循環する画家

枝林 志忠(えだばやし しただ)

第1話

「美しい濁流だな。奥田」

 

 とある老舗の旅館の客室、奥田は同意を求めてきた男の側に立ち窓の外を見た。台風が過ぎ去っても、空はまだ陰鬱とし、河川には流木や木の葉、たまにごみが流れているので、お世辞にも澄んでいるとは言い難いものだった。


「エッシャー、あの濁流のどこが美しいんだ?」


 奥田は「エッシャー」という男に尋ねた。


「混とんとした状況は、多くのものが詰まった宝箱みたいなものだからね。本来なら、ああいう混ざり合ったものから、生物なのか人工物なのかよく分からない発電システムができたんだろうな。日本の農村地域にその機構をもつ施設があったというのが驚きなんだよ。早く見たいもんだな」


 エッシャーは、澄んだ眼をしていた。


 有名な画家と同じ名前をもつその男は、流暢な日本語を話すオランダ人だった。知人の伝手で、発電施設の遺構に詳しい奴を紹介してくれたのだが、自分のことを「芸術的技術者」と称する妙な奴だった。だが、彼のぼさぼさ頭と痩せた青年姿からは、どうみてもブルーカラーには見えない。いわゆる発電施設マニアであろう。


 そのオランダ人は、ヨーロッパの小水力発電だけではなく、日本の小水力発電もみてみたいという理由で来日したそうだ。電力会社を定年退職して余暇ができたにもかかわらず、発電施設の遺構を調べるほど、電気から離れたくない奥田の行為に感銘を受けたのだ。


 謎の多い青年で、他人に壁をつくる人物ではなかったが、奥田の知らない水力発電施設について知っているほど、かなりのマニアではあった。


 普通、水力発電所は、主に三つの設備が必要になる。発電に必要な流水を集める・放水する「土木設備」、水車や配管類などの「機械設備」、発電した電気を電力会社の送配電線や電気を必要とする設備に送る「送配電設備」、この三つの構成が必要だ。

 小水力発電は、ダムを用いた水力発電より簡易的な設備を用いるもので、明治・大正時代には、電気が通らない農村地域で、自家発電と配電を行っていた世帯も存在した。河川の横に小型タービンと呼ばれる水車を置き、水を引く水路を設ける。小型タービンは、水路の出口よりも低い位置に設置され、高低差(落差)を利用した水の勢いで水車を回して発電する仕組みだ。


 今回、現地見学として見に行く発電施設は、明治以前に竣工され、人工的な設備がもつ役割を植物や土壌が担ってくれるものらしい。エッシャー曰く「山全体が発電施設になっている」だそうだ。


 その山は、微生物、土壌の水分保持力、植物の浸透圧と凝集力で水を引き上げて位置エネルギーをつくり出す。その後、水が落下する運動エネルギーで細胞内にある『タービンタンパク質』を回して発電している。この『タービンタンパク質』とは、「小型タービン」と植物細胞に運動を起こすタンパク質「モータータンパク質」を掛け合わせた造語である。


 厳密には、モータータンパク質のような別のメカニズムが発電を引き起こしている、と推測で報告されている。というのも、通常の植物や土壌内にはないペンローズの三角形など不可能な構造が存在しており、この構造内でエネルギーの増幅に関与した未知の機構があると判断されたからだ。


 また、河川や高等植物の導管・師管内、土壌中、それぞれの水の流量を計算してみたところ、どの流量も一定の値で流れていた。つまり、自らエネルギーを生産する永久機関に近いものが拝めるのだ。公の機関から注目されていなかったら眉唾ものかもしれない。


 最近になって、海外から来日した大学関係者が、観光した際に偶然発見したことが発端で、民間企業および県企業局など各方面で注目されるようになった。余暇を存分に使える奥田たちにとっても、探究心を高める引き金となったのだ。


 前に一度、奥田は海外の大学関係者が撮影した発電施設の動画を、エッシャーから見せてもらったことがある。山の頂には森林が並んで生えているが、下方にいくにつれて森林が徐々に緑色の背景になっていく。すると、森林の隙間で形づくられていた黒色(影)の背景から、家屋と水車小屋の形が浮かび上がっていく。それから下方に進むと、家屋と水車小屋が背景に同化していき別の形が浮かび上がる、という具合に色彩豊かなタイリングアートの光景が映し出されていた。


