第28話 太刀の下こそ地獄なれ

 澄香の息は落ち着いていた。

 目の前に立つ男達を――、《なにがし》の隼人と、《念流》志遠を見つめる。

 その瞳には、怒りの色がありありと浮かぶ。

 澄香の眼がひかっていた。

 蒼い光を宿した瞳。

 隼人は、彼女の気迫に押されて後ずさりそうになったが、なんとか踏みとどまった。

 澄香の眼は、それ程までに鋭い眼光だ。隼人は自分の吐く息が、真冬のように白くなる感覚を覚える。

 そして、隼人も澄香を真っ直ぐに見返す。

 二人の視線が交差する。

 澄香は、志遠に対し礼を行う。

「霧生様――」

 言うないなや、志遠は言う。

「様は結構です。風花さんは僕の道場の門下生じゃない」

 志遠の注意に、澄香は言い淀んで再び口にする。

「霧生さん。先日は、ご無礼を致しました。まさか《なにがし》と、お知り合いとは存じませんでした」

 澄香は謝罪を口にすると、深く頭を下げる。

 その姿は、どこか痛々しかった。

 だが、彼女は頭をすぐに上げると、隼人を睨みつけた。

 その眼は、憎しみに満ち溢れていた。

 隼人は言葉がなかった。

 この少女は、自分に対して敵意を持っている。

 それは以前から分かっていたが、理由が分かると意味合いが違ってくる。

 いかに果し合いとはいえ、澄香の父親を斬ったのは隼人だ。どんな理由があろうと命を奪われた家族からみれば憎い相手でしかない。

 それは、隼人が、それだけのことを行ったという証左でもあった。

 この少女は強い。

 隼人は、澄香が自分に向けた殺意に、感嘆していた。

 自分が殺そうとしてきた相手は、これまで何人もいた。その中には、自分が命を奪う必要もないほど弱い者もいた。

 思えば皆、欲にまみれた。

 《なにがし》を斬って名を挙げる。

 《なにがし》を斬って金を貰う。

 《なにがし》を斬って力を得よう。

 すべての理由は《なにがし》が理由だ。

 だが、澄香だけは違った。

 《なにがし》という名も存在も関係なく、隼人という個人として命を奪いに来ている。

 澄香のように、眼にひかりを宿して自分のことを本気で殺しに来るような者は初めてだった。

 だからこそ、隼人は思った。

 自分の剣がどこまで通じるのか試したいと。

 《なにがし》の剣士としてではなく、隼人という一人の剣士として。

 そして、その思いは、自然と行動に出ていた。

 隼人は財布から小銭を取り出すと、近くにある自動販売機からミネラルウォーターを一本買うと、一口飲んで蓋をする。

「これは毒見だ」

 隼人は口の端に溢れた水を拭うと、ミネラルウォーターを澄香に向かって放った。澄香は、それをキャッチした。


 【毒見】

 食物が安全であるかどうかを実際に食して確認すること。毒が含まれていないか、腐敗していないかなどを確認すること。毒見を担当する役割を毒見役という。

 毒味とも書く。

 通常は、重要な人物に対して行う。

 江戸幕府には将軍の側近に毒見役が設けられていたが、他の大名家でも近習きんじゅうの者が毒見をした例が多い。

 実例として江戸時代の寛文六年(1666年)、仙台藩の幼藩主伊達綱村は数え8歳の時に毒殺されかけたが、毒見役の働きによって難を逃れている。

 饗応きょうおうのマナーの一つとして、大正時代までは酒席などにこの風習が残っていた。

