第二章 記憶の欠落

 ……暗闇の中、誰かが自分を襲っている。暗闇の中でも鈍く光る刃物が自分目掛けて振り下ろされ、そのたびに鋭い痛みが体中に走る。

 相手の顔は暗くて見えないが、それが自分を襲ったというあの殺人鬼である事は頭の中でぼんやりと理解できている。だが、どうする事もできない。逃げる事さえできないまま、相手の襲撃に耐えるしかない自分がいる。

 だが、気が付くとその襲撃はやんでいて、周囲は音一つない静けさに包まれている。反射的に少しでもその場を離れようとする自分に対し、暗闇の向こうから突然叫び声が聞こえる。


『逃げろっ!』


 ……気が付くと、自分は血まみれの包丁を右手に握っていて、そしてそんな自分の目の前に、あのつなぎ姿の殺人鬼が腹から血を出してうずくまるように転がっている。それを見て、急になくなっていたはずの恐怖心が蘇り、思わず彼女は叫ぶのである。


『キャアアァァァァァァァァッ!』



「……しなさいっ! しっかりしなさい!」

 自分を揺さぶりながら必死になってそう叫ぶ続ける母の姿を見て、瑠衣子の意識は覚醒する。そして、自分がベッドの上で、悪夢を見ながら無意識にのたうち回っていたという事実を知る。シーツや掛布団は乱雑に散らかり、彼女自身のパジャマや髪も乱れてしまっている。

 だが、そんな自分の惨状も、目の前で自分を抱きしめながら嗚咽を漏らす母親を見ると何も言えなくなってしまう。瑠衣子はどこかボンヤリとしながらも、思わず母親の背に手をやって謝る事しかできなかった。

「ごめん……なさい……」

「謝らなくていいの! あなたは何も悪くないの! 悪いのは……悪いのはあの……」

 そう言ってなおも嗚咽を漏らす母親に、瑠衣子はもう何も言えなかった。何しろ、自分が背負ってしまった「罪」に対する「贖罪」としか思えないこの悪夢は、事件が終結してから今なお瑠衣子を苦しめ続け……そしておそらく、今後も永遠に彼女を苦しめ続けるのだから。

「……」

 瑠衣子は思わず無言でカレンダーを見やっていた。六月二十三日月曜日。あの日から……たとえ正当防衛で法的に罪に問われずとも、彼女が人の命を奪うという「罪」を犯したその日から、早くも二週間という日時が経過していた……。


 あれから二週間、瑠衣子は未だに学校に行く事ができず、自室に閉じこもる日々が続いていた。もちろん事件の起こった家に戻る事などできず、吉木家は現在近くにあるマンションの一室を知り合いでもあった大家の好意で借りている状態である。一方、事件の際に全身に受けた切り傷のほとんども大半がすでに完治し、医者の話では目立った傷は残らないだろうという事であった。だが、体の傷は治っても、心の傷まではそう簡単には治らないものであった。

 自分が人を殺したというその事実は、まだ若い彼女の心に重い影を残してしまっていた。何より辛いのは、その事実を彼女自身が全く覚えておらず、何の身に覚えもない状態でいきなり「人を殺した」とされてしまった事である。なので、自分が果たして自己防衛のために無意識に相手を刺したのか、あるいは故意を持って人を殺したのかさえ自分でもまったく判断がつかない。以来、彼女は毎晩のように覚えていないはずのあの事件の悪夢に苦しめられる事となり、精神的にすっかり憔悴しきってしまっていた。

 母が泣きながら部屋を出て行った後、散らかったシーツや掛布団を緩慢な動きで片付けながら、瑠衣子はすっかり痩せこけた今の自分の姿を姿見でぼんやりと眺めていた。あの日……部活を終えてあの家に帰るあの時まで、一寸先にまさかこんな運命が待ち構えているなどと思ってもみなかった。クラスの同級生からの見舞いの手紙などは来ているが、何しろまだ入学して二ヶ月しか経っていない間柄でもあってか「私の事なんか何も知らないくせに」などというひねくれた考えが浮かんでしまい、そう考えてしまう自分がますます嫌になるという悪循環につながる始末であった。

