第6話 両方、選べば良いじゃん
「うーん…。」
とある休日の昼下がり、いつもより少しお高いグレードの百貨店で、周防裕美は、数ヶ月前から狙っていた二足のパンプスを、見つめていた。片方は、ヒールが低いが、形が自分好みの逸品。もう片方は、ハイヒールだが、少し形が年配の人向けのデザインで、気に入らない。母位の年齢層に似合いそうなそのルックスは、社長業をしているとは言え、まだ若手の部類の年齢の裕美には、気後れする程にゴージャスだった。
(でも私、身長が低いから、ハイヒールの方が好きなんだよね…。)
足して二で割ったら、ちょうど良いのに…。このもどかしい気持ち、どうしてくれよう。深いため息をつく。やはり、当初から予定した通り、安い方にしておくべきか…。マダムが御用達の百貨店なだけあって、この二足のパンプスは、値が張るのだ。こんな時、裕美はいつも、思い出してしまう。
「裕美ちゃんは、金遣いが荒いよ。我が儘だよ。」
四年付き合っていた元カレに、事あるごとに窘められた。その言葉は、裕美の心を何回も呪縛のように縛る。彼に悪気はなかったのかもしれない。けれども、元々、お金に少なからず恐怖心を抱いていた裕美にとっては、トラウマになる程の打撃だった。
裕美は、シングルマザーの外国人の母親に育てられた。母が、一人娘の自分の為に、寝る間も惜しんで、懸命にお金を稼いでいる事は分かっていた。だから幼い頃の裕美は、母の帰りが遅くても、一人で本を読んで過ごした。
本当は、物凄く淋しい夜もあった。そんな時、裕美はベッドの上のぬいぐるみをギュッと抱きしめて眠る。そうすると、段々と、ぬいぐるみに自分の体温が伝わっていって、まるで二人でいるような錯覚を覚えるからだ。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ。)
ぬいぐるみを強く抱きしめながら、小さな裕美は思った。朝には、お母さんと一緒にご飯が食べられる。一人じゃない、一人じゃない。少しでも気を緩めれば、何度も、祖国の遠い地にいる祖父の優しい笑顔が頭に浮かぶ。裕美は六歳位まで、祖父母に育てられた。しかし、周囲の大人達の事情に翻弄され、母と日本の地を踏みしめねばならなくなった。
本当は裕美はずっと、大好きな祖父と一緒に暮らしたかった。祖父は、孫娘に大層甘い男だった。おじいちゃんは、他にも孫がいたにも関わらず、裕美を大層可愛がってくれた。裕美も、おじいちゃんが大好きだった。おじいちゃんの手は大きくて広く、優しい皺の刻まれた笑顔を見ると、自分はここにいても良いのだ、と心から思えた。
おじいちゃんこそが、裕美にとっての帰る場所だったのだ。おじいちゃんにとって、裕美の我が儘は我が儘ではなかった。あの頃の裕美は、どこまでも自由に、ワクワクやドキドキを感じながら、おじいちゃんの愛をひたむきに受け取っていた。
「おじいちゃん、アレを食べてみたい。」
ある日、祖父と手を繋いで、家の近くを散策していると、地元に上陸したばかりだった有名なジャンクフード店が、目に入った。まだ幼児だった裕美には、それがどの位高価な物なのか、全然分からなかった。赤と白の装飾と、見慣れないアルファベットの店名。お店の前に佇むマスコットキャラクターのマネキンは、物珍しくて好奇心がくすぐられる。だから、とても気軽に悪気なく、小さな裕美は、祖父の腕を揺すっていつものようにねだったのだ。
「どれどれ、アレか。」
可愛い孫におねだりをされたおじいちゃんは、顔を緩ませて、裕美が指差す方を見る。瞬間、おじいちゃんは少し眉を下げて、困った顔をしたように見えた。しかし祖父は、すぐに笑顔に戻ると、裕美の手を引いて店に入る。
「裕美は、ここのチキンが食べたいんだな。じゃあ、おじいちゃんと一緒に食べよう。」
「やったー、おじいちゃん、ありがとう。」
念願が叶った裕美は、喜んで店内に入る。カラフルな装飾のそのお店は、とてもお洒落に見えて、胸が弾んだ。祖父は、孫娘が選んだチキンとジュースを注文する。裕美がテーブルに着くと、ニコニコしながら、促した。
「さあ、裕美。いっぱい食べなさい。裕美が喜ぶ顔が、おじいちゃんには一番のご馳走だよ。」
裕美は、祖父のその優しさが嬉しくて、チキンに思いっきりかぶり付く。祖母がいつも作る定番のチキンより、味が濃くて、油がじっとりと染みたそのジャンクチキンの味は、何故だか泣きたくなる位、無性に美味しかった。
そして、チキンに舌鼓を打った裕美は、ルンルン気分で祖父と家路に着く。すると、夕飯時で二人を待ち受けていた祖母から、祖父は大目玉を喰らったのだ。
「あんな高い所でチキンを食べたの?!子供には贅沢ですよ!もうすぐ夕飯なのに、夕飯が無駄になるじゃない!貴方は裕美に甘過ぎます!!そんなホイホイホイホイ、裕美の我が儘を何でも聞いて!裕美も裕美です!夕飯が近いんだから、我が儘を言うんじゃないの!!」