 なぜ、発電施設がタイリングアートになっているのか、奥田には理解できなかった。

 しかし、こうもまあはっきりとした光景が日本にあったのに、日本人の奥田が知らなくて、オランダ人のエッシャーが知っているというのは、いかがなものなのか。特に何も感じなかった自国の文化や価値が、外部の人間から賞賛されることで、改めて見直されるというものに似ていると奥田は痛感した。


 奥田が物思いに耽っていると、エッシャーがこちらを振り向いた。


「少し話変わるけど、マウリッツ・コルネリス・エッシャーの『滝』という絵を知っているかい?」


 奥田は画家の名前は知っていても、どんな作品かまでは覚えていなかった。必死に思い出そうと考えを巡らしていると、エッシャーは奥田の肩に手を置いた。肩にチクッと軽い静電気を浴び、首、顎、頬、頭、と順に皮膚の内側を何かが這った。「何だ、今のは?」と考える隙を与えるよりも、一枚の版画を鮮明に思い起こす方が早かった。


 その版画は、滝の動力で回る水車と水車小屋が、住居の上に描かれているものだった。下方には、物干しロープに洗濯物を掛けている女性やパラペットに寄りかかっている人も見える。それだけなら、写実主義の絵画、と呼ぶのかもしれない。

 しかし、所々に置かれた非現実的な描写のせいで、異様さを増していた。住居の後ろには、棚田のようなぼんやりとした田園風景。左下には見たこともない植物。加えて、絵の最上部に描かれた多面体。


 最も注目すべきところは、滝だ。水車のある位置を始点として、水の流れを見ると、平坦な水路を右へ左へとジグザグに進むが、あるところで滝のように真下に落ちて水車のある位置へと戻る。平坦だったはずが、どこから落差をつくっていたのか。よく見ると、水車が置かれた部分から突き出た柱と一回目に折れ曲がる部分から突き出た柱との二点で、水路全体を支えている。ペンローズの三角形で落差をつくっていることに気づく。


 奥田は顔をあげ、オランダ人に目を合わせようとしたが、すぐに顔を伏せた。なんとなく全てを見透かされている気持ちになったのだ。


「思い出した?『滝』は永久機関みたいなものだ。絵画の中では既に実現していたのに絵の珍しさの方が取り上げられた。残念でしかないよ」


「そりゃ、まあ。絵に描かれていることが現実だとは限らない。絵は虚構の世界なんだから現実とごちゃ混ぜにしちゃだめだよ」


「奥田はさ。現実と虚構の境目はどこにあると考えているんだ?」

 奥田はなんとなく話を切り上げたくなる衝動に駆られた。


「おい、エッシャー。そろそろ寝よう。明日は早いんだろう。本当は俺たち二人だけで見学するつもりだったけど、大学関係者や民間企業も見学したいとなって、皆、予定合わせて来るんだから。遅刻したらいかんよ」


「もうこんな時間か。そうだね、早く寝よう。ただ、明日遅れて来る人がいるよ」


「何か連絡が来たのか?」


「いや、来たわけじゃない。あと、現地に行ったら、長い時間、山から出られないから覚悟しておいたほうがいいよ」


「現地見学だから、午後まではかかるだろう」


「明日一日だけだといいね」


 明日何か起こるのだろうか。奥田は少し気になったが、すぐ床に就いてしまった。


 ***


 目を開けると、奥田は水分子になっていた。土壌から植物内、そして河川に来て再び土壌へと循環していた。


 漆黒の中、高速で吸い上げられたかと思うと、真っ逆さまに落ちていく。


 途中、落ちているのか、昇っているのか、前後の感覚すら分からなくなる。


 時々、水泡が暗闇の奥から現れては、彼の傍を掠めて後方へと進んでいく。たまに顔面にぶち当たって水泡が割れるが、痛みや恐怖心はなかった。


 ああ、これは夢か。


 納得したのと同時に、自分が人間と水の境界線を越えたダイバーになった気分を味わっていた。こんな高揚感を得るほどの夢は覚めないでくれ、と奥田は願っていた。




 次第に視界の奥から白い光が広がってきて、闇が塗りつぶされていく。


 一面の白で周囲の状況が把握できなかったため、奥田は思わず動くのを止めてその場

 に立ち竦んでしまった。


 続いて、様々な輪郭をもった黒い影が複数現れ、立体感のある像があちこちにできる。像の中には、石膏像、絵の具のチューブ、ローラーなど美術に使用する道具ができていた。白と黒のハイコントラストで構成されたアトリエの中に、奥田は突っ立っていたのだ。


