第三章 榊原の調査

 それから三十分ほどして、四人は蒲田駅の出口にその姿を見せていた。

「ひとまず、現場百回だ。まずはその自宅とやらを見せてもらいたいのだがね。聞いた話では、今も封鎖されたままだという事だが」

「あ、はい。事件の後、私たちは近所の大家さんのご厚意で近所のマンションに避難していて、家はずっと封鎖したままになっています」

「では、この駅からその自宅まで、いつも通っている通学路を通って案内してくれるかね?」

「は、はい」

 榊原に言われて、瑠衣子は彼らを道案内し始めた。駅から自宅までは寄り道しなければ住宅街の中を二十分ほどの道のりである。その道を歩きながら、榊原は瑠衣子に対して重ねて質問を繰り返していた。

「改めて聞くが、君は学校を出たところまでは記憶があるんだね?」

「はい。部活を終えて友達と一緒に学校の門を出て……その辺から記憶が曖昧になります」

「学校からここまでは電車に乗らないといけないはずだが、その辺は?」

「よく覚えていません。ただ、警察の話だと、私がいつも通りの電車に乗ったのは間違いないみたいなんです。学校の最寄りにある大崎駅とさっきいた蒲田駅の防犯カメラに、該当する時間に駅構内を歩いている私の姿が映っていたんだとか。あと、私の持っていた定期券の記録も、ちゃんとその時間帯に私が改札を出入りした事を証明しているそうです」

 そこに麻衣も口添えする。

「瑠衣子が学校を出て学校最寄りの大崎駅で電車に乗ったところまでは確かです。そこまでは私も一緒でしたから。大崎駅から先は乗る電車が違うのでわかりませんけど」

「その間に何かトラブル、もしくは記憶に残るような事は?」

「……なかったと思います。いつも通りの下校でした。その辺の話はちゃんと警察にもしたはずです」

「さすがにその辺は警察も事後確認をしているか。ちなみに、瑠衣子君が蒲田駅を出たのは定期券によれば何時くらいなんだね?」

「……わかりません。そこまで警察は教えてくれませんでした。ただ、いつも通りの電車に乗っていたんだったら、午後五時半頃に蒲田駅に着く電車だったと思います」

「ふむ……」

 榊原はその辺の情報をしっかり手帳に書き込んでいく。その姿が妙に様になっているのが瑠衣子は気になった。

「あの、榊原さんって、昔は刑事さんか何かだったんですか?」

「……どうしてそう思う?」

「いえ、ただ、何となく……」

 瑠衣子は曖昧に答えたが、榊原は小さく肩をすくめた。

「直観というのも馬鹿にできないな。……確かに、私はかつて警視庁刑事部捜査一課に所属する刑事だった。十年ほど前に色々あって警察を辞める事にはなったがね。その辺の話は瑞穂ちゃんにも話した事があるから、これ以上知りたいんだったら彼女の方から聞いてくれ。私はあまりこの話をしたくはない」

 思わず瑞穂の方を振り返ると、瑞穂も曖昧に笑うだけだった。どうやら何かわけありのようである。瑠衣子はそれ以上この件について聞くのはやめる事にした。

「事件の話に戻ろうか。表向き公表されている話によれば、事件は午後六時から六時半頃に起こった事になっている。順当に考えれば君が自宅に帰宅した直後だ。その後、午後七時頃に巡回中の警察官が自宅から三十メートルほど離れた路上で全身傷だらけで倒れていた君を発見し、病院へ搬送した」

「……そう聞いています」

「つまり、君の記憶に関して不確定なのは、学校を出た午後五時から警察官に発見される午後七時までの二時間という事になるわけだ。このうち、五時半までは少なくとも普段通りに電車に乗って無事に蒲田駅に到着した事がわかっている。もっとも、電車の中で何かあったというなら話は別だが、それは後で駅員にでも話を聞けばわかるだろう」

 そんな事を言いながら歩いているうちに、四人は通学路途中の住宅街の中にある小さな寺院の近くを通りかかった。その寺院の境内で小学校低学年くらいと思しき少年・少女たちが遊んでいるのが見え、そのうちの一人の少年がこちらに気付いたのか手を振っているのが見えた。