 近代皇室では侍医長が御試食おしつけとして事前に天皇に出させる食事の毒見を行なっていた。現在でも行なわれているが検食に近く、栄養管理が主目的となっている。

 政治だけでなく武術の世界でも毒殺はあり、敵地にて出された茶や菓子を毒見無しで口にすることは危険な行為である。


「飲め。喉が渇いているだろ」

 隼人は、澄香の顔を見つめながら言った。

 澄香は、受け取ったペットボトルを握りしめたまま動かない。

 ただ黙って、隼人を見つめているだけだ。

 隼人は続けた。

「疲弊したのを負けた理由にされたくねえ。渇きを潤しておけ」

 そう言われて、澄香は水を飲んだ。一気に半分まで飲むと、大きく息を吐く。それから更に水を飲んで、キャップを閉めてペットボトルを投げ返した。

 それを、隼人は左手で受け止める。

「礼は言わないぞ」

 澄香は言う。

 その言葉に、隼人は苦笑する。

 礼を言うどころか、澄香は隼人を斬ろうとしているのだ。

 隼人は応えた。

「俺はベストコンディションの、お前と戦いたいだけだ。澄香、その汗はどうした。ずいぶんと疲れた様子じゃないか」

 隼人の言葉に、澄香は歯を食いしばる。

「要らぬ心配だ。隼人、貴様を斬るためのウォームアップをしてきただけだ」

 澄香の脳裏に、先程までの修行を思い起こしていた。


 ◆


 ほんの小一時間前、澄香は街の通りに立っていた。

 目の前を人々が行き交う。

 人々は、誰も彼もが忙しなく動いている。手を握りあったカップルが、腕を組んで歩いている。

 仲の良い親子連れが、楽しげに会話をしながら歩いていく。

 澄香は思っていた。

 なぜ、こんなにも多くの人が、幸せそうにしているんだろう。

 どうして、自分は、悲しみに満ちていなければならないのだろう。澄香には分からなかった。

 澄香は思う。

 きっと、私は、他の人達よりも不幸なのだろうと。

 でも、それがなんなのだ? 不幸だからなんだと言うのだ。

 そんなことは、私には関係ない。

 私は私の人生を生きる。

 私が生きたいように生きてやる。

 他人なんて知らない。

 家族なんて知らない。

 友人だっていらない。

 恋人なんか作ってやるものか。

 澄香は決意する。

 私は、これからずっと一人で生きていくのだ。

 それが、どんなに寂しいことであっても、澄香は受け入れた。それが、家族を殺された彼女の生き方だった。

 澄香は、目の前を歩く人々を見る。

 誰もが、笑っている。

 笑いながら歩いている。

 その笑顔は、本当に嬉しそうなものだった。

 だが、澄香は知っている。

 彼らの本当の姿を。

 彼らは、ただ、笑ってさえいれば幸せなのではない。彼らが笑うのは、誰かがそばにいるからだ。

 澄香は、そのことに気がついた。

 気がついてしまった。

 そうして、彼女の心の中で、何かが崩れていた。

 澄香が、目を伏せて立っていると、男の声があった。

 軽い声だ。

「ねえ。彼女一人?」

 澄香は顔を上げる。

 男がいた。

 男は、20代後半ぐらいで、背の高い男だった。

 その男が着ている服を見た時、澄香は眉をひそめた。男の服装は、まるでホストのような格好をしていたからだ。

 澄香は、男を睨みつける。

 その鋭い殺意に満ちた眼差しを受けて、男の顔が引きつった。乾いた笑いを浮かべると、すごすごと、その場を去っていく。

(くだらん。男だ)

