"マリア・ジャンヌ・ド・フローリア"の死

 館がその主を失ったちょうどその時、マリアは地下牢ではない一室にいた。彼女の傍には白衣を纏った医者と3人の兵士――いずれも女性ではあったが――が控えており、一様に無機質な視線を彼女に向けていた。


 いつの間にか彼女が纏っていたボロボロの服は清潔なものに替えられており、温かい食事まで用意されていた。しかし、彼女はそれらに一切手を付けておらず、部屋にいる人間に対して口を利くこともなかった。


 2年の長い間に培われた猜疑心は、マリアを蝕んでいた。まだ10歳になるかならないかという歳でありながら、彼女は毒殺の恐怖を知ってしまっていたのである。


 夢の中で出会った女神の言葉を信じれば、眼前にいる人間は彼女を救う存在ということになるが、それを安易に信じることはなかった。彼らが自らに優しくするのは、何か裏の目的があるのではないか、と。


 一方の医師も何故かは分からないが時折マリアに食事を摂るように勧める以外では干渉しようとせず、兵士に至っては一切動かずにその場に待機するだけであった。両者ともに会話を交わすこともなく、いたずらに時間だけが過ぎていく。


 そんな状況に変化が訪れたのは、部屋に響いたノックの音だった。その音を聞くや否や、それまで微動だにしなかった兵士が来訪者を検めるために扉を開ける。


「ここは現在師団長閣下のご命令により……っ!」


 来訪者を止めようとした兵士だったが、すぐに動きをピタリと止める。マリアも思わずそちらに目をやると、そこには後ろに数人の兵士を従えた、大柄な男性が立っていた。胸には何やら勲章のようなものが多くつけられているのが分かる。


「これは師団長閣下、失礼いたしました!」

「いや、気にすることはない。……ラレー軍医大尉、彼女の容態は?」


 師団長と呼ばれた大柄な男性は、医者に話しかける。そのまま一言二言話した後、医者は兵士を伴い部屋を出て行ってしまった。


 室内にはマリアと男性の2人だけが残った。気まずい沈黙が場を暫く支配するが、先に口を開いたのは男性の方であった。


「初めまして、。私はシメオン・イーヴ・ルナン、まぁ……平たく言えば軍人だ」

「……」


 ルナンと名乗った男は、そう言って右手を差し出す。だが、マリアは警戒心を解こうとはせずに、ただ黙って彼の手を見つめていた。ルナンはその様子を察したのか、差し出した手をゆっくりと戻す。そして今度は椅子に腰かけながら、穏やかな口調で語り始めた。


「……それとも、こう呼んだ方がいいのかな。――、と」

「……!」


 自らの名前を言い当てて見せたルナンに、マリアは少なからず驚いた。そんな彼女の表情を見て、ルナンは小さく微笑みながら続ける。


「全く不思議なことだな。君は亡きカトラス侯――君のお爺さんが亡くなったすぐ後に、謎の病で死んだことになっている。本来ならここにいるはずもない存在だ」

「……」


 ルナンの言葉を聞いて、マリアは何も言わずに俯いた。『お前はもう死んだことになっている』――――地下牢にいたとき、姉がそうポツリと漏らしたことが思い出された。彼女はもはやこの世界には存在しないはずの人間なのだ。


 だが、目の前の男は自分のことを知っていた。一体どういうことなのか、とマリアは首を傾げた。


「なんで、私のことを?」

「ようやく話しをする気になってくれたか。……質問に答えよう、私は君に一度だけ会ったことがあるんだ」

「……覚えていません」

「それはそうだろうね。もう5年以上前の話だ」


 どこか懐かしむように、ルナンは言う。少なくとも、彼が嘘をついているようには見えなかった。実際、彼はマリアのことを少なからず知っているようであり、名前を当てられたことは紛れもない事実なのだ。


 しかし、彼女の疑問はまだ尽きなかった。と、言うよりも一番訊きたいことが残っていたのだ。マリアは恐る恐るといった様子で尋ねる。


 ――なぜこの館にいて、何をしているのかと。


 ルナンはすぐには答えなかった。答えがない、というよりも言葉を選ぼうとしているように見えた。ややあってから、ルナンは静かに口を開く。


「単刀直入に言おうか。私は、いや我々は――君の父親を殺しに来た」

「……えっ?」


 マリアはその言葉の意味を理解するのに数秒を要した。いや、彼女も頭の中で何となく予想はしていたのだ。頭上に響く銃声、地下牢に入ってきた兵士たち――与えられた情報を繋ぎ合わせれば、自ずと答えは導かれる。


しかし、それでもマリアはその結論を理解することを拒絶していた。自らの未来を奪い、死の危機に追いやったとはいえ――マリアにとっては父親であったのだ。彼女を直接痛めつけた姉たちと比せば、憎しみはいくらか薄かった。


