第4話 こんなはずじゃなかった

(こんなはずじゃなかった…。)

 しんと静まり返った部屋の中で、杉浦明は何度目かも分からないため息を気づかれないようにそっとつく。目の前では、妻裕美と女編集者が重苦しい空気の中、火花を散らしながらにらみ合っている。呼吸するのさえ憚られる程の雰囲気に居たたまれない。まるで、二匹の蛇に睨まれた蛙の気分だ。どうしてこんな事になってしまったんだろう…。発端は、些細な事だった…。明は、後悔しながら三週間前のことをゆっくりと思い起こす。


「私、杉浦先生の作品が好きで出版社に入ったんですー。」


最近、担当になったばかりの若い女編集者、橋本まどかにそんな事を言われて、明は心から驚いた。駆け出し作家の自分が人の人生を左右するような作品を出せているとは、つゆほどにも思っていなかったからだ。


「え、マジで!!そんなこと言われたの初めてだなあ、滅茶苦茶嬉しいです、ありがとう。」


こそばゆいのと照れ臭いのとで思わず声が上ずってしまう。そんな明の顔をなぜか橋本はジッと見つめている。


「杉浦先生って、なんか子どもみたいで可愛いですよねー。ピュアっていうかー。」


「え…そんな子どもっぽい!?参ったなあ、この間も、映画館で大きな声出して奥さんに凄い怒られちゃったんだよね…。」


明は童顔で身長が低いせいか、若く見られることが多い。酒を買おうとすると、今でもたまに年齢確認をされることがある。


「えー、なにそれー可愛いー。」


「いやあ、ゾンビがいきなりダクトから落ちてきたの見たらびっくりしてヒエッて声出ちゃって、奥さんにしがみついちゃってさー。糞ダサいよね。」


明は映画館での裕美の様子を思い出す。情けない姿の亭主にしがみつかれた裕美は、そのまま顔色一つ変えずグロテスクなシーンを食い入るように見ていた。裕美の肝っ玉の方がよっぽど漢である。橋本にも大笑いされるに違いない、と明は確信した。

「超可愛いー、私だったら抱きしめちゃうなあー。」


が、予想に反して橋本の答えは温かいものだった。微笑を浮かべてはいるが、決して馬鹿にしているようには見えない。好意的にすら見える。それどころか、気のせいかもしれないが徐々に距離が近くなっている気がした。


「あ、せんせーい。ここの段落なんですけどー、編集長がこの主人公の過去をもっと掘り下げて欲しいって言っててー。」


「え?どこ?」


ぼんやりしていた明は、突然現実に引き戻されて我に返った。該当の段落を探すが、全然見つからない。と、慌てて原稿をめくる明の指を橋本がそっと掴んで該当の文章の上に導いた。ふわっと甘ったるい香水の匂いが鼻につく。


「ここです、こーこ。」


「あ、ありがとう…。」


(な、何なんだ…。この子…。)


明はただただ啞然とした。今まで見たことがない人種に見えたのだ。決して社交的なタイプではない明にとって、割と苦手なタイプの女性である。


「ただいまー。」


数刻して、打ち合わせのファミレスから帰ると、いつものように裕美がパソコンを見ながらコーヒーを飲んでいた。


「おかえり。新しい編集者どうだった?」


「んー、若い女の子だったよ。あ、僕の漫画が好きで出版社入ったって言ってて嬉しかったなー。まあ、流石に噓だと思うけど!」


冗談めかして笑って見せる明の顔を、裕美は穴が開くほど見つめたかと思うと、つと立ち上がって近寄ってきた。

「なんか、明、香水臭い。香水つけていった?」


くんくんと匂いをかがれる。まるで警察犬のようだ。


「香水―?」


寝耳に水の話で明は首をかしげる。おしゃれに無頓着な明は、洋服すら裕美が選んで買って来た物しか着ない。肛門の所に穴が開いていなければ、平気で虫食いだらけのパンツを履いている。香水など、つける発想すら皆無だ。