祖母の剣幕を聞いて、裕美は思った。我が儘を言ってしまった。自分のせいで、大好きなおじいちゃんに無理をさせてしまった。泣きそうで俯く裕美の頭を、すかさずおじいちゃんが撫でる。
「良いんだ、我が儘なんかじゃない。裕美は悪くないよ。子供がそんなお金の事なんて、気にしなくていい。おじいちゃんが、裕美の事が可愛くて可愛くて、喜んであのお店に行ったんだから。チキンは美味しかったかい?」
その大きな祖父の手は、温かくて、優しくて、裕美の傷付いた心をじんわりと慰める。
「…うん、とっても、美味しかった。」
泣くのをこらえて途切れ途切れに答えた裕美の頭を、おじいちゃんは何回もいいこいいこをすると、毅然とした態度で祖母に言い返した。
「うるさい。子供の前で、お金の話なんてしなくていい。僕があそこのチキンを食べたかったから、裕美にご馳走したんだ。夕飯はちゃんと食べる。だから、もうぐちぐち言わないでくれ。さあ、裕美。もうすぐ寝る時間だよ、ご飯を食べよう。」
チキンを裕美にすすめるばかりで、手を付けようとすらしなかったおじいちゃんは、そんな小さな嘘をついて、祖母から裕美を庇った。夕飯のテーブルでも、ブスッとした顔で、文句を言う祖母をやり過ごしながら、祖母から見えない角度で、おじいちゃんは裕美を安心させるように、何回も、大丈夫だよと言いたげに頷いた。
裕美は、口うるさくて厳しい祖母の事が当時、少し苦手だった。だから、大好きなおじいちゃんがこれ以上怒られないように、その日の晩御飯は、一生懸命頬張った。おじいちゃんが、裕美にチキンをご馳走したせいで、裕美が祖母のご飯を無駄にしたなんて、思われたくなかったからだ。少食の小さなお腹は、すぐにパンパンに膨れて苦しくなった。それでも裕美は、限界まで食べた。おじいちゃんの無償の愛に、応えたかったから。
(今は、おばあちゃんの気持ちもよく理解出来る。)
あの日の子供から、大人になった裕美は、二つのパンプスの値札を何回もひっくり返しながら、思う。あの頃、祖父母の台所事情は芳しいものではなかった。祖父は、そこそこ無理をして、高いチキンを食べさせてくれたのだ。もし、今の裕美が祖母の立場なら、夕飯があるのに無駄遣いをしたと思うかもしれない。裕美もあれから、沢山苦労をした。生活をしていくのは、甘い事ではない。勿論、ギリギリまで切り詰める必要が、常にある訳ではないだろう。
それでも、人一人生きるのすら、毎月それなりにコストがかかる。愛だけでは、食べていけないのだ。そう思いつつも、あれから何度も思った。
(おじいちゃんがあの日、食べさせてくれたチキンの味は、今でも忘れられない位、美味しかった。)
数十年も前の遠い記憶のチキンの味は、裕美の人生の中で、祖父の優しい笑顔と共に、何度も蘇る。東京の街では、珍しくもないジャンクフード店には、今や何の魅力も感じない。むしろ、健康志向の裕美にとっては、しつこい味に感じる。
それでも不思議と、祖父がご馳走してくれたチキンの味だけは、孫の舌に幸せと共に刻まれている。そこにはいつも、裕美の我が儘を許してくれる愛があった。
(おじいちゃんならきっと、両方買いなさい、買ってあげるよ、ってニコニコしながら、言うんだろうな。)
しみじみ祖父の優しさを思い出しながらも、裕美はもう一度、二足のパンプスを見つめる。うん、やっぱり、どちらかなんて選べない。両方欲しい。そしてまた、値札をひっくり返す。
…が、合わせておよそ二十万は高い。やっぱり、どちらかを選ばなければならない。
ふとまた、遠い記憶を思い出す。
「裕美にいっぱい、ご飯を買ったから、もうママのお金が、なくなっちゃった。」
日本に来て、母娘二人の生活は、毎月きっと、厳しかったのだろう。夕飯の買い出しに出かけた母は、そんな一言を小さな娘に洩らす。裕美が子供の頃、まだシングルマザーは、日本では珍しい存在だった。両親は、裕美が生まれ、少し経ってから離婚をした。裕美の父は母を裏切り、違う女の人と駆け落ちし、小さな裕美と母に借金を押し付けて逃げた。
母には、裕美しかいなかった。女手一つで自分を大切に育ててくれた母を誇りに思うし、感謝している。今思えば、母がその当時、どんなに大変だったか、想像に難くない。きっと母からしてみれば、冗談のつもりだったのかもしれない。または糸が切れたように、仕事で疲れはてていて、うっかり、たった一人の家族の裕美に、愚痴を言っただけなのかもしれなかった。
けれども、どんなに普通の子供よりも聡明で、お利口だったとしても、裕美は小さな子供だったのだ。裕美にとっては、母のその一言が、グッサリと小さな胸に突き刺さる位、痛かった。
(ママは、私がいるから、お金がないんだ。私が邪魔なんだ。)
