第40話 真刀館

 噴水の水が空に向かって吹き上げ、雨のように降り注ぐ。

 心地よい日差しと優しい風を感じるように月宮七海は文庫本を手にしていた。

 そのベンチは、この公園で一番見晴らしの良い場所にあった。

 彼女が手にしているのは、夏目漱石の短編集だ。

 先ほどまで、読書をしていたが、今は休憩中だ。

 今日は、天気が良いので、公園で読もうと思ったのだった。

 七海の視線の先で、1人の少女が走っている。

 ランニングをしているようだ。

 少女は、公園の外周を走り終えると、公園の中央にある広場で立ち止まる。

 そこで、ストレッチを始めた。

 その光景を見ながら、七海は微笑む。

 少し前まで自分も、あの少女のように日の当たる世界で生きていた。

 だが、今は日の差さぬ裏社会の住人として生きている。

 そう思うと、懐かしく感じられた。

 それが、正しい生き方なのかどうかは分からない。

 ただ、そうしなければ、自分や仲間達が生きていくことができないのだから仕方が無い。

 後悔はしていない。

 だが、時々考えてしまうのだ。

 自分は間違っていないだろうかと。

 そして、こう思う。

 私は、今のままで良いのかな……

 すると、彼女を呼ぶ声が聞こえた。

 聞き覚えのある男の声だ。

 諱隼人だ。

「待たせたな、口入屋」

 隼人は、七海の右隣に座る。七海と一緒に座る時は、右側が隼人の定位置だ。

 それは利き腕である右腕を護るためで、七海に気遣っている訳ではない。

 七海もそれを承知しているため、特に何も言わない。

 それに、今更気にするような仲でもない。

 隼人は、微糖コーヒーの缶を差し出す。

「あら。ありがとう」

 七海は、隼人に礼を言うと、彼から缶を受け取る。

 七海は、彼の顔を見る。いつもと変わらない表情をしていた。

「隼人は飲まないの?」

 缶を開けながら七海は訊く。

「俺は、食事断ち中だ」

「ひょっとして、あの娘との果し合い。今日で何日目になるのよ」

 隼人は分からない様子をみせた。

「さて。10日は経ったかな」

 七海は呆れた顔をする。

 七海が言うあの娘とは、澄香のことだ。

 澄香との勝負はいつになるか分からないが、その日に備えて隼人は食事を断っていた。

「本当、《なにがし》ってのは凄いわね」

 七海は感心する。

「ところで、例の件については何か分かったのか?」

 隼人が訊くと、七海は微笑みを浮かべる。

 七海の笑顔は、相手を安心させる効果がある。

 それは、彼女の人徳によるものだろう。

 そんな彼女は、隼人が期待した以上の情報を仕入れてきていた。

「色々と分かったわ。鬼哭館という組織について。黒瀧コンツェルンとかなり深い関係ね」

 隼人は、眉を寄せる。

「どこから?」

「戦後の混乱期からよ。黒瀧の前身となった印藤隆元の父が、戦後の闇市の治安維持の為に、剣士を集めて組織したのが、鬼哭館のはじまりみたい」

 七海の説明を聞いて、隼人は納得した。

 戦後の混乱期というのは、今の東京よりも治安が悪い。

 それ故に、剣で身を立てる者達が必要だったのだろう。

「なるほど。進駐軍、GHQ、戦災孤児、浮浪児、食糧難、住宅難、貧困……。それらの問題を解決するために力は必要であり、その力を組織化させたということか」

 隼人の言葉を肯定するように、七海はうなずく。

 そして、話を続ける。

「商売には金が絡むだけあって敵も多いわ。土地の取得一つ取っても、地主だけじゃなく地域住民や、政治家、地域の有力者とも対立。首を縦に振らせる為には、金の力だけじゃなくて、時には暴力も辞さないこともあったようね」

 隼人は、七海の話を黙って聞いていた。

「首を縦に振らないなら、あの世に送ってやればいいか」

 隼人は、少し考えた後で口を開き続ける。

「そう言えば武士の誕生も、似たようなものだな。平安時代の中頃、律令国家の衰退とともに、地方の治安が悪化し、群盗などが発生した。それに対抗するために、荘園領主や有力農民が自衛のため武装し、発展して武士となったという」

 隼人は淡々と語る。

「現在、鬼哭館は、黒瀧のお抱えの力として、力を振るっているわ。黒瀧の急成長の裏側には、彼らの暗躍があったとみるべきね」

 七海は、そこまで話すと一息つく。

 微糖コーヒーを一口飲む。

 そして、話を続けた。

「鬼哭館は、表では真刀館と名乗っているわ。表向きはごく普通の剣道場よ。でも、実態は違うわ。競技としての剣道がある一方、完全ノールールの剣道を館内の人間同士て行っているわ」

「ノールール?」

 隼人は訊き返す。

「防具無しの竹刀による殴り合いよ。審判なんていなければ、反則も無い。どちらかがダウンし、負けを認めるまで行うの」

 七海の話を聞き、隼人は驚く。

 それは、武道というよりも竹刀を用いた格闘技に近い。

 だが、それだけに実戦的だ。

「剣道のフルコンタクト空手版といったところか」

 隼人が言うと、七海は苦笑する。

 七海は、隼人が冗談で言っているのではないと分かっていたからだ。

「5年前の地方ニュースだけど、玉川銀行現金輸送車襲撃事件というのがあったわ。外国人窃盗団7人組が車で襲撃してきたの。強盗犯達は、2000万円の入ったアタッシュケースを強奪するために警備員3人を殺害、1人に重傷を負わせた事件よ。

