第五章 激突

 武道場には事件の関係者が集結していた。ミス研の生き残り全員に、剣道部の紙内、新聞部の亜樹、美術部の春海、ゲーム研の尾西、文芸部の美穂と付き添いで残ったさつき。それに道着袴姿の香。

 さつきは、香がどうしてここにいるのかわかっていないようで、さっきから目を白黒させている。

「えっと、あの……なんで香がここに?」

「わけは後で。今はそれよりも大切な事があります」

 香の言葉に、さつきは相変わらず戸惑いながらも、一応静かになった。

 警察関係者からは、斎藤、国友、圷、新庄の四人であった。他の刑事たちは、現状、外に待機という命が下っている。

 そして、その中央に立つ二人の男……相変わらずくたびれたサラリーマンのような風貌の榊原恵一と、学生服を着込んだ野川有宏は、軽く互いを見やった後、まず野川が話を開始した。

「皆さん、お集まり頂きありがとうございます」

「野川先輩、一体、何を始めるつもりなんですか?」

 中栗が当惑した様子で尋ねる。が、朝子は淡々とした様子でそれに答えた。

「簡単じゃない。こうして殺人事件が起きて、我らがミス研の名探偵と有名な私立探偵が中心に立っている。とすると……」

「ミステリー小説にありがちな、関係者を集めての謎解きという事になりますね」

「あぁ、そういう事になるね」

 佐脇の言葉に、野川は頷きながら答えた。

「という事は、犯人もわかったの?」

 朝子が尋ねる。

「僕なりの推理はできているつもりだよ。もっとも、そちらの本職の名探偵さんの推理と同じかどうかはわからない。だから、こうしてここで互いの推理を突きつけてみようって事になったんだ」

「なるほど。一種の推理勝負ですか」

 佐脇が呟く。

「……そう。まぁ、聞いてみましょうか」

 朝子はそう言って、そのまま野川を促した。

「……その前に野川君、一つ確認しておきたい」

 不意に榊原が口を挟んだ。

「今回の事件はいくつもの事象が複雑に絡み合った事件だ。だが、根本的な話として、今回の四人が殺害された事件における不可能状況がクリアできなければ、いくら推理を重ねても真の解決にはならない」

「それは、僕も同感です」

 野川は榊原の言葉に頷き、先を促す。

「そこで提案だが、まずはこの不可能犯罪のトリックを説明するという事でどうだろう。私の考えが正しければ、おそらくこのトリックを解く事でおおよその犯人像をつかめると思うのだが」

 榊原の問いに、野川は少し驚いた表情を浮かべた。

「……やっぱり、あなたは凄いです」

「そう言うからには、君も同じ考えに行き着いたようだな」

 榊原の言葉に、野川はフッと笑って応じた。

「では、まずは互いに自分の推理したトリックを説明し、それに対する反論をするという事でいいかね?」

「僕はそれで構いません」

 野川が榊原の提案に同意し、ここからの流れが決まった。

「では、どちらからいきますか?」

「私は君からで構わない」

 榊原は簡単にそう言うと、そのまま後ろに下がってしまった。

「それでは、お言葉に甘えて……」

 そう言うと、野川は咳払いをしながら、しかしどこか緊張した面持ちで話し始めた。かつて殺人事件を一度解決したからといって、ここまで多くの警察関係者の前で、しかも有名な私立探偵の前で自分の推理を話す事になっているのだ。さすがの野川も、やはり緊張しているらしい。

「さて、最初に今回の事件のおさらいをしておきます」

 野川はまずそこから始めた。

「事件は今日の午後三時頃、立て続けに起きました。被害者は、僕が部長をしているミステリー研究会の部員四名です」

「えっ、じゃあ、横川先輩も殺されたんですか?」

 中栗が驚いた様子で尋ねる。

「ああ、状況的に考えて、その可能性が高いという事らしいよ」

 野川は榊原をチラリと見ながら言う。

「状況を整理すると、一号館二階の美術部室で横川君が、そのすぐ真下の新聞部室の窓の前で村林君が、三号館と二号館の間の通路で朝桐君が、そして三号館二階のミステリー研究会の部室で溝岸君が殺害されています。それぞれの場所は離れている上に、犯行時間はわずか数分。この時間でこれだけ離れた場所にいる人間を次々と殺害していく。普通に考えたら非常に難しい話です」

 おまけに、と野川は続けた。

「事件の少し前から二号館の入口の前には佐脇君がいて、それぞれの棟の入口の出入りを監視している状態でした。そして彼が実際に目撃したのは、三号館から出て行く被害者……すなわち朝桐君の姿だけです。それ以外には一切出入りはない。つまり、ただでさえ不可能な犯罪に加えて、事実上の密室の問題が立ちふさがっているんです」

 改めて語られる事件の異常さに、その場にいる人間は不安そうな表情をする。

「それで、そんな事が人間業で可能なの?」

 朝子が尋ねる。この女子生徒はさっきから対して顔色を変えず、淡々と野川の話を聞いている。野川はそんな朝子を一瞬チラッと見たが、すぐにはっきりとこう答えた。

「僕は可能だと思っている。というよりも、実際にこれが起こっている以上は、可能でなければならない。当然の論理的帰結だよ」

「で、でも、そんな事は無理だと思います。たった一人でこれだけ離れた場所にいる人間を同時に殺害するなんて……」

 美穂がそのように言って反論する。だが、これに対する野川の答えは意外なものであった。

「ええ、僕も無理だと思います」

「え?」

 質問した美穂が逆に当惑したような声を出す。彼女だけではなく、他の人間も不審そうに互いに顔を見合わせたりしている。

 瑞穂はこの発言に対し、榊原の方を見た。が、榊原は右手にアタッシュケースを持ち、左手をポケットに突っ込んだまま目を閉じて黙って野川の話を聞いている。

「あの、どういう事ですか?」

「それを説明する前に、まずは密室を破る事から始めましょう。つまり、佐脇君が見ている中で密室への出入りが可能か否かです」

 野川は説明を開始した。

「まず、この場合真っ先に考えなくてはならないのが、佐脇君が本当の事を言っているのかどうか……つまり佐脇君が実は犯人だったのではないかという可能性です」

「なっ!」

 佐脇が目を見開く。

「野川先輩、それはどういう事ですか!」

 いきなりの事に唖然としている佐脇に代わって中栗が反論する。

「どうもこうもない。この前提が崩れたら推理も何もないんだ。まずはこの可能性を検討しないと話が始まらない」

「それは……そうだろうけど……」

 中栗はそう言うのが精一杯だ。

「でも、これに関しては、佐脇君は事実を言っていると思います」

「え?」

 いきなり疑われたと思ったら、またしてもいきなり容疑が消滅し、佐脇は呆気にとられた表情をする。

「考えてもみてください。もし佐脇君が嘘をついているとすれば、彼がそんな事をするのは彼自身が犯人だったという場合だけでしょう。でも、彼が犯人だったとして、こんな証言をする意味があると思いますか?」

 瑞穂はアッと思った。

「それは……ないでしょうね。無駄だもの」

 朝子が答える。

「そう、無駄なんだ。だって、そんな事をしても何の意味もない。むしろ彼が犯人だった場合『三号館から怪しい人影が出て行った』とでも言った方が、容疑から外れる結果につながるはずだ。『誰も出なかった』なんて言っても、今問題になっているように不可能犯罪になってしまって、かえってその証言自体が疑われてしまう。彼が犯人だとすれば、それは絶対に避けたい事のはずだ」 

 野川は結論付けた。

「だから、僕は逆にこの証言は事実だと判断している。まず、これが前提条件だ」

 その言葉に、佐脇がホッとした表情をする。

「でも、それじゃ何も変わらないわよね」

 朝子がそう反論する。

「そう。そこで、さっきの言葉が重要になる」

「確か、一人では無理、という事でしたよね」

 不意に、それまで黙っていた香が恐ろしく冷静な声で言った。パッと見る限り、朝子以上に冷静な様子である。

「ええ、その通りです」

「では、共犯がいたという事でしょうか?」

 香が率直に尋ねる。その視線は、まるで野川を値踏みしているようだった。

「いえ、共犯ではないと思います」

「ならば、どういう事ですか?」

「簡単に言えば、僕はこの事件を一つに捉える事自体に無理があると思っているんです」

 野川はそう述べた。

「ええっと、意味がわからないんですけど」

 中栗がややこしそうに頭を抱え、野川はそんな中栗を見ながら自身の結論を告げた。

「つまり、この事件は一つの事件じゃないって事だよ」

「そりゃ、一つじゃないでしょうけど……」

「そういう意味じゃなくて、僕が言いたいのは、この事件は目的のまったく違う二つの事件が重なったものじゃないかって事なんだ」

 その場がシンとする。

「どういう事ですか?」

「もう一度考えてほしいんだけど、今回の事件、場所そのものはバラバラでも、大きく分けると一号館側と三号館側、二つの場所に別れると思わないか?」

 野川の言葉に、ミス研のメンバーはハッとしたような表情をする。

「そ、そういえば……」

「逆に言えば、それぞれ一号館側の事件だけ、三号館の事件だけなら、この短時間でも実行可能じゃないか。僕はそう判断するんだけど、どうだろう」

 この大胆な仮説に対し、その場にいる全員が野川の言葉を吟味していた。

「つまり、この事件は、溝岸君と朝桐君が殺された事件と、横川君と村林君が殺された事件、二つの事件の集合体だったと考えられるんです」

「要するに、まったく同時に殺人が発生し、それぞれに別の犯人がいたと?」

「その通りです」

 香の言葉を、野川は肯定する。

「まず、三号館側の事件から解決してしまおうか。あの時、三号館にいたのは被害者の二人……つまり溝岸君と朝桐君を除けば、ここにいる中栗君と、ゲーム研の尾西翔也君だけだ」

 野川が該当者を見る。中栗と尾西は青ざめた様子で互いを見詰め合う。

「でも、尾西君は溝岸君が死んだとされる時間、つまり中栗君が部室を出てから再び戻るまでの数分間、ずっと当の中栗君と一緒にいたというアリバイがある。その中栗君にしても、問題の時刻は尾西君とずっと一緒にいて、仮に殺人がゲーム研を訪れる前だったとしても、それだと朝桐君がなぜ何の反応も示さないまま部屋を出て行ったのかがわからなくなる。何より溝岸君は殺せても、朝桐君を殺す事はこの二人には無理だ。朝桐君は外で死んでいたんだからね。朝桐君が生きて外に出たのは佐脇君が目撃している。殺すには自分たちも外に出ないといけない」

「その二人が共犯の線は?」

 佐脇が確認する。が、野川は首を振った。

「今言ったように、朝桐君が外に出ている以上、共犯だろうが何だろうが外に出ない限り殺人は不可能だ。この際、この二人が共犯かどうかは考慮しなくていいと思う」

 そこで、瑞穂はふと思い出した。

「確か、三号館の屋上に脚立がありましたよね」

 その言葉に、中栗たちがギョッとした表情をする。

「例えば、溝岸先輩を殺した後、屋上から脚立を下ろせば……」

「僕もあの脚立は確認したけど、伸ばしても長さは四メートル弱。さすがに地面までは届かない」

「じゃあ、あの脚立をミス研の部屋まで持ってくれば……」

「確かにそれだと地面までは届くだろうけど、それだと屋上へ通じるドアの鎖を外して脚立を部屋まで運び、地面に下ろしてどちらかが下り、朝桐君を殺して再び上がって脚立を回収して屋上に戻す作業が必要になる。多分、持ち運びだけで十分以上はかかるから、あっさりタイムオーバーだ」