「知り合いかね?」

「いえ……多分、近所の子だと思いますけど」

 瑠衣子は曖昧にそんな答えを返す。そのうち一行は寺院の前を通り過ぎ、やがて人通りの少ない住宅街の道路へと入っていった。

「昼間でもこの人通りか。こうなると夕方から夜間にかけてほとんど人は通らないと見るべきだろうな」

 そう言いながらも、榊原の視線は油断なく周囲を観察している。それから十分ほどして、ついに一行は現場となった瑠衣子の自宅の前に到着した。

「ここ、か」

 榊原はジッと瑠衣子の家を見つめて何事か考えていたようだった。

「随分新しい家だね」

「はい。二年前にお父さんたちがローンを組んで建てた家です。それまではお父さんが単身赴任でいなかったから、マンションで私とお母さんの二人暮らしでした。二年前にお父さんが東京に帰って来て一緒に住めるようになって、それを機にこの家に引っ越したんです」

「普段、帰宅した後、君はどうする事が多かったのかね?」

「そうですね……普段はそのまま二階の自分の部屋へ行って、着替えたり宿題をしたりする事が多かったです。お母さんたちが仕事でいない日は、七時半頃に一階に下りて夜ご飯を作ったりしていました。あの日も、多分そうしたんだと思いますけど……」

 瑠衣子は自信なさげにそう言った。

「なるほどね……。一応聞くが、私たちが入っても構わないのかな?」

「あ、はい。事件自体は公にはもう解決しているので、警察も入っていいって言っていました。ただ……」

 そこまで言って瑠衣子は口ごもる。悪夢の元凶になっているこの家に入るのは、やはりまだ抵抗があるようだった。

「……わかった。なら、麻衣君と一緒にここで待っていてくれ。私と瑞穂ちゃんで中を調べてみる」

「お、お願いします」

 瑠衣子はそう言うのが精一杯のようだった。それを受けて、榊原と瑞穂が敷地内へと入っていく。

「すでに警察が捜査した後だが……一応、手袋はしておこう」

「はーい」

 榊原は持っていたアタッシュケースからビニールの手袋を取り出し、瑞穂にも同じように渡す。瑞穂も手慣れた様子でビニールの手袋をはめ、ついでに足カバーもして、二人は現場となった吉木宅に入っていった。

 家の中は、事件以来人が入っていなかった事もあってかどこか澱んだ空気が漂っていた。あらかじめ瑠衣子に確認して作成しておいた見取図を見ながら、榊原と瑞穂は玄関から中へと入っていく。

「そこの階段を上がった踊り場が、岸辺和則の遺体が見つかった場所だ。玄関前の廊下を奥に行ったところの突き当りにリビングとキッチン」

「どこから調べるんですか?」

「……今回の事件、構図自体は非常にシンプルだ。問題は、瑠衣子君の見る悪夢に登場する『逃げろ』と叫んだ幻の第三者の存在。当然ながら、警察の捜査でそんな人物の存在など浮かんでいない。従って、私たちの当面の目標は警察でさえ見つけられなかったその『第三者』の痕跡を探す事にある」

「聞いているだけでも難しそうなんですけど……」

「……そうだな、少し情報を整理してみようか」

 そう前置きして、榊原は瑞穂相手に情報の確認を試みる。

「彼女の『悪夢』の中では彼女が襲われているときに突然その声がして、その直後に目の前に岸辺の死体が転がっているという流れになっている。となれば、その声がしたのは彼女が岸辺から包丁を奪って刺す直前だが、問題は、その時第三者がこの場にいたとして、そいつが具体的にこの家のどこにいたのか、という事だ」

「岸辺が刺されたのは、二階の吉木さんの部屋の前の廊下、なんですよね」

 瑞穂が確認するように尋ね、榊原は頷く。

「あぁ。そこに岸辺の血痕が残っていたからその事実は動かない。警察の推察では、その後、岸辺は階段を転げ落ちながらも逃げようとする彼女に追いすがったが、踊り場に来たところで力尽きている」

