこに行ったのよ! いくら警備員を騙せても、その後で本物が帰ってきたら話にならないでしょ」

「確か、ニュースで聞いた話だと石渡美津子が部屋から消えたのは事件から五日後の十二月十日だったはずですが」

 翠が遠慮がちに言う。

「……そうだな。先にそっちの話を片付けてしまおうか。問題の五日以降の石渡美津子の動きだが、彼女はそれ以降一度もマンションから出ず、七日に汚職疑惑が発覚。その後は携帯電話でマスコミに対して会話していたようだが、十日になってマスコミをマンション自室に招いた際に突然自室から失踪。現在に至るまで発見されていない。だが、この流れに関し、当初から私は彼女が最初から部屋にいなかった可能性を考えていた。最初から部屋にいなかったのなら、衆人環視の密室だったマンション自室から消えたのも説明がつく。マスコミへの対話も携帯電話越しだったから、マンションの外からでも問題はない。何より、マスコミ関係者の話では汚職疑惑の告発を送ったのは石渡美津子自身の可能性が高いとされているが、その告発書の消印は五日以降となっている。しかし、先程も言ったように彼女は五日以降にマンションから出ていない。これは警備員にも確認して間違いない事だ。つまり、彼女がマンションにいたとすれば、マンションの中にいた彼女がマンションから一歩も出ずに外のポストに告発書を投函するというおかしな話になってしまう。これらの根拠から、私は五日の時点で彼女がマンションに帰っていないものと推察していた」

「でも、彼女は五日の午前四時半に帰っていた」

 友代が静かに続ける。

「そう、これがこの推論の弱いところだった。彼女が帰っていないとすれば、五日に帰ってきた『石渡美津子』は誰なのか。また、それが偽者だったとして、その偽者はどこへ消えたのか。長い間、私はこの疑問に苦しんでいた。しかし、事の真相が『帰宅した石渡美津子が実は北町奈々子の死体だった』とすれば、これらの疑問はすべて氷解し、石渡美津子をめぐる状況は大きく変わる」

 そこで、榊原は一息入れてこう続けた。

「つまり、彼女が失踪をしたのは十二月十日ではなく十二月五日。もっと言えば十二月五日の午前二時半頃に夕凪哀と別れたのが、最後に彼女が目撃された瞬間という事になる。つまり、その後彼女の姿を見た人間はこの世に存在しないという事だ」

 思わせぶりな言い方に、その場がシンとする。

「まるで……彼女がもうすでにこの世にいないみたいな言い方ですね」

「……この際はっきり言うが、私はその可能性が高いと考えている」

 榊原の衝撃的な発言に、誰も言い返す事ができなかった。

「さっき君たちが言った通りだ。犯人としては、トリック途中に本人が帰って来られるのが最大の問題。だとすれば、犯人にとって石渡美津子本人は邪魔以外の何者でもなかったはずだ。また、石渡美津子の部屋に侵入するには当然彼女の部屋の鍵がいるが、その鍵は本人から奪う他ない。となれば、すでに北町奈々子を殺害している犯人の取る行動は限られる」

「まさか……石渡美津子の殺害、ですか」

 友代が顔を青ざめさせながら振り絞るように言った。榊原は静かに頷いた。

「もちろん、これは可能性にすぎないし、具体的にどのような殺害方法をとったのかはわからない。だが、事件から一ヶ月経過しているにもかかわらず彼女の消息が全くわからない現状を考えれば、彼女がすでにこの世の人間ではない可能性は考慮しなければならないと思う。残念だが、な」

「……彼女はいつ、殺されたの?」

 これは恵梨香の問いだった。

「犯人にとっては彼女に帰って来られては困るが、犯人自身もマンションからそう遠く離れるわけにはいかない。となると、彼女が帰宅する直前にマンション周辺のどこかで殺害を決行したはずだ。具体的には、彼女が最後に目撃された五日の午前二時半から、彼女が徒歩で自宅マンションに到達する限界時刻である午前三時までの三十分間のどこかだろう。現場周辺は人通りの少ない住宅街で時間も深夜。殺害そのものは難しくないはずだ。後は、十日まで彼女が生きているかのように工作しておけば、その間に遺体の処理も充分にできる」

