どうせみんな死ぬ。~完全版~

さくらのあ

第一章 ~願いの手紙~

第0-1話 青いダイヤ

 物心ついたときには、その部屋にいた。幼い私には、それが当たり前で、世界のすべてが部屋の中だけで完結していた。


 誰から聞いたかは覚えていないが、いくつかのことは知っていた。


 自分の名前が、マナ・クレイアだということ。

 女であること。男というものが存在すること。

 私が父と母から生まれたということ。

 私は魔族であるということ。

 魔族の瞳の色が赤いこと。

 私の髪色が、白と呼ばれていること。

 目につくものの名前。壁、床、天井、窓、扉──。他には何もなかった。


 幼い頃は、よく、仰向けになって一日を過ごしていたと思うが、正直、よく覚えていない。


 ただ、そうするのが一番、お腹が空かなくて、疲れなかった。それに、なんと言っても、他にすることがなかったのだろう。


 三歳くらいの頃だろうか。私はそれが、「本」であるという事実を教えられると同時に、その本をもらった。


「コノママダト、セイシンニ、イジョウヲキタス」


 と誰かが言っていただろうか。かじってみたが、食べられなくて残念だった。また、本を開いても、わけの分からない絵が描いてあるだけで、それが何を表しているのか、少しも分からなかった。


 それでも、私はすごく恵まれていたのだろう。だって、字や言葉、そして、その意味を教えてもらえたのだから。



 そこから、私の世界は、劇的に変化していった。



 一通り読みを覚えた頃、たくさんの本をもらった。一日一文でもいいから読みなさいと言われた。


 その中に、辞書というものがあった。辞書というのは分厚い本で、たくさんの言葉の意味──つまり、この世界について、書かれたものだった。


 私は辞書をよく読んだ。分からない単語を調べながら辞書を読むのが好きだった。私の知らない、色々なことを知れるから。


 窓から見える水色のものが空であることは、その頃、辞書から知ったことだった。


 ──ただ、辞書には、たまに、黒く塗りつぶされていて、読めない項目があった。不思議には思ったが、あまり気にはしていなかった。そういうものなのだろうと。


 食べて寝るだけの日常に、辞書を読むという行為が加わってから、私は周囲のに興味を持つようになった。


 そして、どうやら自分には、他人には見えないものが見えているのだと気がついた。辞書によると、「ユーレイ」というらしい。


 ただ、それらと意思疏通できることはほとんどなく、関わってもいいことはないと気づくまでに、そう時間はかからなかった。だから、私はそれらを「ムシ」するようになった。


 これが、私が暮らしてきた日々の、ほぼすべてだ。


 ほぼ、というからには、それ以外もある。それは、他人と関わる時間だ。


 一日に数回は必ず、誰かの手で扉が開かれた。それは、掃除や入浴、食事といったものを、私に与えてくれた。


 その顔ぶれはほとんど変わることがなく、決まりがあるようだった。気づいたときには、次に誰が来て何をするのか、分かるようになっていた。


 そういえば、こんなことがあった。


 ある日、いつも通り、辞書を読んでいると、鉄扉が開かれて、外から「ハクイ」の女性が現れた。


「診察します」


 これは「シンサツ」──つまり、私の健康状態をチェックしているのだ。


 「グタイテキ」には、少しヒヤッとする「チョウシンキ」を胸に当てたり、お腹をぽんぽんと叩いたり、喉の奥を見たり。そうして、いつも、逃げるようにして彼女は去っていく。