 澄香はスマホを取り出すと、SNSアプリを確認する。まだ現れないことに、苛立つ。

 それから、数分後のことだった。

 澄香の前に、一人の男が現れた。

 30代前半の、長身の男。

 彼は、スエットトレーナーの上に革ジャンを羽織っていた。ズボンはダメージジーンズ。靴はデッキシューズを履いている。

 髪をオールバックに固めていた。その眼光は鋭く、どこか猛禽類を思わせる。

 一見すると、どこぞのロックミュージシャンのように見えなくもない。

 しかし、彼の放つ雰囲気と、その手に持っている竹刀ケースのせいで、まったく別の印象を与える。

「風花澄香さんか?」

 澄香は、黙ってうなずく。

 その返事を聞いて、男は口角を上げた。

 その表情は、どこか肉食獣を連想させる。

「場所を変えましょう」

 澄香の言葉に、男は従い二人は連れ添って路地裏へと歩く。

「まさか、こんな女の子が辻立ちをしているとは思わなかったよ」

 男は言った。


 【辻立ち】

 道ばたに立って、物売りをしたり遊女の道中を見物したりすること。

 武芸者では、高札を掲げ対戦者を募集した。

 廻国修行をしている武芸者は、新たに着いた土地の道場に出かけていったり、あるいは市中に看板を立てて、立ち会いを望んだ。

 かつての武芸者は自分の強さを宣伝し、大名や土地の有力者の庇護を受け、雇ってもらうことを目的とした。

 武芸者の対戦は、実績作りの一環だ。

 武芸によって認められ、仕官をする場合もある。

 こうして、武芸者は、庇護者や、その家来衆に武術を教えて印可や目録をさずけたり、戦の際に働いたりすることは当時の武芸者としてはごく普通のことだった。


 澄香は、その辻立ちをSNSを用いて行ったのだ。

「で、どこで始める? この辺りなら、いくらでも場所はある」

 男の口調は、どこか挑発的であった。

 澄香は、その問いに対して、答えなかった。

 やがて二人は、路地裏の奥までたどり着く。

 そこは、人通りのない場所で、建物に囲まれているため薄暗い。

 澄香は、そこで足を止めると、男に向き直る。

「立ち合いを感謝します。私は風花澄香。戸田流高柳派」 

 澄香の言葉に、男は感心したように言う。

「俺は藤木ふじきとし。竹森流だ」

 利は名乗る。

 竹森流は、紀州藩士、竹森伝次右衛門次忠を祖とする。祖父より有馬神道流の正統に学んで、享保十八年皆伝し、竹森流を称した。

 澄香は安心する。

 少なくとも流儀を偽るようなことはしない相手だと分かったからだ。

「それで勝負は、どうする? それと掛け金だ」

 訊かれて澄香は、封筒を一枚出す。

「使うのは真剣。掛け金は10万です」

 その言葉を聞いた瞬間、利はせせら笑う。

「冗談じゃねえ。そんな、はした金で命を賭けろってのか? そんな話に乗る奴がいるかよ!」

 だが、澄香は、その言葉を予想していたかのように、淡々と答える。

 その声音には、一切の感情がない。

 そのことに、利は気がついた。

 彼女は、本気なのだと。

「安心して。真剣を使うのは、貴方の方のみ」

 澄香はラクロスケースから刀と脇差を取り出すと、紙縒こよりで鍔と鞘とを結んだ。


 【紙縒りにて刀を結束する事】

 刀を抜かない作法に、紙縒りで鍔と鞘とを縛る作法がある。

 これは古くは戦国の時代に、敵方との交渉など、刀を持ち込む際にも、紙縒りにて結束し、決して抜かぬ心意気を示して臨んだ作法に由来する。

 紙縒りとは細く切った紙をひねって、ひも状にした物の事。紙とは言え、紙縒りは頑丈なので、そうたやすくは切れない。

 だからこそ信頼の証、抜かずの頑強な意志を示す事ともなった。

 紙縒りをしっかり結束すると、一寸(約3.03cm)どころか一分(約0.303cm)も抜く事が出来なくなる。

 その結束は蝶の姿を模するようにする。

 輪があまり小さいと、相手に結束しているというアピール度が期待出来ないので、ある程度大きめに、かつ邪魔になったり見苦しくないようにした。

 勝海舟などは、日頃からそのようにしていたとも言われている。


 澄香は封印をした刀と脇差を腰の角帯に差す。

 利は、澄香の行動が理解できなかった。

 刀を使わないのならば、なんのために立ち合う必要があると言うのだろうか?

 自殺願望かと一瞬思ったが、澄香の眼には、まるで研ぎ澄まされた刀のような、冷たい眼差しがあった。

 利は、ぞくりとした。

 澄香の勝負心は本物だ。

「私は絶対に刀を使いません。ですが、貴方は真剣で私を斬って下さい。重症でも軽症でも構いません。一太刀斬れば、お金を払います。藤木さんは掛け金を出す必要はありません。それが対戦条件です」