「じゃあ、汚職発覚後にマスコミに電話対応していたのは……」

「先程も言ったように、犯人はマンションに侵入する際に石渡美津子の声を演じていた可能性が高い。犯人自身が彼女の声で電話対応する事は簡単なはずだ。携帯電話や部屋の鍵は殺害時にでも奪っておいたのだろう。また、汚職の告発も犯人がやった事だ。部屋に侵入した際にその手の資料を見つけて持ち出し、マンション脱出後に投函したというところだろう。すべては彼女が十日まで生きていたと錯覚させ、事件との関連性を否定するためだ」

「なんて狡猾な……」

 哀が呻く。他のメンバーも同じ気持ちのようだった。

「それでは話を戻そう。犯人は北町奈々子の遺体と共に、殺害した石渡美津子から奪った鍵を使って石渡の部屋……六一二号室に侵入した。さっきも言ったように、汚職の資料はその際に見つけたのだろう。だが、犯人の目的はもちろんそんな事ではない。北町奈々子の遺体を彼女の自室である五〇八号室に放り込む事だ」

「でも、どうやって? 石渡美津子の部屋は六一二号室なんですよね」

「そうだ。だが、六一二号室には五階に侵入する方法が存在する。ニュースでも言っていたと思うが、石渡美津子はシャルル・アベール社との麻薬密売を行っていた疑いがあり、真下の部屋に住んでいた同社の社員であるミシェル・ロランがその取引相手とされている。そして、石渡美津子はミシェルが日本に不在の際は、自室のベランダから下の部屋であるミシェルの部屋のベランダに侵入し、そこから五一二号室に入って室内に保管されていた麻薬を取っていた疑いが強まっている。要するに、六一二号室からベランダを通して五一二号室へ侵入する事ができるという事だ」

「ベランダを通じてって……そんな事ができるの?」

「五一二号室のベランダの手すりから実際に靴跡が見つかっている上に、五一二号室のベランダに通じるドアのガラスが、鍵の辺りだけ小さく割られていた。六一二号室からベランダを通じた五一二号室への出入りがあった事は疑いようがない事実だ。実際問題として、一階分ぐらいならベランダを通じた縦の移動も不可能ではないと、私も考える」

 榊原はさらに推理を進める。

「状況を整理しよう。犯人は六一二号室に入った後、ベランダを伝って真下にある無人の五一二号室に侵入した。おそらくロープか何かを使ったんだろう。最初に遺体をロープで下のベランダの辺りに吊り下げておいて、自分が別のロープで下のベランダに降りた後、吊るされた遺体を回収する。ベランダから部屋に入るドアには、すでに石渡美津子が侵入のために鍵部分のガラスを割っていたはずだから、ベランダに入ってしまえば部屋への侵入そのものは簡単だったはず。そして、あのマンションの部屋は外から中に入るには鍵がいるが、中から外に出る際には当然鍵はいらない。内側から五一二号室のドアの鍵を外して廊下に出れば、エレベーターホールに設置された防犯カメラに一切映る事なく五階の廊下に侵入する事ができるというわけだ。あとはそのまま堂々と被害者の自室……五〇八号室に入れさえすれば、すべての工程は完了する」

「入るって、それこそどうやって? そっちはちゃんと鍵がかかっているんでしょ」

 香穂子が尋ねる。これに対し、榊原はおもむろに和歌美の方を見やった。

「才原さん、先日話を聞いたときに、彼女がカードキーをブレスレットのようにして肌身離さず持ち歩いているという話を聞いたが、それは事実かな?」

 思わぬ問いに対し、和歌美はヒッと声を挙げながら答える。

「は、はい。前になくした事があるからって……」

「彼女の遺体の服装は来客……犯人に会うために前日着ていた服装のままだった。だとすればそのカードキーも普段通り身に着けていた可能性が高い。そして、その状態で部屋から引きずり出されたとするなら、肝心のカードキーも彼女と一緒に部屋の外へ引きずり出された事になる。だとするなら、カードキーは犯人が持っていたという事だ」

「でも、チェーンロックは?」

「発見時にかかっていた、というならどうやって外からチェーンロックをかけたのかが問題になるだろうが、実際は遺体発見時、チェーンロックはかかっていなかった。だとするならどうとでも考えられる。最初からかかっていなかった可能性もあるし、あるいはかかっていたとしても、その場合はチェーンを工具か何かで切断し、すべてが終わった後で別のチェーンに付け替えるという手法で充分だ。その辺についてはどうだね? 彼女はチェーンロックをどうしていた?」