「失礼します」


 今日も彼女が発したのは、二言だけ。


 そんな彼女の正体を探るべく、私は辞書をなんとか読み解き、彼女が「イシ」という存在なのだと知った。


 そして、疑問に思った。果たして、医師というのは、二言しか話せないのだろうかと。


「い、しゃ!」


 思いきって、声をかけてみた。医師には、医者や先生などの呼ばれ方があるそうだ。


 このとき、私は学んだことを使う楽しさに気がついた。


 同時に、彼女がどんな反応をするのだろうと、ワクワクしていた。


 すると、医師は私の方を振り返り、目をぱちくりさせた。それが、何を意味しているのかは分からなかったけれど、変化は変化だ。


 それが、自分の手によってもたらされたことが、嬉しかった。


「ふたつしか、はなせないの? しんさつします、しつれいします」


 初めて、誰かに話しかけた。絵本の真似だったが、何度も何度も「オンドク」していたから、ちゃんと話せたと思う。そして、


「──ごめんなさい」


 と、言われた。ごめんなさい、の返事は、まだ一つしか知らない。


「うん、いいよ!」


 私がそう答えると、医師は涙を流して去っていった。


 ──その三つ目の言葉を最後に、彼女はここには来なくなった。


 何も悪いことなどしていないのに、なぜ、謝られたのか分からなくて、私は困った。考えてみても、よく分からなかった。


 それに、ごめんなさいと謝られたら、いいよと言って、仲直りするだけだ。


 それだけの、簡単なことなのに、どうして、仲直りできなかったのかも、分からなかった。


 ──それから、私は色々なものに興味を持つようになった。すると、世界が輝いて見えるようになった。


 じっとしている時間がもったいなく思えた。外が明るい間は辞書や本を読み、辺りが暗くなって読めなくなる頃に寝た。


 この部屋には、一日に一回、食事が運ばれてくる。食べると、お腹が鳴らなくなって、お腹が空くのが一時的に収まる。食べることは、生きるために大事なことだと、本能が理解していた。


 そうして出されるのは、いつも決まって、ピンク色のドロドロした液体だった。コップに入ったそれを、必ず、三十回噛んで食べなければならない。


 どんな味と例えればいいのか。頭で理解していても、これが何という味であるか分からないから、説明しようがない。──知りたい。


「お食事をお持ちしました」

「ありがとう。きょうは、なんがつなんにち?」

「──本日は、八月三十日月曜日です」

「うーんと、あしたは、くがつ?」

「明日は、八月三十一日です」

「あちゃーっ、まだ、はちがつだった」


 食事の人──全員魔族だが、人魔族と呼ばれる種族らしく、一般的に、人とも呼ばれるらしい──は、全部で七人いて、日替わりでやって来る。


 だから、この人が次にやってくるのは、ちょうど七日後、つまり、一週間後だ。七日間を、一週間とも呼ぶらしい。曜日なんていう、便利なものもある。


 それより大きなものに、月というのがあって、一ヶ月は、日にちにばらつきがあるのだ。毎日、食事の人に日付を聞くようにしていたが、明日も八月なのか、明日は九月になるのか、それを見分けるのが、少し難しかった。それより大きいと、年になるらしい。


「あのね、おねがいがあるの。リョクチャと、サトウと、ワサビと、シオと、ウメボシを、おしえて?」


 あるとき、月曜日の食事を運んでくる人に、そう頼んだ。


 その頃は、桃髪のお姫様が活躍する絵本を読んでいた。私はそれがたいそう気に入って、何度も何度も読んだ。


 絵本の中では、お姫様が「教えて」と言うと、人々が色々なことを話し始める。そう、「教えて」というのは……うーん。こういうとき、なんという言葉で表すことができるのだろう。とにかく、不思議なことが起こって、ワクワクする言葉なのだ。


「なぜ?」


 言葉が通じた。初めて、私の言葉に対して、興味を持ってくれた。返事をしてくれた。つまり、これは……会話というやつだ!


 私はそれがすごく嬉しくて、頬が勝手に上がるのを感じた。


「あのね、このあじのなまえが、わからないの。だから、にがいと、あまいと、からいと、しょっぱいと、すっぱいのどれなのか、しりたいの!」

「──やめておきなさい。後悔するだけです」

「コーカイ?」


 それ以上、月曜日の食事の人は、何も言わなかった。


「ごちそうさまでした!」

「失礼します」


 頬に青いダイヤ模様をつけたその女性は、私が食事を終えたのを見届けると、静かに去っていった。


 果たして、「コーカイ」とは何だろうか。調べたけれど、まだ難しくて、よく分からなかった。


 次の日も、また次の日も、私は同じことをお願いした。明日は月曜日の人だが、なんとなく、あの人は教えてくれないような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る