 澄香の言葉を聞いて、利は顔をしかめる。

 そして言った。

「随分と、こっちに有利な条件だな。風花さん、あんたの意図が理解できねえよ」

「ただし私も鞘ぐるみで戦います。いいですね」

 利は頷く。

 その表情からは、先ほどまでの余裕が消えていた。

 その表情を見て、澄香は確信する。

 彼は強い。

 おそらくは、自分の想像以上に。

 だが、澄香は怯まない。

 むしろ、笑みを浮かべていた。

 澄香の表情を見た時、利の表情に驚きの色が浮かぶ。

 利は、持っていた竹刀ケースから、一振の刀を取り出し、抜く。

 それは、美しい刀だった。

 反りは浅く、刃文は小乱れ、地鉄は板目肌がよく詰んでいる。

 そして、何より特徴的なのは、その拵えであった。

 その拵えは、黒漆塗りの鞘。

 柄巻は菱巻、目貫は象嵌細工、下緒は真紅の絹糸で結われている。

 その見事な出来栄えに、澄香は内心で感嘆の声を上げる。

 だが、すぐに気持ちを引き締める。

 これから戦う相手は、真剣を使うのだ。

 下手をすれば、自分も命を落とすことになるかもしれない。

 澄香は、深呼吸をする。

 その時、利は口を開いた。

 彼の口調は穏やかだ。

 だが、その瞳の奥には静かな怒りを感じる。

 利は、言った。

「クソが」

 澄香に対してではない。

 自分自身に対してだ。

 金欲しさに、こんな少女を斬ろうとしている。

 澄香は、ただ黙って、利の言葉を聞く。

 やがて、言葉が終わると同時に、利は上段から刀を振り下ろしてきた。

 澄香は、すぐに動かない。

 利の動きを観察する。

 その動きは速い。

 しかし、澄香にとって、反応できない速さではなかった。

 見極めるべきは斬撃だ。

 相手の攻撃に対して、どのように対応するのか? 澄香は、それを必死になって見極める。

 逃げるのではない。

 刀刃が振り下ろされる、その刃をギリギリで避ける。

 澄香は、そう考えていた。

 だが、澄香の予想に反して、刀の切先は彼女の身体へと迫る。

 驚く。

 それも一瞬の事。

 澄香は、反射的に動く。

 右横へ飛ぶようにして回避。

 完全に避けきれなかった。

 左肩を掠めた刀は、そのまま、澄香の制服を斬り裂いた。

 澄香は、思わず舌打ちする。

 刀の威力が強すぎた。

 まともに食らえば、肩から胸にかけて大きく裂かれてしまうだろう。

 利は刀を切り返し、今度は左から水平に薙いでくる。

 澄香は、脚を後ろに送って距離を取る。

 以前の澄香なら、左腕の籠手を用いて刀刃を防ぎ、その隙を突いて斬撃を放つ攻撃を行っていたが、今日は籠手を外していた。

 なぜなら《なにがし》の剣は、すり抜けるからだ。

 理論や理屈を考えている時間はない。前回、隼人と対戦した時、隼人の刀は澄香の脇差と、刀をすり抜ける現象を見た。

 つまり《なにがし》に対しては、防具も防御も意味がない。

 刀刃を防ぐ手立ては、ただ一つ。

 躱すことだ。

 霧生志遠に助太刀を断られた以上、澄香に頼るものはない。だから、とにかく《なにがし》の攻撃を見切るしかない。

 そう考えて、澄香はひたすら回避に専念する。

 ただ回避するだけでは意味が無い。

 白刃を前に一尺(約30.3cm)も下がっていたのでは意味がない。切先が届く範囲を理解した上で避けるのと、逃げて避けるのとでは、雲泥の差があった。

 澄香は、あえて一歩前に出ようとしていた。

 死地に自ら踏み込むという恐怖は尋常ではない。

 己の肉体を武器化した格闘技ならば、突きや蹴りを受けても、まだダメージは少ない。

 だが、剣術の怖さは、刃そのものなのだ。

 刀身が人体に触れれば、それだけで致命傷となる。

 剣道には面、小手、胴、突きの 4 部位が有効部位になっているが、剣術にはそのようなものはない。

 指や眼、脛など、どこを斬られても、死ななくても後々致命傷となる。

 そして、動脈を斬られれば、出血多量で死亡する。

 だからこそ、斬られる前に斬る。

 それが、澄香の戦法であった。

 剣には、次のような道歌がある。

 

