第41話 闇

 志遠が離れ座敷に近づくと、庭で素振りをする澄香の姿を見た。

 浴衣姿にたすきをかけている。

 その姿は、凛々しく美しい。

 だが、澄香の顔には、疲労の色が見える。それでも、彼女は刀を振り続ける。

 彼女が振るう刀からは、風を切る音が聞こえる。

 だが、彼女の動きは、どこかぎこちない。

 よく見ると、足がふらついている。

 彼女の額から汗が流れ落ちる。

 それを見て、志遠はやれやれと、ため息をついた。

 志遠は、澄香に声をかける。

 そして、彼女に向かって歩いていく。

 突然現れた志遠に驚く澄香。

「いけませんよ。背中の傷も完治してもいなければ、掠めたとは言え銃創も手当したばかりなのですから、無理をしては」

 志遠の言葉に、澄香は謝る。

「すみません。休んでいてばかりだと身体がなまって仕方がないんです」

 志遠は、呆れたように首を横に振った。

 そして、縁側に腰掛けると、隣に座るように促した。

 澄香も大人しく従う。

 2人は並んで、夜空に浮かぶ月を眺めていた。

 しばらく沈黙が続いた後で、志遠が口を開く。

 そして、訊く。

 いつもの優しい口調で。

「どうしました。いつになく稽古に熱が入っていますよ」

 澄香は、うつむき加減で答える。

 彼女は、申し訳なさそうに話す。その声は、弱々しい。

「先日、隼人の無音の剣を見ました。私は、1000回の素振りをし、笛の音が出せるようになっていました。

 でも、それは到達点じゃなかったんです。無音の剣に到達するには、私はもっと修練を積まないといけない。そう思い知らされました」

 澄香は両の手を見つめ、その手を握りしめる。

 純粋にもっと強くなりたい。彼女は、そう願っていた。

 志遠は、そんな彼女の様子を見て言う。まるで、子供をあやす母親のような穏やかな声で。

「風花さんは、本当に真面目ですね。もう少し肩の力を抜いてもいいと思うのですけど」

 志遠は、微笑む。

 だが、澄香の顔に笑みは浮かばない。彼女は、悔しそうな表情を浮かべる。

「あの。隼人の姿がありませんが、どこかへ行ったのですか?」

 志遠は、何も言わずに首を振る。

「夕飯までに帰る。などと言っていましたが、遅くなっていますね。まあ。隼人に食事は必要ありませんけどね」

 志遠の目線は、どこか遠くの方に向けられている。

 それは、ここではない別の世界へ向けられているような眼差しだった。

 夕飯。

 澄香は、食事のことを思い出す。

 ここ数日、澄香と隼人は、ここに住み込みをさせてもらっている。身体を動かしたいと、澄香が食事を含めた家事全般を行っている。

 志遠は、澄香の作った料理を食べると、とても美味しいです。と言いながら、喜んで食べてくれる。

 だが、隼人の分だけは作らない。

 澄香は、イラガラセをしているのではない。隼人は澄香のかたきではあるが、毒を混ぜるような卑劣な行為は一切考えていない。

 今は休戦を誓った仲だ。

 食事を一緒に取っても良いと思っている。

 だが、食事を拒否していた。

 澄香は、寂しい気持ちになっていた。せめて今日は一緒にご飯を食べたかった。

 だから、志遠の言う、隼人に食事は必要無いという言い方が冷たく感じた。

 澄香は、志遠に尋ねる。

「どうして、隼人に食事が必要ないんです? 一緒に食べても良いと思いますよ」

 志遠は、澄香の顔を見る。

 そして、静かに言う。

「食事断ちをしているんだ。風花さんとのためにね。今日で10日目になると言っていたかな……」

「10日!? 何ですかそれは」

 澄香は詰め寄るように志遠に聞く。

「腹を斬られた際に、食べ物が出てきては恥として、合戦の数日まえから食事をしない食事断ちという風習は知っているね。隼人は、風花さんとの果し合いに備えて、ずっと何も食べないようにしているんだよ」

 志遠の目は笑ってはいなかった。

 真剣な目で澄香を見つめる。

「いつするか決めてもいない果し合いに向けて、常に食事断ちをしているんですか。そんなバカなことをしていたら、死んでしまいますよ」

 澄香は、信じられないという顔で言う。彼女は立ち上がって台所へ向かおうとする。

「どこへ行くんです?」

 問われて、澄香は答える。

「隼人の食事も作るんです。私が食べさせれば良いんですよね。そうすれば、きっと隼人も食べるはずですよ」

 だが、志遠は首を横に振る。

 そして、落ち着いた口調で言った。

「彼は、食べないよ。それが一ヶ月先、半年先になってもね」

 志遠は澄香に言い聞かせるように。

 優しく諭すように。

 まるで、母親が子供に教えるかのように。

 澄香は、何を言っているのか理解できなかった。

 一ヶ月?