 誰もいないのか見回したところ、前傾になって木版にひたすら何かを刻んでいるシルエットが見えた。前傾になっているため顔はよく見えない。


「何を刻んでいるのですか?」


 定年を過ぎた男は、老人に声を掛けた。


 モノクロで描かれた人物は、顔だけを動かして奥田を一瞥したが、何も返答せずに視線を木版に落とした。


 一瞬であった。シルエットの人物は、ウェリントン型の眼鏡を掛けた老人、であることが分かった。どことなく、エッシャーと同じオランダ人の風貌だ。


 何を彫っているのか気になり、徐に老人の傍に寄った。


 すると、老人は作業をしながら主張した。


「芸術と技術は、進歩しないものなんだ。どの時代のどこにも属さない独りよがりな奴、と言われることは避けられんがね。だが、人間は、愚行を繰り返す生き物だ。進んでいると思ったら、原点に戻ってしまっている。人間は、何度も何度も循環していることを胸に刻んでおくべきだ。私が言いたいのは、それだけだ」


 老人の言葉が終わると、視界が霞んできた。


 奥田は、何も見えなくなってしまう前に、木版に目をやった。木版には、多くの生物と無生物が敷き詰められたタイリングアートが、描かれていた。


***


 翌日、夢現の状態、二人は奥田の運転で現地に向かった。車窓から色彩豊かの光景が映し出された時、改めてその山の色彩に圧倒された。


 県境に位置する山村で、地元の人には旧村名で呼ばれている。山地は河川の支流と谷によって分断されており、複数の山塊を形成している。映像で見たタイリングアートになっている山は、その山塊のうちの一つだ。山塊には三つの集落が現存するが、それらをまとめて一つの村としていたようである。


 集合場所は、麓の集会所で既に何人か来ていた。二十代ぐらいの男女がいることから、大学生だと容易に知れた。車の中で、待機している職員もいた。


 皆、何かしら汚れることを心配して、作業着を身に着けている。


 まだ集合時刻まで時間があったため、奥田はエッシャーと雑談することにした。


「昨日の夜に、気がかりな夢を見てね。画家のエッシャーに会った夢を見たよ。初めて見た夢じゃない気がしたんだ」


「そうか」


 朗らかな表情とは裏腹に、軽く受け流した返答であった。


 予定時間を過ぎると、女性の市役所職員が、私服姿の男性二人組に話しかけていた。


 二人組は、この発電施設兼山の集落に住む佐川親子であった。息子の方はともかく、父親の話し方がどうも覚束ない。息子は高齢の父親に付き添いできているようだ。

 

 会話の内容は、他県からくる建設企業の職員が遅れているとのことだ。このまま待つのも時間の浪費なので、市役所職員だけ集会所で待ってもらい、あとで奥田たちと合流ということになった。


「あー、皆さんたくさんおりますねぇ。お疲れ様です。では行きましょうか」

 父親は朴訥とした口調で、奥田たちを案内し始めた。


 目的地は、山の中腹あたり、家屋が密に連なっている集落だ。山道は人が通れないほどではなかった。現に人が住んでいるため、地元民に手入れされているようだ。


 小水力発電の話や互いの経歴、雑談を交えながら歩く途中、先頭を歩いていた佐川親子が立ち止まった。昔小型タービンを設置していたところがあるらしく、一旦、山道を外れることになった。さすがに人が通っておらず、やぶ蚊が飛び蜘蛛の巣が張られている。


 しかし、そんなことは、この山を歩くうえでささいなことでしかなかった。


「こんな所にも暗渠(水路)が通っているのですね。ん?違うこれは、雑草か?」

 