母からすれば、何もそこまで言ったつもりはなかっただろう。それでも、その一言は、ただでさえ少食の裕美を、拒食症寸前にまで追い詰めた。自分が生きるために、それだけのお金を母に使わせていると思うと、申し訳なくて、痛くて、悲しくて、とてもじゃないが、食べ物が喉を通らなかった。
裕美はそれだけ、母が大好きだった。母に、おじいちゃんがしてくれるように、愛されたかった。無論、一番大好きなのは、おじいちゃんだ。でももう、大人の許可なく、小さな裕美が、おじいちゃんの元へ帰る事は許されない。
だから裕美は、おじいちゃんの愛を懐かしむその心を封印して、一生懸命に、母を愛した。母に褒められたくて、自分から進んで勉強をした。母は、祖母のように、自分や家族に厳しい人だ。裕美をおじいちゃんのように、無条件に褒めちぎる事は滅多にない。それが幼い頃の裕美には、とても寂しかった。
一方で、大人になった裕美には、母の厳しさのおかげで、様々なスキルが身に付いていた。例え誰からも褒められなくても、結果を出せるようになった。押さえるべきコストは、押さえられるようになった。母に育てられたからこそ、経営者になれたのかもしれない。
母の育て方は、裕美にお金の大切さを教えた。今なら分かる。母が、裕美が一人でも生きていけるように、厳しかった事。それは娘を一人で育てあげ、男親の役割もこなさなければならなかった、母親の不器用な優しさなのだ。
「やっぱり…贅沢し過ぎかなあ。」
一人、裕美は呟く。裕美が一人前になった頃、母は突然、過干渉をやめた。娘に厳しくし過ぎた事を謝罪してくれた。急に丸くなった母は、いちいち、何にお金を使うの?と問い質さなくなる。裕美が、少し高めのコートを買うか悩んでいても、買ってみたら?と返すようになった。
母の急激な変化は、喜ばしいものだったものの、裕美は今更、急に手を離されても、ひどくまごついた。倹約を推進されて育ったために、どこからが、我が儘で、どこからが、ご褒美なのかが、分からないからだ。自らに厳しくするのがデフォルトになってしまっている、完璧主義者の裕美にとって、自分へのご褒美について考える事は、生活の中で最も難しい問題である。
「…贅沢は敵って、よく言うしなあ…。」
名残惜しげにパンプスを見つめながら、裕美は呟く。独身時代ならまだしも、一気に二十万もの大金が、貯金から引かれるのは、一家の大黒柱としては、腰が引ける。いくら夫婦共働きと言っても、月に使える額は限られているのだし…。
(家には、ペットが沢山いるし…。)
猫のタマと、チワワのチャロと、夫の明の顔がぼわんと、裕美の脳内に浮かぶ。あいつらは本当に、少食の裕美と違ってよく食うのだ。明と暮らすようになってから、少し太ったと言うのも、裕美のささやかな悩みだ。少食だったはずの裕美の食欲は、明の食い意地に呼応して、少しずつ、並みに近づいている。
月の食費も馬鹿にならない上に、ちょっと気を緩めれば、体重が増えるのだ。明と裕美は身長が、大して変わらない。だが、夫と同じ位の体重になるのは、裕美の女としてのプライドが許さなかった。
(こんな時、ついつい思っちゃう。)
裕美は思う。もし、お金がある男と結婚していたら、この二十万のパンプスも、平気な顔でそそくさと買っていたのだろうか?裕美の頭に、お金だけはあった、二回り上のバツイチの元カレの顔が浮かぶ。彼ならば、自らの男の甲斐性を見せ付けてやると言わんばかりに、悩む暇すら見せず、どや顔で即買いをしてくれる事だろう。
(…でも、あの人に買ってもらったプレゼントは、なぜかあんまり、嬉しくなかった。)
ふと、気づく。それは、お金に関する事に敏感な上に、男以上に稼いでしまう女社長をしている裕美だからこそ、見付けてしまった違和感だった。
裕美は、男性に奢られたり、プレゼントを買ってもらう為におねだりをするのが苦手だ。往々にして、男性は、お金と引き換えに、女性におねだりの可愛らしさを求めがちである。そうした通過儀礼が、裕美はたまらなく嫌だった。
「裕美ちゃん、これが欲しいの?ん?ん?買ってあげようか??」
その時も、金持ちの元カレは、探るような目で裕美を見た。ほら、買ってあげるから、可愛いおねだりを言ってごらん。そう促すような男の目線を感じると、裕美はいつもひどく萎えるのだ。
(貴方に甘えなくても、自分でそれ位、買える。)
どこかでそう思ってしまう自分が、心の中で叫ぶ。それは、常に裕美の中で燃えたぎる男性からの自立心だった。裕美は母とたった二人で、男に頼らずに生きてきた。並みの男性以上に努力をして、たった一人でも生きていけるように、必死で経営を勉強した。母を裏切った身勝手な父の面影。女性に、対等さではなく、可愛げを求める男性。