 半年?

 そんな長期間、食べなければ勝負どころではない。餓死して死んでしまうではないか。

 澄香は、志遠に問いただす。

「どういう意味ですか?」

 すると、志遠は答えた。

 それは、衝撃的な事実だった。

「……隼人は食事をしなくても餓死しないんだよ」

 澄香は志遠の言葉が理解できなかった。

「何言っているんですか。食べなかったら死にますよ。普通に考えて」

 澄香の言葉に、志遠はゆっくりと首を横に振った。

 そして、口を開く。

 澄香の目を真っ直ぐに見つめながら。

「彼は死なない。そして、風花さんを3日の間、看病していた間、一切の睡眠をしてもいなければ、今日まで眠ってもいないんだ」

 澄香は、益々理解ができなかった。

 食べない、眠らない。

 そんなことをしていたら、人間なんてあっと言う間に衰弱してしまう。

 それなのに隼人は生きている。

 一体、どんなカラクリがあるのだ。

 澄香は、志遠の顔を覗き込む。

 その瞳には、恐怖すら覚えていた。

 澄香の様子を見て、志遠は言う。

「ついでに言えば、隼人は女を抱きたいとも思わない。誤解が無いように言っておくけど、男色という意味じゃない。性欲がないんだ」

 澄香は、以上の言葉を繋ぎ合わせる。

「え、それって……」

 澄香は口に手を当てる。

「そう。人間の三大欲求。食欲、睡眠欲、性欲の全てが欠けているということだよ」

 志遠は淡々と話す。


 【三大欲求】

 生きていく上で重要な3つの欲求の総称。

 一般的には「食欲・性欲・睡眠欲」のことを指す。

 「三大欲求」は生理的なものと捉えがちだが、それだけではなく目的にむかって行動するためのモチベーションでもある。人間の生理的な欲求。

 仕事が終わったらこれを食べよう。

 今週はがんばったので土日はぐっすり眠ろう。

 好きな人と一緒に過ごそう。

 など、生きるため、満たされるための行動要因にもなる。

 生きる上で重要な「三大欲求」ではあるが、欲求が極度に強すぎる場合にも注意が必要だ。

 「睡眠欲」が強過ぎて日常に支障が出たり、「食欲」が抑えられず暴飲暴食に走るなど自分の生活や心身への弊害。

 また「性欲」を抑えられないことで、あとあと自身が後悔する行動をしてしまったり、他者に危害を与えて犯罪に繋がるなどのケースもある。

 欲求コントロールは人間にとって永遠のテーマ。

 生理的な欲求のほかにも、さまざまな欲が生まれがちな現代だからこそ、あえて「三大欲求」に意識をむけて、自分自身を内観する時間が必要という。

 人間は、この三つの内の一つが満たされないと精神状態に支障をきたしてしまうと言われている。

 つまり、一つでも欠如していれば、人は狂ってしまう可能性がある。


 隼人は、食事を取らない。

 眠ることもしない。

 異性を抱きたいと思わない。

 それは、人として生きることに必要なモノが不足しているということだけではない。特に食欲と睡眠を取らないと、死に繋がる事柄だ。

「信じられません。食事もしないで、ましてや眠らないで生きている人間が居るなんて……」

 澄香は、呆然としながら言う。

 志遠は、静かにうなずく。

「いや。居なくもないんだよ」

 彼は言った。


 【プララド・ジャニ】

 自称、「70年間断食」の人間。

 インド・アーメダバード(Ahmedabad)の病院で、国防省研究機関の医師団による観察を終えて会見する。(2010年5月6日撮影)

 70年前から食べ物も飲み物も摂取していないという83歳のインド人のヨギについて、15日間にわたって調査したインドの科学者たちが、観察期間が何事もなく終了したことについて報告していた。

 15日間24時間観察した結果、水分も食事もとらず、排尿も排便もなかったと言う事らしい。

「観察期間を終えた神経学者のSudhir Shah氏は、記者団に『(ジャニさんが)どのように生き延びているのか、わからなかった。何が起きているのか、まだ謎のままだ』と驚きを表明した。

