第3話

 これから会いに行こうとしている女は綾香ではない。長い廊下を歩きながら、黎人は必死に、自分にそう言い聞かせた。


 廊下の窓の外には花を満開に咲かせた桜の樹が見えている。温度と湿度が一定に保たれているドーム内の庭園は常に春か秋の景色だ。この区画は春の庭園。桜の樹の手前では薄いピンクの躑躅つつじの花が植え込みの表面を覆っている。黎人と綾香が出会ったのも、この庭園だった。


 綾香はなたで躑躅の枝を落していた。庭園を管理するための農具が仕舞われている倉庫から持ち出した大型の鉈を振り回し、せっかく咲いた躑躅つつじの花を枝ごと落としていたのだ。彼女にしてみれば、ちょっとしたゲーム感覚だったのだろう。赤い花は何点、桃色の花は何点、白は零点などと枝を落す度に奇声を発して鉈を大振りしていた。


 職員では危険であるからと、黎人が呼ばれた。黎人は超能力を使って綾香の手から鉈を放して飛ばし、綾香自身も地面に押さえつけて動けなくした。その時に飛んだ鉈が刺さった痕が、あの桜の樹に残っている。黎人はその時のことを思い出しながら、その桜の樹の幹を眺めた。


 その少し前に綾香が受けた手術は、世界初のものだった。病に侵された脳を自分のクローンのそれと入れ替えるというものだ。


 体から採取した細胞を培養して作られたクローンは健康な体だ。脳に何も記憶されていないので、意識も無く、人形同然。重篤な病に侵された者や大怪我を負った者から採取した細胞から培養してクローンを作り、そのクローンから摘出した臓器や体の一部なら、本人に移植しても拒絶反応の問題は起こらない。こういった視点から、世界中で研究がされていた。そして、この研究施設もその例外ではなかった。


 綾香が患っていた脳腫瘍は、脳の深い位置にあり、医学的に摘出手術は不可能と判断された。綾香と彼女の両親はクローン生成による脳の完全移植手術を選択する。そして、当時、その分野の最先端の研究をしていたこの研究施設にやってきた。


 脳そのものの移植自体は成功が見込まれたが、問題は記憶だった。この点で、脳移植については世界中の研究機関が大きな壁に直面していた。ところが、この研究施設には長年に渡り調べられてきた黎人の脳に関する分析と研究のデータが蓄積されていたので、それにより、本人の脳からクローンの新しい脳への「記憶の移植」が技術的に可能な段階まで研究が進んでいたのだ。


 ただ、仮に記憶の移植が可能だとしても、クローン体に記憶を移して、元の体を捨てるのか、一度記憶をクローン体に移してから互いの脳を入れ替えるのか、この点も議論があった。前者の場合、培養されたクローン体が新たな自分となる訳だが、確かにその肉体は新しく健康であるけれども、肉体全体としての各器官や部位の相互関係において、その寿命が全体でどれ程もつのかという事について未だデータが無いうえに、オリジナルの体がそれまでの人生で作り上げてきた個性がクローン体には無いので、移植した記憶と適合せず、意識が移転しても体を動かせないのではないかというおそれがあった。それに加えて、記憶を移植した後のオリジナルの自分をどうするのかという問題も残り、記憶のみの移植は逆に実現の壁が高かった。


 したがって、一度記憶をクローン体に移植した後で、互いの脳を入れ替える方法が選択された。これにより、オリジナルとクローンのどちらが本物の自分かという問題は解消されたが、依然としてもう一つの問題は残ったままだった。


 ところが、綾香にはその残った問題の解消を待つ時間は無かった。腫瘍の浸食は思いのほか早く、彼女の生存を脅かす程にまで病は進行していた。専門の医師によれば、このまま腫瘍による脳の浸食が進めば、いずれは性格にまで変貌をきたし、記憶の正確な移植は困難となるだろうとのことだった。しかし、それよりも早く彼女は意識を失い、重篤な状態となった。そして、緊急手段として直ちに記憶が移植される事となり、その後クローンとの脳の交換手術が実施された。


 その手術は世界的にも初めての事例であったが、秘密裏に実施された。これらの方法が技術的には可能であっても、倫理的に許されるのかという問題は別だったからだ。法整備も追いついていない。つまり、脳の移植については、まだ社会的に認知されていなかった。


 手術が成功した後も、綾香はこの研究施設から外に出ることを許されず、まるで籠の中の鳥のような生活を強いられることになった。そして暫くして彼女の肉体が回復してきた頃、穏やかだった彼女の性格に変化が生じ始めたのだった。綾香は次第に粗暴に、凶暴になっていった。


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