「それは……」

「そもそも、そんな事をする意味はないはず。佐脇君があの場所にいたのは偶然だ。そんな事までしてなぜ入口を避ける意味があるんだい?」

 瑞穂は反論できなくなった。やはり、慣れない事はするものではない。

「つまり、中栗君と尾西君は二人を殺した犯人ではない」

 二人がホッとした様子で息をつく。

「では、誰が犯人なのですか? 彼ら以外に三号館に出入りした人間はいないはずですが」

「いえ、そんな事はありません」

 香の問いに野川はこう言った。

「一人いるじゃありませんか。佐脇君の目の前を堂々と通っていきながら、今までいない人間として処理されていた人物。絶対に犯人ではありえないと最初から決め付けられていた人物……」

 その言葉に、瑞穂は思わずアッと声を上げた。

「まさか……」

「そう」

 野川が頷く。

「この二人が犯人でないなら、残る該当者は一人だけ」

 野川はその名を告げた。

「朝桐英美。少なくとも三号館で起きた殺人……つまり溝岸君殺害に関しては、彼女が犯人だと思います」

 その場が震撼した。

「朝桐さんが溝岸さんを殺した犯人、ね」

 朝子がポツリと呟く。

「そんな、そんな馬鹿な……」

「僕としても残念だが、状況的に考えて、あの三号館で殺人が可能だった人間は、彼女一人だけだ」

 驚く中栗に対し、野川も辛そうに答える。

「でも、彼女がミス研の部屋から出る時、彼女に変わった様子は……」

「その後、君はゲーム研の部室に入っている。君が部屋に入った後で戻ってきて溝岸君を殺害し、そのまま出て行ったとも考えられる」

「だ、だけど、だったらどうして英美ちゃんまで死んでるんですか?」

 中栗は混乱したように尋ねた。

「それについては追々話す。とにかく、溝岸君を殺したのは朝桐君。この推理は、妥当性があるという事でいいね?」

「……」

 中栗は答えない。信じられない。しかし、野川の推論には一理ある。まさか、被害者が加害者だとは思わないからだ。

「でも、不思議ね。どうして朝桐さんは溝岸さんを殺したのかしら?」

「それを話す前に、一号館の殺人について話そう。その方が、朝桐君の死についても具体的に話せる」

 野川は推理を先に進めた。しかし、この時点で瑞穂は何か嫌な予感がしていた。

「一号館の殺人は、三号館の殺人さえなければ不可能犯罪とまではいえません。単純に横川君を気絶させて机に座らせ、横川君がやったように見せかけながら村林君に花瓶を落とし、すぐに火をつけて逃走する。やる事はこれだけです。花瓶を落としてから火をつけるまで、これだけなら数分で可能でしょう」

 瑞穂の嫌な予感が強くなる。その推理だと、犯人の該当条件を備えている人間は……。

「逆に言えば、火をつけるまで犯人はその場にいた事になります。つまり、犯人は犯行当時一号館にいた人間、もしくはその時間帯にアリバイがなかった人間」

 瑞穂の鼓動が早くなる。

「中栗君、尾西君は三号館にいたし、僕と紙内君と佐脇君は二号館にいた。深町君は武道場にいたのを剣道部員が確認している。村林君が殺された場所にいて多数の目撃者がいる矢島君は論外。美術部長の島波君はアリバイがある。残るは二人だが、そのうち条件に合致するのは……」

 野川は犯人の名前を指摘する。

「君だよ、西ノ森君」

 瑞穂が振り向くと、野川に名指しされた西ノ森美穂は、どこか青ざめながらも、驚愕に満ちた表情を浮かべていた。


「私が……犯人?」

 美穂は何を言われたのかわからないと言いたげに、目に涙さえ浮かべながら周りを見渡していた。

「あの状況下で犯人の可能性があるのは、君だけしかいない」

 しかし、野川は容赦なく告げる。美穂の周りにいた人間が、少しずつ彼女から距離をとる。ただ一人を除いては。

「ちょっと! 言っていい事と悪い事があるわよ!」

 さつきだった。さつきは今にも泣きそうな美穂の前に出ながら、野川を怒りの形相で睨みつけていた。

「僕だってこんな事は言いたくない。でも、状況を考えるとどうしてもそうなってしまうんだ」

「根拠を言って!」

 さつきが食って掛かる。当の美穂は茫然自失といった感じで、どこか虚ろな表情を浮かべている。瑞穂はとっさに美穂の元に駆け寄って体を支えた。

「……野川先輩。私も根拠を聞きたいです。申し訳ないですけど、今の話では納得できません」

「だろうね」

 野川は辛そうな表情で話を続けた。

「まず、一号館の殺人が先程の手順で行われた事は理解してくれるかい?」

「……ええ」

 瑞穂はしぶしぶ同意する。それ以外に思いつかなかったからだ。

「待って。その条件だと、私も当てはまるはずよ」

 不意に、朝子がそんな自己申告した。野川もそれについては同意する。

「確かに、恩田君も事件当時のアリバイはない。従って、この条件には一致する」

「だったら……」

「でも、さっきも言ったように、二号館の前には佐脇君がいた。しかも、火災発生後には僕と紙内君までいたんだ。僕も一号館の騒ぎを見ていたから覚えている。一号館の入口から君が出てきた様子はなかった。もしいたら最初から警察に話をしているし、真っ先に君を疑っている」

 恩田は押し黙る。自分の容疑が晴れたというのに、どこか辛そうな表情だった。

「となると、犯人の脱出口は各部室の窓か非常階段になる。だが、部室の窓はグラウンドに面しているから、そこから脱出したら目撃者がいるはずだ。そうなると、脱出口は封鎖された非常階段だけで、犯人はここから脱出した事になる」

 野川は美穂を見据える。

「西ノ森君、君は確か非常階段から脱出したと事情聴取で言っていたね」

「……」

 美穂は顔色が悪いまま一言も反論しない。反論できないのだ。何しろ脱出した事自体は事実なのだから。

「この子が脱出した後に、誰か別の人間が南京錠の壊された非常階段から脱出したって事はないのかしら?」

 朝子が疑問を呈する。が、野川は即座にその疑問に反論した。

「無理だと思う。火事があった美術部室は階段から五部屋目。つまり、ここで廊下が寸断されていて、それ以南の部屋は隔離されていた事になる。で、六部屋目の吹奏楽部室は炎上しているから、残りは三部屋。七部屋目の茶道部室は鍵がかかっていたし、九部屋目の文芸部室には彼女自身がいた。残る八部屋目の演劇部室は鍵がかかっていないけど、鍵を壊す時に彼女が飛び込んでいる。だから、誰かが隠れていたらその時に見つかっているはずだ」

 野川は結論付けた。

「つまり、あの火事で隔離された空間に隠れる場所など存在しなかった。となると、あの空間にいたのは彼女だけ。犯人が入口から出ていない以上、脱出口は非常階段で、その非常階段から脱出したのは彼女ただ一人。となると、結論はおのずと明らかになる」

 さつきはイヤイヤするように首を振った。野川の論理は完璧である。だが、理屈ではわかっても、納得できていないのだ。それは瑞穂も同じだった。思わず榊原を見るが、榊原も沈痛な表情で目を閉じたままだ。今のところ、反論する気はないらしい。

「で、でも、彼女は今日文芸部に入ったばかりなのよ。そんな事が……」

「偶然じゃなかったとしたら?」

 野川は容赦ない。

「偶然じゃ、ない?」

「考えてもみてくれ。いくら新歓活動をしていないからといっても、文芸部がない事に気付かないなんてありえるかい? 確かに新歓活動をさぼった恩田君にも責任はあるが、本気で入りたいならそれこそちゃんと調べるはずだ。生徒手帳でも見れば文芸部がある事はわかるし、そうでなくとも、部室棟を訪れれば簡単にわかる」

「だけど……」

「つまり、彼女は文芸部がある事を知りながらわざと入らなかった。なぜか? 偶然に見せかけてこの犯行を実行するためだ」

 野川は断言した。だが、今度は香から横槍が入った。

「証拠がありませんね」

 あくまで冷静な声である。目の前で友人が必死になっているのに、彼女は恐ろしいくらいに冷静である。ジッと野川を見据え、淡々と質問する。

「今の話は推論に過ぎません。彼女が文芸部を知っていたという具体的な証拠はありますか?」

 その質問に対し、野川は少し残念そうに答えた。

「確かにあなたの言うように直接的な証拠はありません。でも、論理的に考えると彼女以外に一号館の犯行が行えないのも事実なのです」

 有無を言わせぬ口調だった。

「じゃ、じゃあ、英美君が殺されたのは?」

 中栗が尋ねる。そう、まだその問題が残っているのだ。溝岸幸を殺したのが朝桐英美なら、朝桐英美を殺したのは誰なのか。これに対して、野川はこう答えた。

「朝桐君は、多分自殺です」

「自殺?」

 思わぬ話だった。

「だが遺体からナイフは抜かれていた。被害者は即死。自分でナイフを抜くなんて芸当は不可能だ」

 圷が口を挟んだ。

「そう、それがこの事件の肝だったんです。あの遺体の状況ではどうしても殺人と判断されてしまう。つまり、遺体が殺人であるほうが都合のいい人間がいたんです」

「というと?」

「僕の仮説では、一号館と三号館で起きた事件はそれぞれ別物です。三号館の事件は朝桐君が溝岸君を殺して、その後外に出て自殺。一号館の事件はそこにいる彼女が二人を殺して非常階段から逃走。しかし、当初僕たちが想定していたように、この二つの事件が同一犯だと思わせられたら、不可能犯罪という事で罪を逃れる事ができると思いませんか?」

 その言葉に、さつきの表情が変わった。

「まさか……」

「そう。非常階段から逃走した彼女は、とりあえず三号館の方へ逃げたんでしょう。だが、そこでとんでもないものを見つけてしまった。それが、二号館と三号館の間に転がっていた朝桐君の自殺体です」

 野川は推理を続ける。

「心底驚いたとは思いますよ。自分が殺人を起こした直後に、まったく別の場所に見知らぬ死体が転がっていたんですから。でも、彼女はその時こう考えたに違いありません。この遺体を他殺体に見せかけられれば、この事件は違う場所で複数の人間が殺された「不可能犯罪」となり、三号館の事件を起こす事ができない自分は罪を逃れる事ができるのではないか、と。瞬時にそう考えた彼女は、朝桐君の胸に刺さっていたナイフを抜いて放置し、他殺体に見せかけてその場を去った。手間もそこまでかかりませんし、すでに死んでいたとすれば返り血もそれほど飛び散らなかったと思います」

 誰も話さない。それは、全員が彼の推理の妥当性を認めている証拠でもあった。

「それで、本来ないはずの第四の他殺体が誕生した、ってわけか」

 圷が唸る。

「彼女としても、まさかその自殺体が直前に殺人を起こしていたとは思わなかったでしょう。ですが、それゆえに事件はますます不可能犯罪の様相を見せ、彼女のアリバイを確固たるものにしたんです」

 武道場を沈黙が支配する。

「……証拠は?」

 不意に、香が発言した。

「さっきも言ったように、物的証拠がありませんね。これまでの話はすべて状況証拠に過ぎない。彼女がこの殺人を起こしたという直接的な物的証拠が必要です。それがなければ、いくら綿密な論理が組み上げられていても、裁判で勝つ事はできません。朝桐さんが溝岸さんを殺したという点についても同様です」

