貴女へ拍手を

さくらみお

第1話


 午前六時半。

 渋谷駅前スクランブル交差点。


 凍てつく空気が香住かすみの頬を掠った。


 身震いをして見上げるのは、まだ薄暗い藍色の空。西の空には微かに星が瞬き、東の空はうっすらと明るみを帯びている。

 ほう、と息を吐けば、黒縁の眼鏡を曇らせて香住の視界をぼやけさせる。

 そのかすむの世界で、香住は空を見上げ喉を震わせた。


 小さく、あー……とビブラートを効かせて。


 その音は周囲の行き交う人々の雑踏に掻き消されて、空へと届く前に消えた。


 届かぬ声に溜め息を吐くと、辛子色のマフラーを深く口元まで隠し、渋谷の街から逃げ出す様に京王井之頭線乗り場へと消えて行った……。




 ◆



 同日同刻。

 宮崎県西臼杵郡にしうすきぐん日之影町ひのかげちょう


 繭子まゆこは縁台から庭へと降り立つと、いつもと変わらない日之影の風景を眺めた。


 山間やまあいは緑溢れ、町の中央部を流れる五ヶ瀬川に架かるは天翔大橋てんしょうおおはし

 朝日に照らされて朱色に輝く日之影。変わらない美しい風景と気持ち良い朝の空気を吸い込むと、白い息を力強く吐き出した。


 繭子の右手には水色の紙飛行機がある。繭子は風の流れと方向を見定め「今日も届きます様に」と呟けば、その手を軽く突き出す形で手放した。


 紙飛行機は一気に風に乗り急上昇し、急斜面に作られた棚田を長く長く、軽やかに、下って行く。



 朝日を浴びて輝きながら、どこまでも……。

 




 園田そのだ繭子まゆこは、日之影で生まれ育った娘である。


 看護学校を卒業後、日之影診療所に就職し、医師の秀和と結婚をする。

 しかし、結婚して数年で秀和は難病を患う事になり、それでも医療機関が少ない日之影で人々に求められるがままに医師を続けた結果、無理が祟り、結婚して僅か八年後に、秀和はこの世を去った。


 悲しむ繭子の前にお節介な親戚は、何度も再婚の話を持ち掛けた。

 だが、夫を愛していた繭子にとって、再婚はとてもじゃないが考えられなかった。


 ――それから数年が経ち、やっと周囲の声が無くなり、繭子の心と体が落ち着いた頃に現実を振り向けば繭子に残されたものは「空虚くうきょ」だった。


 空虚は、押し寄せては繭子を孤独にさせ、満たすと引いていく。

 その波打つ感情に耐えられなくなった繭子は、紙飛行機を飛ばした。


 秀和との思い出の紙飛行機。

 秀和が診療所からこの高台の家に戻る道中、繭子が庭からふざけてよく飛ばした紙飛行機。

 秀和は紙飛行機を拾い、笑顔でこの高台の家に帰ってきたのだ。


 ……紙飛行機を飛ばしたからって、秀和が帰ってくる事は無い。

 しかし、繭子の紙飛行機は一つの奇跡を作ったのだった。





 庭先に、ギギーッと油乗りの悪い自転車が止まる音がする。

 繭子は来た来た、と縁台に用意しておいた大きなおにぎりを三つ手に取る。


 そこには少年が佇んでいた。

 紺の上下ジャージ姿にヘルメットを被る青松あおまつ晴樹はるきは、繭子の家の真下にある青松家の子だ。

 高校一年生で野球部。毎朝朝練のために朝六時半には自転車で20km先にある高校へと向かう。


 ――奇跡とは、数か月前、繭子の飛ばした紙飛行機を晴樹が拾って持ってきてくれた事だった。

 繭子はその行為が嬉しくて、お礼にクッキーを渡した事が始まりだった。


 野球部で食べ盛りの晴樹にとって母親の作るお弁当は少なく、朝練の後に無くなってしまうらしい。

 だから繭子は飛ばす紙飛行機を持ってくれるお礼として、野球ボールよりも大きなおにぎりを三つ、晴樹に作ってやる事にしたのだ。


「おはよう、はるちゃん!」

「繭子さん、おはようございます」


 繭子は、晴樹はるきの自転車籠におにぎりをポンと投げ入れた。晴樹は丁寧に、拾った紙飛行機を繭子に手渡す。


「繭子さん、相変わらず雑。丸いおにぎりがいびつになる」

「雑なのは生まれつきですぅ。いびつでも美味しいでしょ?」

「はいはい。じゃ、行ってきます」

「はい、いってらっしゃい!」


 晴樹はお辞儀すると、自転車のペダルに足を掛けた。

 瞬く間に姿が見えなくなる晴樹。

 