 木漏れ日と木陰、そして雑草についていた露で川が流れている、と大学教授が錯視してしまったのである。反対に、山道と見間違えて河川に入ってしまい、下半身がずぶ濡れになってしまう学生もいた。錯視まみれの山道で、目的地に着くまでが一苦労である。

 

 案内人の親子は、山道を登ることに慣れていた。父親は、齢のせいか歩く速さが若干遅いが、剥き出しになった石や根っこにけつまずいて、つんのめりそうになることはなかった。


 ちなみに、オランダ人の青年は錯視にだまされることなく、今の状況を無邪気に楽しんでいた。


 麓から目的の集落まで、数分要して到着する予定だったが、一時間近く掛かってしまった。


「やっと着きましたけど、ここが麓から見た、水車小屋が沢山あった集落ですか?」


「そう思いますけど……」


 家屋はあった。普通に生活している地元民もいた。しかし、茅葺屋根や土壁が茶色から緑色へのグラデーションになり、家屋の端が動植物で覆われていた。生態系がおかしくなっている風景に奥田たちは呑まれていた。


 彼らのうち、電力会社の職員が口火を切った。


「何だか不気味すぎますね。それに水車小屋が何軒もあった気がしましたがねぇ。水車一台を設置して、二十五軒もの家屋に配電していたという記録はありますけど、ここには電線も見当たりませんし、本当に周りの自然やタービンタンパク質で電気を得ているのですね」


「すみません、お邪魔します」と述べて、奥田たちは家屋に入る。


 草木や植物が天井や床、畳まで広がっていた。植物自体が発光して内部を照らしているため、外にいる時と変わらない。耳をすますと植物内部から水の流れる音が聞こえる。


 葉緑素のはたらきやエネルギー分子を生成する過程、植物の根圏で起きる化学反応も発電に関係しているだろうが、ペンローズの三角形のような四次元空間で稼働している別のメカニズムが大きく影響しているはずだ。


「あの、水車小屋は今も使っているのですか?」


「今は使ってないです。以前は電灯としての発電、精米や製粉、製材用に回していました」


 佐川家の息子が返答した。


 それにしても、どこからどこまでが自然物で、どこからどこまでが人工物なのか見当がつかなかった。


「しかし、この山全体が永久機関の発電施設だなんて未だに信じられませんね。そもそも永久機関が存在すること自体がおかしいですよ。幻想的なアートにしか見えないですね」


「どうしてそう思うんですか?」


 エッシャーが電力会社の作業員に聞いた。


「え?それは、エネルギーの保存則が成り立たないから。有限であるはずなのに、この山が無限のエネルギーを生み出しているのが気持ち悪いんですよ」


「そうですよね。水力発電などの再生可能エネルギーは、水の動力から電気を生み出しますよね。植物の根圏や水辺発電設備は、水と電気の境界線にある仲介者のようなものです。ということは、この山自体が仲介者の役割をもっていることになりますから変ですよね。君はどう思う?」


 今度は大学教授が自分の感想を述べた後、すかさず学生に質問した。


「おっしゃる通りですね。物事に限界がある境界線がないっていうのが、実感湧かないです。すみません、佐川さん。この山をどのようにして発電施設にしたのかとか、電灯が灯った当時の話を聞きたいのですが、よろしいですか?」


 下半身がずぶ濡れになった学生が、父親に聞いた。


「電灯が灯ったときは、感激しましたよ。そこの家に住んでいるおばあさんが「ありがたい」と言って手を合わせて拝むんですよ。上の集落で成功して、ここの集落は二番目、麓の集落は三番目だったんですけれどもね。別の地区では、電灯つけるために集めた金を持ち逃げされて苦労したなんて話を耳にしましたよ。タービン水車を設置する際に、現地をよく調べて落差が大きいところを選んだり、ヒューム管をどうやって埋めるか考えたり、大変だったと聞きました。