「そんな物、僕が持ってると思う?そもそも、この犬の散歩用のパーカーに香水をつける価値があるとでも?」


「思わない。でもじゃあ、尚更何で香水の匂いがついてるわけ?」


いつになく、裕美の目が真剣に見えた。鈍い明でも、何となく答えなければならない圧力を感じる程だ。


「えーと…多分、編集の子に指触られたからかなー。その子香水臭かったから、ついちゃったかもしれない…。」


「…何で打ち合わせしてて、指を触られるような事態になるの?」


「分かんない…修正場所分からなくておたおたしてたら、そこ教えてくれる時に指を触られました…。」


妻に詰問されてしょぼしょぼと答える明の表情を、裕美はジッと見つめている。裕美の足元で寝ていたチワワのチャロも、異変を察知したのか、むくりと立ち上がって明の顔をジロジロと眺めている。何も身に覚えはないものの、なんだか居心地が悪い空気だ。


「まあ、いいや。次の打ち合わせ、ファミレスじゃなくて家にしなよ。私もその編集者さんにご挨拶したいし。」


「え。いいの?高梨さんの時は、気使うから家に連れて来るなって、あんなに言ってたじゃん。」


高梨文雄は、前の担当の編集者だ。気は小さいが、人の好さそうな顔をしたすだれハゲのおっさんである。良い人だけど、少々汗臭くて加齢臭がするという裕美のご意向を汲み取って、打ち合わせはずっとファミレスで行っていた。大体家で仕事をすることが多い裕美は、家に他人が出入りするのを嫌う。この時の明は、珍しいこともあるものだ、と不思議に思ったものの、まさかこの先あのような大惨事が待ち受けているとは、夢にも思っていなかった。


 一週間後、再び橋本が来る日になった。明がパジャマ姿以外なら何でも良いかと、再び犬の散歩用のパーカーを羽織ろうとすると、妻に制される。


「いや、何でその犬臭いパーカー着ようとすんの?」


「高梨さんの時からずっと打ち合わせの時はこれ着てたんだから、どうでも良くない?」


「良くない。あんた一人の時なら好きなだけボロ着てても良いけど、今日は私もいるんだから、ちゃんと私が選んだ服を着て。」


「なんで?デートでもないのに?」


キョトンとする夫の姿に、すっかり呆れた様子の裕美は深いため息をついて、薄汚れたパーカーを奪い取る。


「あのね、旦那にきったない格好をさせていたら、私の妻としての沽券に関わるの。明だって、自分の友達に私を紹介する時に私がどすっぴんだったら嫌でしょ?」


「こけん?そうなんだー。んー、裕美はすっぴんでも顔変わんないし、可愛いから別に良いと思うけどねー。」


「そういうこと言ってんじゃないの。良いから黙って着ろ。」


ぼふっと顔面にジャケットとジーンズを押し付けられた明は、諦めて渋々着替えることにした。


(面倒くさい…今日の裕美はなんか押しが強いなあ、機嫌悪いのか…?…昨日裕美のアイスを黙って食べたのばれたかな…。)


そんなことを考えながら妻の方を見やると、いつになく、ピシッとしたジャケットを羽織った姿はどこか色っぽく見えた。


「あれー、どうしたの?今日の服、凄い綺麗だね!」


明は女性のスーツ姿が好きだ。凛とした表情で大人の女性を醸し出しているファッションを着こなす妻の姿に、ついつい嬉しくて犬のように尻尾を振ってしまう。そんな間が抜けた明の様子を見て、朝からずっと険しい顔をしていた裕美の表情が、ふっと和らいだ。


「こういう服、明好きでしょ?」


「好き好き大好き!その服でハイヒール履いて、パンツ見えるか見えないかの角度で足組みかえてくれたらもうずっっと見ちゃう!」


「ざんねーん。今日は家だからハイヒールは履けませーん。」


「えー。」


「ピンポーン」


そんな会話をしていると、インターホンの音がした。橋本が来たようだ。


「はーい。」


明がドアを開けると、橋本まどかが満面の笑みで立っていた。


「せんせーい、こんにちわー。」


相変わらず距離が近い気がする上に、甘ったるい香水の匂いが強い。


「あれー??今日の先生なんか格好いい!ジャケットも似合いますね~。」


「そう?僕服に興味ないからこれ選んだのは奥さんなんだよねー。だから奥さんのセンスが良いのかもね。」


「へー、そうなんですねー。」



橋本の目がスッと細くなった。上から下までジロジロと明の服を見ている。


「私だったらあー、先生にはタートルネックのセーターとか着て欲しいです~。」


「あー、この人、首が短いからタートルネックは似合いませんよ、着せたことありますけど。」


何時の間にか、後ろに立っていた裕美が二人の会話に横槍を入れる。基本的に物静かな裕美が、初対面の他人との話の途中に割り込むのは珍しいことだ。一体、どうしてしまったのだろうか。