「だったら、問題の瞬間、その第三者も二階にいたと考えるしかないんじゃないですか? 少なくとも一階からだと二階の様子はわからないわけですし」

 瑞穂は見取図を見ながら指摘する。

「確かにそう考えるのが一番自然ではあるが、ならば次の問題はそいつが二階のどこにいたのか、だ。二階には両親のそれぞれの私室と、両親共有の寝室。それに瑠衣子君自身の部屋の四部屋しかない」

「警察の見解だと、吉木さんは自分の部屋にいたところを勝手口からこの家に侵入していた岸辺に襲われたんですよね」

 瑞穂の問いに榊原は再度頷く。

「そうだ。そして、部屋から廊下に逃げたところで岸辺から包丁を奪って刺した……という事になっている。そうなるとまず考えなければならないのは、襲われた時点で実は彼女の自室に彼女自身が招き入れた誰かがいた……という可能性だ」

 その言葉に瑞穂は疑わしそうな表情を浮かべた。

「事件があった時、吉木さんが誰かを自室に招き入れていたって事ですか?」

「本人の記憶がない以上、その可能性を捨てる事はできない。もっともその場合、事件後になぜその人物が名乗り出なかったのかという部分が問題になるが」

 榊原は渋い表情を浮かべながらそんな事を言う。言っている本人もあまりこの可能性にピンと来ていないようだが、それでも瑞穂はあえて尋ねる。

「先生自身は、その可能性はあると思っているんですか?」

「……それを確認するために、こうしてこの家までやって来たわけなんだがね。ひとまず、いつまでも玄関にいるわけにもいかないし、二階に上がってみようか」

 そう言って二人は家の中に足を踏み入れて階段から二階へ上がる。途中の踊り場にはいまだに遺体が倒れていた場所に人型のテープが張られ、その辺りには未だに床に染み込んだ血痕がどす黒く残っていた。二人はその血痕を避けるように慎重に二階に上がり、二階の廊下を見渡す。瑠衣子の部屋がどこなのかはすぐにわかった。ドアに「RUIKO」と書かれたプレートがかかっていた上に、その部屋の前に踊り場同様にどす黒い血痕が残っていたからだ。榊原は彼女の部屋の前に立ち、ドアノブをひねってドアを開けた。

「ここが彼女の部屋、か」

 やはり犯人に襲撃された際に格闘があったらしく、室内は女の子の部屋にしては少し荒れた状態だった。部屋中がひっくり返っているというほどではなかったが、それでも小物や本が床に散乱しており、彼女が犯人にここで襲われたのは一目見れば明らかであった。

「どうですか?」

「……外れだな。この散らかった部屋の状況では、仮に第三者がこの部屋に最初からいた場合、脱出するのにそれなりの痕跡が残るはずだが……それらしいものはなさそうだ」

 榊原は部屋の様子を観察しながらそう結論付けた。

「つまり、吉木さん自身が誰かを招き入れていた可能性は低いって事ですか?」

「この部屋を見る限りではそうなるね。だが……だからと言って他の部屋に第三者がいたというのもナンセンスではある」

 榊原は残る三つの部屋のドアの方を睨みながら言う。瑞穂も同意するように頷いた。

「ですよねぇ……。それが本当なら、正体不明の第三者が吉木さんの両親の部屋に勝手に入っていた事になってしまいますし、正直それはあまりにも突飛すぎる考えだと思います」

「そうなると、その『第三者』の存在が根本から怪しくなってしまうが……瑠衣子君の『悪夢』がまるきり絵空事だとも思えないのが弱ったところでね」

 榊原がそんな事を言いながら小さく息をついている横で、瑞穂は現場を見ながら何やら考え込んでいる様子だった。

「あの……もう一ヶ所、その第三者がいたかもしれない場所があるんじゃないですか? 多分、先生は気づいていると思いますけど……」

「ほう、それはどこだね?」

 榊原の試すような言葉に、瑞穂は黙って階段の方を指さした。

「一階にいた誰かが、襲われる吉木さんの声か何かを聞いて階段を駆け上がって来て岸辺の犯行を目撃した……つまり、第三者が『階段』にいた可能性です」

「……まぁ、妥当な推理だね」

 榊原の評価に、瑞穂はホッとした表情を浮かべる。

「真面目な話をすれば、二階が否定された以上、第三者のいた場所と考えられるのはその階段しか考えられない。よって、ここから『問題の第三者は階段から部屋の前の廊下で襲われる瑠衣子君を目撃し、それに対して「逃げろ」と叫んだ』事が確定する。ただ、問題はそれが事実だとするなら、新たな問題が発生してしまうという事でね」

