私のサンタさん

かがわ けん

私のサンタさん

 いつの間にか定着した11月末の狂乱が終わると街の様相は一変する。師走という言霊がそうさせるのか、世の中は一気に慌ただしさを増してゆく。

 その一方で一年の締めくくりに相応しい楽しみも訪れる。その代表格がクリスマスだろう。木々には電飾が施され光の喧騒が街を彩る。賑やかなショーウインドウは人々の購買意欲に訴えかけてくる。各家庭でもクリスマスツリーやリースが飾られいる。社会全体がクリスマスの高揚感を演出していた。

 社会人となり人並みの収入を得るようになった私はこの高揚感に包まれる権利を手にした。だが幼き日の私はその眩しいの街並みから疎外感しか感じられなかった。




 私の母は弱い人だった。それは健康面ではない。心が弱い人なのだ。

 物心ついた時には母と二人暮らしだった。戸建ての閑静な住宅が立ち並ぶ一角の外れにある古いアパート。料理するのがやっとの狭いキッチンに和室が二つという2Kの間取りが私の出発点だ。トイレと風呂があったのは幸いだが、風呂にシャワーなど無く湯船も幼子の私と母が入るのがやっとの狭さ。トイレは水洗だが和式だった。


 戸籍上の父親はいるが本当の意味での父親はいない。常に男の人が入れ替わる環境では父親の概念すらつかめなかった。社会へ適合しきれなかった母はその穴埋めを男性と酒に求めていたのだ。

 母は夜の仕事で生計を立てていた。それも手伝って男性が寄って来やすかったのだろう。何人もの見知らぬ男がこの部屋を訪れては消えていった。一夜限りの人もいれば何か月か通った人もいた。だが幸いにも一緒に暮らす人物は現れなかった。

 決して豊かとはいえない生活に加えて見知らぬ男が出入りする環境であったが、不幸だと感じてはいなかった。それは偏に男性に依存しようとも私への愛情を手放さなかった母のお陰だ。


 だがそんなささやかな幸せも終わりを告げる。母が精神を病み体調を崩してしまったからだ。仕事も出来なくなり窮地に追い込まれた母の病状はますます悪くなる。加えて昼間から酒を飲むようになってしまった。精神系の薬とお酒の相性はすこぶる悪い。母の体はみるみる蝕まれ仕事への気力など望むべくもない。家事すら手につかず部屋はゴミに溢れ、私も汚れた服に身を包んだままだった。

 そして遂に家賃が払えなくなる。私達はアパートを引き払い流浪の民となった。とは言えお金はとうに底をついている。ネットカフェや安宿に寝泊まりするのも限界を迎えようとしていた。



 いつもの様に夕飯時を過ぎてからスーパーへ向かう。空腹にじっと耐えながら母に手を引かれて店内を回った。彩とりどりに装われたお菓子売り場の誘惑などものともせず、真っ直ぐパン売り場へ向かう。

「好きなの選んで」

 母の手には美味しそうな菓子パンが何種類か乗っている。そしてその全てに赤地に黄色の文字が書いたシールが貼ってあった。

「うんとね、今日はメロンパンにする~」

 メロンパンは私の好物だった。そして今日母が手にしていたメロンパンにはチョコチップが入っている。チョコの香りと甘さが脳を刺激し、幸福と満腹感を齎すのだ。だがこの商品は人気があるのか、母の手に乗ることは少なかった。

 喜ぶ私の頭を母が優しく撫でる。食事を得るよりも遥かに大きな幸福感に満たされた。


 レジを済ませて店を出る。自転車置き場の傍にあるベンチが定番の食事場所になっていた。今夜も真っ直ぐそこへ向かおうとした時、母が額を押さえて座り込んだ。

 歩道を行き交う人々は店から流れるジングルベルをBGMに足早に進んで行く。殆どの人がスマホを手にしており、母に気を留める者など皆無だった。

「ママ、ママ」

 私の呼びかけに母は力なく頷くのみ。だが小学校に上がる前の私は誰かに助けを求める術を知らず、オロオロと母に呼びかけるのが精一杯だった。


「もしもし、大丈夫ですか? 救急車を呼びますか?」

 男の人が腰を下げ母の体を支えながら問いかける。私はその人に顔を向けたが、目に浮かんだ涙のせいで良く見えない。彼は紺色のニット帽をかぶり、赤いダウンジャケットを着ている。そして真っ白な髭を無造作に伸ばしていた。