そうした理不尽な男性ばかりではないと頭では理解していても、裕美の中には、男に甘えないプライドが、エッフェル塔のように天に向かって、そびえ立っている。男に負けたくない。そう思う自分はきっと、男性から見たら可愛げがないのだろう。それでも裕美は、自分のアイデンティティーを失わずにはいられなかった。
「え、裕美ちゃん、そんなに家賃が高い部屋に住んでいるの?贅沢過ぎない?」
金持ちの元カレが驚いた顔で言った言葉。贅沢が悪だと考えがちな裕美には、責められているような気分になる言葉だった。
「いずれ数年後には、僕が裕美ちゃんの年収を越すだろうから、そしたら、僕が養ってあげるし、子育ての為に仕事を辞めてよ。」
裕美を我が儘だと言った、パイロットの元カレの言葉。共働きが当たり前の現代において、養ってもらうのはありがたい事なのかもしれない。それでも、この言葉は、裕美の心にどこか、引っ掛かる物だった。裕美にも、愛ではなく、お金を求めて、歴戦の婚活をしていた時代があった。
「え、女性なのに、そんなに稼いでいらっしゃるんですか…?」
大抵の婚活相手の男性は、口を揃えてこんな事を言う。まるで、裕美が頑張って稼いだお金の成果が、悪い事のように。そして、大体の男性は、裕美の年収に競ろうとしてくる。競らない男性は、女に年収で負けている僕、と言った表情で、卑屈アピールをしてきたりして、気を使った。
子育てが、女性の仕事だと無意識に思っている多くの男性たち。養ってあげるから、という言葉には、交換条件として俺の物になれ、といった男性の無言の欲求をつい、感じてしまう。
裕美は思う。
(私は、誰の物でもない。私は、お金のために、人質になりたくない。)
誰も、そんなつもりで言っている訳ではないのかもしれない。それでも裕美の中では、真心の感じられないお金で、女性を支配しようとする男性たちには、絶対に甘えたくないプライドが、常に目を光らせていた。そのプライドの嗅覚は、実に鋭敏な物だった。
それだけに、裕美の歴戦の婚活は難航した。裕美は苦しんだ。お金のない生活を恐怖に感じていたから、当時、お金のない明の求愛をはねのけたはずだった。
それなのに、近づいてくるお金のある婚活男性のことごとくに、嫌気が差した。彼らの態度には、お金があるから、言うことを聞けという圧力を感じたのだ。そう、彼らが持っているお金は、裕美が思うお金ではなかったのかもしれない。
(…私は、本当に、我が儘な女だ。)
何度も、裕美はそう感じた。なぜなら、裕美がずっと求めてやまないお金は、あの日のおじいちゃんが、チキンに払ってくれたような、真心のこもったお金。そう、そのお金は、愛と共存している物だった。裕美は、お金も愛も、両方、欲しかったのだ。
(…そして私は、どちらかを天秤にかけた結果、愛を選んだから、明と結婚した。)
それに一切後悔はない。そんな風に結論を出しながらも、裕美は諦め悪く、二足のパンプスをじっとりと見る。…それでもやっぱり、二十万を平気で使えるような豊かな生活のお金も、重要な気がする。
「ごめん、病院が混んでたから、遅くなったー。裕美、待った??」
顔を上げると、いつの間にか、目の前に夫の明がいる。どうやら一時間近くも、パンプスの前で熟考していたようだ。時計を見れば、とっくに午後になっている。さて、買う片方を選ばなければなるまい。ため息をついた裕美は、明の方に向き直ると、二足のパンプスを見せた。
「ねえ明、これとこれが、この間話した、ずっと前から狙ってるパンプス。どっちが良いと思う?」
「うーん…とりあえず、履いてみせて。」
試着をした裕美を、明はじっと見つめて、顔を綻ばせた。
「うん、どっちも裕美によく似合ってる。片方は、大人っぽくてエレガントでセクシーだと思う。もう片方は、可愛いし、デザインが裕美が好きそう。両方、買えばいいじゃん。」
「…あのねえ、両方選んで良いなら、明の意見を聞く前に買ってるから。値札を見てごらん。」
裕美は心の中で、また深いため息をつく。
(うちの旦那は、これだから、お馬鹿だ。どちらか片方と言っているじゃないか。二つしかない選択肢に、二つで返すんじゃない。)
「…わーお、言っていた通り、いつもよりゼロが一つ多いね!」
子供のようにはしゃぐ夫に、二足両方を買う甲斐性など、期待出来そうもない。ハナから当てになどしていなかった。
「…で、どっちが良いと思う…?」
「うーん…。」
裕美の問いに答えずに、明は何かを考え込んでいる。ずっと店先で悩んでいた裕美には、もどかしく感じる程に、その数秒は長く感じられた。
「両方、選べば良いじゃん。僕が買ってあげる…!」
何かを決心したように、明は言う。その瞳は、キラキラと輝いていた。
「…お小遣いが月に三万円の人には、買えません。この間、クリスマスプレゼントで数万円の物をくれたんだから、君には無理でしょう??後ね、共通の貯金口座から出すのは論外だから。夫婦間で、無理をして格好付けるとか、マジで意味ないから。やめてね。」