「問題、ですか?」

 首をかしげる瑞穂に、榊原は丁寧に説明する。

「この階段、幅はそれほど広くないから、一度に通れるのはせいぜい一人だけだ。だがそうなると、第三者がここにいた場合、二階にいる瑠衣子君が階段から逃げる事ができなくなってしまうという問題が生じる事となる。しかし、実際の彼女は外に飛び出して道路に倒れているところを発見された」

「あ、そっか」

 瑞穂が今気づいたと言わんばかりに声を上げる。が、榊原はさらにその先を続けた。

「それでも彼女が階段から脱出したとなれば、可能性は一つ。その第三者が、岸辺が瑠衣子君を襲っているのを見つけて階段から『逃げろ』と叫んだ後、その第三者が階段から移動したという場合だ。それなら階段は問題なく利用できる。ただし、階段からどこへ移動したのかという点で、さらに二通りの可能性が考えられるんだが……この点について瑞穂ちゃんはどう思うね?」

「え、そ、そうですね……」

 急に振られて瑞穂は必死に考え込む。

「えーっと、考えられるのは、『逃げろ』って叫んだ後で自分は一階に逆戻りして逃げた場合と、逆に『逃げろ』って叫んだ後でそのまま階段から二階に上がった場合、ですよね」

「正解だ。さて、そう考えた上で今まで推理してきた内容からその『第三者』の行動を検証するとこうなる」

 榊原は辺りを観察しながら推理を始めた。

「まず、事件当時その第三者がいたのは一階だ。それが誰で、何の目的で一階にいたのかはわからんが、とにかくその第三者は当初一階にいて、最初は二階で何が起こっているのか気付いていなかったんだと思う。ところが、瑠衣子君の悲鳴か何かで二階で何かが起こっているのに気づき、確かめるために階段を上ったところで、瑠衣子君の部屋の前で岸辺に襲われている彼女を発見。思わず『逃げろ』と叫んだ」

 そう言って、榊原はさらに続ける。

「問題は、この後この『第三者』がどんな行動をしたのかだ。それによって事件の構図が大きく変わる。例えばその『第三者』が『逃げろ』と叫んだ後で階段を駆け下りそのまま逃亡した場合、その直後瑠衣子君は岸辺から包丁を奪って突き刺し、踊り場で岸辺を振り切って外に逃走。路上で気を失ったという流れになる。ただこの場合、『第三者』は彼女に『逃げろ』と叫んでおきながら自分は彼女を見捨てて逃亡した事になり、なぜ彼女を助けなかったのかという疑問が生じる事になるがね」

「……その『第三者』がこの家にいた理由がよからぬ事だったとしたら、関わるのが嫌だから逃げだしても不思議じゃないですよね」

 瑞穂の意見に、榊原も頷く。

「それも考えなければならない話ではあるが……ひとまず今は可能性の検証を続けよう。さて、次に後者の『第三者』が『逃げろ』と叫んだ後で階段を駆け上がった場合だが、この場合『第三者』が階段を駆け上がったのはなぜだと思う?」

「なぜって……順当に考えたら吉木さんを助けるため、ですよね」

 瑞穂が慎重に言うと、榊原はあっさり頷いた。

「まぁ、そう考えるのが普通だろうね。だが、その割には事件の流れの中でその『第三者』が瑠衣子君を助けようとした痕跡が全く確認できない。最終的に岸辺から包丁を奪って返り討ちにしたのは『第三者』ではなく瑠衣子君である上に、仮にその『第三者』が瑠衣子君を助けようとした場合、当然岸辺はそれに反抗したはずだが、岸辺が『第三者』に反抗した痕跡が一切確認できないというのは奇妙だ。そして最大の問題は、彼女を助けようとしたその『第三者』が、通報する事もなく事件後に現場から姿を消してしまっているという点に尽きる。まるで最初からそんな『第三者』など存在していなかったかのようだ」