「サンタさん?」

 赤い服に白い髭だけでサンタクロースとは安直だが、幼い私は本気でその男がサンタさんだと思った。

「だ、大丈夫です。少し休めば楽になりますから」

「じゃあそこのベンチに行きましょう」

 サンタさんが手を廻して母を支える。母は抱き着く様に寄りかかり、何とか足を動かしてベンチへと移動した。母をベンチに座らせると彼は私をふわりと持ち上げて母の隣に座らせた。


「ちょっとここで待っててね」

 穏やかな笑顔を残して店の中へと消えていく。突然現れたサンタさんに助けられた私は昂揚していた。母は隣でまだ辛そうにしているが、もう大丈夫だとの安堵感に包まれていたからだ。

 暫くするとサンタさんはビニール袋と共に膝掛毛布を手にやってきた。その毛布をショールのように母の肩にかけると、ビニール袋からペットボトルを取り出して母に手渡した。

「レモンティーです。体が温まりますよ」

 母は頭を下げて感謝の言葉を述べている。サンタさんは何も言わず笑顔で応えた。そして私の前にしゃがみ込むと同じくペットボトルを差し出してきた。

「お嬢さんにはココアを買ってきたよ」

 差し出されたペットボトルを手にし、どうしたものかと母を見る。すると母は何も言わず頷いた。

「ありがとう」

 ペットボトルから伝わる熱以上の温かさが体中を巡る。自然と笑みがこぼれ感謝の言葉を口にしていた。


「あっ、開けてあげるね」

 彼はそう言ってオレンジ色のキャップを捻って取り外した。微かな湯気の中から鼻孔をくすぐる甘く刺激的な香りがする。一口飲むと喉からお腹に向かって暖かさが駆けてゆく。鼻から抜けるカカオの香りと口一杯に広がる甘さが幸せを運んで来た。

 隣を見ると母も両手で包み込むようにペットボトルを持ち、レモンティーを飲んでいる。その姿は神からの賜り物を有難そうに頂いている様さえに見えた。

 母は少し落ち着いたのか、自身が持っていたビニール袋からメロンパンを取り出しそっと私に差し出した。今夜の食事は大好きなチョコチップ入りメロンパンに温かいココア付き。そして大好きな母と優しいサンタさんに見守られている。久しく感じていなかった充足感に包まれていた。


 私がメロンパンを頬張っていると、隣で母とサンタさんが何か話し込んでいる。内容は分からなかったが、母は申し訳ないからと断っていた。それでもサンタさんは穏やかな笑顔を絶やさず、母に言葉を掛け続けていた。

 暫く会話が続いた後、母は何度も繰り返し頭を下げながら礼を述べている。その頬には一筋の涙が伝っていた。それだけを見れば母が泣かされたと思いそうだが、私は直感的に嬉し涙、感謝の涙だと悟った。例え幼くともそういう感情を読み取る力は備わっているものなのだ。

「お嬢さん、今夜は冷えるしもう夜も遅いからおじさんのお家に泊まろうか?」

「えっ、サンタさんのお家に行けるの?」

 私は思いがけない幸運に声を弾ませた。それは家に泊めてもらえることではない。サンタクロースの家に訪問できる稀有な体験に対してだ。そしてこの時点で勝手にサンタクロースと決めつけていた私は彼をサンタさんと呼んでいた。

 すると彼は驚いた表情を見せる。そしてしゃがんで私と視線を合わせると、ゆっくり口を開いた。

「お嬢さん、何でおじさんの名前がサンタって分かったの?」

「あのね、赤い服着てね、白いお鬚だったから」

 私は迷いなく答える。するとサンタさんはああ、そうかと言って笑い出した。

「ニット帽にジーンズだからバレないと思ったけど、赤い服はダメだったね」

 そう話すと更に楽しそうに笑った。




 ◇




 その日から私と母、サンタさんの共同生活が始まった。一泊だけのつもりが、三日、一週間と伸びていった。

 サンタさんの家はスーパーから徒歩十分ほどの距離にある一軒家だった。私は興味津々でサンタさんの家を探検した。一階は広いリビングダイニングキッチンと彼が仕事場に使っている洋室。二階に彼の寝室と客間があり、私達は客間を間借りすることになった。彼曰くここは一時的な隠れ家で本当の家は遠い遠い海の向こうにあるらしい。図鑑を手に詳しく説明してくれた。

 彼の家を探検して印象的だったのは本がたくさんあること。それも難しい本ばかりでなく絵本も多く所有していた。そして仕事場には事務机と作業台があり、事務机にはノートパソコンが、作業台には様々な色や模様をした木と工具が置いてあった。サンタさんは世界中の子供にプレゼントをするのが仕事だと思っていたが、どうやらクリスマス以外は違う仕事をしているらしい。