 Shah氏は、

『ジャニさんがエネルギーを水や食料から得ていないのであれば、周囲からエネルギーを得ているに違いない。エネルギー源が日光の可能性もある。医学専門家として、われわれは可能性から目を背けてはならない。カロリー以外のエネルギー源があるはずだ』

 と述べた。


 【ターイ・ゴク】

 「眠らない男」

 過去に32年間も眠っていないと報道されたことのある南中部クアンナム省ホンソン郡クエチュン村在住のターイ・ゴクさんは今も元気で、不眠記録を38年間に延ばし、更新し続けている。

 ゴクさんの話によると、1973年に一度高熱を出して意識不明に陥り、その後回復してから一度も眠ったことがないという。

 当初は心配して医者に通い漢方薬から睡眠薬まで飲んでみたし、誰かがこうすればいいと言えばそれを試してみたが、どれも効果がなかった。

 ただ、眠らなくても健康に問題はなく、意識もはっきりしており、普通に生活できる。70歳近くになった今も、畑仕事や家禽の世話などを普通にこなしている。


「そんな、特別な人達がいるのですね。でも、その二つを同時にできる隼人は何者なんですか」

 澄香は愕然とする。

 その疑問は、隼人の使う《なにがし》という存在にも行き着く。

 以前から、ずっと疑問であった。

 あの恐るべき剣は一体、何なのか?

 受けが通用しない、刀身をすり抜ける剣。

 鎖帷子を無視して斬る剣。

 斬りながらも、すぐに開かない刀傷。

 そして、その傷を条件や合図を用いて操る。

 澄香は、そんな化け物のような剣術を聞いたことも見たこともない。

 いや、それ以前にあれだけの使い手なら、噂にならない訳がない。

 澄香は、志遠に尋ねる。

「霧生さん。《なにがし》とは、一体何なんですか?」

 志遠は考えた。どこまで話せば良いか。

 志遠自身、全てを理解している訳ではない。

 しかし、澄香の質問に答えなければ先に進めないことも事実だった。

 志遠は、意を決して話すことにした。

 真実を知ることで、澄香に覚悟を決めて貰う必要があるかもしれない。

そう思ったからだ。

 志遠はゆっくりと口を開く。

「《なにがし》という名を奇妙だと思わなかったかな? ひらがなで表記され、武術における名称の原則である《流》という名がない」

 志遠の言葉に、澄香は大きくうなずく。

 それは確かに気になっていたことだ。

 隼人と会った時、澄香は《なにがし流》と言ってしまった。隼人はそれを否定した。《流》という名を省略している訳ではなく、そもそも流派の名前ではないというのだ。

 澄香は、自分の発言を思い出しながら言う。

「《なにがし》というのは、漢字では、《某》と書く」

 志遠は空書をして、説明する。難しい漢字ではないので、澄香はすぐに理解した。

「《なにがし》という言葉は、その人物の名前、その場所・時などが不明であるか、またはわざと示さない場合に代わりに用いる語のこと。

 つまり、君も使ったことがあるだろうけど。今で言うところの、《何とか》という意味だよ」

 志遠の説明に、澄香はうなずいた。

「使います。友達とかで、説明できなくて、『ほら、隣のクラスの田中何とかさんだよ』という風に」

 澄香は言いながら、《なにがし》というのは、そんな単純な意味なのだと初めて知った。

 そして、思い出す。

 隼人が言った言葉を。


「一つ言っておく。俺は《なにがし流》じゃねえ。《なにがし》だ。もっとも、人が勝手に言い始めたことだがな」


 志遠はうなずく。

「《なにがし》というのは、剣の流儀ではなく、そんな不明な分からないという意味の言葉」

 そこまで聞いて、澄香は思う。

「では、なぜ《流》という字を付けないんですか?」

 志遠は澄香の質問に、質問で訊く。

「それでは、この世にある流儀おける《流》の意味を、風花さんは知っているかい?」

 志遠の問いに、澄香は首を横に振る。

 考えたこともなかった。

 《流》という意味。

 知らない。

 聞いたこともない。

 しかし、志遠は続ける。

 その口調には、どこか重苦しさが感じられた。

 澄香は緊張する。

 もしかすると、自分が考えているよりも遥かに大きな意味を持つ言葉なのだろうか。

 澄香は唾を飲み込む。喉がゴクリと鳴った。

 志遠は静かに告げた。

 澄香にとっては、衝撃的なことを。

「では、心して聞きなさい。剣に関わらず、様々な武芸において決まりごとの様に流をつけるが、そこにある意味と心を」


 【流】

 いかなる流派であれ、剣の道は、流派の如何を問わず、必ず

「それ兵形は水にかたどる」

 という意味の教義をたてる。

 心形一致の水の妙術をもって《流》の極意とするところに、何々流「法形」がなる。この法形の秘奥を悟った兵法者の眼光は、仏語的に言えば、所観の理に能観の知を対照会通して、微塵の曇りがない。鏡のように、全く澄み切って、相手の心を写し取る。