「あれー、もしかしてえー、杉浦先生の奥様ですかー?すみませーん、ぜんぜんいらっしゃるのに気づかなくてー!はじめましてえー、先生の『専属』担当になった橋本まどかですー。」


「どうも、初めまして。杉浦の『妻』です。いつも主人がお世話になっております。」


ニコニコとお互いに挨拶しあう橋本と裕美だが、二人とも欠片も目が笑っていない。相性が悪いなら仕方がない事だが、明は何となく言い知れぬ悪寒を背中に感じた。腕を見れば、なんと鳥肌が立っている。気づかないうちに、風邪でも引いてしまったのだろうか。


「すいませーん、先生に早くお会いしたくてー、まどか走ってたら暑くなっちゃったんでー、失礼ですけど、シャツのボタン外しますねぇ。」


明が悪寒に震えている中、マイペースな橋本はリビングの椅子に腰を下ろすと、しれっとした顔でシャツの第二ボタンを開けた。ボタンを外すと、今まで隠れていた豊満な胸元がチラッと顔をのぞかせる。


(え…なんか、前会った時より胸がでかい…。)


前回よりも橋本の胸が大きく見えた明は、つい呆気に取られてそこを凝視した。するとその瞬間、隣から凄まじい殺気を感じる。ハッとして妻の方を見ると、能面のような表情でこちらを凝視している。


(ヤバい、橋本さんとやましいことなんて何もないのに、裕美に変な疑いをかけられたら、明日のご飯にドックフード出されちゃうかも…。)


慌てた明は違う方向を見るように努めた。そんな明の葛藤を知ってか知らずか、橋本はわざとらしく手で胸元をパタパタとあおいでいる。


「すいませんね、気が利かなくて。暑いなら、冷房を入れましょうか?」


張り付けたような笑顔で微笑みながら裕美が尋ねると、橋本は何がおかしいのか、クスクスと笑いながら答える。


「ふふ、奥様ったらー。今冬ですよー?私なんかのために冷房なんて入れて、先生が風邪引いちゃってだいじな原稿が遅れたら、私担当外されちゃいますー。」


「バカは風邪をひかないって言いますから、家の主人は風邪をひかないと思いますよ?お気になさらず。冷房を入れましょうか?」


「やーだー、奥様ったら辛辣―。先生がかわいそうー。」


こんな調子で、二人が会話をするたびに、心なしか1度ずつ部屋の温度が下がっていくように感じられた。もはや、氷点下にまで気温が下がっているような錯覚を覚える。凍える明の足元に、チワワと猫がすり寄ってくる。彼らにも、この異常事態が分かるらしい。なぜこのような得体の知れない寒さを感じるのか、よく理解できぬまま、明と二匹は吹雪が立ち去るのをただただ待ちわびた。


「何なの、あのパッド女。」


橋本が帰った後の裕美は、その週で一番機嫌が悪かった。全身から禍々しいオーラがたちのぼっているせいか、ペット達も怯えて近寄らない。


「あれパッドなんだ…。」


「パッドだよ、どこからどう見てもパッド。てか、そこそんなに重要?」


「あ、いや…確かに急にデカくなってたから、びっくりしてしまっただけで他意はないんです…ごめんなさい…。」


妻の怒気をはらんだ口調に怯えて、しどろもどろになった明を、裕美はどこかあきらめたような表情でまじまじと見つめている。

「明さ、気づいてる?」


何の話だろうか。主語がないので、何が言いたいのか皆目見当がつかない。


「ハアー。」


裕美はその日一日で一番深いため息をつく。


「あのね、君は狙われているの。本当に気づいてないの?」


狙われている…何に…?明の脳内に、ゴルゴ31が浮かぶ。殺し屋のオッサンに命を狙われるような事をした覚えはない。


「何に狙われているの?」


オウム返しに間抜けな顔で聞き返すと、裕美はどこか哀れみの表情を浮かべた。


「パッド女に、君は狙われているの。」


「えっっ、橋本さん!?ないない、年が一回り違うし、あの人陽キャっぽくてチャラそうだから、みんなにあんな感じでしょー。」


明はコンパや合コンに一度も行った事がない引きこもり系陰キャだ。盛り場にいそうなあの手の女性は苦手だし、中身のない会話もあまり好きではない。大人で包容力がありそうな、芸能人で例えるならば、松嶋菜々子のような雰囲気の年上女性が理想である。結婚している自分に言い寄ってくる非常識な女性が現れるかもしれないという可能性など、一ミクロも考えたことすらない。