 声優たちは顔を見合わせて考えていたが、やがて恵梨香がこう答えた。

「多分、チェーンロックは寝る直前にかけていたと思います。来客の時いちいち開けるのが面倒だからって」

「なら、チェーンロックはかかっていなかったとみるべきだな。彼女の格好は、どう見ても寝る直前の格好ではない。しかも直前の通話の内容から彼女は忘れ物を取りに来る来客を待っていたと考えられている。だからこそのあの格好だったのだろうし、すぐに来客に対応するためにチェーンロックもかけていなかった可能性が高い。彼女が普段から寝る直前にしかチェーンロックをかけないという習慣を持っていたなら、この仮説はますます高まる。要するに、犯人はそこまで考えて『忘れ物を取りに来た来客』というトリックを仕掛けたという事だ。そして、鍵だけなら奪ったカードキーで中に入る事は可能だ」

 榊原はジッと声優たちを睨む。

「あとは簡単だろう。五〇八号室に侵入した犯人は、遺体をベランダ入口のカーテンレールに吊り下げて自殺を偽装した。この時、犯人はあえてベランダを思わせ気味に小さく開けて、そこから紐を通してベランダの手すりにその先端を結び付けている。さらにいえば、この際寝室に行って、空きっぱなしになっていた寝室の窓を閉めて鍵をかけ、窓枠などに残った罠の痕跡を消す作業もしているはずだ。こうする事で万が一にも本来の犯行現場である寝室の窓へ注目が行かないようにするとともに、もし自殺偽造がばれたとしてもわずかに開いていた実際には何の関係もないベランダへ注目が行くようにするという思惑があったはずだ」

「あの遺体の状況に、そんな細かい意図があったなんて……」

 もう、誰も榊原の推理を荒唐無稽などと言ったりしない。その表情は真剣だった。

「あとは、軽く室内を探して彼女の『自殺』を否定するような証拠を抹消するだけだ。もし殺害の際にトリック用の自身の携帯電話が外に落下せず部屋の中に落ちていたとしても、この時点で回収ができる。すべてが終わったらそのまま再び五一二号室から六一二号室に戻り、六階から玄関を堂々と出ればこの密室は完成する。これだけの作業でもせいぜい三十分前後だろう。ちょうど『友人』がマンションに入ってから出てくるまでの時間とほぼ同じだ。ちなみに言うと、あのマンションの部屋はドアのオートロックだったから、帰りはカードキーがなくてもただ出るだけで鍵を閉める事ができる。だからこそ、カードキーは被害者の部屋の机の上に置かれていた。密室をより強固なものにするために、な」

「でも、オートロックなら、帰りの五一二号室へ入れないんじゃないの?」

「そもそも犯人は五一二号室の中から出てきたんだ。ドアの間に石か何かでも挟んで完全に閉まらないようにしておけば、オートロックはかからない。それだけの話だ」

 榊原は一息つくと、はっきり宣言した。

「以上で、強固だったあのマンションの密室は完全に打ち破られた。最後に、犯人がわざわざなぜこの密室を作ったのかという密室形成の動機に関する問題を答えておこう。これに関しては、私は至極シンプルなものだったと考える。すなわち、被害者を自殺に見せかけるための工作、これがすべてだったというものだ。犯人の行動や絞殺という殺害方法は、明らかに被害者が自殺であるかのように見せかけるためとしか考えられない。現場は密室で、しかも死亡推定時刻前後にマンションに人の出入りがなかったとなれば、多少怪しい部分があっても警察は自殺判定をするはず。わざわざ自身が密室に入るのではなく被害者を密室から引きずり出すという前代未聞の密室突破法を採用したのも、この『死亡推定時刻に誰も出入りしなかった』という条件を成立させるためだったと考えれば、すべてに納得がいくというわけだ」

 そして、榊原は呆然としている声優たちに対し、いよいよ本題に踏み込んでいく。

「さて、以上の状況を踏まえると、この事件の犯人たる条件が明らかになってくる。まず、被害者自宅の窓に例の殺人装置を設置するには、事件前に必ず一度は彼女の自室に入っていなければならない。しかも、この罠をできるだけ気付かせないために、設置から実行までは比較的短い期間でなければならない。これに該当するチャンスは一度だけ。すなわち、事件の数日前に被害者がこの番組の声優陣を自室に招いたときだけだ。ここから、犯人がその時招かれた声優陣の中にいる事が確定する」