「確かに……そう考えると、どう考えても『第三者』の行動には不可解な点があるんですね」

 瑞穂は考え込む。

「ひとまず、他の場所も調べておこうか」

 榊原はそう言って踵を返し、再び一階に下りると今度はリビングの方へ足を向けた。中はかなり薄暗く、しばらく出入りがないせいか机の上にうっすらと埃がかぶっているのが見える。

「確か、岸辺はそっちのキッチンの勝手口から侵入したんですよね?」

「警察の報告書ではそうなっているようだ」

 そう言って、榊原はリビングの中を通ってキッチンの方を覗き込んだ。冷蔵庫や食器棚が並び、流し台には事件以来洗われないまま放置された状態の食器類。その他調味料や、お歳暮か何かでもらったと思しきお菓子類の入った箱などが棚などにいくつか置かれているのが散見された。そして、部屋の一番隅に裏へ通じる勝手口があり、その勝手口のガラス窓の隅が割れているのがここからでも確認できた。

「先生、どうですか?」

「……まぁ、第三者の正体の決め手になるようなものはなさそうだね。とりあえず、もうしばらく調べてから、一度外へ出ようか」

「はーい」

 それからしばらく、榊原と瑞穂は家の中を調べる事となったのだが、結局大した収穫がないままいたずらに時間が過ぎていくだけになってしまったのだった……。


 時刻は午後五時頃。榊原たちが一通り中を調べ終えて吉木宅を出ると、瑠衣子と麻衣が心配そうに駆けよって来た。

「あの……どうでしたか? 何かわかりましたか?」

 もどかしそうに尋ねる瑠衣子に対し、榊原は冷静さを崩さずに答えた。

「まぁ、そう焦らずに。今の段階では、軽く現場の確認をしただけだ。推理はこれから突き詰めていく」

「そう、ですか……」

 何となく歯切れが悪い瑠衣子の言葉に、榊原は苦笑気味に答える。

「私だって万能じゃない。推理小説の探偵みたいに何でもすぐに解決、というわけにはいかない。推理するにはある程度の情報収集が大切でね」

「あ、いえ、その……急かしたみたいで、すみません……」

 瑠衣子は顔を赤くしながら頭を下げた。

「とにかく、今日できる事はやった。もう時間も遅いし、ひとまず今日はこれで解散にしよう。何かわかったら連絡するから、それまで待っていてくれないかね。心配せずとも、この調子だったらそこまで時間はかからないと思うが……」

 榊原の提案に、瑠衣子と麻衣は不安そうに瑞穂の方を見やる。それに対し、瑞穂は二人を安心させるように笑って言った。

「大丈夫、先生は約束を守る人だから、最後はちゃんと真相を明らかにしてくれるよ。その点は私がちゃんと保証するから安心して」

「瑞穂ちゃんに保証されるというのも何とも言えない話だが……まぁ、そういう事だ」

「はぁ」

 そう言われて少し戸惑い気味だった二人だが、時間が遅くなっているのは事実でもあるので、結局その場は納得して榊原たちに一礼すると帰っていった。後には榊原と瑞穂だけが残される。

「それで先生、これからどうしますか? 事務所に帰って事件の整理でもしますか?」

「それでもかまわないが……その前に一つ片づけておかなければならない事があってね」

 瑞穂の問いにそう答えると、榊原はどこぞへ向かって突然こう呼びかけた。

「いるのはわかっています。瑠衣子君たちも帰った事ですし、隠れていないで出てきたらどうですか?」

 その言葉にしばしその場に沈黙が漂ったが、やがて吉木宅から少し行ったところにある道路の曲がり角から、一人の人影が姿を見せて榊原たちの方へ歩いて来た。それは、パンツスーツを着たどこかインテリめいた若い女性だった。

「なぜ私がいるとわかったんですか?」

 女性は表向き表情を崩さないまま榊原に尋ねる。一方の榊原も普段通りの口調で答えた。

「これでも一応元刑事ですからね。警察を辞めた身とはいえ、自分を尾行してくる人間の気配くらいは今でもわかりますよ」

 そう答えてから、榊原はその女性を見据える。

「ひとまず、自己紹介でもしてもらえるとありがたいのですがね。もっともあなたの名前はわかりませんが、さっきの尾行のやり方を見ればあなたがどんな立場の人間なのかはおおむね予想がついているつもりですが」