 自分はもう、何の悩みもなく笑っていたあの頃には永遠に戻れないかもしれない。そんな事さえ考えるようになっていたこの日、その来客は何の前触れもなく訪れた。

「瑠衣子、陸上部の先輩よ。福浦さんって方」

「え……」

 母のその言葉を聞いて、瑠衣子の心臓が大きく跳ねた。直後、誰かが母に挨拶する声が聞こえ、やがてその姿が瑠衣子の部屋の前に現れた。

「や、久しぶりね。ちょっと痩せたかな」

 そう言って顔を出してくれたのは、瑠衣子が所属する立山高校女子陸上部二年の福浦麻衣ふくうらまいという少女だった。

「せ、先輩、私……」

「ごめん、お見舞いに来るのが遅れちゃって。都の大会があってなかなか抜けられなくて。瑠衣子へのお見舞いで練習をさぼって負けたなんて事になったら逆にあなたに申し訳がなかったから、心を鬼にして大会が終わるまではそっちに集中しようって事にしたの。その代り、大会はちゃんと二位になったから安心して」

 麻衣は瑠衣子にとってあこがれの先輩だった。中学時代に数々の賞を獲得し、どういう理由からか特に実績のない立山高校に入学したにもかかわらず、そのハンデを乗り越えて一年から都の上位メンバーに並ぶという快挙を成し遂げた人物でもある。何を隠そう、瑠衣子が立山高校を選んだのも、麻衣と同じ学校に通いたいという想いがあったからだった。あんな事件がなければ、瑠衣子もちゃんと麻衣の応援に行けたはずだったのだ。

「先輩……」

「事情は知ってる。その……学校中で噂になってるから」

 少し言いづらそうに言った麻衣の言葉に、瑠衣子の顔が少しこわばる。だが、それに対して麻衣は肩をすくめながらこう言い添えた。

「でも、瑠衣子の事を変に思っている人、そんなにいないよ。何て言うか……『そういうのはもう去年の事件でお腹一杯だ』って」

「え?」

 予想の斜め上の事を言われて、瑠衣子は悲しくなる前に素で呆気にとられてしまった。

「あー、一年生は知らないかなぁ。去年、うちの高校でちょっととんでもない殺人事件があってね。一人どころか十人も殺した大量殺人鬼がうちの生徒の中にいた事がわかって、ちょっと大騒ぎになったのよ」

「い、いいえ。その事件ならさすがに知っていますけど……」

 確かあれはちょうど一年前だった。立山高校の部室棟で同時刻に四人の人間が同時に殺害されるという不可能状況で起こった前代未聞の同時多発殺人事件……全国区の大ニュースになったあの事件のせいで今年の立山高校は定員割れ寸前までいったらしいが、入試担当職員の踏ん張りの賜物なのか在校生たちの必死の学校アピールが成功したのか、何とか補充募集無しで定員越えを達成したと聞いている。ちなみに瑠衣子は麻衣の事で頭がいっぱいで、その事件による悪評なんか知ったこっちゃないという感じで受験をした口だった。

「だから、こう言ったら何だけど。良くも悪くも今さらこの程度の事で動じる生徒はいないわよ。むしろ、みんな心配してる」

 少し真面目なトーンになって、麻衣が瑠衣子を見つめながら言う。瑠衣子も、今までの会話は麻衣が瑠衣子の緊張をほぐすための前振りだった事にはちゃんと気付いていた。麻衣はあぁ言ってくれたが、実際はやっぱりそれなりに瑠衣子に対する冷たい風当たりもあるはずである。