明の給料は、普通のサラリーマン位だ。給料を管理しているのは妻の裕美だし、彼がお金に余裕がある訳ではないのも、分かりきっている。それでも、明が少ないお小遣いから、せっせと一万円ずつ貯金をして、妻への誕生日プレゼントや、クリスマスプレゼントを奮発してくれている事にも、感謝しているし、可愛らしく感じていた。
普通の男性と真逆に、裕美の三歩後から慎ましく着いてくるような可愛げのある明だからこそ、夫に選んだのだ。そんな可愛げのある男性など、滅多にいない。
そう、自立心とプライドと負けず嫌いに燃えたぎる、男性性の強い女性である裕美にとって、可愛げや柔らかさや優しさに満ち溢れた女性性の塊のような男性である明は、凸凹を埋めるようなピッタリの相手なのだ。
だからこそ、明が、まるで一般男性のような格好つけをしたのかと思い、裕美は少しイラッとした。明に、そういう男臭い台詞は求めていないし、明がそんなありきたりな男性に成り下がるのは、断じて許せなかった。
裕美が好きなのは、いつもの、子供のように純粋で、可愛らしい明なのだ。裕美が気を悪くしたのが、強い語調で分かったのだろう。明は、慌てたように言った。
「あ、えーと…。無理はしてるけど、格好つけじゃ、ないよ!!」
「…どういう意味…?」
何が言いたいのだろうか。この男はいつも、裕美に謎かけのような答えばかり出してくる。裕美には、夫の考えている事が、予想出来た試しはない。
「…裕美は、おじいちゃんのチキンの話、覚えてる…?」
「…うん。さっき、ちょうど思い出してた。おじいちゃんなら、両方買ってあげるよ、って、言うだろうなって思った。」
もう、その一言だけで、裕美には明の言わんとしている事がすぐに理解出来た。おじいちゃんのチキンの話を、夫が覚えていてくれている事実は、裕美の心をじんわりと温かくする。一方で、こうも思った。
(…でも、明はおじいちゃんじゃないし、おじいちゃんは明じゃない。だから、そんな風に私のために、無理をしないで欲しい。)
「…僕ね、裕美にラブレターを書いた時も、裕美にフラれた時も、会えなかった時も、ずっと抑えきれない気持ちがあった。」
「うん。」
「裕美は、ずっと我慢してきた。おじいちゃんみたいに、ありのままの裕美を愛してくれる、家みたいな居場所を失って、言葉も分からないような異国の地に来なきゃならなかった。おじいちゃんの所に帰りたくても、許されなかった。
僕が出会った頃の、高校生の頃の裕美は、ロボットみたいに完璧人間なのに、たまに壊れたように泣きじゃくっていて、当時の僕はすごくそんな君が不思議だった。プライドが高くて、強くて、頭が良い大人な裕美が、おじいちゃんの事を恋しがる時は、子供のように淋しがっていて、弱々しい姿になる。
友達の頃からずっと、僕は、そんな二面性を持つ君に、どう接したら良いか分からなかった。でも、友達だった僕には、とりあえずそばにいる事しか出来なかったし、多くの友達に対するように、裕美の苦しみや悲しみも、他人事でしかなかった。」
「…そういう物だと思うよ?それに、そばにいてくれるだけで、助けられたよ。」
呟くように、裕美は答えた。どんなに綺麗事を並べた所で、他人の痛みを完全に理解する事なんて、出来ないのが人間じゃないか。仕方のない事だ。
「…あのさ。僕の傲慢だと思って、笑って聞き流して欲しいんだけど。」
「うん。」
「僕って、他人によく、優しいって言われるじゃない?」
「そうだねえ。」
明は、おっとりとしていて、誰からも好かれる。誰にでも優しいのは間違いない。長い付き合いの裕美は、そう思う。
「僕、今まで、他人に優しいって言われるのが、すごく嫌だった。何でかって言うとね、僕が人に向ける優しさって、ロボットみたいに作り物なんだ。
僕は、他人に助けを求められたら、全ての人に平等に、僕が出来る精一杯で喜ばせたくて、嬉しくなるような言葉や、慰める言葉をかけてきた。するとみんな心を開いてくれて、仲良くなれた。
だけど、僕の心はいつも、すごく他人事なんだ。他人の事になると、どうしても感情移入が出来なくて、泣いた試しなんてなかった。僕の悩みの為に、一杯泣いてくれた人々が沢山いたのに、僕はその人々の為に心の奥底からなんて、一度も泣けなかった。そんな自分が、心がまるで凍っているようで、淋しかった。」
「うん。」
「…でも、裕美の事を好きになってから、初めて、僕は他人の為に、心から泣けたんだ。会えなかった時も、ずっと考えてた。
裕美はどんな気持ちで、長年、おじいちゃんの事を恋しがっていたんだろう。お母さんが働いていて忙しい中、おじいちゃんにも会えなくて、何回寂しい夜を過ごした事だろう。一生懸命、お母さんに褒めて欲しくて、お母さんの希望を叶えようと、どれ程努力をしてきた事だろう。そんな、苦しみや痛みや、悲しみを、いつも、君はポーカーフェイスで押し隠して、他人を助ける為に、相談事に乗っていたりする。