 この朝の他愛無い一時ひととき

 孤独な繭子にとって、毎日の生きがいだった。




 ◆




 香住かすみは薄暗いビルの合間をくぐり抜け、辿り着いた細長い雑居ビルの一階にある『アイコン☆カフェ』の扉を開く。


 開店前の店内には40過ぎた細身で覇気のない男、店長の翠山がカウンターで料理の仕込みをしていた。挨拶をしてホール奥の控室へ入ると、同じメンバーの由紀菜ゆきな麻美まみが何やら雑談していた。


「おはよう」


「あ、香住、おはよ」

「香住、見てみて! この動画!」


 麻美は挨拶もそこそこに、香住に動画を見せる。それは一日五分で出来るバストアップ術で……。


「これは、ガチでいけそうな気がする!」と貧乳を克服したい麻美は鼻息荒く、香住に説明を続ける。しかし由紀菜は麻美に冷たい視線を向け、


「無理無理。あんたのAAAカップはどう足掻いても、AAAカップよ。それよりも磨く所、いっぱいあるでしょ?」


 と、辛辣な事を言う。


「はー? おっぱい以外は完璧なんですけどー!? ぽっちゃりを巨乳と勘違いしているお姉さんは、黙っていてもらえます~?」

「……私がデブって言いたいの?」

「だってぇ、そのお腹のお肉ぅ、何段ですか~?」


「ちょっと、麻美、由紀菜、やめなよ」


 香住は、けんか腰の二人を止める。


「あのさ、そういう険悪な空気って、お客さんにも伝わっちゃうよ!」


 香住がそう窘めると麻美はキョトンとし、由紀菜は「お客さん……ね」と乾いた笑いを浮かべた。



 ◆



「――私さ、今日で25歳になった」


 衣装のメイド服に着替えながら、由紀菜がポツリと呟いた。


「あ、そうなんだ。おめで「何がおめでたいのよ」」


 はあ、と大きなため息をついて錆びたロッカーに額をつける由紀菜。


「アイドルが25歳なんて、超致命的。もう四捨五入で30よ。香住だって、今いくつよ?」

「24歳だから、四捨五入すると20歳……」

「……あんた、ぶっとばすよ」

「ごめんごめん」


「……そろそろ、潮時かなって思う」


 ドキリとする香住。


「ゆ、由紀菜。それって、どういう事?」

「その言葉通り。地元帰って、家業でも継ごうかなと思う」


 ――メインボーカルの香住カスミン、ハスキーボイスを持つ由紀菜ユッキーそして、ハイボイス担当の麻美まみまみの三人は五年前、アイドルになる事を夢見て東京の地にやって来た少女達であった。


 三人はある小さな芸能事務所にスカウトされ、三年前にアイドルデビューはしたものの、全く売れず飛ばす。

 契約は一年で打ち切られた。

 それからは自主活動を繰り返し、今はこの『アイドルに会える』がコンセプトの『アイコン☆カフェ』でバイトをしながら、細々とアイドル活動を続けていた。


「麻実はさ、まだ22歳だししたたかさがあるから、まだアイドルとして頑張ると思うけれど……ぶっちゃけ、香住はどうするの?」


 由紀菜の言葉に、香住は衝撃を隠せなかった。

 由紀菜は香住の「アイドル終了」前提で話をしているのだから。


 彼女の言いたい事は分かる。

 香住は幼い時から歌が上手い子だった。

 顔だって悪くない。

 地元では、ちやほやされた。


 しかし、都会に出てみれば、「それだけ」の子なのだ。香住の様な子は都会にはたくさん居る。


 香住は必死ともがいた。

 しかし、答えが見当たらないまま月日は経ち、今はこんな場末の更衣室に居る自分……。

 香住は、今の自分が死ぬほど嫌いだった。

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