 切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ 踏み込み行けば 後は極楽


 この道歌は、剣術における心構えを説いたものである。

 柳生石舟斎、宮本武蔵等が詠んだものと言われているが、似た道歌はいくつかある。

 その意味は、剣で命を奪い合う時はまさに地獄そのもの真剣での勝負は、文字通り、血みどろの戦いだ。

 そんな地獄の中にも何か見出せるものがあるから、まずは避けずに自らが踏み込んでみよ。そうすれば何か見えないモノが見える。

 そういう意味合い。

 こんな短時間で、澄香はその何かを悟ることはできないのは理解している。

 だが、理屈ではなく感覚として理解したかった。

 それは、自分の生命を守る事に繋がるから。

 利の刀は、次々と澄香を襲う。

 澄香は、それを必死に避ける。本来ならば、刀を抜き、その間隙かんげきを縫って、利を攻撃するのが正しい。

 しかし、澄香にその選択肢は無い。

 奈落の底に身を投げる度量が必要なのだ。

 利の刀は、その動きを読んでいるかのように振るわれる。

 澄香は、必死になって刀を避けるが、自分で逃げになっていることを理解していた。

 そんな自分に歯噛みする。

 澄香は、利の動きに集中する。

 そして、澄香は、ついに一つの事実に気付く。

 それは、利の動きだ。

 彼は、刀を振るう時に、必ず一度止まる。

 そして、刀を振りかぶってから、振り下ろすまでの時間が僅かに長い。

 おそらく、彼の刀の重量が関係している。

 彼の刀は、かなりの業物だ。その重さが、彼の動作を遅らせている。

 そのことに澄香は気づく。

 その一瞬を澄香は見逃さない。

 バカ正直に刃の速さに対して動いていたのでは踏み込めない。中村流抜刀道 初代宗家・中村泰三郎は上段から刀を降り下ろすのにかかる時間は0.0125秒。その速度は拳銃の弾丸に匹敵する。

 振り下ろされる刃を見てからでは遅い。技の起こりを見極めてから、その動きに合わせて動く必要がある。

 澄香は、必死になって、そのタイミングを見極めようとする。

 刀の速さは凄まじい。

 一瞬でも集中を切らせば斬られてしまう。

 だが、澄香の身体は、徐々にではあるが、確実に反応できるようになっていく。

 それは、澄香の身体が覚えた経験則が生んだ結果だった。

 澄香は、ひたすら避ける。

 避けるたびに、澄香の身体は前に出る。

 一方、利の方は冷静に澄香を観察しながら刀を振るっていた。

 利は焦りを感じていた。

 この女は、強い。

 今の状態ならば、勝てないというほどではない。

 むしろ、このまま攻め続けていれば、澄香は、いつか体力が尽きて倒れるはずだ。

 だが、利は自分が勝つ姿が見えなかった。

 澄香の瞳からは、強い意志を感じる。

 それは、決して折れることの無い、強靭な精神力の現れだ。

 自分よりも遙かに若い少女が、これほどの強さを持つ理由が分からず、利は困惑する。

 利は、刀を振り上げ、澄香に向かって斬りつける。

 澄香は、それを回避する。

 回避行動は先程までとは異なっていた。

 大きく後ろへ引くのではなく、最小の動きで回避したのだ。

 その結果、その空間に残っていた澄香のスカートが大きく裂ける。

 それでも、澄香は臆することなく、次の攻撃を回避しようと試みる。

 澄香の瞳に宿る意思は変わらない。

 どうして、そこまでして戦うのか利には分からない。

 しかし、その理由を知りたいとも思わなかった。

 ただ、目の前の女を斬るだけだ。

 それが、金を得る条件だ。

 利は、一歩引く。

 攻撃をする側が下がるとは奇妙な動きであったが、それはまるで津波が押し寄せる前の静けさのような雰囲気であった。

 刀は隠剣の構えだ。

 

 【隠剣】

 右脚を引いて半身になり、刀を後ろへと引き身体を使って、刀を完全に見えないように隠す構え。

 正面から見た場合、全く剣を見ることできない。


 澄香は、次に繰り出される刀術を探る。

 利の起こりを捉える。

 澄香の全身の神経が研ぎ澄まされていく。

 利の呼吸を読む。

 澄香の意識が加速していく。

 利の右腕が動いた。

 だが、それは澄香の方からは見えない。それでも、刀を握る故に左手に振動が伝わる。

 澄香の視線が、その一点に注がれる。

(ここ!)

 そして、澄香の右脚が踏み出される。

 利は右脚を踏み込みながら刀を左から薙ぎながら進む。利の刀は澄香を完全に間合いに捕らえ、首筋を狙う。

 澄香の眼前に白刃が迫る。

 その瞬間、澄香の世界から色が無くなった。

 白黒写真のように全てが色を失う。

 0.01の速度ではしる刀が、ゆっくり見える。不思議な世界だった。澄香は自分の死を悟りながらも、冷静になにが起こってるのを見ていた。

(これが走馬灯なのかしら?)