裕美は、僕の父の会社が倒産寸前の金銭苦になって、僕が小説家になるのを諦めようとしたら、本気で号泣してくれた。僕がそれから、大学を退学しようとした時も、ATMの前に引きずっていって、自分がお金を出すって言い切ってくれた。僕をアルバイトとして雇って、自分も大変だったのに無理をして、お金をくれた。
友達の頃の僕は、君の底知れない優しさが、理解出来なかった。何で、他人の為に本気で泣けるんだろう?他人の為に、本気で無理を出来るんだろう?そう、思った。
やっと、その理由が、裕美を愛して分かったんだ。理屈じゃない、無理を感じられない位、真心が上回るんだ。体が、勝手に、自分の痛みのように錯覚して、嗚咽が止まらなくなる。気づいた時には、動いているんだ。自分が、相手の為にそうしたくて。そういうのがきっと、温度がある、真心のこもった本物の優しさなんだ。」
もう、言葉はいらなかった。裕美は、ただ黙って、夫の静かな言葉に聞き入っている。時が、まるで止まっているように感じた。
「僕は裕美に、沢山温度のある優しさをもらったし、教えてもらったんだ。ありがとう。裕美の愛の全てが、感謝してもしきれなくて、嬉しくて嬉しくて、僕の為にも、裕美の為にも、お互いの過去、現在、未来の全てを、心の底から、自分の事のように号泣できるようになったよ。
自分がまるで、真実の意味で、人になれたように感じて、嬉しいんだ。人っていう字って、バラけさせると、二になるでしょ?僕は、裕美と夫婦になる事で、生まれて初めて、真に人になれた。僕は、裕美の事でなら、心から泣けるし、共感できる。生きている事を実感できる。
だからこそ、僕は、僕の中にある全ての愛を、裕美の為に使いたい。僕は、おじいちゃんにはなれないかもしれない。だけど、裕美が、ありのままの裕美” で甘えられるような、家のような居場所でありたい。そんな家族でい続けたい。」
「…ありがとう。」
ぶっきらぼうに、裕美は礼を言う。夫が情熱的なのは日常茶飯事であるが、未だに慣れない。
(…おしゃべりな小説家って、奥さんに対して、みんなこんな感じなのかな…?)
頭の片隅で、この場にそぐわない事をチラリと考える。はっきり言って、裕美は、明のような情熱的な男性とは他に付き合った事がないし、見た事もない。他にも、こういう人は存在するのだろうか…?たまに、少し疑問を感じる。
「でも、気持ちは嬉しいけど、そんなに無理をしてくれなくても、良いよ。明が今話してくれた気持ちだけで、十分。だから、片方にしよ。」
やっとこさ絞り出すように、リアリストの裕美は、現実的に結論を出した。正直な所、夫の激しい愛情を唐突に目の当たりにし、パンプスの事が、頭から吹き飛んでしまっている。無論、両方欲しいのは変わらないが、パンプスを購入した事に満足する前に、ゲップが出る位、夫の愛で心が満たされてしまったのだ。
つい数時間前まで、愛よりお金だと考えていた自分が別人かと思う程に、今は、やっぱりお金より愛だわあ、と、自分の夫に大満足している自分がいる。我ながら、現金なものだ。
「…ねえ、裕美。もっと貪欲に現実を生きようよ。」
せっかく気が済んだ方向で話をまとめようとした妻に対して、夫は尚も淫らに囁く。どうやら、この男の愛の誘惑は、無尽蔵らしい。
「いや、私は十分、貪欲だよ?ほら、見てごらん、このお値段。」
裕美は、わざとらしく、パンプスの値札を夫に見せ付けた。そら、水戸黄門の印籠のようなお値段だ、これを見よ。さあ、貴様の愛でこれが両方買えると言うのかい?買えないでしょう?ほらごらん?だから私は、優しさで、片方買ってって言っているのよ?そんな気持ちを込めて、少し嫌味っぽく、妻は夫にお金の現実を突き付ける。
「うん、値段は分かってるよ?裕美が、僕の事を心配してくれているのも分かってる。でも、本当は、両方欲しいんでしょう?」
ニコニコしながら、どこか余裕そうに、明は言う。裕美には、夫の財布のどこに、そんな余裕があるのか、皆目検討が付かない。有り金は全部、妻の自分が押収しているはずなのだが…。
「…うん、まあ。」
「じゃあ、両方、選べば良いじゃん。僕が喜んで、大好きな奥さんの為に、買わさせて頂きます。」
「…ねえ、頼むから、無理してローンを組むとか言わないよね…?」
そりゃあ、両方欲しいけれども…リボ払いだったら阻止しよう。そう裕美は固く心に決めた。こんな事でローンを組むなど、馬鹿らし過ぎる。
「信用ないなあ。そりゃあ、僕は裕美より給料が少ないから無理もないけど。でも裕美、裕美にとって、僕は一粒で二度どころか、三度美味しい男だよ?もう少し信頼してくれても良くない?」
「どういう意味??」
