第9話

 メアリーはギルバートの身体に子猫のように擦り寄ってクスリと笑った。

 あの頃から考えれば、メアリーとギルバートの今の状況は、到底考えられない代物だ。お口の悪い人間を嫌いなメアリーがお口の悪いギルバートのことを大好きになり、負けず嫌いでメアリーに敵対心を持っていたギルバートがメアリーのことをこよなく愛しているのだから。


「ねぇギル、人生って不思議なほど物事が変わりゆくものよね。」

「………そうだね。昔のことを思い出していたのかい?」

「うん、出会い頭の罵倒大会のことを思い出していたの。」


 メアリーは懐かしむように目を細めた。


「あぁ、…………頼むからアレは忘れてくれ。」

「嫌よ。だって愛しの旦那様との出会いよ?忘れたくないに決まっているじゃない。………ギルは違うの?」

「いや、私も昔の自分を殴り倒したいくらいに恥ずかしいけれど、忘れたくはないよ。」

「よかった。」


 ギルバートはメアリーの温かな言葉に、恥ずかしそうに頬を赤く染めた。


「ギル、早く2人になりたいな。」

「我が姫君の仰せのままに。」

「うん!」


 メアリーのはにかみながら言った言葉に、ギルバートは見る者全てを魅了する淡い微笑みを返した。


「では気を取り直して、ガイセル殿馬鹿クソ野郎の3つ目の大罪はさっきも言った通り、全てをサボったことだ。帝王学をはじめとするほとんど全ての勉学、剣術に体術、それから話術やダンズをはじめとする社交術。そして、後ろ盾だったルーラー公爵家のご令嬢で元婚約者だったキャサリン・ルーラー嬢をぞんざいに扱い、あまつさえ、浮気をしたことだ。」

「はあ!?俺は浮気などしていない!!」

「じゃあその腕に抱いているのはなんなのですか?」


 メアリーは表情は笑っているけれど、目の色が一切笑っていない微笑みを浮かべた。

 ガイセルはそんなメアリーの冷静で冷たい言葉に、激昂した。


「貴様は俺になにが言いたいんだ!!異国の伯爵家の小娘如きが俺に歯向かい、あまつさえ意見するなど万死に値するわぁーーー!!!!」

「せ、セルさま、や、やめましょう……。こ、このままじゃ………。」

「うるさい!!黙っていろ!!」

「ひぃっ!!」


 パーン!!


「うぅー、い、いたい………。」


 事態の深刻さを理解しているカロリーナは真っ青な顔色で必死にガイセルに意見したが、取り合ってもらうどころか、殴り飛ばされてしまった。小柄なカロリーナの身体は遠くに飛ばされ、ガイセルに強く殴られた頬は赤く腫れ上がってしまっていた。

 ギルバートは片眉を上げてカロリーナを一瞥した後、ガイセルに汚物を見るような嫌悪の籠った視線を寄越した。


「はん、こんなのが王族とはこの国の未来は絶望的だな。」

「そうね、王族という以前にこれは人としての問題ね。」


 メアリーはガイセルへと向ける瞳をより一層冷めたものにして、表情を歪めた。


「ギル、私はもう大丈夫だから下ろしてもらってもいいかしら?」

「分かったよ。でも、無茶はしないでね?」

「えぇ、わかっているわ。」

「本当?」

「ギルは心配性ね。」

「誰のせいでこうなったのかな?」

「………私のせいかしら?」

「分かっていただけているようで何よりだよ。」


 ギルバートの不安気で呆れの含んだ声音に、メアリーはこてんと小首を傾げて顎に人差し指を当てながらコロコロと笑いながら答えた。


「大丈夫よ、ギル。無茶はしないつもりだから。」

「そこはつもりじゃなくて、言い切ってくれた方がいいんだけれど?」

「それは無理なお願いね。」


 メアリーは困ったように笑った。これからメアリーが行うことに、無茶が含まれる可能性があることは折り込み済みらしい。


「………下ろしてほしいんだよね?」


 ギルバートは盛大な溜め息を吐いてから、メアリーにじとっとした視線を寄越した。


「えぇ、そうよ。」

「じゃあ、無茶はしないと言い切ってくれるかな?」

「私、ギルには嘘をつきたくないの。」

「さいですか。」


 満面の笑みで言い切ったメアリーはいっそのこと清々しいくらいに潔く、かっこよかった。


「下ろして、ギル。」


 メアリーのことを一向に下さないギルバートに対して、メアリーは焦ったそうに不機嫌な声音で言った。


「ねぇー、ギルー?」

「やだ。」

「はい?」

「嫌だと言っている。」

「駄々っ子みたいね。」

「駄々っ子で結構だよ?」

「え?」

「ん?」


 メアリーは口を開けて呆けた表情のまま見事に固まって、安定感のあるギルバートの腕の中で動けなくなってしまった。

(えっとー、何が起こっているのかしら………?私は確かギルに下ろしてって頼んで、それで………。)

「アリー?」

「ギル、あんまりわがままを言い続けたら、私、嫌いになるよ?」


 メアリーの説得力のない耳まで真っ赤にした涙目のじと目での言葉は、ギルバートには効果的面だったようだ。顔からすっかり血の気が引いてカロリーナ同様、否、それよりも酷い真っ青な顔色になってしまっている。


 はっと我に返ったように唇を噛み締めたギルバートは渋々と言った手つきで、けれど、今にも泣きそうないっぱいいっぱいの表情でメアリーを下ろした。


「ん、ありがとう。ギル。」

「………アリー、これで私のこと、嫌いにならない?」

「ふふふ、ならないわよ。さっきのもただの脅し文句だし。」


 目をまたまた見開いたメアリーは次の瞬間、ギルバートを安心させるように慈母のような優しい笑みを浮かべた。


(私はギルが思っているよりもずっとずっとギルのことが大好きなのに。………私がギルを嫌いになるなんてたとえなにが起ころうともありえないわ。)


「………私はいつもいつも君に嫌われないように、見損なわれないように、見捨てられないように必死で必死で精一杯なんだよ?」

「? それはこっちの台詞セリフなはずなのだけれど………?」

「はぁー、アリー、君は本当に分かっていないよ………。」


 ギルバートは自嘲いっぱいの笑みを浮かべて俯いた。


「君だけなんだよ………。」


 彼の悲しそうな、口の中だけで呟かれた懇願のような呟きは、メアリーにさえも届くことはなかった。


「ギル?」

「ーー、アリー、助けに行ってあげないのかい?」

「あ!すっかり忘れてしまっていたわ!!」

「はは、君にとって彼女はその程度の人間なんだね。」


 ギルバートは心底嬉しそうに笑った後、カロリーナのいる方向を顎でしゃくった。


「行っておあげ。」

「えぇ!行ってくるわ!!」


 メアリーは大きく頷いてから、床に蹲っているカロリーナの元へと歩みを進めた。


「大丈夫ですか?」

「…………。」

「っ、大、丈夫、では、ありませんね。」


 メアリーはまるで自分が殴られたかのようにぎゅうっと眉間の皺を寄せ、目に涙まで浮かべて痛ましい表情を浮かべた。


「大丈夫です。彼にはちゃんとあなたが殴られた分までそれ相応のをして置いて差し上げますから。」


 深呼吸をして心を落ち着けたメアリーはふっと仄暗さを感じる笑みを浮かべた。

 メアリーは怒っている。それはそれは手がつけられないくらいに激怒している。

 彼は見事なまでにすっぽりとメアリーの地雷を踏み抜いてしまったのだ。だが、この会場内でこのことに気がついているのはギルバートだけだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る