「……さすがですね」

 そう言ってから、彼女はポケットから警察手帳を出して榊原に示した。

「警視庁刑事部捜査一課第五係主任警部補の品野彩芽です。この吉木宅で起こった岸辺和則の事件を担当していました。榊原さんの事は先輩刑事からよく聞いています。『かつては』優秀な刑事だったそうですね」

 女性……彩芽は少し皮肉めいた口調でそう言ったが、榊原は気にも留めていないようだった。

「第五係というと、岡田警部の班ですか。私についてどんな噂がなされているか気になりますが、それはいずれ聞くという事で今はおいておきましょう。それよりも、その若さで警部補という事は、キャリアか準キャリアと言ったところですかね?」

「ご想像にお任せします」

 ニコリともせずに彩芽がそう言うのを聞くと、冷静な表情のまま榊原の視線が鋭くなった。

「まぁ、いいでしょう。さて、世間話はこの辺にして、本題に入りましょうか。まどろっこしいのは嫌いなので単刀直入にお尋ねしますが……本庁捜査一課の主任警部補がなぜこんなところにいるんでしょうか? 捜査一課も忙しいはずなのに、公には終わった事件の現場にいるというのはいささか不思議な話です」

 その問いに対し、彩芽は真面目な表情のままこんな事を言った。

「では、こちらも単刀直入に言います。……榊原さん、この事件から手を引いてもらえませんか?」

 その場に一瞬緊張が走る。が、榊原はあくまで冷静に応じた。

「ほう……理由をお聞きしても?」

「そもそも、元刑事とはいえ一般人の榊原さんが殺人事件を捜査すること自体、私にとっては納得できません。先輩たちや上の方々はあなたの事を信用しているようですけど、一般人に捜査を任せるなんてどうかしています」

 はっきりそんな事を言われて、瑞穂は思わず彩芽に食って掛かろうとしたが、当の榊原がそれを押しとどめてあくまで静かに答える。

「それを言われると弱いんですがね。……ただ、今回は事件関係者である瑠衣子さん本人の依頼で動いていますし、この家の調査も瑠衣子さんの許可を得て行っています。いくら警察でも、それを全否定する権利はないと思いますがね」

「だったら私からもあなたに依頼をします。彼女の……吉木瑠衣子の依頼をキャンセルしてください。必要なら依頼料もお支払いしますから」

 さすがに榊原も目を細める。

「お言葉ですが、それは依頼の範疇を超えていますよ。私にだって探偵としての信念がありますから、すでになされた他人の依頼を叩き潰すような依頼は探偵として受け付けられませんね」

「自分の信用が大切って事ですか?」

「信用問題云々以前の話として、私は一度受けた依頼はどんな事があっても必ず真相を明らかにすると心に決めているものでしてね。一度関わった事件は絶対に投げ出さない……それが探偵として最低限守るべき事だと私は考えています。もっとも、私がそんな人間だという事は、それこそ岡田さん辺りからあなたも聞いているはずですが」

 両者の視線の間に火花が散る。だが、さらに何か言おうとする彩芽の言葉を遮るようにして切り返したのは榊原の方だった。

「むしろ、そこまでして私がこの事件に介入するのを阻止しようとしているのを見ると、逆に勘繰りたくなってきます。一人で我々を尾行していた事といい、私がこの事件を調べると何かまずい事でもあるんですか?」