「付き合う前、裕美が、友達としての僕を失いたくないけど、僕が他の女の物になるのも、嫌だって泣いた時、僕が何て言ったか、覚えてる?」
「…両方、選べば良いじゃん、って言われた…。」
そういえば、そんな事あったな…。ぼんやりと、昔の事を裕美は思い出す。裕美は何回も、明を拒絶した。仮に付き合ったとしても、もし別れたりしたら、友達も恋人も失う事になる。それが怖かった。何より、関係性より、明を失う事が恐怖だったのだ。
しかし、裕美は、友達としてしか思えない。本当にごめん、友達でいたい、の簡単で冷静な一言が、なぜか明には言えなかった。
もし、本当に男性として見れなかったら、感情が高ぶるはずがない。それなのに、明を、無駄に傷付けるような言葉で抉り、エキセントリックな感情をぶつけて荒ぶる自分がいる事に、裕美は動揺を隠しきれなかった。今まで付き合った男性のタイプとは違ったから、タイプじゃない、と言い訳してみたり、キモい、うざい、と暴言をぶつけてみたりもした。明と距離を置く事は、本当に淋しかった。
そんな事の繰り返しに、疲れはてた裕美は、ある日ポツリと本心を漏らした。すると、明は事も無げに答えたのだ。
「両方、選べば良いじゃん。ごめん、初めてプロポーズした時、友達じゃなくなっても良いなんて言ったけど、今は違う。僕は欲張りだから、両方選ぶ。裕美の親友である上に、恋人でありたい。そしていずれ、家族となりたい。」
真っ直ぐな目で射ぬくように、そう言われた時、裕美は気付いた。
(両方、選んで良いんだ。)
ただ、自分に自信がなかっただけだったのだ。両方を選ぶ選択肢は、最初から許されていた。それにも関わらず、二つの選択肢の内、片方だけを選ぶ事しか、許されていないように勘違いをさせていたのは、世界でも、周りの環境でもなく、自分自身に他ならない。
過去の回想から戻ってきた裕美は、夫をジッと見つめる。確かに明は、裕美にとって、親友でもあり、恋人でもあり、家族だ。何か勝算があるから、両方選べば良いと促してきたのかもしれない。信用しない手はなかった。
裕美の無言の視線に、明は、大丈夫だよ、と言いたげに、ニコニコと頷く。遠い記憶の中の、祖父のこっそりとした、あの優しい素振りのように。
「…じゃあ、両方欲しい。」
試すようにそう素直にこぼすと、夫は満面の笑みで、一枚の古い薄汚れたクレジットカードを取り出した。
「じゃじゃーん。僕のヘソクリが、裕美ちゃんの貪欲な願いを叶えまーす。」
「え、何そのクレジットカード。私は知らないよ…?」
「ほら、僕が小説家になる前に、コンビニでアルバイトしてたじゃん。あの時の貯金が入っているクレカだよ。独身の時の口座は、お互い言及してないでしょ?」
したり顔で言う夫。その手があるとは思っていた…妻は冷静に思う。だが、自分の我が儘の為に、夫に無理をさせたくなかったのだ。
明は、性同一性障害だ。男性に戸籍変更をする際に、手術も行った。当時、生活も苦しかっただろうし、普通に考えれば、独身時代の貯金はすっからかんになっていてもおかしくない。残り少ないはずのその預金を、パーにさせたくなかった。
「…気持ちは嬉しい。だけど、そのお金は、明の為に使って欲しい。二十万なんて払ったら、その口座のお金、もう全部なくなっちゃうでしょ…?」
「いや、まだ百万ちょっとあるから、心配しないで。結婚してからも、僕、物欲が少ないし、お小遣いから五千円ずつ貯金してるから、じわじわ地味に増えてる。」
ケロリとした顔でのたまう夫に、妻はやっと、あんぐりと口を開けて呆れた。この男、本当にこういう点は、マメだ。倹約家な所は、裕美に負けていない。
「…それにね、僕は、僕が払いたいから、お金を払うんだ。僕ね、正直、お金にあんまり興味がないし、価値もよく分からない。でも、お金がないと、裕美とワクワクする事や楽しい事が出来ないから、稼いでるし、必要性も痛感してる。だから、二十万のパンプスが、裕美が数ヶ月間、悩む位の大きなお買い物な事位は、分かるよ。
でも、大きな二十万より、裕美の笑顔の方が、よっぽど価値があるし、僕は嬉しい。そのお金で、裕美が笑顔で、毎日楽しく過ごせるなら、安いもんだよ。僕は、裕美がこのパンプスを買う事で、ウキウキしながら仕事を楽しめるなら、喜んでお金を出すよ。」
平然と、この箱入り夫は語る。心から言っているのは、目を見れば分かった。裕美は夫の気持ちが、心の底から、嬉しかった。同時に、申し訳なさもちらつく。だって、そう言ってみたって、やっぱり、二十万はお高い。
「…クリスマスでも、誕生日でもないのに、我が儘を言って、ごめんね?」
遠慮がちにそう言うと、夫は目を見張った。
「何が我が儘なの??これは、僕が我が儘を言っているんだよ?裕美は、僕を慮って、片方で良いって言ってくれたのに、僕が両方買いたいって我が儘を言っているんだ!