 香は淡々と言う。さすがに元刑事の娘だけあってその辺りは詳しい。だが、野川はその疑問に対する切り札を用意していた。

「横川君は頭を殴られて殺されています。その凶器についてですが、僕は彼女が南京錠の破壊に使った演劇部の金槌が怪しいと踏んでいます。あの金槌、事件に直接関係ないという事で、まだ回収されずに床に転がっていたと思うのですが」

 それに対し、圷は頷いた。

「ああ、さっき君の要請で回収して調べさせてもらった」

「結果はどうでした?」

 圷は苦々しい表情で言う。

「金槌から血痕が拭き取られた痕が見つかった。一見すると何もついていないようだったが、いわゆるルミノールというやつではっきりとわかった。それと、君に言われて改めて演劇部室を調べた結果、拭き取ったと思しき血痕つきの布が部屋のゴミ箱から見つかった。この血痕を今DNA鑑定に回しているが、おそらく横川の血で間違いあるまい」

 その言葉に、美穂の表情が顔面蒼白になった。

「あの金槌を使う事ができ、なおかつあの場所に置けるのは、火災の際にあそこに隔離されていた君だけのはずです。違いますか?」

 野川は静かに問う。美穂はガタガタ震えだした。

「金槌が横川君を殴った凶器であるのは間違いない。その金槌が使えるのは、西ノ森君、君だけだ。これは、充分犯人を指し示す物的証拠になると思う」

 もはや、美穂は野川の言葉を聞いていないようだった。

「……嘘でしょ……美穂……」

 さつきは信じられない、というよりも信じたくないという表情で美穂を見つめている。他の学生メンバーも大体同じような表情だ。

 だが、こんな状況においても香は冷静だった。

「動機は?」

 質問は端的だった。

「朝桐さんが溝岸さんを殺した動機。そして、彼女が横川さんと村林さんを殺した動機。この二つについて、あなたはわかっているのですか?」

 さっきからまったく声のトーンが変わらない。まるで、今までの推理がなかったかのような口調である。

「その点についてですが、それを語る前に知っておいてほしい事があるんです」

「何でしょうか?」

「ここ数年の間に、僕たちミス研の内部で起こったいくつもの出来事です」

 その言葉に、中栗や佐脇が反応した。

「野川先輩、まさかあの事件が……」

「あの事件?」

 紙内や島波といったミス研以外の面々が首をかしげる。

「もうこうなったら隠しておくべきじゃない。まずはその事について僕の口から話しておこう」

 野川は、岩坂の死や生田の死、そして溝岸の正体や横川の罪などを一気に告白した。

「そんな事が……」

 初めて知らされた面々は唖然とした表情をしている。

「すべては、ここから始まっているんです」

 野川は動機の説明に入った。

「一年前、新橋駅で先々代部長の岩坂先輩が、そして今年の三月に黒部ダムで生田君が不審死を遂げました。僕と溝岸君はこれがただの事故死ではないと考え、独自に調査をしていました」

「……それで?」

 香が先を促す。

「率直に言いますが、この二つの事件は事故死ではなく、殺人だったと思っています」

 野川は断言した。これについては、榊原と同意見のようである。

「では、その岩坂という人と生田という人が殺されたのはなぜですか?」

 香が引き続いて質問する。他の人間が混乱している現状、香が質問役になりつつあった。

「それについてなのですが、僕の調べでは、岩坂先輩は生田君と組んで何かを調べていた……もっとはっきり言えば生田君を通じてミス研を調べていたと思われています」

 瑞穂もその話は昨日榊原から聞いている。

「では、一体何について調べていたんですか?」

 香が尋ねる。

「実は、岩坂先輩が死ぬ数ヶ月前、つまり岩坂先輩の卒業直前にミス研ではもう一つ事件が起きているんです」

「それは?」

「僕たちは肥田事件と呼んでいますけどね。簡単に言えば、学校における裏サイト事件です」

 野川は、引き続いて肥田涼一の起こした裏サイトの脅迫事件を語った。

「そんな事件があったんですか?」

 中栗や佐脇でさえ驚いた表情をしている。先代のミス研部長がまさかそんな形で辞めていたという事も彼らにとってはかなりショックなのだろう。唯一、朝子だけはどこか無表情にその話を聞いていた。彼女もこの事件を実際に経験した人間である。

「無理もない。君たちの入学以前の話だし、今の三年生以上でないと知らないはず。この事件に関しては後味が悪かった部分もあって、僕もそれほど話していないしね」

 野川はそのように言った。

「でも、後味が悪かったかどうかはともかく、事件そのものは解決していたんですよね?」

「だけど、あの事件には不可解な事がなかったわけじゃない。事実、僕自身も実際に追求している中でどこか違和感のようなものを感じていた」

 中栗の問いに、野川はそう返した。

「え? それって、野川先輩の推理が間違っていたと言う事ですか?」

「いや、あの推理は正しかったと今でも思っているし、肥田先輩があの裏サイト事件に一枚噛んでいたのは疑いようのない事実だと思う。でも、何かずれているようなものを感じていた。正直、肥田先輩が犯人という結論に行き着いた時、僕自身かなり衝撃を受けた。こう言っては何だけど、とてもそんな事する人には見えなかったし、何よりこんな馬鹿げた事をするメリットが肥田先輩にはなかった。それに実際の追求に際しても、肥田先輩はひどくあっさりと自身の罪を認めてしまった」

 野川はこう続ける。

「もっとも、情けない事に当時の僕は後味の悪さに気をとられて違和感を違和感のまま放置してしまっていた。だけど、そのまま放置できなかった人がいた。それが岩坂先輩だった。多分、岩坂先輩もこの違和感に気が付いていたと思う。それで、卒業してからもこっそりこの事件を調べていた。僕と溝岸君は最終的にはそう判断したんだ」

 その場がシンとする。

「つまり、岩坂という人は、その肥田事件を調べている渦中で殺害された、と言いたいのですか?」

「その通りです」

 香の問いに、野川は頷いた。

「しかし、どんな裏があったと?」

「溝岸君と一緒に事件を調べているうちに、僕はこの違和感に対して一つの仮説を立てました。つまり、肥田先輩は誰かをかばったのではないかと」

「かばった?」

「つまり、あの裏サイト事件は肥田先輩の単独犯ではなく、複数犯によるものではなかったのか。そして、その共犯者が実はまだミス研にいたのではないか。僕はそう考えたんです」

 それは、瑞穂にとってすでに昨日榊原から聞かされていた仮説であった。だが、あの時は仮説を立てただけに終わり、それ以上のところまでは突っ込みきれていなかった。これに対し、野川はより深いところまで突っ込んでいこうとしている。

「その共犯者が、岩坂さんを殺したと?」

「ええ」

「では、その共犯者が、あなたが犯人だと指摘するこの西ノ森美穂さんだとでも言うつもりなのですか?」

 香は目を細めて尋ねる。

「いえ、それはないでしょう。肥田事件は一年前の二月。年度でいえば二年度前に当たります。当時、彼女の学年は中学二年生で、関係しようがありません」

「それでは、あなたの考える共犯者とは誰でしょうか?」

 香が率直に尋ねる。

「今言ったように、当時この高校にいなかった人間は問題外です。となると、今の三年生以上。そして、その中で今回の事件に関与していると思われているのは……」

「横川君、というわけ?」

 朝子が先に言った。

「ああ。残念だけどね」

「つまり、横川君は肥田事件の段階ですでに裏に色々かかわっていた、と」

「そうなる。つまり、肥田事件は肥田先輩と横川君の二人による共犯で、経緯は知らないけど、肥田先輩は横川君をかばう形で退学した。そう考えるのが自然じゃないかな」

 野川はそう推理する。

「じゃあ、岩坂先輩を殺したのは……」

「僕は横川君ではないかと思っている」

 野川はきっぱり告げた。

「だけど、一緒に調べていた生田君や、妹である溝岸君は岩坂先輩の死に納得しなかった。溝岸君は僕と組んで、生田君は個人的に岩坂先輩の死とその背後にあるものについて調べていた。その渦中で、おそらく生田君は真相に近づきすぎてしまった。おまけに、横川君は警察の話ではすでに半年ほど前からホームレス狩り事件を起こしている。ますますばれるわけにはいかなかったんだろう」

「だから、横川さんは生田さんまでもを殺した、と言ういですか?」

 香が発言する。

「ちょうど黒部で合宿があって、いい機会だと思ったんでしょうね。この合宿自体、どうも生田君が岩坂先輩の死を調べるために仕組んだものだったみたいでしたし、この際いっそと思ったのかもしれません」

 香は一度目をつぶって何かを考えていたが、さらにこう質問を続けた。

「一度あなたの主張をまとめましょう。肥田事件、新橋事件、黒部事件、さらには連続して起こっていたホームレス狩り、以上四つの黒幕は横川さんである。肥田さんは横川さんの共犯者であり、彼をかくまって退学した。新橋事件と黒部事件は自分の正体がばれる事を恐れた横川さんによる犯行である。こんなところでよろしいですか?」

「はい」

「ですが、今回その横川さんが殺されています。しかも、あなたの主張する限り、その犯人は今までの話の流れでは何の関係もない西ノ森美穂さんです。彼女が横川さんを殺した動機は何でしょうか。また、その中で村林さんまで殺した理由はなぜでしょう。さらに、ニュースで聞いた話になりますが、そのホームレス狩りの最新の事件では死者が出ているはずです。その事件についてはどうでしょうか。最後に、朝桐さんが溝岸さんを殺した動機は何でしょうか。今までの話だと、朝桐さんの名前は出てきていませんね」

 香は立て続けに質問をした。が、野川は動じない。

「僕の予想ですが、彼女の目的はあくまで横川君だったと思います」

「しかし、村林さんも殺害されていますが」

 香は訝しげな表情をする。

「ええ。ここで思い出していただきたいのですが、村林君はミス研の裏の面を新聞部にリークしようとしていた。そうですね、矢島君」

「は、はい」

 いきなり呼びかけられ、新聞部の矢島亜樹が焦ったように返事をする。

「では、そのリーク内容は何でしょうか? 新橋事件や黒部事件の真相に行き着いていたとすれば、リーク云々の前に警察に通報していたはず。事は殺人ですから、高校の新聞部では荷が重過ぎます。それがなかったという事は、そういった事とは無縁の事象でしょうね。今までの流れから推察するに、可能性は一つ。彼がホームレス狩りを行っていたという事実でしょう」

 野川は続ける。

「一方、横川君の方から見れば、このリークは致命傷になりかねない。何しろ、それに絡んで新橋事件や黒部事件も引き起こしているのですから。さらに、彼はまさにその前日に、ホームレス狩りの延長線上で殺人を起こしてしまっていた。殺されたのが誰なのかは聞いていませんが、僕の予想では、神崎十三という人物のはずです」

 そう言いながら野川は斎藤に確認を取る。

「その通りです。よくわかりましたね」

「事情聴取でいきなりその名前を出されましたから、何かあると思っただけです。で、そうなると当てはまる場面はここしかありませんでしたから」

「では、彼が神崎氏を殺した理由は?」

「それこそ単純でしょう。僕の記憶の限りでは、彼は黒部事件の担当刑事でした。黒部事件の真相を見破られそうになったから、先手を打って殺害した。そういう事になります。いずれにせよ、そんなわけでますますこの事実をリークされるわけにはいかなくなっていた。つまり、横川君には村林君を殺す動機がある」