「わかっています。このままじゃいけないって。でも……私……自分をまだ許せていないんです……」

「……人を殺した、から?」

 真剣な表情で問われて、瑠衣子は深く頷いた。

「でも、それは正当防衛だって話よね。あなたは何も……」

「それでも……私は人を殺したんです。そして……それを思い出す事もできない。自分のやった罪を都合よく忘れてしまった……私は、それが許せないんです……」

「瑠衣子……」

「私……毎日覚えていないはずのあの夜の悪夢を見るんです。まるで……私がすべてを忘れて、先に行く事を許さないみたいに……。私は……法律が許しても、私自身が心の中ですべてを忘れて先に進もうとする私を許していないんです」

 麻衣は何も言えないでいる。

「私……もう駄目です。せっかく、先輩にあこがれてこの高校に入ったのに……私……私」

「わかった」

 そう言うと、麻衣は瑠衣子を抱きしめた。そして、瑠衣子が彼女の肩で嗚咽を漏らしていると、麻衣は急にこう問いかけてきた。

「瑠衣子の気持ちはよくわかった。その上で厳しい事を聞くけど、瑠衣子はこれからどうしたいの?」

「どう……ですか?」

「今聞いた話だと、瑠衣子は自分がやった事が思い出せない事を許せずにいる。もし、瑠衣子の記憶を取り戻す事で瑠衣子が救われるっていうなら……」

 そこで、麻衣は瑠衣子の目をしっかり見ながら、こう続けたのだった。

「私は、瑠衣子の力になれるかもしれない」


 それから一時間後、二人は蒲田から品川駅の前にやってきていた。あの日以来、久々に着る制服は何となくぎこちない。もちろん、ズタズタになったあの日の制服ではないが、それでもあの日の恐怖が背筋を這って、いい気分ではなかった。

「あの……どこへ行くんですか?」

「ここで待ち合わせ。おかしいなぁ、ちゃんと連絡したはずなんだけど」

 麻衣が首をひねっていると、急に人ごみの向こうから声が聞こえた。

「おーい、こっち、こっち!」

 そちらを見ると、瑠衣子たちと同じ立山高校のセーラー服を着たショートカットの少女がこちらへ走ってくるところだった。スカーフの色は二年生の物なのでおそらく麻衣と同学年……つまり、瑠衣子の先輩にあたる生徒だろう。というか、その顔を瑠衣子はよく知っていた。

「もしかして……深町瑞穂ふかまちみずほ先輩ですか?」

 その問いかけに、駆け寄って来た少女……瑞穂は不思議そうな表情を浮かべた。

「あれ? 会ったことあったっけ?」

「いえ、直接には。でも、中学校の時に記録会で何度かお目にかかった事が……」

 あれは確か二年ほど前。当時中学二年生だった瑠衣子が記録会でよく一緒になったのが、同じ頃に波ノ内中学校陸上部にいたこの深町瑞穂という三年生だったのである。似たようなタイムがよく出たので……それはつまり、双方ともに可もなく不可もない平凡な記録だったという事になるのだが……当時の瑠衣子はいつの間にか彼女を意識するようになっていたのだが、どうやら彼女の方はそんな事はなかったらしい。