 まあ、それ以上にこの山を発電施設にするのも大変でしたがね。本来、自然と人工は、相容れないものに見えますよね?ですけども、注意深くよく見ると、どんな生物・無生物でもメカニズムが一致する部分があるんですよ。微小ではあるんですがね。で、その部分を幾何学模様のように組み合わせていく果てしない作業をしていったんですよ。地区の人々総出で労力奉仕してくれたんですわ。結果このような施設、タイリングアートの山が出来上がったんです。万物が地道に変化を加えてきた結果なんですねぇ。作業自体は、私の祖父よりもずっと前から続けてきたそうですがねぇ」


 奥田たちは唖然とした。山に入る時の話し方とうって変わって、父親がまるで生き字引のごとく当時の話を語ったからだ。


 加えて話の内容から、この集落に住んでいる人たちは、どのようにしてメカニズムが一致する部分を見つけていたのか、奥田たちは想像つかなかった。人間でありながら現在の人間よりも優れた知能を持っていることに。


「すみません、この村に関する史料とか、ここの発電施設の設計図とか保存していますかね?仕組み・製作者について知りたいのですが。史料館や役所にも見当たらないんですよ」


 電力会社の作業員が父親に聞いた。


「無駄だと思いますよ」返答したのはエッシャーだった。


「水車小屋の記録や小型タービンの記録でさえ、現存しているものはわずかなのに、最近になって注目されたこの発電施設兼山の情報が残っているのは難しいと思います。それに、話を聞くと、製作者は太古の昔にまで遡るかもしれませんよ」


 続いて父親が応えた。


「誰が製作者なのかと問われると容易に答えることはできませんなあ。ただ、どのようにしてメカニズムを一致させているのかをお見せするのは可能です。」

 耳を疑った。それは願ってもないことだった。奥田たちはさっそく見せてもらうよう頼むと、佐川親子の顔は無機質な真顔に形を変えた。


「そうですか……。それでは皆さん、一緒に参りましょうか」


 今度はどこに案内するのか、奥田たちはしばらく見据えていた。しかし、親子は一向に動かない。


「すみません、何をして…」しびれを切らした大学教授が近寄ったところ、今度は教授自身も動かなくなった。


 一体、何をしているのか、奥田はおそるおそる近寄ると、上半身が家屋の壁に、下半身が地面に描かれた佐川親子と教授を見ていたことに気づいた。見る角度によって立体的に見える錯視の絵と化していたのだ。振り向くと他の皆も静止している。嫌な予感がし、近づいて見ると、彼らも同じく錯視の絵と化していた。


「メカニズムを一致させるというのは、この山の一部になるってことなんだ。その後、様々なものに変化する、永久機関になるのは自明の理だね」


 オランダ人が無事であることが唯一の救いだが、今の奥田には、その青年も恐怖の対象でしかない。


「て、展開がついていけない。つ、つまり、どういうことだ?」


「説明不足だったね。生物や技術革新は、たいていそうさ。あの佐川の親父さんが言っていたよね。万物が地道に変化してきた結果だって。メカニズムが一致するような部分を組み合わせる中で、一致しない部分もあるけど、全体を見れば一つに繋がった物体なんだよ。

 そうなると、あるものが別のものへ可逆的な変化を繰り返すんだ。個々の動きは不規則的だけど、全体の動きは規則的に見える。タービンタンパク質みたいな新しい機構が存在するって報告されていたけど、実は、不規則に動く多くのものが寄せ集まって、そう見えたってだけ。だまし絵みたいにね。人間がその流れに入っていないのはおかしいよ」


「輪廻みたいな数珠つなぎになっていることか?でも、前に見学に来た海外の大学関係者は何とも……」


「いや、彼らだっていつかは変化するよ。どんな人間だって、同化や変化して循環する流れに乗っているものだよ。そろそろ僕たちも一部になろうか」


 奥田の有無を言わさず、視界がまた霞んできて暗くなった。


 再び水分子に変わるのと同時に、脳に様々な映像が流れ込んできた。何度も形を変えながら別の生物・無生物に変化する果てしないシーンが。


「この生物・無生物たちは、俺自身だ」奥田は瞬時に理解した。


 その映像の中で、奥田が人間だった時の記憶まで流れこんできた。


 奥田がエッシャーに出会う場面、

 水分子になった後、老人の画家に出会う夢を見る場面、

 山の自然と同化した際に水分子や微生物に戻る場面。

 どの場面も奥田は繰り返し経験していたのだ。それは、過去で起きたことは未来で起きることとほとんど同じ意味。この発電施設になった山全体が、歴史の記録・史料と言ってもよかった。