「君の父親は、民を虐げ圧政を敷いた。我々は彼を裁くためにここに来た。"革命"のためには、どうしても必要なことだったんだ」


 ”革命”、その単語がマリアの耳にやけに大きく響いた。あの真っ白な場所で女神が語っていた内容を思い出された。


「……私も、殺されるんですか?」


 震える声で、マリアは問う。その問いに対してルナンはしばらく無言を貫く。数秒の沈黙、それは彼女を恐怖させるのに十分な時間だった。


「……あぁ、そうだな。我々の本来の目的に従えば──君の存在はされなければならない。革命に貴族が生きる場所は用意されていない」

「……」


 淡々とした宣告に、マリアの心臓の鼓動が早くなる。彼女に事実上の死刑宣告を行った張本人は、相変わらず穏やかそうな笑みを浮かべていた。その笑みが逆に不気味さを醸し出しているような気がして、マリアの背筋を冷や汗が流れる。

 

 しかし、ルナンから次に発せられた言葉は、彼女の想像とは異なるものであった。


「……だが、革命は例外を排除しない。君が圧政を敷いた貴族の血を引いているとしても、もし仮に君もその被害者だったのならば――私は君を救い出したいと思っている」

「え?」

「当然、どうするかは君の自由だ。君がここでどのような仕打ちを受けたのかは図りかねるが、もし生きたいというのであれば――かつてのような生活は無理だろうが、それなりの生活を送れるということは約束しよう」


 ルナンの言葉に、マリアは困惑する。恐らく、彼は完全な善意でマリアに語り掛けているのだろうということは何となく理解できた。しかし、それ故にこの人間が自分の父――恐らくは館の人間の多くも含めてだろう――を殺し、あるいは殺すように命令したのだという事実にマリアは混乱した。


 しかし、齎された光を前にして彼女の生存への渇望が頭を覗かせていたのも、また事実であった。死への恐怖と絶望に支配された2年を耐え、今こうして新たな希望を見出したというのに、それを再び手放すというのは、あまりにも罪深いことであろう。


 数分の沈黙ののち、マリアは決意を固めた。彼女を後押ししたのは、夢の中で与えられた啓示であった。使命を果たすために、彼女は与えられた生存の道を歩むことを決めたのである。


「分かりました。私はあなたを信じます」

「……ありがとう。それでは、君にいくつか話しておかないといけないことがある。まず――君には一度死んでもらうことになる」

「え?え?」


 突然の言葉に、マリアは思わず目を丸くした。助けると言った矢先に、やはり死ぬという言葉が出てきたことに頭がついていかない。そんなマリアの様子を見て、ルナンは苦笑いしながら続ける。


「あぁ、言い方が少し悪かったね。私は君を助けたいと思っているし、それは君が貴族の子だとしてもそれは成されるべきだと思っているのだが、私の部下には貴族は問答無用で殺すべきとする者もいてね」

「……なるほど」

「そういった連中に文句を言われないようにするためにも、『フローリア侯爵家の令嬢』としての君――すなわち、マリア・ジャンヌ・としての存在を抹消しなければならないんだ」

「……」


 マリアはルナンの言わんとすることを察し、黙って頷いた。『貴族としての自分』が消えた後、どうなるのかは分からない。全ては神の手によって移ろいゆくのだろう。


「物分かりが良くて実に助かるよ。君は今から、『ただのマリア』になる。私が手配する馬車で安全な場所まで移動するんだ」

「はい」


 ルナンの説明を聞きながら、マリアは短く返事をする。それから、ルナンは彼女にいくつかの説明をした。


 一つ、マリアはおそらくルナンの知己が経営している孤児院に入ることになるだろうということ。一つ、彼女の父はこれから処刑されるだろうということ。一つ、自らがフローリア侯爵家の人間であるということを絶対に口外してはいけないということ。


 説明を終えたルナンはマリアにしばらく待っておくように伝え、部屋を出ていく。一人置いて行かれたマリアは、思索に耽っていた。


(私は一度、ここで死ぬ……)


 彼女の心中にこみ上げてくるのは複雑な感情であった。家族を失うという痛みと、地獄のような日々から救われたのだという安堵、そしてこれからの不安。様々な思いがごちゃ混ぜになり、整理がつかない。


 それでも、彼女は前に進まなければならなかった。既に賽は投げられたのだ。前に進むしかないのだ。


――――――――――


しばらく経ってから、部屋の扉が開かれ、何人かの兵士がマリアを連れだすために入ってきた。彼らの案内によってマリアは館の外へと連れ出される。


 しばらくぶりの外は――地獄のような様相を呈していた。マリアに配慮してか兵士たちが自らの身体で隠そうとはしているものの、彼女の視界には首と胴体が切り離された死体や、槍で壁に縫い付けられた死体、さらには兵士が首を掲げている光景などが次々と飛び込んでくる。


「うっ……」


 痛みに慣れ、血にも慣れてしまった彼女にとっても、さすがに吐き気を催すような凄惨な光景だった。


「大丈夫か?」

「……大丈夫です」


 心配そうに声をかけてきた兵士に対し、マリアは何とか言葉を返す。吐き気を押さえつつ、用意された馬車に乗り込む。


 走り出す馬車の窓から映る景色の中に、父の顔をマリアは見つけた。さっき見た死体のように胴体から離れており、遠巻きにもその表情が憎悪に歪んでいることは見て取れた。そして――彼の頭は兵士たちによって蹴り転がされていた。


 恐らく兵士たちよりも父を憎んでいると自認するマリアでさえ、その有様に怒りを覚えたが――彼女はそれを表に出すことはしなかった。そんな彼女の思いを他所に、馬車は進み続けるのであった。


 

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