「あー、そういえば、確かに中学校の時に記録会でやたら出会う子がいたような……」

 その指摘をされて、瑞穂は少し考えながらそんな答え方をした。だが、それ以前に瑠衣子には聞きたい事があった。

「というより、深町先輩も立山高校だったんですか?」

「うん、そうだよ」

「でも、女子陸上部じゃ……」

 その問いに対し瑞穂は手をひらひらさせながら答える。

「えーっと……実は私、陸上はもう高校に入った時点で辞めたんだ。今は別の文化系クラブの部長をしてるの」

「そ、そうだったんですか? ちなみに何部の……」

「『殺人部』よ」

 隣で麻衣がボソッと呟き、瑠衣子はギョッとする。が、瑞穂はにっこり笑ってそれを訂正した。

「あのね、麻衣。冗談のつもりかもしれないけど、私はそう呼ばれるのは嫌なんだから」

「でも、そう呼ばれてるのは事実よね。女子バスケ部のさつきなんかしょっちゅうふざけてそう言ってるけど」

「まぁ、ね。一応、ミステリー研究会……『ミス研』の部長をしています。よろしくね」

 そこまで言われて、瑠衣子はそれに思い当たった。

「ミステリー研究会って……もしかして、去年の事件の時に、部室棟での四人同時殺人事件の舞台になったあの悪名高い部活……」

「『悪名高い』はひどいけど……ま、否定できないかな。実際、あの事件ではうちの部から被害者も犯人も出たわけだし。結局、事件の後で部員が私一人だけになっちゃって、それから今までずっとこうして部長をしてるってわけ。まぁ、今年になって無事に新入部員が入ってくれたから、何とか廃部は免れたんだけどね」

 瑞穂は何でもない風に言うが、瑠衣子からすればとんでもない話だった。同時に、なぜ麻衣が自分に瑞穂を紹介したのかがわからなくなった。

「あの、先輩。それでどうして私を深町先輩に?」

 すると、それに対して麻衣はこう答えた。

「違うわよ。瑞穂はただの仲介。目的は瑞穂というより、彼女の『お師匠様』かな」

「お、お師匠様、ですか」

 思わぬ言葉に思わず瑞穂を見やるが、瑞穂も瑞穂でこう答える。

「うん、私の先生。ミス研の名誉顧問って事になるのかな。まぁ、簡単に言うと……」

 次の瞬間、瑞穂はとんでもない事を言い始めた。

「一年前に立山高校のあの同時多発殺人をたった一人で解決に導いた『名探偵』ってところかな」

「め、名探偵?」

 小説でしか聞かないような言葉に瑠衣子は目を丸くしたが、二人とも大真面目のようである。

「まぁ、百聞は一見に如かずっていうし、ここに来るように私から連絡しておいたんだけど……。あ、来た、来た! おーい、先生!」

 その言葉に、品川駅に続く人込みを見やると、道路の向こうから一人の男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。年齢は四十前後で痩身。くたびれたスーツにネクタイを締め、黒のアタッシュケースをぶら下げたその姿はどこか哀愁漂う窓際部署の中年サラリーマンそのものに見えなくもない。だが、瑠衣子はそのどこか疲れた風貌の中に何か得体の知れない油断ならないものが包まれているような気配を思わず感じ取り、反射的に半歩下がってしまった。

「やれやれ、やっと見つけた。これだからあまり駅前には出て来たくないんだがね」

 だが、その気配もすぐになくなり、男は瑞穂たちの所に近づいてくる。

「先生、五分遅刻ですよ」

「道が少し混んでいたんだ。この程度は許容範囲だろう」

「またそんな事言って……」

「まぁ、それより……彼女かね?」

 そう言って瑠衣子を見た瞬間、一瞬、何か鋭いもので貫かれたかのような感覚を瑠衣子は感じた。が、すぐにそれも消え、慌てて男を見返すと彼は温和な表情でこちらを見つめている。

「どうも。品川で私立探偵事務所を経営している榊原恵一さかきばらけいいちです。以後、お見知りおきを」

「あ、はい。あの……吉木瑠衣子です」

 瑠衣子はそう言って頭を下げた。

「瑠衣子君、ね。さて、瑞穂ちゃんの話だと、何か私に話したい事があるという事だが……それで構わないかね?」

「え、あの……」

 思わぬ話に一瞬戸惑うが、隣の麻衣が前に出て頭を下げた。

「あの、私が無理を言って彼女を連れてきたんです。とにかく、一度話を聞いてあげてください」

 そう言われて、榊原は苦笑気味に答えた。

「そんな事だろうとは思った。……まぁ、別に構わんがね。ひとまず、ここでは何だし、どこか落ち着ける場所に行こうか」

 そう言われて、一行は移動を開始したのだった。


「……なるほど、ね。君は二週間前のあの蒲田の事件の……」

 それから三十分後、品川駅近くの静かな喫茶店の一角で、事情を聴いた榊原は腕組みをしながら静かにそう頷いていた。

「事件の事、ご存知でしたか?」

「まぁ、ね。探偵として、新聞に載っているような事件は常に内容を把握できるようにしているつもりだ。だから、事件の概ねの内容についてはニュースで流れている程度ならちゃんと理解しているつもりだよ」