「そもそも、こーんなに裕美が毎日大好きでやっと結婚出来て幸せで一杯なのに、僕がそんなことするわけないじゃん。裕美にしか興味ないもん。」


そうのんびりと答える明を、裕美はジトっとした目で見つめていた。


「いや、胸元見てたじゃん。」


「あれは…二倍くらいに膨れ上がってたから、ちょっとびっくりしちゃっただけだもん。」


「ふーん。」


「それにさー、女房の妬くほど亭主もてもせずってことわざあるじゃん?裕美の気のせいだと思うよ。」


「ふーーーん。」


夫を白い目で見ていた裕美は、もう一度念を押すようにじろりと明の顔を眺めて言った。


「とにかく、私は一応警告«は»したからね。もし、何かあったら緑の紙だから。」


「みどりの紙?ゆうちょの通帳没収??」


「違う、離婚届提出。」


「ええええ!やだ、絶対やだ!」


「嫌なら、ちゃんと節度を持った行動をして。」


腕組みをしながら、裕美はそう重々しく言った。


 あの時、もっとまともに裕美の意見を聞いておくべきだった…と、三週間後の明は思い知ることとなる。その日、明が一人で家にいると、電話が鳴った。橋本からだ。打ち合わせの日でもないのに、どうしたのだろう。つい好奇心から電話を取ってしまったのが、運の尽きだった。


「す、杉浦先生…ぐすん…すみません、今大丈夫ですか…?」


軽い気持ちで電話を取ったのにも関わらず、いつも明るい橋本が泣いていたことで、明は酷く狼狽した。


「あの、漫画の方の原稿の事で…お話があるんですけど…今、私最初の打ち合わせしたファミレスにいて…っ、ここまで来ていただけませんか…?」


「え…電話じゃダメなの?」


正直、極力外に出たくない明からすると、はた迷惑な話だった。せっかく家でまったりしていたのに、至福の時間を邪魔された気分だ。


「そう…ですよね…ご迷惑ですよね…っ、ごめんなさい…。」


嗚咽しながらしょんぼりと女性に言われると、関係ないのに何となく自分が泣かせてしまったような罪悪感に駆られる。しかし、家から出るのは酷く億劫だった。妻にたまに夜中にアイスを買いに行かされるのは構わないが、配偶者以外の女性の我儘に付き合う義理はない、と明は思う。と、裕美が前に、念を押しながら言っていた事をふと思い出す。


「仕事相手だから、打ち合わせすんなとは言わないけど、橋本さんと打ち合わせの時はなるべく家で打ち合わせして。」


「なんで?」


「明外出たくないでしょ?」


「うん。」


「ファミレスお金かかるし、家にしなよ。」


「分かったー、ありがとう。」


確かそんなことを言っていた。時間は夜の九時。誰が何と言おうと年中引きこもり気味の明が、わざわざ寒風の吹き荒れる夜、仕事とはいえファミレスに出向いたりしたら、あらぬ誤解を招きかねない。きっと、裕美の事だ。家での打ち合わせにこだわるのには、何かしらの理由があるに違いない。納得した明は、深く考えずに、のこのこと橋本に打ち合わせの快諾を伝えたのだった。


「せんせいっ…。」


インターホンが鳴ると同時にドアを開けると、そこにはコートにワンピース姿で目に涙を一杯貯めた橋本が立っていた。ここで、さすがの明も多少の違和感を覚えた。打ち合わせのはずなのに、なぜ私服なのだろうか。いつもの仕事着っぽい恰好とはまるでテイストが違う。なにかが、おかしい気がする…。首をひねる明の足元から顔を覗かせたチワワのチャロが、招かれざる訪問者を拒むかのように、低く唸った。チャロは、決して攻撃的な性格ではない。前に橋本が来た時も、唸ることはしなかった。チャロの後をついてきた猫のたまも、なぜかシャーッと橋本に威嚇しているように見えた。初めて見る二匹の異常行動に気おされた明は、前に心霊番組を見て、裕美が冗談っぽく笑いながら言っていた事を思い出す。


「動物ってさー、私たちより五感が鋭いし、よくないものが飼い主に近付いてきたら、きっと、チャロもたまも教えてくれるよ。」


その台詞を反芻しながら橋本をまじまじと上から下まで見つめると、どことなく、何かしらの悪霊に取りつかれて正気を失った人のような不安定さがあるのを否めない。軽い恐怖を感じた明は、思わず橋本から一歩引いた。すると、間髪入れずに橋本も明に一歩近づいてくる。


「せんせいっ…。私…私っ。」


瞳孔が完全に開き切り、頬がほんのり色づいている橋本の表情に言葉を失った明は、何となく確信した。


(まさかとは思うけど…ぼく、裕美が言っていた通り、狙われていたってこと…?)