「……私は西ノ森さんが村林君を殺す動機を尋ねたのですが」

 香の問いに野川は頷いた。

「その通り。つまり、こう考えればいい。今日、横川君は再び口封じのために村林君を殺害するつもりだった。殺害方法は、事故に見せかけて美術部室から花瓶を落とすといった類のものでしょう。ところが、横川君に対して動機を持っている西ノ森さんが、彼の犯行前に横川君を金槌で襲撃してしまった。おそらく、彼女はその一撃で横川君が死亡したと思ってしまったんでしょう。そして、彼女は彼が村林君を殺害しようとしていた事を知っていた。そして、このまま村林君を予定通り殺害して横川君に罪を着せれば、彼を自殺に見せかける事ができるかもしれないと考えたのでしょう」

 野川の答えに香はしばし考えた後、話を一度整理する。

「つまり、殺人後の偽装工作として、あえて横川さんがやるはずだった殺人計画を実行に移した。横川さんの遺体……実際には生きていたわけですが、とにかく彼を机に座らせてあえて外に見えるようにし、花瓶を落として村林君を殺害。その後、後頭部の傷を隠すために部屋に放火し、非常階段から脱出した。そういう事でしょうか?」

 香の言葉に野川は頷き、改めて宣告する。

「要するに、村林君に対する直接的な動機はなかった。彼は殺人の偽装工作のためだけに殺されたのです」

 それが本当なら、あまりに身勝手な動機である。だが、瑞穂は隣で震えている同級生が、そんな事をしたとはいまだに信じられずにいた。

「では、横川さんが殺された動機は何でしょうか?」

 ここで、野川は少し困ったような表情をする。

「実の所、詳細までは僕もまだわからないんです。さすがに現段階では情報不足ですので。ただ、横川君が今までやってきた事を考えれば、肥田事件、新橋事件、黒部事件、神崎殺害を含むホームレス狩り、いずれかの犯罪において何らかの関係があったはずです。例えばいずれの事件に巻き込まれて何かが起きたとか、いずれかの事件の被害者と何か関係があったとかです。それに関してはこれから調べる必要性があると思います。できれば本人に話してもらうのが一番いいんでしょうけど」

 そう言って、野川は美穂を睨む。だが、美穂はガタガタ震えるだけでまともに話せない。

「この様子では現状では無理そうですね。とにかくいずれにせよ、犯行が彼女にしかできない以上、詳しい動機に関してはこれからの捜査に期待するとしかいえません」

「……なるほど。いささか腑に落ちない部分もありますが、それに関しては保留としましょうか。では、最後の一つ、つまり朝桐さんが溝岸さんを殺した動機についてはどうでしょうか?」

 香の問いに、野川は答える。

「これについても、本人が死んでしまっているので最終的な話としては想像しかできないという他ありません。しかし、想像はできます。朝桐君はミス研の裏には関与していません。となると、何か個人的な場面で動機があったのではないか思われます」

「個人的な部分?」

「実の所、溝岸君は岩坂先輩の事件を調べる過程においてかなり無茶をしているんです。何しろ、部員を調べるのと同義ですから。その過程で、どうやら朝桐君とトラブルが起きていたようです」

「トラブル?」

「僕は間接的に聞いたに過ぎません。でも、最近になって朝桐君が溝岸君を避けるようになったという話は聞いていますし、実際にそのように感じました」

 瑞穂はとっさに二人の行動を思い出してみる。言われてみれば、今日だけを見てみても英美は逃げるように部室から退散して校舎をうろついていた。それに、幸が瑞穂に対して行った態度を見てみれば、確かにトラブルになってもおかしくないかもしれない。

「具体的に何があったのかはわかりません。ただ、そのあたりのトラブルがこじれて、ついには殺意にまで発展してしまったのではないか。僕はそう推察しています」

 野川は息をついた。

「……以上が僕の推理です。西ノ森君、反論はありますか?」

 そう聞かれても、美穂は顔を青ざめさせ、涙を流しながらながら震え続けており、今にも気絶しそうになっている。反論などとんでもない話である。

「ねぇ、西ノ森さん、本当なの? 野川先輩の言っている事……」

 さつきがすがるように尋ねる。だが、美穂はもはや何も聞こえていないようである。

 瑞穂は混乱しながらも考える。野川のトリックに関する考察はほとんど完璧だった。確かに、あの状況下でこの犯罪を成し遂げるとすれば、この推理のような事が起こったと考える他はない。さらに、金槌から被害者の血が出ているというのが決定的過ぎる。はっきり言って、トリック部分に関して言えば反論の余地がまるでないのだ。

 無論、動機部分に関してはいささか曖昧な部分も多かったが、それも彼女の犯行を否定する材料に至っていない。トリック部分に隙がない以上、彼女の犯行を否定する事ができない。肝心の榊原に至ってもずっと目を閉じて考え込んだままであり、時折野川の推理に対して頷いている事さえあった。

 周囲の生徒たちの視線が美穂に集中する。もはや、誰もが彼女が犯人だと疑っていないようだった。

「……どうですか? 榊原さん?」

 不意に、気まずい空気を破るように斎藤が発言した。

「今の野川君の推理、我々から見ても妥当性はあると考えます。あなたはどう考えていますか?」

 それに対し、榊原はようやく目を開けた。

「いくつか質問をしても構わないかね?」

 それが久しぶりに聞く榊原の言葉だった。

「はい」

「君の考えは、いわゆる困難の分割と呼ばれるものだ。これは困難を分割する事で不可能を可能にするという意味の、マジックやミステリーで使用される用語でね。君は犯人を二つに分割した。一人で無理なら二人の犯人がいたという理論でね。いわく、今回の事件には朝桐英美と西ノ森美穂という二人の犯人がいて、それぞれが偶然別々の場所で殺人を行った。また、過去の事件に関しては横川が犯人である。つまり、すべてを総括するとミス研絡みのいくつもの事件には、三人の犯人がいたという構図だ」

 榊原は野川を見据える。

「質問の一つ目だが、行方不明の肥田涼一はどこにいると思う? 彼のホームレス狩りに対するかかわりについての君の見解を聞かせてほしい」

「やっぱり詳しくはわかりませんけど、確か肥田先輩もホームレス狩りの事件で目撃されていましたよね。という事は、この二人は肥田事件の後も通じていたと考えるべきです。横川が死んだのを受けて、どこかに逃げたのではないでしょうか」

「なるほどね」

 榊原は頷いた。

 瑞穂には、榊原が一体何を考えているのかわからなかった。トリックはすでに野川によって解明されている。他に代替案が見つからない以上、榊原も同じトリックを考えていたはずだ。となると、榊原に言うべき事はほとんど残っていないはずである。

 にもかかわらず、榊原はあくまで落ち着いたままだった。それどころか、その視線はいまだに光を失っていない。むしろ、何か余裕めいたものさえ感じられていた。

「質問の二つ目だ。君は犯人に分割によってこの一見不可能に思えた犯罪の真相を明らかにした。逆に言えば、推理の過程で一人での犯行は不可能と判断したわけだ」

「ええ、そうなりますね」

「その根拠は?」

「時間的に無理だからです。たとえ、現場に被害者以外がいない状況下だったとしても、すべてを殺して回るには十分以上はかかります。この時点で、一人での犯行は不可能と判断したんです」

 榊原はそのまま何かを確認するように目を閉じ、すぐに開けた。

「よくわかった」

「どうでしょうか。何か反論はありますか?」

 野川は緊張した様子で榊原に尋ねた。

「そうだね」

 榊原は少し黙った後、

「確かに面白い推理だとは思う。現実的に考えてみても、この推理に説得力があるのは事実だ」

 と、端的にコメントした。それは、榊原が野川の推理を認めたとも取れる言い方だった。

「では、あなたも……」

「ああ」

 榊原は軽く答えた。

「まったく同じ推理をしたよ」

 その言葉で、瑞穂は目の前が真っ暗になりそうになった。榊原が認めた。つまり、犯人はこの西ノ森美穂……。信じられないが、二人の意見が一致した以上、もはや疑う余地はない。さつきは、がっくりとうなだれたように首を垂れ、他のメンバーは薄気味悪そうに美穂を見ている。美穂自身はもう心ここにあらずの状態で、呆然と言葉を聞いているだけのようだった。

 すべてが終わったかに思えた。

 ただし、続く榊原のセリフが発せられるまでは、であったが。


「おそらく、君がそういう推理をしてくるだろうという意味でね」


 その言葉のニュアンスを理解し、瑞穂は思わず顔を上げた。さつきも、驚いたように顔を上げている。香は相変わらず表情を変えないが、他のメンバーも同様のようだった。

「……今のはどういう意味ですか?」

 野川が問い返す。その声には、若干戸惑いが含まれている。

「そのままの意味だ。つまり、おそらく君はそういう推理をするだろうと、私自身最初から予想はしていたという事だ」

「……まるで、他の考えがあるような言い方ですけど」

 野川の言葉に、榊原はあっさり答えた。

「あるからこそ、こんな言い方をしているわけだがね」

 その瞬間、どこか終わった雰囲気になっていた武道場に、再び緊張が張り詰めた。

「あの、野川先輩の言った方法の他にも可能性があるって事ですか?」

 中栗が恐る恐る尋ねる。

「そういう事だ」

「ですが、多少の違いがあっても、大まかな構図は僕の推理と同じのはずです。だって、これ以外はどう考えても不可能ですから」

 野川は必死に言う。だが、榊原は断言した。

「いや、君の考えとは大きく違うよ。何しろ私は『犯人は一人であり、したがってこの不可能犯罪も一人の人間によって引き起こされた』と考えているからね」

 それは、野川の推理に対する真っ向からの挑戦であった。瑞穂は、これからが本当の推理対決なのだと改めて認識した。

「さて、今度は私の番だ」

 二ヶ月前に瑞穂の価値観を変えた榊原の推理が、今再び始まろうとしていた。


「事件の流れについてはすでに野川君が説明しているから割愛しよう。先程、野川君はこの犯行を一人で行うのは不可能と判断した。確かに、一見するとこの犯行は一人で行うには無理がある。普通に殺し回っても十分前後かかってしまうこの状況下で、わずか数分のうちに四人の人間を殺さなければならないからだ。彼が二人の犯人という『逃げ道』に迷い込んでしまったのも、ある意味仕方がないと言えるのかもしれない」

 榊原の言葉に、皆が真剣に聞き入っている。特に、もしかしたら美穂の無実が証明できるかもしれないという事で、さつきはすがるような視線を榊原に向けていた。

「確かに、普通ならまったく離れた場所にいる四人の人間をわずか数分でほぼ同時に殺害する事など不可能に近い。そう……『普通ならば』ね」

「という事は、今回は普通ではないと言うんですか?」

 佐脇が尋ねる。

「そうだ。実はこの立山高校の部室棟に関していえば、ある裏技を使えば、一人で一度に四人の人間をほぼ同時に殺害するという離れ業が可能になると考える。そしてその裏技が可能だった人間は、この中にたった一人しか存在しない。つまり、その人物こそがこの悪魔のような犯罪を仕込んだ真犯人という事になる。それが私の結論だ」

 その言葉に、全員の表情が固まる。

「一体、誰なんですか?」

「それを話す前に、今回の事件の舞台となったこの学校の部室棟の特徴を述べておこう」

「特徴?」

 全員が首をひねる。

「その一、隣り合う建物との間が狭い。計測してみたが、隣り合う二つの棟の幅は大体三メートル前後。走り幅跳びの選手なら飛び越えられるほどの狭さだ」

 その言葉に、中栗が反応した。

「まさか、屋上を走り幅跳びの要領で飛び越えたって事ですか?」

「それは駄目でしょう」

 佐脇が否定する。

「飛び移る事はできても、どうやって中に入るんですか? 一号館と二号館の屋上へのドアは内側から南京錠で閉まっていたはずです。三号館だけは開いていたはずですが、一号館には入れなかったら意味がない。それに、屋上を走り幅跳びで飛ぶなんて、いくらなんでも目立ちすぎます。はっきり言って、見つからない方がおかしい。特に一号館はグラウンドに面していますので、間違いなく目撃されてしまいます」