 

 私はここでの生活がとても気に入った。一日三食温かい食事を得られるだけでなく、料理好きなサンタさんが毎回美味しい手料理を振舞ってくれるのだ。しかも朝食からご飯、みそ汁、納豆、出汁巻き卵、ほうれん草のお浸しとフルコースが食卓に並ぶ。母が病気になる以前でも奮発した日の夕食メニューだ。こんな贅沢をして良いのかと戸惑ったが、朝からしっかり食べるのが美人になる秘訣だよとの言葉を受けて夢中で頬張った。そんな私を母もサンタさんも嬉しそうに眺める。今思えば彼の家にいる間は全てバランスの良い手料理だった。私達へのもてなしに加え、病気の母を気遣ったのだろう。


 食事以外でも楽しみは多かった。まず沢山の絵本を読めること。それまでは偶に児童館や図書館で読むくらいだったが、ここではいつでも読める。そして寝る前には母が読み聞かせをしてくれるのが嬉しかった。

 大きなお風呂もとても魅力的だった。母と二人で思い切り脚を伸ばしてゆったりと湯につかる。一度泳ごうとして母に叱られたのも今となっては良い思い出だ。そして体を洗った後シャワーで流すのも気持ち良い。勢いよく肌に当たる湯の感触が大好きになった。毎日お風呂に入り、綺麗に洗濯された服を着られることに贅沢を感じた。


 最初の三日ほどはゆったりと過ごしていたが、その後は連日役所に通った。後年になって分かったのだが、大企業の総務課で働いた経験のあるサンタさんは社会保険労務士の資格に加え、行政書士の資格を所持していた。母の窮状を知った彼は、公的支援やNPOによる支援が得られるよう関係各所を一緒に廻り、自身の知識を生かして交渉してくれたのだった。



「えみりちゃん、晩御飯は何が良い?」

「うーんとね。ハンバーグ!」

 サンタさんと二人で例のスーパーで買い物をする。手を繋いで店の中を回った。彼の手は大きく、少しごつごつしている。記憶にないだけかもしれないが、男の人と手を繋いで歩くのはこの時が初めてだろう。

 夕飯の食材が揃い、レジの方へ移動している時だった。それまで意識的に遮断していたお菓子売り場に目を奪われる。足を止め暫し見つめていると、サンタさんはしゃがんで私と視線を合わせた。

「どれでも好きなのを一つ取っておいで」

「えっ、いいの?」

 彼は返事の代わりにいつもの穏やかな笑みを返す。私は夢中になってお菓子売り場へ駆けて行った。


 動物の形をしたクッキー、可愛いキャラクターの絵が付いたキャンディ、果物の形をしたカラフルなグミ。今までお菓子売り場で好きに選んだ経験の無い私は目移りして中々決められなかった。

「そうだ、チョコレートだ」

 私はチョコの文字を探す。保育園にも幼稚園にも通っていない私はカタカナが不得手だったが、チョコとメロンパンの文字はしっかり覚えていた。丁度目の高さの場所に鳥のキャラクターが描かれたお菓子がある。その箱にはチョコの文字があった。私はそれを手に取るとサンタさんの元へ戻った。

「へえー。このお菓子まだあったんだ。おじさんも子供の頃よく食べたよ」

 彼は商品を手に取ると懐かしそうに話した。

「サンタさん、あのね」

「ん、何だい?」

「あのね、ありがとう」

「どういたしまして」

 何故そうしたのか良く分からないが、私はサンタさんの足にギュッと抱き着いた。すると彼は優しく頭を撫でてくれた。




 帰宅すると母はリビングのソファーに腰掛け、何かの書類に目を通していた。テレビではニュースが流れている。ごくありふれた日常。地球上のそこかしこで見られる情景だろう。だが私にはとても心安らぐ幸せな瞬間に感じられた。

 サンタさんは買ってきた食材を冷蔵庫に収めると、私にお菓子を手渡した。

「まあ、お菓子まで買って頂いて。どうもすみません」

「いいんですよ。子供にはおやつも必要なエネルギー源ですから」

 母は申し訳なさそうにするが、サンタさんは全く気に留めていない。そのやり取りを見て何だか悪いことをしたように感じた私は、母の許へ行き買って貰ったお菓子を手渡した。

「あら、チョコ〇ール。懐かしいわね」

「あのね、サンタさんも子供の頃食べたんだって。ねえ、食べてもいい?」

「良いわよ。でも歯磨きを忘れないでね」

 母はそう言ってフィルムを剥がし、取り出し口を開けて渡してくれた。私は早速掌にチョコを取り出す。楕円形のつやつやした外観。黒く光る卵のようだ。堪らず口の中に放り込む。子供向けだからか香りは控えめだが、チョコレート特有の甘さとコクが口の中に広がって行く。私は口の中でチョコレートを転がしながら味わった。