 青年のエッシャーと夢であった老人の声が重なり、ナレーションのごとく聞こえてきた。


「今回一緒に同行した人、全員とも循環していたんだよ。佐川の親父さんは、昔の記憶をかなり覚えていただろう?」


「俺を含めた他の人は、何も知らなかったようだったけど」


「そりゃあ、奥田たちは佐川親子よりも、この山に接する頻度が少なかったからね。でも、皆、君と同じ夢を見ているはずなんだ。僕は、祖国で似たような山に接していたからある程度知っていたよ」


 あの夢は、奥田たち全員が既に輪廻の環に加わっていたことを暗示していた。エッシャーが奥田に、版画『滝』を思い出させたこと、見学前日のエッシャーの予測、思い当たる節があった。


「画家のエッシャーは、何もかも知っていて多くの人にその事実を知らせるために、多くの作品に託したのか」


「そう。それに夢にまで出てね」


「もしかして、君の祖父だったりする?」


「とんでもない。あの人が僕の親族だなんて恐れ多すぎるよ。でもね…」

 どこかで繋がっていると思うよ、この言葉だけ老人のしゃがれた声だった。


「さて、奥田。今更なんだけど、やっぱりまだ人間の姿のままでいるかい?君なら僕と同じくこの循環を楽しめると思ったんだけど。まあ今じゃなくとも、いずれは循環することになるからね」


「俺は……もう少し人間の姿でいるよ」


「そうか」


「あ、もう一つ聞いてもいいか?「『芸術的技術者』っていう肩書は、ただの芸術家じゃない、いや、ただの技術者じゃないって言いたいのか?」


「本当は『何でも屋』とつけたかったけど、父さんにそれはやめろと言われてね。思案した挙句、『芸術的技術者』にしたんだ。芸術的は画家の名前と同じだから、技術者は父さんが土木技術者だったから」


「そんな理由か……」


 エッシャーはそう言っていたが、本当は、芸術家と技術者も繋がっていることを伝えたかったのかもしれない。


「じゃあ、僕は先に行ってるよ」


 青年はあっさりと返答し、それっきり声を発しなくなった。


「だ、大丈夫ですか?皆さん」


 目を覚ますと、集会所で待っていた女性職員が遅れてきた男性と一緒に奥田の顔を覗き込んでいた。一緒にいた他の人たちも同じく、横たわっていた。


 彼女の話を聞くと、目的地に向かったところ、住民のいない廃集落で奥田たちが眠っていたのを発見したとのことだ。エッシャーと佐川親子を除いて。あのグラデーションで彩られた家屋は、全て緑色に化した廃屋になっていたのだ。


 狐に化かされたような面になって、その日は一旦解散となった。車で帰る際、夕陽に照らされた発電施設兼山を見た。タイリングアートの模様に変わりはないが、今朝ほど色鮮やかでなくなっていた。山が変化したのだ。


 エッシャーは、佐川親子と共に、永久に循環する機関に身を委ね、電気エネルギーに姿を変えているのだろうか。


 奥田は、エッシャーに聞きそびれたことがあった。結局、永久に循環するこの流れは、誰がどんな目的で生み出したのか、と。


 おそらく、彼は「聞くだけ無駄だよ」と答えるはずだ。


 数多の生物・技術は、進歩していたつもりが、実はそれほど進歩していなかったこともあり得る。過去に注目された小水力発電が衰退して、再び注目されるように。


 エッシャーは、境界線をなくして別の形質をもつものと繋がり循環する、それこそ万物の本来のあり方だったのではないかと感じずにはいられなかったのだ。エッシャーの行動は、至極真っ当といえる。


 されど、奥田を含む関係者は、人間の姿に未練があった。移り変わりを楽しむよりも、人間のままでいる現在を堪能することが喜ばしかったのだ。あの山に同化しかけた者の誰もがそう考えているはずだ。奥田たちは、永久にあの循環から逃れられないのかと想像すると、どことなく胸がしめつけられるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

循環する画家 枝林 志忠(えだばやし しただ) @Thimimoryo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