 続けて朝子も否定的な意見を述べる。

「それに、いくら三メートルとはいえ、ジャンプするのは屋上よ。失敗したら真っ逆さまだし、着地点も走り幅跳びと違ってコンクリート。いくら何でも飛ぶ気が起こらないわね」

「だったら、三号館の屋上にあったっていう脚立を使えば……」

「言った通り、三号館以外は屋上から中には入れないのよ。それに、目立つ事に変わりはないわね」

 朝子は首を振った。

 一通りの議論が済んだところで、榊原はさらにこう続けた。

「その二、現場の位置が不自然という点」

「はい?」

 意味がわからず、紙内が聞き返す。

「現場になったのは三号館のミス研部室と一号館の美術部室、そして美術部室の真下にある新聞部室の窓の近く。そして、これが現場となった部室棟の見取り図だが……」

 そう言うと、榊原はアタッシュケースから拡大した見取り図を取り出して、近くの壁に貼った。

「これを見て何か気がつかないかね?」

「何かって……」

 その瞬間、瑞穂は思わずアッと声を上げた。

「え、何だい?」

 中栗が尋ねる。

「一直線だ」

「え?」

 瑞穂の言葉に全員が改めて見取り図を見て、そして息を呑んだ。

「な、何これ?」

 ミス研部室は三号館二階の北から五部屋目。美術部室は一号館二階の同じく五部屋目。そして、新聞部室はその真下。三つの現場が、見事に一直線上に分布しているのである。

 唯一外れている英美の殺害現場にしても、北から六部屋目の水泳部と缶蹴り部の間なので、その直線からさほど離れているとは言えない。

「ご覧の通り、今回の四つの殺人現場はほとんど直線上に位置している。これを偶然で済ませるほど、私は甘くない」

 確かに、言われてみればなぜ気がつかなかったのかと思うような不自然な点である。

「これ、どういう事なんですか?」

 瑞穂が尋ね、榊原は静かに答える。

「つまり、犯人は殺人現場を一直線上に配置する必要性があった。それが、このトリックの肝だという事になる。そうでなければこのような異常な現場の分布は発生しない」

 だが、瑞穂にはいまいち榊原の意図が読めない。

「でも、だから何なんですか? 確かにこの発見は面白いと思いますけど、でもこれがトリックにつながるとはとても思えません。結局、犯人が現場を往復しなければならない事は変わりありませんし……」

「本当にそうだろうか?」

 瑞穂の問いに、榊原が唐突に突っ込んだ。

「え?」

「そもそもの話として、今回の犯行は犯人が直接現場に行く必要性があったのかどうかという事だ」

 瑞穂は戸惑った。

「言っている意味がわからないんですが……」

「要するに、今回の事件が不可能犯罪とされているのは、わずか数分で四人の被害者がいる場所に移動する事が物理的にできないからだ。しかし、単純に四人の人間を殺すだけなら、やろうと思えば数分でできる。となると、もし現場に行かなくても殺人が可能だとするなら、今回の不可能犯罪の肝になっている『移動』をする必要がないわけで、数分間での犯行が可能になると思わないかね」

「い、移動しないで殺人を犯した?」

 あまりにも突飛な考えである。

「自動殺人装置でも仕込んだって事ですか?」

「いや、今回の場合は特殊でね。犯人は現場に行かないまま、自らの手で殺人を実行したと私は考える」

 言っている事が矛盾している。現場に行かず、それでいて自ら殺人を犯す。そんな事が人間にできるわけがないと、瑞穂は思った。

「探偵さん、いい加減に答えを言ってください」

「……では、少しヒントを出そうか」

 突然、榊原がそう言った。

「何もない広場があるとしよう。自分から何メートルか離れた場所に殺したい人間がいる。その場を一歩も動かずにこの人間を刺し殺す事は可能だろうか」

 唐突な問いかけに、全員が考え込んだ。

「そんなの、無理じゃないですか?」

「なぜだね?」

「だって、近くに寄らないと人を刺し殺す事なんて……」

「できます」

 不意に発言したのは、意外な事に香だった。

「気がついたようだね」

「……逆に今まで気が付かなかったのが悔やまれます」

 香は相変わらずの表情で告げる。

「どういう事?」

「そうですね……あえて言うなら、戦国時代を思い浮かべればいいかもしれないですね」

 香はそんな事を言い始めた。

「戦国時代?」

「戦国時代、足軽が遠く離れた敵を刺し殺すのに使った道具とえば何でしょうか?」

 その瞬間、瑞穂の頭にあるものが浮かんだ。

「もしかして、槍?」

「その通りだ」

 榊原は静かにそう言った。

「でも、槍なんて……」

「何も本物の槍である必要性はない。要するに長い棒のようなものの先端にナイフをくくりつけたものさえあれば、槍としての機能は充分に果たせる」

「だけど、それがどういう……」

 瑞穂が疑問を投げかけようとした瞬間だった。

「そ、そんな馬鹿な!」

 突然誰かが叫んだ。見ると意外な事に紙内が青ざめた表情で、ある人物を幽霊にでも遭遇したかのように見ている。

「気が付いたようだね」

 榊原の声が険しくなる。全員の視線が紙内の視線の先に向き、そして皆が皆一同に驚愕の表情を浮かべた。それは、本当に色んな意味で、今までの中で最大ともいえる衝撃的な事実だった。

「もし、今回の犯行が『槍』で行われたと考えるなら、それができる位置にいる人物は……たった一人だけだ」

 榊原はその人物に呼びかける。

「……猿芝居はもうやめにしよう。正直、私も聞いていて色々腹に据えかねている部分がある」

 榊原はその人物をジッと睨みつけ、腹の底から、まるで被害者たちの無念を代弁するかのごとく、そのあまりにも意外すぎる名前を鋭く叫んだ。


「野川有宏!」


 ビクッと肩を震わせ、その人物……さっきまで威勢よく得意げに推理を語っていたミス研部長かつ高校生探偵の野川有宏は、一瞬呆気にとられた表情をしたが、しかし次の瞬間にはどこか挑みかかるような目つきで榊原を睨み返していた。

「あの時、二号館の二階にただ一人いた君が、この長年にわたる恐るべき連続殺人事件の真犯人だ!」

 その告発に対し、野川は動じる事なくただ榊原を睨みつけている。認めるつもりはさらさらないらしい。

 探偵対探偵……否、探偵対犯人のすべてを賭けた激闘の幕が上がった瞬間だった。


「僕が、犯人ですか」

 しばらくの沈黙の後、野川は静かにそう言った。衝撃の告発をされた割には、非常に落ち着いている。

「僕は推理勝負のつもりだったんですけどね。まさか、犯人として告発されるなんて思ってもいませんでしたよ」

「認める気はないだろうね」

「もちろんです」

 野川はさっきと変わらぬ表情で言う。冷静さを失っていない。それがかえって怖いと瑞穂は感じた。

「つまり榊原さん、あなたは僕がさっきした推理を全否定するわけですか?」

「もちろんだ。あれは一から十まで君が作り上げたでたらめの推理だ。それにしても、よくあそこまでもっともらしい推理を組み立てられたものだ。その点に関しては、君の実力は本物だと言わざるを得ない」

 瑞穂は混乱した。

「え、あれが全部嘘?」

「とてもそうは思えなかっただろう。相当に整合性のあるかなり高度な『偽推理』だ。並の人間にできる事ではない。だが、あの偽推理がこの探偵もどきの殺人鬼がついた壮大な嘘である事は間違いない」

 榊原は瑞穂に向かって言う。瑞穂は、美穂が無実なのかもしれないという希望が出てきた事に一応ホッとしつつ、一番犯人としてありえないと思っていた野川が犯人だと言われて、かなりショックを受けていた。だが、榊原が軽々しくものを言う人間でない事は、二ヶ月前の事件で嫌というほどわかっている。

「面白いですね。こんな挑戦のされ方は初めてですよ」

 野川はそのようにコメントした。

「わかりました。あなたがそう言うなら、僕も一介の探偵として受けて立ちましょう」

 あくまで自分が犯人だとは認めず、探偵として受け立つと野川は宣言した。

「では最初に聞きますが、仮に犯行が槍によるものだったとして、どうして僕がその犯人になるのですか。まずはその点を聞かせて頂きたい」

 野川の問いに対し、榊原はおもむろに別の事を語り始めた。

「君は先程の推理の際に、やけに一号館と三号館を切り離して推理をしようとしていた。事実、推理中に二号館に関する事象は一切含まれていない。これがまず引っかかった」

「何かおかしいでしょうか。さっきも言ったように犯人が二人いればあの不可能犯罪は解決する。だからこその推理です」

「いや、あの推理における君の真の目的は、一号館と三号館を切り離して考えさせる事で、その間にある二号館の存在から目をそらさせる事にあった。逆に言えば、一見何の事件も起こっていなかった二号館の存在こそがこのトリックの肝という事になる」

「二号館がトリックの肝? すみませんが、意味がわかりませんね」

「では、わかるように言おう。簡単に言えば、君は二号館の二階を中継ポイントにして、二号館の両隣にある一号館と三号館で殺人を実行したという事だ」

 榊原は断言し、さらに自身の推理を突きつけにかかった。

「君は棒状の物体の先端にナイフをくくりつけた自作の槍を作り、二号館二階の廊下側の窓からタイミングよく突き出して、ミス研の窓のそばにいた溝岸幸を刺し殺した。廊下側の窓には鉄格子があるが、凶器が槍だったとすればそんなものは何の障害にもならない。君は二号館の二階にいながらにして、三号館二階にいた溝岸幸を三号館に一歩も入る事なく自らの手で殺害した」

 瑞穂は想像する。開けっ放しにされたミス研の窓際にもたれかかる幸。その背後、つまり二号館の鉄格子の間から突然槍が飛び出し、死角から幸の体を貫く。

 ……いや、確か幸は胸を刺されていた。となると、窓から何の気なしに外を見ていた幸の目に、反対の二号館の鉄格子の向こうで何かをしている野川の姿が目に入ってくる。何をやっているのかと思っていると、いきなり鉄格子の間から何かが自分めがけて突き出されてくる。避ける間もなく、それは自分の胸に突き刺さる。驚いて二号館の鉄格子の向こうにいる野川を見る幸だが、すぐに意識が途絶え、ナイフが抜かれると同時に崩れ落ち、窓のそばの机にもたれかかる。時間にしてわずか一分前後の早業殺人である。それは、想像するのも恐ろしい犯行の瞬間だった。

「馬鹿馬鹿しいですね」

 と、野川はそのように言った。

「そもそも、あなたがさっきから言っている槍……そんなものが二号館のどこにあるんですか。あなたも二号館は探したはずですよね」

「ああ」

「槍は見つかりましたか?」

「いや、明らかな槍状のものはなかった」

 野川は息をつく。

「では、あなたの推理は成り立ちませんね。さっきあなたが言ったように、二つの棟は大体三メートル離れています。逆に言えば、それを超える長さの棒が必要になる。そんなものはあそこには……」