 ゆっくりと流れる時間の中で、澄香の脳裏に浮かぶのは、家族の顔だった。

 両親と自分の姿。笑顔の家族に囲まれて幸せそうにしている自分の姿が浮かんでいた。

 こんな状況なのに自然と笑みがこぼれてしまう。

 そして、澄香は何をするべきかを判断する。

 脇差を鞘ぐるみで抜くと同時に、身を沈めて刀をやり過ごす。攻撃の動作と避けを同時に行い、そのまま、刀を潜り抜けつつ、利の懐に飛び込む。

 そして、利の顎に向けて納刀されたままの脇差を放つ。

 澄香の狙いは正確だった。

 標的は喉。

 利が気づいた時には、自分の喉に脇差のこじりが寸止めで突きつけられていた。

 二人は時を止めように動かなかった。

 澄香の額から、じっとりと汗が吹き出す。

 それは、緊張による発汗だ。

 利も動こうとはしなかった。

 だが、その表情は驚愕に満ちている。

「俺の負けだ」

 利は敗北を認めると、澄香は素早く身を引くと、残心を決める。脇差を腰にもどすと、その場に座り込んでいた。

 限界であった。

 たった数分の戦いで、澄香の精神は削られ体力は底をついてしまった。

 一方、利は信じられないといった顔で、澄香を見つめている。

 完全に澄香の首を捕らえていた斬撃をかい潜り、あまつさえ反撃してきたのだ。

 しかも、ただの一撃ではなく、的確に急所を狙ってきた。

 利は、改めて、澄香の実力を思い知る。

 澄香は、刃という地獄に踏み込むことで見た世界を考えた。これが、あの道歌にある極楽なのだろうかと。


 【タキサイキア現象】

 人が危険に直面したその瞬間、全てがスローモーションに見える現象。

 その名は、ギリシャ語で「頭の中の速度」という意味の「ταχυψυχία」だ。

 日本では、死の間際に「走馬灯のように記憶が蘇る」という表現をする。

 この現象は日本独自のものではなく、海外でも「パノラマ記憶」という名称で認識されている。

 その理由としては、人は死に直面した危機的状況に陥ると、助かりたい一心でなんとか助かる方法を脳から引き出そうとするため記憶が一斉に蘇るとされる。

 脳が危険を感じ取り、恐怖を覚えそのシグナルが脳に伝わると、脳から「血管を収縮しろ」や、「血液が凝固しやすくしろ」などの指令が出て、体が「生命の危機で予想される出血」に備えると言うことらしい。

 そして、生命を守ることを最優先させ、それ以外の活動が低下してしまい、結果として、脳の情報処理能力も低下してしまう。

 それにより目から来る情報も間引かれ、映像は白黒になり映像がコマ送りになってしまう。

 危機的状況に起こるタキサイキア現象は、脳のリミッターが外れて覚醒し、危機的状況を回避する為に、フル稼働している状態だから、時間の流れがゆっくりに感じるらしい。


 利は、刀を納めると澄香に話しかける。

「なあ。あんた大丈夫か?」

 澄香は答える余裕などなかった。

 息を切らしながら、肩を大きく揺らして呼吸をしていたからだ。

 利は、澄香が落ち着くまで待った。

 5分後、ようやく落ち着いた澄香を見て、利は再び話し掛ける。

 利の表情は先程よりも和らいでおり、少しだけ口元が緩んでいる。

 勝負に敗北こそすれど、一切の言い訳もできない程に自分の敗北を認めたことで、清々しい気持ちになっていた。

「心配ありません。少し、疲れただけです」

 澄香は、呼吸を整えながら答え立ち上がる。

 だが、その言葉とは裏腹に、澄香の身体はフラフラしていた。疲労困ぱいの状態であり、立っているだけでも辛いはずだ。

「こんなこと。どうしてやるんだ?」

 利は、澄香の勝負に疑問を持っていた。

「勝つ為よ。私には、勝たなきゃならない奴がいるの」

 澄香は、利の疑問に答える。

 その瞳は真っ直ぐだった。

 その眼差しに嘘はない。

 利は、その視線から澄香の覚悟を読み取る。

 そして、利は竹刀ケースを担ぐと、その場を離れようとする。澄香は利に呼びかける。

「藤木さん。ありがとうございます」

 利は、立ち止まると振り返る。

 その表情は、苦笑いだった。

「俺は、少なくとも傷を負わせようとした奴だぞ」

 すると、澄香は疲れた表情をしながら微笑む。

「あの瞬間、私は殺された、お父さんと、お母さんに会えました……」

 それを聞いた利は驚く。

 あの瞬間に、澄香が走馬灯を見たのだと理解し、澄香の言葉から彼女の身の上を察する。

 そして、澄香がしようとしていることも。

「死ぬなよ」

 利は澄香の勝利を祈ると、その場を後にした。

 澄香は、歪む視界に自分が泣いているのを知った。

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