 思わぬ反撃に、彩芽の言葉が詰まった。そこにさらに榊原は追い打ちをかける。

「そもそも、これは五係の責任者である岡田警部が承認した上での行動なのですか? 岡田警部本人に確認すればすぐにわかる事ですが……」

「待ってください!」

 彩芽が思わず叫んだ。榊原はそれを無表情のまま黙って聞いている。

「……どうやら、その様子ではこの件はあなたの単独行動のようですね」

「……」

「もう一度聞きます。なぜあなたは我々を尾行したり、私がこの事件に介入する事をやめさせようとしたりしたんですか?」

 今やこの場の主導権は完全に榊原が握っていた。やがて、俯いていた彩芽が絞り出すような声で榊原に言った。

「じゃあ、はっきり言いますけどね……私、あなたの事が大嫌いなんです!」

 そう言われて、さすがの榊原も眉をひそめた。

「これは……随分な言い方ですね。私の記憶が正しければ、私とあなたは初対面だったはずですが」

「記憶も何も間違いなく初対面です。それは私が保証します」

「なら、私が初対面の女刑事に嫌われているというのはどういう事なんでしょうか。説明してもらえるとありがたいんですがね」

 あくまで冷静に答えるその言葉に、彩芽は顔を真っ赤にして吐き捨てるように言った。

「これだから探偵ってやつは……」

「……その言い草だと、私というより探偵そのものに何か恨みでもあるようですが」

「……えぇ、そうですよ! 私は、あなたみたいなインチキ探偵をこの世からなくすために警察官になったんです」

 彩芽はそう言うと、吐き捨てるように言葉を続けた。

「私の小さい頃、私の家族は一人の探偵のせいでボロボロになりました。そいつは誰に依頼されたのかはわかりませんがいきなり私の家族の事を調べ上げた上で両親の元に現れ、父は母に、母は父に、それぞれの自分の秘密を暴露されたくなかったら金を払えと脅迫してきたんです。父と母はそれぞれに秘密がばれないようにお金を払い続け……そしてその探偵はこれ以上脅迫できないと踏んだ時点であっさりそれぞれに秘密を明かして消えました。それからの私の家族は滅茶苦茶です。互いに互いの秘密を知らされた両親は毎日のように喧嘩をするようになって、ついに大喧嘩の末に離婚。私は母方の祖母のうちに預けられる事になってしまいました。たった一人の探偵のせいで、あれだけ仲の良かった家族が憎み合うようになってしまったんです! だから……だから私は探偵なんて人種がこの世から消えてなくなればいいと、そう思って警察官になったんです! 人の弱みに付け込む、そんな探偵をこの世から一掃するために!」

「……随分ですね」

 悪意に満ちた彼女の発言に対する榊原の答えは短かった。

「あなたのその境遇には同情します。ですが、だからと言ってそのインチキ探偵とやらと同一視されるのはいささか不愉快です。少なくとも、全ての探偵がインチキだというのは単なる偏見に過ぎませんし、ましてや私がそのインチキ探偵と同じと思われるのは迷惑以外の何物でもありません」

「口ではどうとでも言えるじゃないですか。あなたがインチキ探偵じゃない証拠なんかどこにもないくせに」

「……そもそも、あなたはいつから私や瑠衣子君の事を尾行していたんですか?」

 その問いに、彩芽は怒りを押し殺すような声で答えた。

「今日は別の事件の捜査で品川の辺りをうろついていたんです。そしたら、その途中で雑踏の中に瑠衣子さんを見つけて……。二週間前、事件で入院していた彼女に何が起こったのかを説明したのはこの私なんです。正当防衛とはいえ自分が人を殺したかもしれないと知って、彼女は心に深い傷を負いました。だから、彼女の様子が気になったんですが、まさかよりにもよって探偵のあなたに依頼をするなんて……。あの子があなたと一緒に喫茶店に入っていくのを見て、私は怒りさえ覚えました。ただでさえ心に傷を負った彼女が、探偵なんかのせいでこれ以上傷つくのを私は見たくなかったんです。だから、岡田警部には腹痛で早退すると嘘の連絡を入れて、喫茶店を出たあなたたちを尾行しました」

「なるほど、ね」

「あなたは……彼女がかわいそうだと思わないんですか?」

「彼女、というのは?」

「吉木瑠衣子さんです!」

 最後は叫ぶような声だった。が、榊原は動じることなく彩芽に先を促す。

「彼女は今回の事件で大きく傷つきました。そんな彼女をさらに苦しめるような事をして、あなたに何のメリットがあるというんですか!」

「言葉を返すようですが、それを覚悟で私に依頼をしたのは彼女……吉木瑠衣子自身です。私は依頼の際に、私が暴いた『真実』が彼女を苦しめる事になるかもしれないと念押し、彼女自身がそれに同意した上で依頼を受けています。あなたは彼女が傷ついたと一方的に判断していますが、勝手に『かわいそう』と決めつけて、彼女自身の意思を全く考えていないのはあなたの方なのではないですか?」