「ただし」

 榊原は野川を遮った。

「槍になりうるものなら、いくつかあった」

「……お聞きしたいですね。一体それは何ですか?」

 野川が尋ねる。これに対し、榊原はこう答えた。

「君がずっとあの場所で探していたものだよ」

 その言葉に、紙内や香が反応した。

「ま、まさか……」

「君たちは気がついて当然だね」

 榊原は告げる。

「そう、剣道部の命ともいえる存在……『竹刀』だ。あれを何本か直列につなげば、一本の長い棒が出来上がると思わないかね」

 その瞬間、瑞穂の脳裏にはあの一メートル少しある竹の刀の映像がくっきり浮かび上がった。確かに、二号館の倉庫や剣道部室には竹刀が大量に保管されている。あれをつなげば、隣の棟まで届く長い棒ができるはずだ。

 しかし、野川はまったく動じていない様子だ。

「残念ですけど、それは無理だと思います」

「なぜだね?」

「理由は剣道部の二人がよく知っていると思いますよ」

 野川が紙内と香を見ると、代表して香が答えた。

「榊原さん。彼の言うように、ただつなげただけではおそらくその犯行は無理です」

「というと?」

「竹刀は一本につき大体四〇〇~五〇〇グラムの重さがあります。高校生用の竹刀なら一本三尺八寸、つまり一メートル二十センチ弱。つなぎ合わせる部分を考慮すれば、隣の棟まで届かせるのに最低三~四本の竹刀を直列につなげる必要性があります。となると、その竹刀をつなげてできる棒の重さは大体一五〇〇グラムから二〇〇〇グラム。てこの原理などを合わせて考えても、よほどの力がないと自在に扱う事などできませんし、下手したら持ち上げる事すら難しいかと」

 瑞穂は考えてみた。純粋に重さだけで考えれば、竹刀を四本束にして素振りができなければこの棒を持つ事は不可能である。さらに、実際にその棒を槍として使うとすれば鉄格子の関係からどうしても棒の端を持つ必要がある。二キロの重さがある四メートルの鉄棒の端を持って自由自在に振り回すようなものだ。普通に考えてまず無理である。

 さらに、紙内がこう続ける。

「おまけに、一本一本のパーツになる竹刀に重さがあるから、どれだけしっかり結んでも空中に突き出した瞬間に下に垂れ下がるか、あるいは結んだ紐が重さに耐え切れずに切れて空中分解するのがオチです。そもそも竹刀は円形ですから、いくらしっかり結んでも隙間ができてしまいます。どうしてもそこからほつれてしまうんですよ。持っただけでこれですから、突くなんてとんでもない。相手に当たった瞬間にバラバラになって、肝心の相手にはほとんどダメージはないはず。反対側にいる相手にまともに刺すなんて、まず無理だと思います」

 その場面が瑞穂の頭に克明に浮かんだ。確かに、言われてみればかなり難しそうである。

「じゃあ、竹刀じゃなくて木刀ではどうですか?」

「木刀の重さも竹刀とほとんど変わりませんし、形も卵形ですから根本的な解決にはなりません」

 瑞穂の提案に、香は駄目だしする。

「そういうわけで、竹刀は槍にはなりえません」

 野川は落ち着いた様子でそう言って榊原を見やる。だが、榊原はひるんでいない。

「私は複数の竹刀を直列につなぐなどとは言っていない。使う竹刀は一本で充分だ」

「……何ですって?」

 野川が訝しげな表情で聞き返し、さらにこう反論する。

「竹刀一本で何ができるというんですか? さっき二人が言ったように、竹刀一本の長さは約一メートル二十センチ。対して二つの棟の間は三メートル。鉄格子の事を考えれば突き出せるのは一メートル。まったく届きませんよ」

 これに対し、榊原はこう答えた。

「竹刀がどんな風にできているを考えてみれば、その答えはおのずと見えてくる」

 その言葉が発せられた瞬間、剣道部の二人の表情がハッとなった。

「そ、そういう事か!」

 紙内が納得したような声を出す。

「え? どういう事?」

 さつきが尋ねる。これに対しては、香が答えた。

「磯川さん、竹刀というものは実はいくつもの部品の組み合わせでできているんです。より正確には、剣先についている先皮、持つ部分を覆う柄皮、竹刀の有効打突部位を判断する中結い、それらを結ぶ弦……これは簡単にいえば竹刀の上を走っている紐の事です。それに鍔と鍔止めがあって、最後にメインとなる刀身を作る竹です」

 ただし、と香は続けた。

「この竹は、一本の竹刀につき、通常四本一組で使われています。太さ二センチ、長さ一メートル二十センチ程度に切られた平たい四本の竹を円形に組み合わせ、そこに先程言った各部品を装着する事で竹刀を形成しているんです」

「四本の竹?」

 その言葉に瑞穂は引っかかった。香は頷く。

「当然、この竹一本一本は同じ長さです。竹刀がささくれたり割れたりした場合は、割れた竹だけを別の竹と交換する事で再利用できるようになっています」

「ま、まさか……」

 瑞穂は感づいた。

「そう。一本の竹刀をバラバラに解体して、分解された四本の竹を直列につなげれば、重さが一本の竹刀と同一で、なおかつ平たいためにしっかり節目を結びつける事ができる、立派な一本の棒ができるとは思わないかね?」

 その言葉に、野川の顔色が一瞬変わったのを瑞穂は見逃さなかった。それで瑞穂は確信する。正しいのは榊原だと。

「竹一本の長さは竹刀と同一だから、四本合計で四メートル前後。不安ならもう一本バラバラにして竹一本分だけ付け足して五メートルにすればいい。それでも重さはせいぜい六〇〇グラム。竹刀一本分と変わりはなく、てこの原理などを考慮しても持てなくはない重さだ。なおかつ、竹一本一本そのものは一〇〇グラム弱だから垂れ下がったり空中分解したりする危険性はない。しっかり結びさえすれば、本物に負けず劣らない立派な槍が出来上がるはずだ」

「まさに、竹刀だからこそできる反則技ね」

 朝子が呟いた。

「でも、竹だとどうしてもしなるんじゃないですか? 狙いが定まらないと思いますけど」

 野川が反論する。が、榊原はすかさずこう切り返す。

「それが心配ならカーボン竹刀を使えばいい」

「か、カーボン竹刀?」

 聞き慣れない言葉が出てきてさつきが戸惑う。そんなさつきに香が説明を加えた。

「文字通り、炭素性の人工素材でできた人工竹刀の事です。天然の竹と違ってささくれや割れなどの破損が少ないので、かかり稽古など激しい打ち合いが想定される稽古で利用されている事が多いです」

「へぇ、剣道の世界にもハイテク技術があるんだ」

 香の説明に、さつきが感心したような声を出す。剣道とハイテク技術という組み合わせは確かに違和感があるものだが、とにかくそういう竹刀があるのは確かなのである。

「紙内君、この学校にはカーボン竹刀があるかね?」

「は、はい。カーボン竹刀は値段が高いし普通の竹刀と比べて違和感があるので僕たちは普通の竹刀を使っていますけど、一応稽古用に数本だけは購入してあります」

「その竹刀は?」

「普段は部室に……」

 紙内はそれ以上言う事ができないようだった。

「このカーボン竹刀を使えば、より丈夫な槍ができるはずだ。どうだろう?」

 野川は一瞬黙ったが、すぐに反撃する。

「仮にそんな槍が作れても、どうやって鉄格子から出すんですか。廊下の幅は二メートル前後。五メートルもの槍を出す余裕はありません」

「槍を部屋の中に突っ込めば可能だ。部屋の奥行きは五メートル。廊下と合計すれば七メートル。充分入る」

「でも部屋の中はどの部活も備品でごちゃごちゃしていて……」

「二号館の五部屋目、つまりミス研の正面にある部屋は柔道部だ。柔道部は休部中で部屋の中はがら空き。おまけに鍵すらかかっていない。うってつけの部屋だと思うがね」

 野川の反論を榊原は的確につぶしていく。野川はため息をついた。

「わかりましたよ。確かに僕は溝岸さんを殺せる立場ではあるようです。でも、それだけですよね。これは同時多発殺人なんです。一号館の殺人はどうなるんですか? こっちは刺殺じゃない。槍で殺害するなんて芸当は無理です。一号館の殺人に関しては現場に行かなくてはならないという事実は変わっていないんですよ。そして、それが可能なのはそこにいる西ノ森君ただ一人という事は、さっき僕が証明した通りです」

 野川の言葉に、少し落ち着いていた美穂が肩を震わせる。

「あ、あんた! まだ西ノ森さんを疑う気!」

 さつきが激昂する。香がそれを押しとどめ、その隙に野川は反論する。

「疑っているんじゃなくて、正当な主張をしているんです。それを言うなら、この探偵さんはどうしても僕を犯人にしたいようですし」

 野川は榊原を睨んだ。そこにさっきまでの温厚でありながらすばらしい推理をする素人探偵の姿はない。

「それとも、あなたは僕が溝岸さんを殺した後、どうにかして二号館から一号館に移動したとでも言うつもりですか?」

 野川の挑発に、しかし榊原はあっさりと否定した。

「いや。最初に言った通り、これは君一人が計画し実行した犯行だ。ゆえに一号館の殺人も君の仕業だろう。そして、君が二号館から一歩も出ていないというのも事実だ。君は、二号館から一切出る事なく四人の殺害を成し遂げた。そう考えるしかない」

「だから、どうやってですか。一号館の殺人は横川君を殴り倒した上での放火と村林君への花瓶落下。その場にいなくてどうやって……」

「それに関してだが、まず誤解を解いておきたい」

 不意に榊原はそう告げた。

「誤解?」

「今までの推理だと、横川君は殴り倒された後、すぐに火をつけられたように認識されている」

「当たり前でしょう」

「違う。彼の死因は火災による焼死で、これの時間は解剖などでも明らかになる事だ。だが、彼の死亡イコール彼の殴られた時間ではない。警察が出すのは死亡推定時刻であって、彼が殴られた時間ではないという事だ」

「それが何か? どっちも同じようなものじゃないですか」

 野川が言うが、榊原はこう切り返す。

「何かまずいのかね?」

「え?」

「横川君が気絶した時間と死んだ時間が違うと何かまずい事でもあるのかね?」

「そんな事は……」

 そう言いつつも、野川が少し動揺した表情を浮かべたのを瑞穂は見た。鉄壁に思えた野川が少しずつ追い詰められている。瑞穂はそう実感した。

「でも、二つの時間が違ったところで、何も変わらないと思うのですが」

「いや、少なくとも条件を一つクリアできる」

「条件?」

「つまり『殴って気絶させる』という行為を、犯行時間の数分間にやらなくてもいい事になる。もっと言えば、佐脇君が二号館の入口に立つ前に、一号館に侵入して仕込みをする余地があるという事だ」

 その答えに、野川の表情が明らかに変わった。

「君がやった困難の分割の応用だ。ただし、私がやったのは『犯人の分割』ではなく『行為の分割』だがね」

 榊原は推理を進める。

「恩田君の話だと、午後二時頃に美術部室の前を通りかかった時、部屋の中には誰もいなかったそうだ。一方、君は午後二時半から二号館に入っている。つまりこの三十分間が、君が横川に直接手を下した本当の犯行時間という事になる」

「具体的に言って下さい」

 野川は感情を押し殺しながら促す。

「最初に言っておくが、美術部室の鍵が壊れたり、事件当日に揮発性の接着剤が床に落ちていたりしたのは、すべて君の事前工作だ。そうする事で、事件当日に美術部員が部屋に出入りしないようにする必要があった。理由は言うまでもなく、犯行を起こすのがあの部屋でなくてはならなかったからだ」

「なぜですか?」

「一つは柔道部室を挟んでミス研部室と一直線上にあったから。これが後のトリックにおいて重要不可欠な要素になる。もう一つは、新聞部が下にあって、村林を殺害する絶好の場所だったからだ」