僕ね、裕美にもう人生で、我慢をして欲しくない!!甘えたいのに、甘えちゃダメだって、二度と、思って欲しくない!!でも、裕美が甘えるのが苦手なのも分かっているから、僕が率先して、裕美を甘やかすんだ!裕美はいつも自分に厳しいから、これ位してあげてちょうどいい位だよ。だからこんな事で、気を使わないで。
それに、僕以外の誰が、裕美を甘やかしてあげると言うの??何しろ僕は、君のおっと!なんだよ!?」
「…そうだね、明は私の夫だもんね。ありがとう。」
勢い良く、最後の決め台詞を放った明は、いつになく小柄な体を大きく見せるように、誇り高く胸を張って、満足気だ。
その姿は、飼い犬のチワワのチャロが、通りすがりの救急車に向かって、遠吠えをしている時のふんぞり返った様子によく似ていて、妻は思わず笑いを噛み殺した。チャロが、まるで救急車から裕美を守っている、と錯覚している姿は、毎回本当に笑える。
もしかしたら、明のこうした方便にも、男の格好つけという側面があるのかもしれない。しかし裕美には、明のこの好意が、過去の男たちの、女の願いを叶えてやると言うような、押し付けがましい格好つけ、と同じようには、これっぽっちも感じられなかった。
二十万のパンプスになんて、絶対に興味がない癖に、裕美に気を使わせまいと、わざとおどけて見せる夫。本当は、二十万という大金にビビりまくっているであろう事は、店員さんにお支払いをする時に、あたふたと、クレジットカードを出すのにもたついている、格好悪い後ろ姿でよく分かる。
けれども、そんなしまらない夫の姿は、妻にはとても愛しく、可愛らしいものに感じられた。ふと裕美は、気付く。
(今思えば、チキンの事で、おばあちゃんにお説教をされていた時のおじいちゃんも、ちょっとダサかったけど、可愛かったな。)
思い出し笑いをしながら待っていると、会計を済ませた夫が、小さな体に買い物袋を腕一杯に抱えて、よたよたと近付いてくる。
「ありがとう。」
心を込めてそう告げると、明は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「裕美、嬉しい?」
「うん、ずーっと欲しかったから、スッゴく、嬉しいよ。ありがとう。」
「僕も嬉しい!裕美が喜んでくれたから!いっぱい、履いてね!」
今日も、裕美の目には、夫のお尻から、ないはずのしっぽが生えてきて、ブンブンと高速回転で振られているように見える。プレゼントを買ってもらったのは、裕美のはずなのに、明の方がよっぽど、喜びに満ち溢れているように見えた。
端から見れば、買い物袋を持っている夫は、妻に欲しい物を買ってもらったように見える事だろう。そんなあべこべの状態も、今の裕美にとっては、愉快で愉快で、おかしくてたまらなかった。
帰宅後、夫が風呂に入っている間、裕美はこっそりと、二足のパンプスを履いてみた。どちらもピッタリと、裕美のくるぶしによく馴染む。
「どう?おじいちゃん、よく似合うでしょ?」
リビングに置いてある祖父の遺影に向かって、裕美はこれ見よがしにその姿を見せつける。普段クールな自分にしては珍しく、ウキウキしているのがよく分かった。祖父の写真も、そんな子供の頃のように無邪気な孫娘の様子を、心から祝福しているように見える。その時、裕美は突然閃いたように、気が付く。
「ついこの間まで、愛だけ選んだと思っていたけど、私、結局、両方を選べてるじゃん。」
裕美は今まで、自分が求めるお金とは、あくまでも目先の物量、だと錯覚していた。だが、今日一日のパンプス事件を通して、様々な過去との邂逅が教えてくれたのだ。
お金持ちの元カレが、どんなに高い物を買ってくれても、心のどこかで、素直に喜べなかった。何かが足りなくて、淋しかった。しかし、今日のパンプスは、祖父の遺影の前で跳び跳ねる位に、嬉しかった。それは、買ってくれた夫のお金に、真心が込められていたからに違いない。
裕美の我が儘を、我が儘とすら思わず、裕美の事を愛しくてたまらない、と思っているのが透けて見える程、夫の愛が染みたパンプス。いつかの祖父のチキンのように、そのパンプスには、泣きたくなる程の温かさが感じられた。
裕美にとってのお金は、祖父があの日払ってくれたような、愛が常に込められている物だった。愛を選んだ時点で、裕美は既に、両方を選んでいたのだ。そんな考えが頭をよぎった時、履いているパンプスの爪先にまで、じんわり感じられた温もりに気付きながらも、敢えて裕美はこう宣言する。
「でもね、おじいちゃん。私は貪欲だから、お金に込められた、愛も、物量も、両方を選ぶから。もっともっと、稼ぐよ。だから、可愛い孫娘の幸せを、見守っててよね。」
尚もプライド高く、上昇志向を忘れない勇猛果敢な孫娘の粋がる姿を、遺影の祖父は見つめている。
“両方を選んで良い、大丈夫だよ。”
そう言い聞かせるように、写真の中の祖父が、いつまでも微笑みながら頷いているように、裕美には見えた。もう戻れない、遠い彼方の、優しい記憶のあの晩のように。
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