「何ですって……」

 彩芽はそう言って榊原を睨みつけ、榊原はそれを静かに受け止める。二人はしばらくその場で睨み合っていたが、やがて榊原が小さく首を振ってこう尋ねた。

「まぁ、その話はひとまず置いておきましょう。瑠衣子君本人がいない場でどれだけ言い合いをしても水掛け論にしかなりませんから。それで、これからあなたはどうするつもりですか? 何の容疑かはわかりませんが、私を逮捕でもしますかね?」

 榊原は彩芽の言葉を全て受け止めた上で、挑むように問いかけた。それに対し、彩芽は唇を噛み締めながら言う。

「それができるならとっくにそうしています。……残念ながら不可能のようですけど」

「賢明ですね。ここで無理やりにでも私を逮捕しようとしたら、あなたの警察官としての資質そのものが疑われるところです。私が言うまでもありませんが、警察官が私情で逮捕に走るなど言語道断ですよ」

「そんな事はわかっています」

 そう言いながらも彩芽は榊原を憎悪の目で睨みつけている。

「だったらどうするつもりですか?」

「……これからあなたの『調査』とやらに私も同行させてもらいます」

 思わぬ言葉に榊原は眉をひそめる。

「理由を説明してもらっても?」

「あなたを監視するためです。あなたが『調査』の名を借りて何かしでかした瞬間、すぐに逮捕できるように」

「そこまで私が信用できませんか」

「むしろ、先輩たちがあそこまであなたを信頼していることが信じられないくらいです。正直、私には理解できません。十年前に捜査で大失敗して刑事を辞めたあなたが……」

「刑事さん!」

 と、そこで瑞穂が大声で叫び、彩芽の言葉を遮った。彩芽がハッとしたように瑞穂の方を見やると、瑞穂は堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりにキッと彩芽を睨みつけていた。

「いくら刑事さんでも、言っていい事と悪い事があります! 何も知らない刑事さんが……先生の過去を批判する権利なんかないはずです!」

「……」

 彩芽は黙り込む。さすがに言い過ぎたと自覚したらしい。

「……ごめんなさい。今のはさすがに私の言いすぎでした。でも、あなたも何か理由があってその人と一緒にいるなら、私に相談してくれれば……」

「先生は私の恩人です。私は、私の意思で先生と一緒にいるんです! 私を勝手に先生の『被害者』にしないでください!」

 そう言ってなおも何か言おうとする瑞穂を、榊原がやんわりと抑え込んだ。

「そこまでだ」

「でも、先生……」

「私は気にしていない。十年前に捜査を失敗して刑事を辞めたのは事実だからね。彼女が私の事を不審に思うのもよくわかる話だ」

 そう言ってから、榊原は彼女を真正面から見据えて告げた。

「いいでしょう。今回の依頼が終わるまでなら、あなたの気がすむまで私についてきてもらっても構いません。ただし、条件があります」

「何ですか?」

「私の調査のやり方に口を挟まないでいただきましょう。探偵として、私には私なりの調査のやり方があります。それを邪魔されるのは不本意ですし、邪魔された事で調査が遠回りになる可能性もあります。もちろん、私の調査を見てあなたが私を逮捕できると思ったのなら、話は別ですが」

「……条件はそれだけですか?」

「あと二つ。一つは、この事件について警察が持っている情報を、教えられる限りでいいので必要に応じて教えてもらいたいという事。まぁ、話してくれないというならそれはそれで所轄署に行って資料を調べるだけですが、手間はできるだけ省きたいので。もう一つは、この依頼に対する私の調査を見て、その調査に納得できたというなら、二度と私に付きまとったり妨害したりするのはやめてもらいたい。私もそこまで寛容ではありませんのでね」

「……いいでしょう。その条件で構いません」

 彩芽が頷くと、榊原は不意に踵を返した。

「ならば、行きましょう。予想外に時間を無駄にしてしまいました」

「どこに行くつもりですか?」

 未だに不審そうな表情の彩芽の問いに、榊原は歩きながら短く答えた。

「すぐそこです。ちょっと確認したい事がありましてね」

 その言葉に、瑞穂は慌てて後を追い、彩芽もジッと二人を睨みながらそれに続いたのだった。

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