「ねえ、ママも一個いい?」

 私が頷くと母はチョコを取り出し口に入れる。そしてカリカリと心地よい音を立てて嚙み始めた。私の頭に疑問符が浮かび上がる。何故チョコレートからカリカリと音がするのだろうか。そんなチョコレートは今まで食べたことがなかった。勇気を出してチョコレートを噛む。すると中に固い物があるのを感じた。恐々こわごわと口の中から取り出すと白っぽい種が出て来た。

「このチョコレート種が入ってるよ。お庭に植えたらチョコが生えてくるかな?」

 私の質問に母が吹き出しお腹を抱えて笑っている。キッチンからサンタさんの笑い声も聞こえて来た。何が面白いのかは分からないが、母の無邪気な笑顔を久し振りに見られて嬉しかった。




 ◇




 サンタさんとの生活も二週間が過ぎ、12月23日になった。テレビでもクリスマスの話題で持ち切りだ。去年のクリスマスは虚しさが募るだけだったが、今年は楽しみにしていることがある。サンタさんが空飛ぶトナカイのそりで出かける所が見られるかもしないのだ。

 数日前の夕飯の時にトナカイのことを聞いてみた。彼はこの辺りでトナカイを飼っているのが分かると、周りの人にバレちゃうから秘密の場所に隠してあると教えてくれた。ちょっとだけ見せてと頼んだが、神様との約束でプレゼントを運ぶ時以外人前に出してはいけないらしい。本当は乗せて欲しかったのだが、せめてサンタさんが空を飛ぶところを間近に見れないかと期待した。


 12月24日クリスマス・イブ。今日はさぞかし準備に忙しいのだろうと思っていたがサンタさんは普段通りだ。私達と一緒に朝食を取った後、仕事部屋に籠る。昼前に昼食の準備をサッと済ませ、一緒に食べるとスーパーへ買い物に行ってしまった。

 出かけている合間にこっそり仕事部屋を覗いたが、プレゼントらしきものは見当たらない。事務机も作業机もきれいに整頓されていた。ここでは狭いのでトナカイと共にどこかへ隠しているのだろうか? 折角サンタさんに出会ったのだ。年に一度の大仕事をつぶさに観察してみたいとの欲求が抑えられない。ムズムズする気持ちを抱えたまま、夜を迎えることになった。


 夕食を済ませそろそろ寝室へ行こうかという時間になってもサンタさんは動く気配がない。いつも通り洗い物を済ませると、お茶を飲みながらソファーで読書を始めた。こうなったら私が寝るのとサンタさんが出かけるのとどちらが先か勝負だと意気込む。だが突然襲ってきた睡魔には抗えなかった。サンタさんの横に陣取って絵本を読んでいたはずがいつの間にか寝てしまった。




 翌朝、目を覚ますと二階の布団の中にいた。窓の外は既に明るくなっている。母は先に起きたのか、隣にいなかった。

 寝ぼけ眼を擦り徐々に頭が冴えてくると、残念な気持ちが溢れてきた。もう二度と無いかもしれないチャンスを逃してしまった。冬の澄み切った空気と裏腹に気持ちがどんどん曇って行く。せめてサンタさんに昨夜の様子だけでも聞こうと布団から出ると足元に大きな箱が置いてあるのに気付いた。

「サンタさんのプレゼントだ!」

 心の靄は一瞬にして晴れ、一目散に箱へと駆け出す。持ち上げると結構重い。一体何が入っているのだろう。母に報告して箱を開けてもらおうと、リビングに全速力で向かった。


「ママー、ママー。サンタさんがプレゼントくれたの」

「あら、良かったわね。えみりは今年一年とってもいい子だったものね」

 駆けてきた勢いそのままに母に抱き着くと、彼女はギュッと抱きしめ頭を撫でてくれた。

「ねえ、箱を開けて。早く中が見たいの」

「あらあら。その前にサンタさんにありがとうを言わないと」

「そうだ!」

 私はキッチンで朝食の準備をしているサンタさんの許へ向かった。私が近づくと彼は手を止めてこちらへ振り向いた。

「サンタさん、プレゼントありがとう」

「どういたしまして。本当は何が欲しいか聞こうと思ったんだけど、今のえみりちゃんにはこれしかないだろうとこっそり準備したんだ」

 私がサンタさんにお礼を言っている間に、母が二階から箱を持って来てくれた。母は丁寧に包装紙を外すとジャーンっと言って箱を見せてきた。

「これなーんだ?」

「ランドセル!」

 箱には可愛い女の子がランドセルを背負った写真が大きく載っている。春に小学生となる私に最も相応しいプレゼントだ。

 