じりじりと距離を詰めてくる橋本を手で制して、リビングの椅子に座らせる。


「私、先生が好きなんですっ…!」


座ると同時に、橋本は堰を切るようにむせび泣いた。


(どうしよう…何て言って帰ってもらおう…。)


もれなく、それを聞いた明の脳細胞も思考停止する。


「最初は、先生が描いているキャラクターの烏丸にガチ恋だったんですけどー…、初めて先生とお会いした時に、烏丸との共通点を沢山見つけてー…。そしたら、せんせいが、実写版烏丸にしか見えなくなってしまって…!」


なるほど、この子は見た目とは裏腹に、大分筋金入りのオタクらしい。どうやら、キャラ愛を拗らせてしまったようだ…。それも間違いなく黒歴史になるレベルの拗らせ方だ…思い込みの強いタイプのオタクが暴走すると、ろくなことにはならない。明は、出そうになったため息を飲み込んで答えた。


「ごめんなさい。僕がこの世で愛しているのは、妻だけなんです。なので、妻以外の女性の気持ちには応えられません。」


いつかのように、橋本の目が猫の目の如く、スッと冷たく細くなる。


「なんで…?なんであんなおばさんのほうが良いの…?私の方が若くて可愛いのに!」


「いや、妻と僕は同い年なので、そう言われると僕もおじさんなんですけど…それに、僕が可愛いと思うのは妻だけですよ。」


「先生は、まどかの烏丸様だからー、おじさんじゃないよ?かわいそう、思ってもいないこと言わされてるんだね。」


「確かに僕が烏丸を作り出しましたけど、僕自身は烏丸ではないです。」


「違うもん!烏丸様だもん!」


完全に狂気に満ちている橋本との水掛け論は、一向に進まない。暖簾に腕押し状態の口論に嫌気がさしてきた明は、段々とイライラしてきた。


「いい加減にしてください、迷惑ですよ。帰ってくれませんか?」


柄にもなく声を荒げた明の冷たい口調に、橋本がびくりと体を震わせる。


「ひ、ひどい…っ。」


橋本の目じりにまた、じわりと大きな涙が浮かぶ。


「あ…。」


目の前で女性にくすんくすんとすすり泣かれると、やはりどこかばつが悪い気分がこみ上げてくる。困り切った明は、何か使えるアイテムはないかと、ダイニングテーブルの上を見渡した。使っていない色紙が目に入る。そうだ、この人は烏丸目的で近づいてきたのだ、烏丸を生贄に捧げて帰ってもらおう。そう思いついた明は、色紙にささっと烏丸の姿を描いてサインをすると、その色紙を面倒くさそうに橋本に渡した。


「僕が作った烏丸を好きって言ってくださった気持ちは嬉しいですけど、あなたの気持ちには応えられません。この烏丸の絵をあげるので、とりあえず帰ってください。」


物で釣ればさっさと帰ってくれるだろう。そう思った明は、闇落ち拗らせオタクへの見通しが甘かった事を痛感することになる。


「わあ…!私だけの烏丸様をプレゼントしてくれるなんて…!やっと私の気持ちを受け入れてくれたんですね…!」


「いやいやいや、何でそうなるの!?無理だから!」


「え…?だってー、私の気持ちが嬉しいって、今おっしゃいましたよね?」


キョトンとした顔で、明の両手をいつのまにやら固く握り締めながら、きらきらとした焦点のない目で橋本は平然とのたまう。こいつはもはや、違法な薬で意識が飛んでいるのでは、と疑うレベルで狂っている。明は、絶望した。一人では、この状況に太刀打ちできる気がしない。