 そこにたまたま通りかかった真刀館の剣士2人が、犯人の全員を木刀で返り討ちにしたの。膝をへし折り、喉を潰し、鎖骨を叩き折り、顔面を陥没させてね」

 その事件は、隼人も知っていた。

 新聞にも載ったほどの事件だった。

 その記事によると、死亡した警備員の1人は、額を撃ち抜かれた後に心臓にナイフを突き立てられていたそうだ。

 つまり、その2人の剣士は、銃器を持った強盗団相手に木刀で戦ったのだ。

 そして、それを成し遂げている時点で、彼らが只者でないことが分かる。

 過剰防衛という声があった一方、強盗団の残忍なやり口に義憤を感じての行動だという擁護の声もあったようだ。

 その事件の被害者である玉川銀行の支店長が、真刀館の剣士の2人を擁護。

 また、警察側もこの事実を重視して、真刀館の剣士達を表彰している。

「なるほど。だいたい分かってきた。真刀館の本来の目的は、鬼哭館の剣士を養成するための受け皿という訳だな」

「そういうこと」

 七海はうなずいて同意する。

 そして、説明を続ける。

 だが、彼らは裏社会でのし上がっていく過程で、多くの犯罪組織と関わっていった。

 その中には、暴力団も含まれている。

 暴力団と鬼哭館が関わり始めたのは、戦後の闇市時代かららしい。

 その頃から、鬼哭館は、裏社会の用心棒として重宝されていた。

 それは、戦後の混乱期を生き抜くために、必要なことだったのだろう。

 その後、昭和40年代の高度経済成長期に入ると、彼らの勢力はさらに拡大していく。

 バブル期には、株式投資で莫大な利益をあげていた。

 今では、不動産業にも進出している。

 そして、現在に至り、日本有数の財閥・黒瀧コンツェルンと深い繋がりを持つに至っている。

 七海の説明が終わると、隼人はうなずく。

「そういうことか。これで黒瀧と鬼哭館が繋がった。印藤隆元のドナー生産計画に鬼哭館の連中も噛んでいる訳か。印藤のジジイには、敵も多い。ドナーとなる女を殺害してジジイを病気で始末しようと画策する奴が居てもおかしくないな」

 その話を聞いて、七海は押し黙る。

 そして、恐る恐る訊く。

 まるで、爆弾処理班が時限装置付きの爆弾を解体していくような慎重な口調だった。

 彼女の顔には、不安の色が浮かぶ。

「そして、隼人と澄香は、会長のドナー確保のための女を供給ルートの一部を断ってしまった訳ね。まさか、こんな大物を相手にすることになろうとはね……。一言で言えば、手を引くべきよ」

 七海の問いに、隼人は答える。

 いつもの冷静で淡々とした口調で。

「たかが一万円札の印刷物を多く持っているだけだろ。女を生む機械として扱い、子供の骨髄を搾り取ろうしている。奴のしていることは看過できるものじゃねえ。得とか損は関係ない。俺は、俺の意志で動く」

 隼人の言葉に迷いは無かった。

 そこには、揺るがぬ信念がある。

「……志遠の方も、私がリストアップしたLSDの売人を始末に動いているし、私達は、印藤会長に完全にケンカを吹っかけちゃったみたいね」

 七海は、ため息をつく。

 そして、呟いた。

 彼女は、隼人を真っ直ぐ見つめると、こう言った。

「隼人。これからどうするつもり?」

 その質問に対して、隼人は即答する。彼の言葉には、何の躊躇いもなかった。

「鬼哭館に行く」

 隼人は、はっきりとそう答えた。

 それを聞いた七海は、意外そうな顔をする。

 だが、すぐに表情を引き締めた。七海は、隼人の覚悟を確認する。

 隼人は、強い意志を込めた目で七海を見返す。

「奴らは澄香の親父のことを知っていた。なら、当然、母親のことも知っているはずだ。その母親は何者かに殺されている。澄香の話しによれば、袈裟斬りにされていたそうだ。そこいらの通り魔なんかの犯行じゃない。剣士の仕業だ。

 なら、奴らが父親のことを知っていたことを含めて、母親のことを何かしら知っていても不思議じゃない」

 隼人は、拳を強く握りしめながら語る。

 それは、怒りに震えているようでもあった。

 七海は黙って聞いていた。

 彼女の顔は、真剣そのもので、いつになく緊張していた。隼人の話を聞き終わると、七海は言う。

「敵の懐に潜り込むつもりなの? そんなことしたら、殺されるわよ」

 だが、隼人は迷わなかった。

 彼は、力強く言い切る。それは、自分の決意を確かめるように。

 己の心の奥底にある思いを吐き出すかのように。

「虎穴に入らずんば虎子を得ずと言うだろう。それに、奴らには借りもある。利子をつけて返してやるさ」

 隼人のその言葉に、七海は少しだけ微笑む。

「……分かった。鬼哭館の道場の場所を教えるわ。ただ、気を付けてね。相手は、隼人達の命を狙って来た連中よ。絶対に無茶はしないでね」

 その言葉を、隼人はしっかりと受け止めた。

 隼人は、七海に礼を言う。

 七海は、その様子に満足すると、笑顔を見せる。

 それが今の七海にできる、精一杯のことであった。

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