 母は箱を開け中からランドセルを取り出す。桜の花びらのような淡いピンク色に鮮やかなオレンジ色の縁取り。手招きする母に吸い込まれるように近づくとランドセルを背負わせてベルトを調節してくれた。

「わあ、すっごく可愛い。とっても似合ってるわ」

 母は心の底から嬉しそうに話す。そして目には涙が浮かんでいた。

「ほら、見てごらん」

 サンタさんが鏡を持って私の前に立つ。そこにはピカピカのランドセルを背負ったパジャマ姿の私の姿が写っていた。こんなに心躍る経験は初めてだ。高揚感が抑えきれずそのままリビングを駆け出してしまった。

「ほらほら、そんなに走ると危ないぞ」

 嗜めつつも笑顔のサンタさんに思いっきり抱き着く。彼も私を抱き寄せ頭を撫でてくれた。

「春になったらいっぱい学んで、いっぱい友達作ろうね」

「うんっ」

 春を象徴する真新しいランドセル。それはサンタさんに出逢わなければ冬を越せなかったかもしれない私達が春の訪れを掴み取る希望となった。


 

 サンタさんと暮らし始めて二カ月が過ぎた。縁側の陽だまりのような穏やかで温かい日々がこのまま続くならどれほど幸せだろう。そんな夢想をしつつもそれは望んではいけないと分かっていた。母には以前の元気を取り戻して欲しいし、そうなればおのずと別れなければいけないのだ。

 そんな思いが過ぎったのは何かの予兆だったのだろう。母から小学校入学までに新しい生活を始めると告げられた。サンタさんの奔走が功を奏し、生活保護、育児補助等々公的支援を受けられるようになったのだ。そしてここの近くにある県営住宅に入居することが決まった。

 母はこの手の知識に疎く、窮地に追い込まれても誰にも相談していなかった。最初から公的支援を求めていれば流浪の生活をしなくて済んだのかも知れない。しかしそうなるとサンタさんとも、共に暮らした素晴らしい日々とも出会うことはなかった。

 母も最近はかなり調子が良いが、あのまま二人で暮らしていれば病気は悪化していただろう。金銭的支援を得られても生活が破綻すれば意味を為さないのだ。




 あっと言う間に日々は過ぎ、県営住宅へ引越す日となった。引越と言っても私達に家財道具はない。ボストンバッグと手提げかばんしか荷物はないのだ。そんな私達のためにサンタさんは当面必要な家財道具等を一式プレゼントしてくれた。そして私のために学習机まで用意してくれていた。

 別れの時を迎え、玄関で挨拶をする。

「本当に何から何までお世話になりました。このご恩に報いるためにも娘は立派に育て上げて見せます」

「はい、その意気ですよ。明確な目標があった方が人生に張りが出来ますので」

 家事だけでなく、金銭面も合わせると相当な負担であったに違いない。だがそんな様子はおくびにも出さず、サンタさんはいつも通り穏やかな笑みを湛えている。

「サンタさん、ありがとう。また逢える?」

「もちろん。時々遊びに行くからね。その時はえみりちゃんの大好きなハンバーグを作ってあげるよ」

「絶対だよ。約束だからね」

「よし、約束だ。じゃあ指切りしよう」

 サンタさんの太い小指に小さな小指を絡める。

「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ーますっ。指切った!」

 二人で声を合わせて指切りをする。その様子に母は堪えきれず涙を流していた。

「そうだ、えみりちゃん。ちょっと早いけど今年のクリスマスプレゼントは何をお願いするの?」

「うーんとね」

 何も浮かんでこない。だが浮かばないことに違和感は感じなかった。

「あのね。サンタさんには大人になるまでの分、全部プレゼントして貰ったの。だからね、もう何にもいらないの。それでね、プレゼントを先に貰ったから大人になるまでずーっといい子でいるの」




 ◇




 あれから二十年以上の年月が過ぎた。就職し、人生の伴侶を得て、私の中には新たな命が宿っている。

 あの時サンタさんは見ず知らずの私に希望と未来をプレゼントしてくれた。彼の優しさと母の愛情を胸に今度は私が我が子に希望と未来を贈ろう。

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