「…お楽しみのとこ悪いんですけど、ここは私の家なので、痴話げんかなら外でやってくれません?」


あきらめかけたその刹那、聞き覚えのある声がまるで救世主の声の如く、明の耳に鳴り響いた。ハッと顔を上げれば、氷のつららのように突き刺すような冷たい視線の妻が、腕組みをしながらこちらを眺めている。その視線の先には、橋本につかまれた明の両手があった。慌てて振り払うと、橋本が不満そうに口を尖らせる。


「うわー、相変わらず空気が読めませんねー、奥様―。」


橋本の無遠慮で図々しい一言に、裕美のこめかみの青筋がピキッと立った。その様子を垣間見た明は震え上がる。


(あ…ヤバい…。今の裕美の怒りのテンション、ムカ着火ファイヤーインフェルノーレベルだ…。)

年に数回しか訪れないレベルの裕美の怒髪天である。もう死を覚悟するよりあるまい。


「それはこちらの台詞です、詳しくお話お聞かせくださいませんか?」


裕美は、今までにないほどの満面の笑みで、こう言い放ったのだった。


 そして、話は冒頭に戻る。それから五分間、リビングには重苦しい沈黙が訪れた。裕美と橋本は、荒廃した空気の中、大怪獣ゴジラとキングギドラのように延々と睨み合っている。


「えーと…あの、裕美が心配するようなことは何もないから…いやな思いさせてごめんなさい…。」


いたたまれなくなった明は、恐る恐る沈黙を破る。


「なに言ってるんですかー、私の気持ちが嬉しいって言ってくれたじゃないですかー。」


「言ってないよ!烏丸への気持ちは嬉しいけど、妻を愛しているから応えられないって言ったじゃん!何でそう聞こえるの…?」


即座に橋本にいわれのない事実を捏造され、泣き出しそうな明の表情を裕美はいつものように冷静に見た上で、落ち着いた声でキッパリと言った。


「そこまでおっしゃるなら、橋本さんは夫と不貞をした証拠があるんですよね?証拠がない限り、私は緑の紙に記入すらできませんけど。」


「み、みどりの紙!?」


明の頭の中で、何万枚ものヨレた緑色の記入済みの離婚届が、バサバサと音を立てて落ちていく。この世の終わりのように物悲しくきしんだメロディーが耳の中で何回も再生される…見捨てられた…。


「もちろんですー。証拠ならこの耳で確かに聞きました!」


打ちひしがれた明とは対照的に、橋本は自信満々に意気込んだ。


「耳?」

途端に裕美は冷静沈着な顔から一変して、打って変わったように嘲りの表情を浮かべた。


「まさかとは思いますけど、この私に、あなたのおつむの弱そうなゆっるい頭で聞いた、確証の欠片すらない言葉を信じろと?データですよ、データ。データって言葉、分かります?スマートフォンなどで記録した音声データの事を言ってるんですけど。」



「は?まどかが聞いたことがすべてだもん!!ふざけんなよ、おばさん!!」


「お・ば・さ・ん??あのねぇ、あなた人の旦那に手を出しておいて、ケジメつける覚悟とかあってそういう事言ってるわけ?言っておくけど私、あなたの職場に不倫の内容証明送り付けて社会的に抹殺するまで殺るし、骨の髄まで慰謝料搾り取るし、どこに逃げても許さないから。そこまで言ってて、親に泣きついて慰謝料を払ってもらう魂胆だったら、絶対逃がさないからな、小娘が。」


明があわあわしているうちに、話は徐々にヒートアップしていく。


「な、内容証明…?な、何言ってんの、男とられた負け惜しみじゃん…。」


突然、鎌首をもたげた獰猛なコブラのように食いついてきた裕美の怒気に一瞬ひるんだの

か、橋本は少し悔しそうだ。


「あー、馬鹿らしい。こうなると思ってたから、準備してて良かったわ。メンヘラっぽいから、あんまりこの手の内は明かしたくなかったんだけど、こんなあほそうな小娘相手だったら、これだけで勝てるわ。」


