後編

 絹を裂く様な女性の悲鳴。人を呼ぶ男の怒声。近づいて来るパトカーや救急車のサイレン……

 地上の喧騒とは違って、ビルの地下のショットバーは静寂であった。


「この様子では、しばらくはお客様が来なそうですね…」

 マスターは一言呟き、グラスを磨き始める。



「いらっしゃいませ!」

 入口のドアが開き、中年と青年の男二人が入ってきた。

 二人はマスターに警察手帳を見せて言った。

「今、この店の入り口付近の路上で男性二人に対する傷害事件が起こった」

「犯人は未だ逃走中で、まだ見つかってはいない」

「目撃者の証言では、男性一人としか分かっていない」

「事件発生の30分前から今まで、この店に入って来た人はいるか?」

「いいえ、いません」


「では30分前以前に、この店から出て行った人はいるか?」

「今日は開店してからお客様は一人も来ていません」


「失礼だが、念の為に店を調べさせてもらう」

「どうぞ、ご自由に」


 二人の刑事は店の中を隅々まで探し始めた。カウンター下から裏まで、開けられる扉は全て開けて回った。

「あのドアは?」

「化粧室です、誰も入っていませんから開けても大丈夫ですよ」


 二人は化粧室のドアを開け中を改める。個室の中を見て誰もいない事を確認すると、カウンターの奥のドアに目を付ける。

「あのドアは?」

「倉庫です、食材やお酒を入れています」

「鍵が掛かっているな、開けてくれないか」

「お安い御用で」


 マスターが鍵を外しドアを開け明かりを点ける。細長い室内の両側には棚があり、食材や酒の段ボール箱が所狭しと並べてあった。どう見ても人が隠れる場所は無かった。

「ご協力ありがとうございました」

「念の為に聞きますが、この店から外へ出るには入り口のドアだけですね?」

「はい、そうです」

「マスターの今日一日の行動は?」

「今日は夕方に店へ来て開店準備をしてから、ずっとここにいます」

「それを証明する事は?」

「お客様が一人も来ていないので、難しいですね」

 マスターは苦笑いをする。


「これは失礼、では事件の被害者のA山A雄さんはご存知ですか?」

「ああ、その方なら一週間前に一人で来店して一時間ほど飲んで帰りました」

「TVで顔を観て知っていたので覚えています」

「飲んでいる間に他人との接触は?」

「いいえ、ありません」

「もう一人の被害者も写真を見れば分かるかな?」

「多分、一ヶ月以内に来ていたのなら……」

「ありがとう、もし何か思い出した事があったらココへ連絡して下さい」

 二人の刑事はマスターに連絡先のメモを渡して店から出て行った。




 刑事が帰ってからマスターはパチン!パチン!と指を鳴らしてから言った。

「もう出てきても大丈夫ですよ」

 カウンター奥のドアから一人の男が出て来た。

「マスターありがとうございます! 僕に復讐のチャンスを与えてくれただけでなく、警察から匿ってくれて!」

「その分のお代は十分に頂いておりますので……」


「これで『母を侮辱した』恨みを晴らす事が出来ました、もうこの世には未練は無いです」

「ねぇマスター、二人の人生を狂わせた僕が言うのもおかしいですが、あの二人の残りの人生を平穏にしてやって下さい」

「他人を思いやる優しい心を持って、暮らして行く様にして下さい!」

「二人の人生を奪った責任は取ります」

「前回の願いでお金は使い果たしてしまったので、僕の魂で支払います!」

「お願いします!」

 男は土下座をして頼んだ。


 マスターはニッコリと微笑んで言った。

「あの『二人の願い』は、『あなたの願い』で成就したので、二人から貰ったお金はそれぞれに返しましょう」

「そして、あなたの願いを叶えましょう!」

「ただその願いは、魂だと支払いが多過ぎなので、『十年間預り』にしましょう」

「その間に魂を使用する機会が無かったら、あなたに返しますね」

「新たな契約を祝って、この一杯を差し上げましょう」

 マスターは男にカクテルグラス 彼女 を差し出した。


 男は目を瞑り、クイッと一気に飲み干した。暫らく瞑想をしてから目を開き、清々しい笑顔で言った。

「ありがとうマスター! 冥土への土産に良い思い出が出来ました!」

「では、こちらへ……」

 マスターは男をカウンターの奥のドアへ案内して、二人で入って行った。

 五分程して、マスターが一人で出て来た。手に新しいグラスを持って……

新しいグラスをカクテルグラス 彼女 の横に置いて囁く。

「このグラスはしばらく眠っているので、起こしては駄目ですよ」

カクテルグラス 彼女 はほんのりと温かくなった。





「マスター、この前のこの店先で起きた事件の犯人の身元が分かったらしいぞ」

「近くの川に揃えた靴と遺書が置いてあったそうだ」

「犯人は犯行後、川へ身を投げたみたいだ」

「警察はその場所から下流方向へ遺体を探しているが、見つかって無いそうだ」

「遺書から身元が分かったので一応、指名手配をするそうだ」

 ビルの地下のショットバーのカウンターで、情報通の常連客がマスターに話をする。


「遺書って、何が書いてあったのですか?」

 マスターは尋ねる。


「犯人のE木E治は中学・高校時代に被害者のA山A雄とD谷D助から、度々お金を喝上げされていたそうだ」

「ある日、渡した金額が少ない事に立腹した二人は、E木に暴力を振るい『親にもっと稼いで来い! と言っておけ!』と暴言を吐いたそうだ」

「E木の家は母子家庭で、母親が働いて学費や生活費を賄っていた」

「E木もアルバイトをして家計を助けていて、その少ない稼ぎをあの二人が脅し取っていたのだ」

「その母親に対しての暴言が事件の動機だったみたいだ」

「E木の母親は懸命に働いてE木を大学まで通わせた」

「E木は大学を卒業して、某化学メーカーに就職した」

「やっと母親を楽にできると思った時に、母親が倒れて寝たきりになった」

「E木の約十年の介護も空しく母親は、去年亡くなったそうだ」

「それ以来、母親を侮辱したA山とD谷に復讐をする計画を立てていたそうだ」

「仕事上の知識で劇薬を作ってA山を付け狙っていたが、有名人のA山に接近するチャンスは無かったみたいだ」

「事件の日、この店の前でA山と出所したD谷が二人揃っていたので、犯行に及んだそうだ」

「遺書の最後には『恨みを晴らし、母の居ないこの世界に未練は無い』」

「『二人の人生を奪った責任は取る』と書いてあったそうだ」

「マスター、水割りをもう一杯!」

 話し続けた常連客は一息ついて注文をする。


 マスターは常連客に水割りを出して呟く。

「昔、魔女の先輩が言っていたな……」

「『物事には偶然は無い、あるのは必然』だって」

「きっとE木さんの恨みの力が、三人を引き合わしたのでしょう……」


「マスター、本当は……」

 常連客は言いかけて口ごもった。それ以上言うのは野暮だと思ったからだ。

 常連客は水割りを飲み干して、

「ご馳走さん! また来るよ!」

 と言って立ち上がる。

 そして、会計時に何時ものセリフを言う。

「また彼女カクテルグラスと会いたいなぁ……」

「分かりました、彼女カクテルグラスに聞いてみます」

「本当に! お願いします!」

「この『願い』は無料ですが、叶わないかも知れませんよ」

 マスターは悪戯っぽく微笑んだ……

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