第0-2話 塩

 火曜日、緑の粉を手に乗せた女性が、私にその手を差し出してきた。


「どうぞ、まな様。この手を、ぺろぺろしてください」

「ぺろぺろ?」

「どうぞ、おなめになってください」


 私が緑の粉をなめると、女性は気持ち良さそうにしていた。だが、私は、それどころではなかった。


「うへーっ、なんじゃこりゃ……」

「まな様、眉間にシワが寄っていますよ。伸ばしてください。こうやって、ぐーって」

「ぐーっ」


 眉間を触ると顔に小さな山ができていたので、私はそれを、指で伸ばした。緑色をしている、ということは、この緑のブツは緑茶だろうか。


「これが、緑茶……?」

「そうです。これが、苦いですよ」

「ぺっぺっ!」

「ああああまな様の唾液っ!」


 舌が嫌な感覚に包まれる。これが、苦いというやつか。少なくとも、あの液体は苦くはないと分かった。


「まな様、もう一度、なめていただけませんか? はあっ、はあっ……」

「やっ! いらない、おいしくない、マズイ!」

「そんなあ……! お願いしますよぉ……!」

「ガブっ」

「あんっ!」


 私は、緑茶の人の手に噛みついた。



 水曜日、今度はお皿に緑の、少し湿った物体が載せられていた。


「みどり、苦い……!」

「緑色のものが苦いとは限りませんよ。ほら、美味しいので、なめてみてください」

「ほんとにー?」

「うふふ。本当です」


 胸の大きい女性に差し出されて、私は、思いきってなめてみる。


「あ、そんなに一度に食べると……少し、遅かったですね」

「あー!!」


 舌が痛い。鼻がつんとする。涙が出てくる。


「これがワサビです。辛いですが、大人になれば食べられるようになりますよ」

「おいしくない! うそついた!」


 すると、ワサビの女性はチューブからワサビを出し、指で取って、ぺろっとなめた。


「普通に美味しいじゃないですか」

「ワサビ、いや! こわい! あっちいって!」

「やっぱり、まな様には早すぎましたか。うふふふふ……」



 木曜日、今度は眼鏡の男性に、赤い実を差し出された。


「梅干しです。召し上がってください」

「めしあがる?」

「食べてみてください。種は取り除いてあります」


 私は赤いぶよぶよとした実を摘まむ。それから、ぱくっと食べる。顔中に力が入るのが分かった。


「ぎゅーっ!」

「それが酸味、酸っぱいというものです」

「しゅっぱい」

「それでは、私はこれで。失礼します」


 梅干しの男性はお辞儀をして、表情一つ変えずに、去っていった。それから、顔が元に戻るのに、しばらくかかった。



 しかし、金曜日、私はサトウとシオを教えてもらえなかった。なぜ教えてもらえないのか尋ねると、青髪の男性は、そういう決まりだからと言った。私にはそれがよく分からなかった。


 ともかく、いつもの液体は、しょっぱいか甘いのどちらかなのだということは分かった。知りたいと、そう思った。



 土曜日、その人は私に塩を教えてくれた。彼は塩の人だ。


「みなさん厳しいっすよねー。ほら、これが塩っすよ、なめてなめて」


 私は白い粉を少しだけ手に乗せてもらって、ぺろっとなめた。その瞬間、今まで感じたことのない味が全身に広がって、私は震えた。


「どうっすか? まな様?」

「しょっぱい」

「そうっすよー、これが、しょっぱい──」

「しょっぱい、しょっぱい! もっと、しょっぱい! ほしい! ちょうだい! 塩! 塩!」

 もっと食べたい。もっと、もっと!

「ちょっ……! しっ、しーっ……!」

「しーっ?」

「そうっすよ、まな様。四天王会議で塩と砂糖は渡さないって決まったんすから。絶対、誰にも言っちゃダメっすよ。いいっすか?」

「うん。言わない。だから、もっと、ちょうだい?」

「かーっ、これは強いっすわ……。体に悪いから、あと一回だけっすよ?」


 そうか、これが美味しいということなのか。自然と笑顔になる感覚。


 ──ほんとうに、笑顔なのだろうか?


「わたし、えがお? どんなかお?」

「笑顔……ではないっすね。まな様はあんまり表情が変わらないっつーか」

「かわらない? わたし、うれしいのに、わらわないの?」

「きっと、人とのコミュニケーションが少なすぎて、表情が失われてるんっすね。可哀想に……」

「カワイソー?」

「そうっすよ! 子どもをこんなところに閉じ込めて、いくら魔王様でも酷すぎる──あ、やべっ」


 聞き覚えのない言葉が混じっていて、私は、首をかしげる。


「マオーサマって、何?」

「うーんと、それは言えないっていうか、その、なんて言ったらいいんすかね……」

「マオー、おいしい?」

「ハハッ、おいしくはないっすねー。そうだな……そういう職業っす」

「医師とか?」

「そうそう、そういうやつっす!」

「ふーん。なにする職業?」

「魔王は世界の秩序を保つ存在っす」

「せかいのチツジョ?」

「まな様には、まだ少し難しかったかもしれないっすねー」

「モノゴトをただしくするってことでしょ?」

「おっ、そういうことっす! いやー、さすが魔王様のご息女。賢いっすねー……あーやっべえ、どうしたオレ……」


 ご息女。息女。意味は確か──娘。


「ごソクジョ? わたし、マオーサマのむすめ?」

「うわー、まな様賢すぎる! オレが言ったって、絶対内緒にしてくださいよ?」

「うん、ナイショ」


 それからは毎日、塩が食べたくて仕方なかった。


 いつも飲んでいるこの液体は少し、甘いのだということを知った。


 塩の美味しさを知ってから、あれがそんなに美味しくないということに気づいてしまった。


 あのピンクの液体を飲むのが、苦痛になった。

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