 榊原は野川の反論を退けて先に進んだ。

「君は、何らかの理由をつけて横川君をあの部屋に呼び出し、そして彼を殴りつけて気絶させた。重要なのは、この時点では気絶させただけで殺害の意思はなかったという事だ。殺害はあくまで午後三時。この時点では彼に生きてもらう必要があった。理由はもちろん、この後の犯行時に自分が二号館にいたというアリバイを作るため。その後、君は気絶した横川君を窓際の机の上に座らせ、部屋にある細工をした後一号館を脱出し、二号館に合流した」

 榊原は野川を睨む。

「つまり、この時点で君が一号館に関して犯行時刻にやるべき事は、窓際の花瓶を落とし、部屋に火をつける。この二つだけだった事になる。どうだね、これだけなら現場に行かなくてもできそうだとは思わないかね」

 確かに、と瑞穂は思った。今までは横川を殴り倒す作業があったため、どうしても現場にいかなくてはならないという条件が出てしまっていた。しかし、それさえなければ思ったほど不可能ではなさそうに思えてくる。

 だが、野川は当然反論を続けた。

「それでも、花瓶を落として火をつけるという作業を現場に行かずにやるというのは難しい作業だと思います。そんなの、人間業でできるわけが……」

「そう考えられていた三号館の殺人は、例の槍でクリアできたはずだがね」

 榊原が遮るように言う。

「……どういう事ですか?」

「一号館と二号館、この二つの棟の間も三メートルだ。つまり、一号館側もあの槍を使えば二号館にいながら現場に干渉する事はできるという事だ」

 榊原の言葉に、野川は押し黙った。

「君は自作の槍で溝岸を殺害したあと、そのまますぐ槍を引っ込めて反対側に走り、今度はあらかじめ開けておいた柔道部室の窓から槍を突き出した。無論、あの長さでは方向転換などできないからそのまま今まで握っていた側を一号館と二号館の間の空中に伸ばしたとう事になるのだろうがね。二つの棟の幅は三メートルで、その先にある廊下は二メートル。五メートルの槍なら、美術部室の入口辺りまでならギリギリ届く」

「そんなところまで届いたところで、何もできないじゃないですか」

 野川が反論する。だが、榊原はひるむ様子がない。徹底的に野川を追い詰めていく。

「ここでいくつか情報を提示しておこう。一つ、あの部屋の出火場所はなぜか入口付近だった。なぜこんなところが出火地点なのか。普通に考えたらあまりにも不自然だ。二つ、あの部屋の火災報知機が破壊されていた。スプリンクラーならまだわかる。だが、火災報知機を壊して何になる。音は響くだろうが、それで火の勢いが弱まるわけでもない。はっきり言って、あの場合はまったくの無駄な行為にしかなっていない。にもかかわらず、犯人は火災報知機を壊していった。なぜか。三つ、花瓶が置かれていたと思しき窓際のあたりに、作品を包む麻紐の燃え残りのようなものがあった。これは何なのか。四つ、ドアのすぐ横に寄り添うような形で机の残骸があった。この机は何なのか。五つ、さらに内側に開くドアをふさぐように机が配置されている。この机も何なのか。島波さん、この机の配置に見覚えは?」

「いいえ、そんな場所に置いた覚えは……」

 美術部長の春海が答える。榊原は野川を見据えて告げた。

「すべてを考えて推理すると、ある一つの光景が浮かぶ。それは、殺人発火装置とも言うべき代物だ」

「殺人発火装置?」

 その場にいる人間全員が首をかしげる。

「多少想像は入るが、おそらくこのようなものだったと考える。まず、気絶した横川を窓際近くの椅子の上に座らせる。次に火災報知機とスプリンクラーを破壊し、床一面に灯油を撒き散らす。さらに内側に開くドアのドアノブに麻紐の先端の一方を結び、もう一方の先端を窓際まで引っ張って、花瓶の場所でUターンした上で再びドアノブまで伸ばし、そのままもう一方もドアノブに結びつける。つまり、ドアノブと花瓶を含んで大きな麻縄の輪を作るような形だ。そして、花瓶を今にも落ちそうな状態で輪になった麻紐にもたれかけさせて固定し、ドアをギリギリ隙間のある状態まで閉めてその前に机を置き、ドアがそれ以上開かないように固定。最後にドアの隙間のすぐ近くに机を置いて、その机の上に火のついた蝋燭でも乗せれば準備完了だ」

 そう言いながら、榊原は別の紙を取り出して壁に貼った。簡単ではあるが、この仕掛けを仕込んだ美術部室の見取り図らしい。

「犯行時刻に、君がやる事は極めてシンプルだ。ドアからわずかに開いた隙間……この傍にある火のついた蝋燭を槍で倒し、灯油が撒かれた床に落として火事を引き起こす事。すると、どうなるか」

 その瞬間、瑞穂は声を上げた。

「そうか、火でドアノブに結び付けられた麻紐が焼け切れて……」

「支えを失った花瓶は下に落下し、その時下にいるはずの村林の頭を直撃する。後は火災の勢いが増し、この殺人装置はすべて焼け落ちてしまうという仕組みだ」

 恐るべき殺人装置であった。火をつけるだけで二人の命を瞬時に奪える装置なのである。

「火災報知機を壊したのは最初の出火で警報を鳴らされたら火災の後に花瓶を落とした事になってしまうから。犯人が花瓶を落とした後に火をつけて脱出したと見せかけるための工作に邪魔だったというわけだ。どうだろう。これなら二号館にいながら一号館の殺人が可能になると思わないかね」

 榊原の問いに、野川は反論で返す。

「机上の空論ですね。そんな長い間燃える蝋燭なんかあるわけがない」

「だったら、アルコールランプで充分だ。隣は科学部。どうせ燃えるんだから、鍵を壊して侵入しても怪しまれる事はない」

「だとしても、そのトリックは重大な欠陥を抱えています」

 野川は淡々と告げた。

「欠陥というと?」

「確かに、その装置で火災は起こせますし、花瓶を落とす事もできるでしょう。でも、その花瓶の下に村林君が必ずいるとは限らない。外れる可能性もあるという事です。もし外れたら、その時点で村林君の殺害が失敗に終わってしまいます」

「ならば、こう考えればいい」

 榊原はそう前置きして、とんでもない事を告げた。

「村林君に関しては死んでも死ななくてもどうでもよかった。結果的に死んでしまったが、死ななくても支障がなかった、という事だ」

 あまりに飛躍した理論に、その場にいた学生たちは唖然とした。だが、警察関係者たちは全員神妙な表情をしている。

「そんな馬鹿な話が……」

 野川の咄嗟の反論を否定したのは、脇で話を聞いていた斎藤だった。

「未必の故意、という事ですか?」

「な、何ですか、それ?」

 いきなり出てきた難しい用語に、瑞穂は当惑する。斎藤が詳しく説明した。

「刑法用語の一つで、簡単に言えば、相手を何が何でも殺すと思わなくても、もしかしたら死ぬかもしれない程度の気持ちで殺害に及べば殺意を認め、殺人罪を適用するという理論です。つまり、今回のように相手が死んでも死ななくてもどっちでもいいという場合にも殺人罪を認めるという事で、逆に言えばそういう事例が数多くあるという事なんです」

 斎藤の説明に、瑞穂は困惑した。

「じゃあ、村林先輩は絶対に殺さなくてはいけないというような標的ではなかったという事ですか?」

「動機については後で説明するが、村林が告発しようとしていたミス研の裏の内容にもよる。それが横川のホームレス狩りに関する事なら、野川が早急に消す必要はない」

「でも、だったらどうして……」

「野川にほしかったのは『村林が殺されかけた』という事実そのものだ。その結果はどうでもいい。ただ、彼に対する殺人行為が行われたという事実が、一号館で二つの殺人が行われたという事象に結びつき、二号館にいた野川のアリバイを鉄壁なものにするわけだ」

 瑞穂は背筋が寒くなった。

「じゃあ、村林先輩はアリバイ工作のためだけに殺されて、しかも犯人にとってその生死はどうでもよかったって事ですか?」

「……そうだ」

 とんでもない話だった。これでは村林だって浮かばれない。見ると、亜樹が歯を食いしばりながらジッと榊原の話を聞いている。話を聞く事が村林の供養につながると思っているようだ。

「許せない……」

「いや、実の所、これはまだましな話だ。この男がやったもう一つの殺人は、それこそ救いがたい動機だと推測できる」

「それって……」

「朝桐殺しだ」

 榊原はさらに残酷な推理を続ける。

「一連のトリック最大の欠点は、いくら人通りが少ないからといって二号館から槍が伸びているところを第三者に目撃される可能性がある事だ。そして、おそらく朝桐英美はまさにその『目撃者』になってしまったと思われる」

 榊原はこう続けた。

「犯人としてはこの目撃証言を警察に知られるわけにはいかない。となると、方法は一つだ」

「ま、まさか……」

「目撃者は消せ。犯罪者の鉄則だ」

 その言葉に、全員が震撼した。

「つ、つまり、朝桐先輩はたまたまあそこを通りかかって槍による殺人を目撃したから……」

「そのまま有無を言わさず槍で突き殺されたんだろう。彼女に対する動機がでてくるわけがない。彼女は加害者でもなんでもなかった。ただ、本当に運悪くあそこを通りかかってしまった、動機なき被害者だったというわけだ」

 瑞穂は絶句した。人の命を軽んじるにもほどがある。瑞穂が知る限り、もっとも悲惨な殺され方であった。しかも野川は、そんな彼女にあろう事か溝岸殺害の罪まで着せようとしていたのである。

「どうだね? 反論はあるかね?」

 しかし、野川はまだ諦める様子を見せない。

「言いたい事はいくらでもあります」

 そう前置きして、野川は反撃を開始した。

「まず、僕があそこに行く事になったのはあくまで偶然です。偶然を利用して殺人をするなんて馬鹿ばかげています。それに、溝岸君が部室にいたのも偶然。村林君が新聞部の窓の前にいたのも偶然。佐脇君が二号館の前にいたのも偶然。偶然ばかりじゃないですか。こんなの計画とは言えません」

「ならば、偶然ではなかったと考えるべきだ」

 榊原は反撃に対して切り返す。

「まず、君は紙内君が竹刀を探す事になるとわかっていたはずだ」

「どうして?」

「事前に顧問の竹刀に細工をして折れやすくしておけばそれでいい。分解して内側に切れ目を入れておけば気付かれない。竹刀で槍を作る事ができた犯人ならその程度の作業は朝飯前のはずだ。そうなれば必然的に部室に保管してある竹刀を探す事になり、その竹刀をあらかじめ処分しておいて、偶然を装って紙内君に捜索の手伝いを申し出れば、堂々と二号館に入る事ができる。また、この際に村林君を巻き込んだのは、村林君を解放する時間を調節して、殺害予定時刻までに新聞部に行く事を阻止するため。それさえ何とかすれば、村林君がいつも新聞部の窓で会話していた以上、偶然は偶然でなくなる。溝岸幸の一件に関しても、あのパーティーを企画したのは中栗君だが、事前にそれとなく『誕生パーティーがうらやましい』とでも言っておけば、部長思いの部員たちが準備を始めるのはわかりきっていた。そのうち、佐脇君と村林君を先程の剣道部での計略に巻き込みさえすれば、個々人の性格から大方あの面子で準備をする事は予想がつく。つまり、すべては計画に基づいた必然だったという事だ。仮にも素人探偵として名の知れた君の事だ。この程度の事は充分考えられるだろう」