 上段の形、中段、下段、八相、脇。その他流派によって、様々な構えがあるとはいえ、形とは、かたちにあるのではなく、心に在る。

 したがって、心気が澄みわたった秘奥極意の名人から観れば、敵の形の強弱は、鏡に写るように、判るのだ。

 名人の勝ちは、そのように、あきらかなものである。


「それでは、《なにがし》に《流》がつかないのは、それは流派であって流派ですらない。兵形は水にかたどるという意味の教義がないということ。

 《流》の名前すら存在しないことこそが、《なにがし》の本質ということ……」

 澄香が呟きながら、志遠を見る。

 志遠は、無言のままうなずいて口を開く。

「武術という形式はあっても、そこにあるのは純粋な殺戮のための術技であり、教義も教えも、理すら無い暴虐の剣」

 志遠はそう言うと、澄香を見つめた。

 澄香は驚きのあまり、声が出なかった。

 《なにがし》が、そのような存在だったとは……。

 澄香は思った。

 それにしては、おかしいと。

 単に教義も理も存在しない剣であるというなら、なぜ《闇之太刀》という技が存在するのか。

 いや、そもそも、《闇之太刀》は一体何なのか。

 あの恐ろしい《闇之太刀》を、隼人はどのようにして身に付けたというのだろう。

 澄香は、そう思いながらも、志遠に質問する。

「霧生さんの言われるように《なにがし》に《流》がないことの意味は分かりました。ですが、それならなぜ流儀を代表するような《闇之太刀》というような技が存在するのですか。

 いえ、その前に、あれは一体何なんですか。私は隼人と戦い、隼人の側でアイツの剣を見てきました。うまく説明できませんが、およそマトモな剣ではありません。

 左腰に差した脇差を無視して左逆袈裟斬りを行い、受けようとした刀をすり抜ける。相手を斬りながらも、その場で斬らずに、何らかの条件と合図を条件に負わせた斬撃を開かせる……。

 不覚にも私は奴らに人質に取られる失態を犯しました。隼人は私を刺しましたが、それは背後に居る敵を刺すもので、私は一切傷を負っていませんでした。

 あれは、剣術ではなく妖術の類ではないのでしょうか? そして、そんな化け物のような剣が何故、隼人に使えるのでしょう」

 澄香は一気に喋ると、息を整えた。

 志遠は、澄香の言葉に答える。

 まるで澄香の心の内を全て見透かしているかのように。

「病気を、別の言葉で、このように言わないかな。《やみ》と」

 病魔のことを言っているのだと、澄香はすぐに分かった。

 そして、それが《闇》という言葉の由来だということにも。

「言います。み上がりとか、気にむとか」

 澄香は、自分の知っている言葉を並べて言った。

 志遠はうなずく。

「そう。あのいつなるかも分からない、病魔のように、あるかないか分からないもの。

 しかし、それを確実に呼び寄せる方法があり、また、それを呼び出すことができる者がいるとしたらどうだろうか?」

 志遠の問いかけに、澄香は答えられなかった。

「八丁念仏団子刺し。という刀を知っているかい?」

 志遠は訊いた。

「いえ」

 澄香は首を横に振る。


 【八丁念仏団子刺し】

 雑賀衆の頭領であった鈴木孫市が使った刀。

 ある夜、孫市が人間を後ろから袈裟斬りにしたところ、その者は倒れるどころか、念仏を唱えながら、すたすたと歩いて行った。

 孫市はそんなはずはないといぶかしりながら、血に染まった太刀を杖について後からつけて行くと、八丁(約872m)ほど行った所で、はたと念仏もやみ、その者は左右二つに分かれて、ばったり倒れてしまった。

