第30話 俺、君のそばに居たい

 俺は夢を見てゆめゐ喫茶に来た。夢だけだとわかっているにもかかわらずここに来た。だが、彼女ーー中野なかの美於みおが本当にここにいるとは!

 俺は言葉を失った。十年間も会っていない人と、出張でやっと会えた。本来ならば、俺は喜びに溢れているはずだった。なのに、仕事を優先しているのか、美於みおとのお喋りを少し後回しにしたほうがいいと思った。

 しかし、彼女のことを考えると出張のことがどうでもよくなった。


「……美於みおちゃん?」


 俺はいつも彼女のことをそう呼んでいたので、思わずそう口に出した。

 今となっては、美於みおはそのあだ名があまり好きじゃないかもしれない。

 俺は目的を果たして、願いがすでに叶った。だからこそ、何も言えずにいる。

 人生がこんなに変わるのはあっという間だった。

 それでも、何か言ったほうがいいだろう。十年ぶりに会えたけど、気持ちが冷めたわけではないし。


「あの、今は仕事中だから……。話は後回しにしてほしいけど」


 彼女をがっかりさせないように言葉を選ぼうとしたけど、どうせつたなかっただろう。

 そして、矢那華やなか部長がまた俺に冷たい視線を送る。


「私事について話すどころじゃないよ」

「すみませんでした。今は紹介を続きます」


 俺が次の機能を紹介しようとした矢先に、ゆめゐ喫茶店長とおぼしき女性が立ち上がった。彼女は青空の色に似ている髪の毛をさらりと掻き上げて、こう言った。


「実は、わたくしはもう満足しています。上出来ですね。したがって、わたくしは今このアプリを購入いたします」


 ーーもう購入決定なのか?


 この仕事は拍子抜けするくらいほど簡単すぎた。だから、俺は引っかけはないかと悩み始めた。

 少なくとも、矢那華やなか部長は俺たちのそばにいる。彼女の性格が好きじゃなくても、ベテランだとわかっている。彼女がいいと言えば、俺はいいと信じる。そういう関係だ。


「ありがとうございました」


 と、矢那華やなか部長は一礼して言った。

 そして、俺たちも礼を言う。


「では、せっかくなので、食べ物や飲み物を差し上げましょうか?」


 そう訊いてくれたのはゆめゐ喫茶の店長。

 矢那華やなか部長は結構ですと言わんばかりに頭を左右に振ったけど、さくらは明らかに興奮している。

 さくらもメイドが好きなのか?


「お願いします!」


 言って、さくらはブレザーを脱いでから席についた。

 俺は向こうの席に向かった。席に座ると、俺はさくらと一緒に昼食を摂った日のことをふと思い出した。


「それでは、用事があるので、私はここで」


 矢那華やなか部長はなぜか店を出たがっている。ドアの前に立ったまま、ゆめゐ喫茶の店長に作り笑いを浮かべた。


 ーー怖っ。


「お世話になりました」

「こちらこそですよ。このアプリはゆめゐ喫茶の成功にとって、かけがえのないものだと思います。大切にしますわ」


 気のせいだったのか、矢那華やなか部長はその言葉に舌打ちをしたかと思った。まあ、彼女には怒る権利があるんだろう。 なぜなら、ゆめゐ喫茶が彼女の願い事を叶えてくれなかったから。

 数秒後、矢那華やなか部長は振り向かずに店を出ていく。歩いている間、その長い髪の毛が尾を引くようになびいていた。

 俺は矢那華やなかの遠ざかっていく姿を見送った。

 そして、ドアの閉める音が店内に響いた。

 しばらくの間、店内は静まり返った。矢那華やなか部長が空気を気まずくさせたのだろうか。ようやく沈黙を破ったのは美於みおちゃんだった。


「ではでは! ご主人様、お嬢様! ご注文お待ちしていま〜す。ゆっくりと新メニューをご覧くださいませ!」


 ーー美於みおちゃん、メイド力が意外と高い! それに、新メニューなのか?


 俺たちはいいタイミングで来たようだ!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る