 中栗の表情が青い。おそらく、榊原に言われたような事が実際にあったのだろう。

「では、それはそれとして問題の槍はどうなったんですか? まさかそのままという事はないですよね?」

「もちろんすぐに解体したんだろう。そしてすぐに元の竹刀に組み直した。そうすればまさか竹刀が槍になっていたなどとは誰も思うまい」

「待ってください。僕は事件発生後すぐに二号館から飛び出しているんです。竹刀を組み直す時間なんてありません」

 榊原は首を振った。

「それは違うな。君が二号館を飛び出したのは朝桐の遺体を見つけた佐脇君の悲鳴によってだ。佐脇君の悲鳴は火災発生の少し後に聞こえた。一方、さっきのトリックが使われたとすれば、槍の役割は花瓶の落下直前で終わっている。花瓶の落下から佐脇の悲鳴まで数分。この数分を使えば、慣れている人間なら竹刀の一本程度の組み立ては可能だ」

 立て続けに反論を封じられ、野川の表情が険しくなる。

「一連の犯行を最初から振り返ってみよう。午後二時過ぎ、君は美術部室に横川を呼び出して気絶させ、例の仕掛けを作って一号館を出た。午後二時半、村林と交代して二号館の二階に行き、問題の槍を作成する。二号館はただでさえあの時間帯は全員部活中で人の出入りがない。だから、人目の心配はなかったはずだ。そして運命の午後三時、まず君は三号館のミス研部室にいた溝岸幸を、部室に彼女一人だけになった瞬間を見計らって二号館廊下側の窓から槍で突き殺した。実際、この時ついたと思しき血痕が窓際に残っていたよ。だがこの時誤算があった。一階に降りてきた朝桐英美が槍に気が付き、窓の下に近づいてきてしまったのだろう。まさか殺人中とは思ってもいなかった本人としては興味本位だったんだろうが、そんな朝桐君を君はとっさの判断で刺し殺すしかなかった。だからこそ、凶器のナイフの入射角度が六十度にもなっていたわけだ」

 確かに、二階から一階にいる英美を突き殺したとすれば、あの急すぎる入射角度も納得がいく。

「その後、君はすぐにナイフを先端から外して英美のそばに投げ捨て、今度は反対側の柔道部室から槍を突き出して、蝋燭かアルコールランプかは知らないが、とにかく仕掛けの火元を落として美術部室に火災を発生させ、一号館のトリックを発動させた。そしてすぐに槍を引っ込めて竹刀に戻し、佐脇君の悲鳴があったのを見計らって紙内君と合流。まんまと『事件の間ずっと二号館二階にいた』という鉄壁のアリバイを手に入れたというわけだ」

 榊原の論理には一切の隙もない。野川の推理が完璧な推論なら、榊原の推論は隙のない推論である。完璧はちょっとした隙から崩れる事もあるが、隙のない論理はそう簡単には崩せない。まさに、二人の姿勢がそのまま出ている形だ。

 しかし、これだけ隙のない論理で追い詰められながらも、野川はまだ反論を試みる。表向きは落ち着いているが、内心では彼も必死なのが瑞穂はわかっていた。

「……一番大切な事がまだ反論できていないじゃないですか」

 野川の言葉に、榊原は眉をひそめる。

「何かね?」

「証拠ですよ。決定的な証拠。僕は西ノ森君が犯人である証拠として血のついた金槌を提出しました。この金槌を使用できたのは西ノ森君だけ。つまり、金槌に横川君の血液が付着している以上、彼女が犯行に関与しているのは疑いのない事実です」

 野川は美穂を睨みながら言う。だが、そんな美穂の前にさつきが守るように立ちふさがり、野川を睨みつけている。

「一方、あなたの推理は推論ばかりで証拠がない。決定的証拠を提出してくださいよ」

 野川はそう言って、どこか勝ち誇ったような表情を浮かべた。絶対に覆せない。そう確信したかのような表情である。

 だが、榊原はまったく動じる様子がない。

「証拠ならある」

「聞かせてください」

「まず、君が使用した竹刀がある。いくらなんでも、この短時間で竹刀を一本処分するというのはかなり難しい話のはず。必ずルミノール反応に反応する竹刀がどこかに存在するはずだ」

「へぇ、でも、今その竹刀は見つかっていませんよね。僕はそこまで待てませんよ」

 野川はそう言い放つ。

「今現在、この場に提出できる証拠を出してください。すでに鑑定結果の出ている証拠です。それがなければ、僕は絶対に認めませんよ」

「……」

 榊原は一瞬押し黙って野川を見た。しかしその視線を見て、瑞穂はオヤッと思った。まるで、野川を哀れむような視線だったからだ。

「そんなに証拠が望みかね?」

「ええ、当然です。探偵としては、証拠の提出がなければどんな事件でも解決したとは言えませんからね」

 野川は余裕を取り戻しながら告げる。

「……では、望み通りに」

 榊原はそう言っていったん目を閉じて深呼吸すると、すぐに目を開けてこう告げた。

「実は、私の証拠も君と同じだ」

「は?」

「つまり、あの金槌が私のいう証拠という事になる」

 その言葉を合図に、圷がビニールに入った金槌を取り出した。

「これが、君のいう西ノ森美穂が犯人だという証拠だね」

「そうです。この金槌に血がついていたから……」

「それはありえない」

 榊原はピシャリと告げた。

「は、はい?」

「だから、この金槌に血がついているなどという事はありえないんだ」

「でも、実際にこの金槌には……」

 その瞬間、圷が発言した。

「おい、小僧」

「こ、小僧って……」

 圷は野川を睨みながらこう告げる。

「調子に乗っているところ悪いがな……日本の鑑識をなめるなよ」

 その言葉に、さすがの野川もしばらく呆然としていたが、やがて何かに気付いたらしく、いきなり震え始めた。

「ま、まさか……」

「気が付いたか」

 榊原は決定打を放つ。

「君の考えている通りだ。そもそも、鑑識があんなに無造作に放置されている金槌を見逃すと思うかね? その金槌は、私たちが行った現場検証直前に、鑑識が本物の金槌に代わって置いた鑑識所有の金槌だ」

 その言葉に、ついに今まで大きな変化のなかった野川の表情が大きく変わった。

「お、お前……僕を罠にかけたね!」

 野川が激昂しながら言う。その姿に、今までの落ち着いた雰囲気は微塵もない。対して、榊原は涼しい表情で野川を睨みつけている。その姿は、まるでとどめを刺そうとしている虎のようだ。

「最初から全部仕組んでいたのか!」

「そういう事だ。君ほどの人間を追い詰めるには、このくらいはする必要があった」

「ふ、ふざけないでよ!」

 野川がすべてをかなぐり捨てて絶叫する。わからないのは瑞穂の方だ。

「えっと……どういう事ですか?」

「つまり、彼と一緒に行った現場検証やこの推理勝負そのものも、全部最初から私と鑑識が仕組んだ罠だったという事だ」

 瑞穂の問いに榊原はそう言って、野川を見据える。一方、野川はよほどショックだったのかいささか混乱状態にあった。

「そ、それじゃあ、最初から野川先輩の事を疑っていたんですか?」

「あぁ、そうだ。ある確証があったのでね」

 榊原は淡々と種明かしをする。

「これだけの大トリックを考えた男だ。まともにぶつかってもおいそれとは尻尾を出さないと思っていた。だから、次に彼がどんな行動に移るか推理をした。普通に考えて、このまま犯人が見つからなければ永久に捜査が続く。彼としてもそれは避けたいだろう。となれば、この男が採ると予想される行動は一つ」

「それって……」

「探偵役として、偽の真相に皆を誘導して、冤罪を引き起こす事だ」

 瑞穂はゾッとした。

「私は、この男がもし偽の推理をするならどんなシナリオを描くだろうかと考えた。その結果、犯人の分割を行ったうえで、一方を朝桐の自殺と判定し、もう一方で西ノ森さんに罪を着せるだろうと思った」

 ここに至って、榊原が最初に言った言葉の意味が理解できた。

「だから、いっそ彼がその推理に行き着くように誘導し、そこから彼を追い詰める事にしたまでだ」

「誘導って……」

「わざと現場検証を行わせ、この推理に都合のいい証拠を偽造するように仕向けた。この場合、一番偽造する確率が高いと思われるのは西ノ森美穂周辺の物品だ。だから、鑑識にはあらかじめその辺りの証拠品を回収してもらい、まったく同じものをあたかも本物のように現場に置いてもらった。そして、案の定この男は西ノ森さんに罪を着せるべく、鑑識が置いた事件にまったく関係のない金槌に隙を見て血液を塗りつけた。そして、わざと推理勝負を吹っかけ、相手が自信満々に偽造した証拠を出したのを見計らって逆にその証拠でとどめを刺す。そうなったら、いくらこの男でももう立ち上がる事はできない」

 瑞穂は唖然とした。あまりにも次元が違いすぎる話だった。犯人の思考の先の先まで読み切り、現場検証や推理勝負でさえ容赦なく利用する。正直なところ、野川とは探偵の格がまったく違う。

「じゃあ、私と行った現場検証って……」

「私自身は事情聴取の段階ですでに済ませていたから二回目だ。トリックも、あの時点で大体は見抜けていた。ちなみに、この計画を知っていたのは圷さんを始めとする鑑識と私だけだ。斎藤や国友さんにすら知らせていない」

 見ると、斎藤や国友もどこか呆気に取られた様子をしている。

「すまないな。榊原からの頼みで、面白そうだと思ったもんでな」

 圷が二人に頭を下げる。

「やれやれ、すっかり騙されましたね」

 国友が苦笑し、斎藤もやれやれと言わんばかりに首を振る。

「念のために言っておくが、本物の金槌からは彼の言うような痕跡は一切見つからなかった。さて、説明してもらえるかね。鑑識が交換した鑑識所有の金槌にどうして横川君の血液が付着している? この金槌に触れる事ができたのは、確か君だけだったはずだ、野川有宏!」

 最後は叩きつけるような口調だった。さすがの野川も、かなり動揺している。

「こ、こんなの、こんなの卑怯だよ!」

「卑怯だと? ふざけるな。こっちは君の犯した犯罪の捜査にすべてを賭けている。そのためなら私は法律に触れない限り何だってする。何年だって執念深く追い続ける。それが私の主義……私の生き方だ。それに、こうでもしないと君は無実の西ノ森さんに何の後悔もなく罪を被せて逃げてしまっただろう。それだけは絶対に阻止しなければならない。それが君のような紛い物の探偵ではなく、本物の探偵としての義務だ」

 榊原の言葉が重く響く。

「大体、金槌が凶器じゃないなら、横川君を殴った凶器は何なんだよ!」

「多分、亜樹さんがなくなっていたとぼやいていたA5用紙の束だろう。殴れば十分な凶器になるし、その後現場の美術部室にばら撒いておけば自動的に燃やされる仕組みだ」

 亜樹が口に手を当てて絶句する。あれにそんな意味があるなんて思ってもいなかったのだろう。

「……こんな罠、法廷では証拠にならない……」

「だが、君の犯行を証明する決定的証拠にはなる。……いい加減に認めたまえ。これ以上ははっきり言って見苦しい。仮にも探偵だというなら、最後くらい堂々とするんだな」

 榊原はそう告げた。野川は黙り込む。そのまま時が流れていく。

 しばらく重苦しい沈黙が続いた。

「……ふ」

 と、不意に野川が小さく笑った。

「フフフフフフフフフフフフ…………ハハハハハハハハハハハハ…………」

 どこか虚ろで、乾いた笑い声だった。

「……僕の負け、か」

 それが、野川の敗北宣言だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る