 その時、刀を杖代わりに地面につきつつ僧を追跡したところ、道端の石が刀に刺さり、まるで串に刺さった団子のようだったという。孫市はその太刀の切れ味の凄さに驚いた。

 この逸話から"八丁念仏団子刺し”と名付けられたとされている。


「他にも刀には、同じような逸話を持つもので、波遊ぎ兼光では斬られた者が斬られた事も感じずに川を泳いで向こう岸にたどり着いて首が落ちた、または真っ二つになった」

 そこまで言われて澄香は気がつく。

「つまり《闇之太刀》とは、そのように斬りながらも、その場で殺さない。しかも、自分の意思で操れるということですか」

 志遠はうなずいた。

 澄香は納得した。

「そして、それは命さえも操る力を持っている」

 志遠は、澄香に告げる。

 その言葉に、澄香は驚く。

「そんなバカな……」

 当然の反応を示す澄香。

 その反応を予測していたように志遠は、庭先にある白い花を指し示す。

 蓮に似たその花は、白く美しい。

 澄香が先日、隼人と庭先で話している時にあった花だ。

 未だに美しい姿を保って咲いている。

「あれは霧生さんが、育てた花ですよね。それが、どうしたのですか?」

 志遠は言う。

 まるで、澄香の疑問に答えるかのように。

「あれは、月下美人だよ」

 志遠は言う。澄香の問いに答えるかのように。

 澄香は考える。その花のことを。

 そして、信じられなくなる。どうして未だに咲いているのかと。

「……霧生さん。あの花はいつ咲いたのですか? 私が見た時から、2日は経っていますよ。なぜ、そのままなんですか? 」

 志遠は、少しだけ微笑んで答える。

 澄香の想像を裏切るように。

 だが、志遠は澄香の想像を超えた。

 いや、澄香の予想を超えるという次元ではない。

 もはや、神の領域に入っている。

「風花さんが、ここで手術をした夜だよ。だから、4日前になるのかな」

「4日。そんな、月下美人は夕方から咲いて、たった一晩だけ咲き朝にはしぼんでしまうと聞いています。それがなぜ、未だに咲いたままなんですか?」

 澄香は、志遠に詰め寄るようにして訊く。

 志遠は、淡々と話す。

「あの花が咲いている夜が、風花さんの峠だった。隼人は、月花美人を《闇之太刀》で斬ったそうだ。

 《澄香が死んだら、落ちるように》

 と」

 まるで、それが当たり前のことであるかのように。

 澄香は月下美人を見る。

 露が滴っている。

 咲いたばかりだと言っても信じる。

 それは、とても美しかった。

 だが、その美しさは澄香の心を不安にさせる。

「……私は、死にませんでした。では、あの花は私が死ぬまで咲き続けるんですか? ずっとあのまま」

「あるいは、《闇之太刀》で斬った隼人が死ぬまでか。それは僕にも分からない。

しかし、その力は絶大であるということは、今回のことで分かったと思うけど」

 志遠の言葉に、澄香はうなずくしかなかった。

 命とは、定められた時間だ。

 死とは、全ての生命に等しく訪れる絶対の終わりである。

 人は、その限られた時間を生きている。

 それが、この世の法則なのだ。

 それにも関わらず《なにがし》は、命を我が物としもてあそぶ。

 それは、人が生きることを冒涜する行為であり、決して許されざること。

 ましてや、それを行うものが、人であって良いはずがない。

 澄香は、そう思った。

「一体、《なにがし》とは何なんですか? 霧生さんは、《なにがし》をどこまで知っているのですか?」

 澄香は、訊いた。

 いままで《なにがし》という存在について、澄香は深く考えなかった。いや、考えたとしても、自分とは違う世界のものだと思っていた。

 自分が関わらなければいいだけのことだと。

 だが、いままでの有り様を見た澄香は、そう思うことはできなかった。

 志遠は視線を反らし、思い悩む。

「霧生さん。お願いします。教えてください《なにがし》とは一体何なんです」

 澄香は、頭を下げた。

 志遠は、ため息をつく。

 それは剣術の暗部に踏み込むから。

 そして、口を開いた。

「さて、何から話して良いものか……。君は、魔傅流を知っているかい?」

 志遠は問うた。

 その名を聞いた瞬間、澄香の中で何かが弾けた。

 頭の中に、様々な映像が浮かぶ。

 そして、その中にあった一つが鮮明に思い出された。

 澄香は、剣に携わるだけに本で様々な流派の名前を見てきた。

 幼い頃の記憶が過る。

 父が酒を口にしながら言っていた言葉。

 あれは……。

 澄香は、震える声で言った。

 その言葉を口にするのは、恐怖でしかないと言わんばかりに。

 その言葉を口にするには、勇気がいると。

 その言葉を口にするには、はばかる

「……坂田、魔傅流ですか」

 澄香が口にした瞬間、志遠は目を見張った。


 (次回 第42話 魔傅流)へ続く……。

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