 全員の顔が緊張する。

「次に、犯人は午前四時半に被害者の遺体と共に警備員室の前を通り、そこで芝居をしている。そこから考えて犯人が声優、もしくはそれに類する訓練を受けた人間である可能性は非常に高いだろう。もちろん眼鏡やマスクで誤魔化してはいるが、少なくとも警備員が聞いた声や体形は女性だ。そうでなければ怪しまれてしまうし、何よりいくら声優でも男が若い女性の声を出すなど不可能だ。よって犯人は女性と考えるのが筋だ」

 榊原はじろりと声優たちを睨んだ。

「三つ目。さっきも言ったようにこの密室の目的はあくまで『被害者を自殺に見せかける事』だ。という事は、犯人自身のアリバイの事は今回の密室では一切考慮されていない。そもそも犯行時間が午前二時から三時である以上、本来大半の人間は寝ていてアリバイがないわけで、アリバイ工作そのものが無駄だ。そんな時間に犯行をやっている以上、犯人がアリバイを完全に捨てている事は明白と言えるだろう。いずれにせよ、犯人には少なくとも午前二時から遺体を運び込んでマンションを出た午前五時までのアリバイが存在しないと考えるべきだ」

 そこで榊原は断言する。

「つまり、今言った三つの条件すべてに該当している人間が犯人という事になる」

 その言葉に、全員の顔色が変わった。だが、榊原は淡々とした声で容赦なく彼女たちを追い詰めていく。

「まず、第一の条件に当てはまるのは夕凪哀、野鹿翠、海端香穂子、才原和歌美、福島恵梨香、それに私こと中木悠介の七名。しかし、犯人は女性でなければならないから、この時点で私こと中木悠介は犯人から除外される」

 榊原はまず依頼主である中木の嫌疑を晴らす。ホッとする中木を尻目に、榊原は言葉を続けた。

「また、三上友代は事件当夜のアリバイが不明確だが、被害者の部屋に訪れた記録が一切ない以上、例の罠を仕掛ける事ができない。ゆえに容疑者から除外できる。さらに、福島恵梨香も事件当時のアリバイはないが、問題の事件数日前の集まりの際に部屋に入ってから一度たりともリビングから出ていない事が複数の証言で確認されている。あの仕掛けをするには一度は寝室に行かなければならない。仕掛けるのは五分程度で済むとはいえ、全くリビングから出なかった人間にあの細工は不可能だ。よって彼女も除外される」

 友代と恵梨香がそれぞれ小さくため息をつく。一方、残された面々は緊張した表情を崩さない。榊原はさらに畳みかける。

「そして第三の条件、アリバイの一件から、事件当夜に被害者と別れた後で朝まで飲んでいたという海端香穂子と才原和歌美の二名が除外できる。そして、夕凪哀。彼女は石渡美津子と別れた後のアリバイが不明瞭だが、犯人としての心理面から不適格となる。なぜなら午前四時半に『石渡美津子』をマンションに送った人物……すなわち犯人は、マンションの来客記帳ノートに夕凪哀の本名を書くなど、明らかに夕凪哀に容疑が向くような行動をとっているからだ。さっきも言ったように犯人の目的は『被害者を自殺に見せかける事』で、これはすなわち『自身に容疑が一切及ばないようにする事』とも言い換えられる。そんな人間が、自身が容疑者になるような行動をするとは思えない。よって彼女も犯人とは考えにくい」

「ま、待って! それじゃあ……」

 その瞬間、全員の視線が、ある一人の人物に向けられた。そして、榊原はその人物をしっかり正面から見据えると、その名をはっきりと告げた。


「ジャンヌ・バイオレット……いや、野鹿翠!」


 その言葉に、真犯人……否、野鹿翠の肩が小さく震えた。そんな翠に、榊原はまるで宣戦布告するかのように言葉を叩きつける。

「あなたが北町奈々子、そして石渡美津子を殺害した、今回の殺人事件の真犯人だ!」

 榊原の告発に翠は一瞬怯えたような顔をした。が、すぐにその顔がキッと引き締まる。その瞳の奥に、榊原はわずかではあるが抑えきれない闇を見た気がした。どうやら、向こうも認める気はないらしい。

 名探偵対魔法少女……世紀の対決はここからが本番のようだった。

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