橋本のビビッた表情を見て、少し溜飲が下がったのか、裕美はゆらりと立ち上がると、テーブルの上のペン立てに挿したペンを抜き取り、ボタンを押す。


『ごめんなさい…。僕が愛しているのは、妻だけなんです…。』


静まり返ったリビングに、数刻前の明の声がゆっくりとこだまする。


「え?これ普通のペンじゃないの?!道理でインク出ないと思ってた…。」


呆気に取られた様子の明を見て、裕美は得意げにペン型の録音機を見せびらかした。

「違いまーす、これはペン型のボイスレコーダーでしたー。」


「なんで…?」


あんぐりと口を開けたままブツブツと独り言を呟く橋本を煽るように、裕美はニッコリと微笑む。


「あなたみたいに頭悪そうな悪い虫がー、『私の』可愛い旦那についたらばっちいでしょー?ごめんなさいねー、私『無駄に』あなたより長く生きてないのー。それにしてもあなたって残念ねー、私より『無駄に』若いけど、好きな男に私よりブスだと思われてて、愛されてすらいなくて、むしろ迷惑な存在だと思われてるなんて…お・き・の・ど・く。」


毒舌絶好調の裕美の怒涛の勢いはとどまることを知らない。あれよあれよという間に、ぐうの音も出なくなった橋本まどかは、悔しそうに泣き叫びながらすごい勢いで夜の街へ消えていったのだった…。後には、スッキリとした表情の裕美と、話についていけない明、そして一枚のふやけてブヨブヨになった色紙が取り残されていた。


「で、何でこんなものを、あの人にあげようと思った?」


少し気に入らないという表情で妻に詰問され、明は言いよどむ。


「なんか、駄々こねて帰ってくれないから、面倒くさくなって、これあげたら帰ってくれるかなって思って…あ、後、泣いてたから可哀想かなって…。」


「ふーーーん。明にとって『可哀想』なのはあの子なわけ?」


どこかとげのある物言いに恐る恐る顔を上げた明は、妻の顔をチラッと盗み見る。その不満げな表情には、『可哀想なのはこの私だ』という気持ちが、全面的に押し出されていた。これはマズい。


「いえ、『可哀想』なのは裕美ちゃんだけです…。」


「そうだよねえ?私が機転を利かせていなかったら、どうなってたと思う?」


「はい…。ぜんぶぜんぶ、裕美ちゃんの素晴らしい采配のおかげです…助けてくれてありがとうございました…。」

「よろしい。明日から、担当の編集者さん、なるべく汚いおじさんに変えてもらうよね?」


「すだれハゲの高梨さんにまた頼んでみます…。」


しおしおと反省をする夫の様子を見て、裕美は満足そうだ。


「あ、そうだ。明、この前私のハーゲンダッツ、勝手に食べたでしょ?バツとしてハーゲンダッツ今すぐ買って来て。」


「ばれてたの?!」


「めんどくさかったからいちいち文句言わなかっただけー。でも、怒ってたら甘い物食べたくなったから買って来て。」


「はーい…。」


コンビニからの帰り道、夜中のしんとした無音の中、今日一日の大騒動が終わった幸せを嚙み締めながら明は、息を弾ませて家路を急いだ。平和って、本当に素晴らしい。そう感じながらも、ふと思った。


(それにしても…裕美って寛容なのか、大人なのか、よくわかんないけど、あんまり焼きもちを妬かないんだなあ。僕だったら、裕美が誰かに手でも握られてたら、一週間は嫉妬するんだけどなあ。)


「ただいまー。」


「ありがと。」


もう落ち着いたのか、クールな顔でハーゲンダッツを頬張る裕美は、いつものようにしれっとした表情だ。相変わらず、鉄仮面みたいに無表情…すごい精神力で感心してしまう。


「裕美ってさー、本当に焼きもち妬かないよね。大人ですごいと思うけど、たまには妬いて欲しいなあ。」


しみじみとそう言う明の顔を、顔を上げて見た裕美は、急に真顔になった。


「いや、今回は妬いたけど。結構。」


「え?!」


空耳だろうか。今、意外な感想を聞いた気がする。


「い、今のもう一回言って!」


「もう言わない。」


「妬いたんだよね?そう言ったよね!?」


「言ってない、言ってない。気のせい、気のせい。」


「妬いたって聞こえたもん!もう一回言ってくれなきゃやだ!!」


何としてでももう一度同じ言葉を聞き出そうと粘る明のしつこさに根負けしたのか、裕美はうざったそうに軽いため息をつく。


「分かった、分かった。妬いた、妬いた。はい、満足した?もうおわり。」


「言葉に心がこもってない!」


「うるさい。」


尚も食い下がる明の口に、アイスクリームが押し込まれる。口の中で、あっという間に溶けて鼻腔をくすぐるそのほのかな甘さは、不器用な裕美がポロリとこぼした本音のように、じわりと明の中に染み込んでいった。

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