 そう言ってから、榊原は姿勢を正す。

「事情は大体把握した。……問題は、それを踏まえた上で私に何を頼むつもりなのか、という事だ。こう言っては何だが、事件自体は非常にシンプルで、すでに警察が結論を出している案件だ。私が探偵としてできる事にも限りがある」

 榊原はそう問いながら正面に座る瑠衣子の方をジッと見やる。が、これには隣に座っていた麻衣が答えた。

「あの! お願いしたいのは、瑠衣子の消えた記憶を探る手伝いをしてほしいという事なんです」

「……ほう?」

 榊原が興味深げな表情を浮かべてそう呟いたのを聞き、麻衣の後を瑠衣子本人が続けた。

「私は……当時の記憶が全くないにもかかわらず人を殺した罪を背負っていかなければならない事で苦しんでいます。もちろん、私が正当防衛とはいえ人を殺してしまった事は事実です。私は別に、今さら『私が殺していない事を証明してくれ』なんて無茶を言うつもりはありません」

 その後も、瑠衣子は必死に言葉を選びながら目の前に榊原に訴えた。

「人を殺した事に対する罪の苦しみそのものを他人にどうにかしてもらう事はできない。それはよくわかっています。私は人を殺した罪を、一生かけて償っていかないといけない。でも、自分の罪と向き合って先に進むには……記憶がないままじゃ駄目なんです! 私は……あの時何があったのか、その本当の事を知らなきゃいけない。そうじゃないと……私は永遠に覚えのない悪夢で苦しんで、一生前に進む事ができない。……そう思ったんです」

「だから……私にその消えた記憶とやらを探る手助けをしてほしい、と?」

 榊原の静かな問いかけに、瑠衣子は小さく頷いた。

「それは、私一人ではどうしてもできない事です。だから……お願いします」

 瑠衣子は頭を下げた。榊原は何かを思案し、その隣では瑞穂が少し心配そうな表情を浮かべている。

「ふむ……。まぁ、そういう事なら別に依頼を受けても構わないのだがね。ただ、そうなると君には依頼を受ける前に一つ私から言っておかなければならない事がある」

「……何ですか?」

「私は正義の味方ではなくあくまで『探偵』だという事だ。平たく言えば、私の仕事は『依頼人を助ける事』ではなく、あくまでも『探偵として徹底的に真相を明らかにする事』に過ぎないという事を理解してもらう必要がある。もちろん、一度引き受けた依頼は探偵としてどんな事があっても必ず真相を明らかにしてみせるがね。ただ……その『真相』が依頼人の利益になるとは限らないという事はわかっておいてほしい。『真相』は公平だ。もしかしたら、君に不都合な真実が白日の下にさらされてしまうかもしれないし、今回の依頼の場合だと思い出す必要がなかった辛い真実まで引きずり出す事になってしまうかもしれない。だが、その場合でも私は止まらない。無論、その着地点が依頼人のためになるようにできる範囲で最善は尽くすが、最後の最後まで徹底的に真相を突き詰めるという私のやり方に、それ相応のリスクが存在する事は知っておいてほしい」

 榊原は真剣な表情で続けたが、その視線の奥に、外見とは裏腹の何か鋭いものが内包されているのを、瑠衣子は今度こそはっきりと感じ取っていた。同時に、瑠衣子は一見さえない風貌のこの男が、外見に反してかなりの切れ者である事……少なくとも彼が口先だけではない、筋の通った信念を持つ「本物の探偵」である事を何となく理解した。

「それでも……真相が暴かれる事によって『悲劇が起こる』可能性を知ってもなお、君はこの私に君の失われた記憶を明らかにする依頼をするだけの覚悟があるのかね?」

 鋭い視線でそう問われて、瑠衣子は正直なところ一瞬怖気づいた。だが、真相が明らかにならないままずっと苦しみ続けるより、どれだけ残酷な記憶であっても取り戻したいという思いの方が上回った。

「……それでも……お願いします! 私の記憶を、取り戻すのを手伝ってください!」

「……結構。なら、私に君の依頼を断る理由は何もない。幸い今の時点で他に依頼らしい依頼もないし、現時点を持って君の依頼を正式に受ける事とする」

 その言葉に、頭を下げる瑠衣子の横で麻衣が大きく息を吐いた。

「さて、早速だがそうなると問題はその『悪夢』の内容だな。瑠衣子君、君は警察が導き出した最終的な結論と、君が事件以来見ている記憶の残滓と思しきこの『悪夢』の間に何か違和感を抱えている。違うかな?」

 いきなりそう言われて、瑠衣子は驚いた。

「ど、どういう意味ですか?」

「いや、仮に警察の公表した結論と君が毎晩のように見ているという『悪夢』……その内容が同じなら、君がここまで苦しむ事はなかったはずだ。たとえ記憶が戻らずとも、内容が同じならそれで納得できるはずだからね」

 そして、榊原は静かに告げる。

「察するに、『悪夢』の中に警察の出した結論では説明のつかない何かがある。その事実の差異が、消えた記憶の中に何か自分の知らないものがあるのではないかという不安を提起し、それがわからないもどかしさが君を苦しめている。そういう事ではないかね?」

「あ……」

 いきなり心理分析をされて最初は驚いたが、その分析は驚くほどに的中していた。

「聞かせてもらおうか。君が見ているという『悪夢』……一体、警察の説明と何が違う?」

 その問いに対し、瑠衣子は少しためらっていたが、やがてポツリとこう言った。

「声が……するんです」

「声?」

「夢の中で……私はあの犯人に襲われて傷を負い、血まみれになっています。そんな中、急にその襲撃が止んで、暗闇の向こうから男の人の声が聞こえるんです。……『逃げろ!』という声が、毎回、必ず。でも、そんな声の事なんて、警察も誰も言っていなかった。あの場には私と犯人の二人しかいなかった……それが警察の説明です。だけど……私の夢の中では……」

「『逃げろ』……か」

 榊原は瑠衣子の言葉を一蹴せず、真剣に考え始めた。

「あくまで『悪夢』の中の話だ、と言ってしまえばそれまでだが……それが本当なら、『逃げろ』という言葉を発した人間が事件当時現場にいた事になる」

「で、でも、警察の発表だと、さっき瑠衣子さんが言っていたように現場には瑠衣子さんと犯人の岸辺和則の二人しかいなかったはずなんですよね。まさか彼女を襲っている犯人の岸辺が『逃げろ』なんて言うはずないし……」

 瑞穂が当惑気味に言い、榊原も頷く。

「だが、それが『男』の声である以上、瑠衣子君本人が叫んだわけでもない。というより、そもそも瑠衣子君がそんな事を叫ぶ理由がない。一応聞くが、声の主が両親だった可能性は?」

「えっと……ない、と思います。両親だったらさすがにわかると思いますし」

「……なるほどね。どうやら、その『悪夢』とやらに照らし合わせれば、確かにあの事件にはまだ明らかにされていない何かがあるようだ。具体的には……瑠衣子君と岸辺以外の幻の『第三者』があの場にいた可能性だ。そんな人間がいたのかもしれないという事になれば、自身の記憶を取り戻したいと考えたくなるのも無理はないね」

「第三者……」

 改めて示されたその可能性に瑠衣子が俯く中、榊原は伝票を持って立ち上がった。

「いいだろう。ひとまず、その辺から調べるとしようか」

 そのまま榊原は出口へ向かい、残る三人も慌ててそれに続いたのだった。

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