第52話

 ——逃げなきゃ。


 ——殺されたくない。


 ——急がないと。



「——ッ!?」

 何かに足を取られ、地面に体を叩きつけられるようにして転げる。不意の事で、頭を地面に打ち付けてしまう。

「ぃ……ッ」

 痛い、という次元ではない。目の前がブラックアウトになりかける中、蓮人は顔をしかめる。けれど、今はそれどころではなかった。

 家に一刻も早く入らないといけない——が、何かによって足が拘束され、その場から動かない。

「お、まえ……は」

 「ぃひひっ」

 視界が歪んでいる中見えたのは、紫原澪の笑みだった。

「なん、だ、これ……ッ!」

 足元に視線をやると、そこには真っ黒い何かに足が引きづりこまれていたのだ。

 何とか抜け出そうと体を持ち上げるが、足はそこから出てこない。

「蓮人さんッ!」

 フェアリーが蓮人の両手を引っ張る。

「あーあ、あなたには関係ないのに」

「……ッ、澪、蓮人さんを解放して!なんでこんなことするの!?」

「だから、あんたには関係無い」

「い——ッ!?」

 そう言って、右手をフェアリーの胸辺りに押し当てると、凄まじい勢いで後方へ突き飛ばされてしまう。

「やっと、捕まえた」

 言ってにこりと笑い、おもむろに膝をついて、覆いかぶさるようにしてこちらに身を寄せてくる。

「……っ」

 心臓が締め付けられるように痛む。それは、彼女の美しい顔や大胆な行動ではなく——単純な、恐怖によるものだった。

 蓮人は今、澪に、ブロッサムに恐怖を感じていた。

元はと言えば、魔人が生み出した<ベスティア>を殺すためのものなのに。

 彼女は——違う何かなのだ。そう、妖精は言っていたのを思い出す。

「ああ、失敗した。もっと早く片付けていたら良かったのに——ふふっ、デートしてくれてありがと」

 右頬に冷たい手が触れる。

「ぃ……っ、……」

 逃げたい。叫び声を上げたい。

 でも、それはできなかった。足の感覚は全くと言っていいほど無く、喉からはかすれた息が出るだけだった。

 澪が、蓮人に顔を近づけてくる。

 まるでキスをしてくるかのように。いや、どこかに噛みつこうしているような——

「……、あ……?」

 ——蓮人の喉から、ようやく声が出た。

 澪の口が蓮人に触れるかどうかの所で、全身に感じたことのない感覚が走る。

 そして、次の瞬間には。

「——っ」

 短い息が聞こえたかと思うと、澪の身体が軽々と後方へ吹き飛んでいった。

 ブロック塀に肢体が叩きつけられ、大きなひびが入る。

「うわ——」

 蓮人は何が起きているのか理解ができず、呆然と目を見開いた。これは、一体——

「——大丈夫だった?」

 何とか理解しようと思考を巡らせていると、蓮人の耳に声が聞こえてきた。

「え……?」

 拍子抜けした声を出しながら顔を上げる。

いつの間にいたのだろうか。真っ黒いドレスのようなものを装ったリリーが、蓮人を守るかのように背を向けて立っていた。右手には真っ黒い杖を持っている。

「リリー……?」

 蓮人がかすれた声で名前を呼ぶと、リリーは蓮人に視線を向け「うん」と頷いた。

「ケガとかしてない?」

「あ、ああ……」

 唖然と声を発する。と、リリーはその反応をどう受け取ったのか、少し恥ずかしそうに後頭部をかいた。

「えっと……私の姿、見たこと無いんだもんね。これが、ブロッサムに変身した姿」

 と、前方からコンクリートが落ちる音が聞こえた。

「……下がってて」

 リリーが言うと同時に、澪がゆっくりと立ち上がり、唇を動かす。

「何するんですか……私と蓮人さんの交わりを邪魔するなんて、ルール違反ですよ」

「ルールとか関係ないよ。なんで蓮人くんを襲ってたの?」

 リリーが言うと、澪はうっとおしそうに首を横に振った。

「はぁぁ……これは、私の理想を叶えるため」

「理想……?あなたの言ってることは、私には理解できないよ」

 そう言って、リリーは右手に持っていた杖を澪に向ける。

 そして、その先から黒い光が現れた。

「蓮人くんに危害を与える人は、誰であろうと許さない。私が殺す」

 その言葉と共に杖を上から下に振り下ろすと、黒い光玉が澪めがけて飛んでいく。

 その速度はあり得ないほどに速い。恐らく、地球上にあるモノよりもはるかに速いと言えるだろう。

 だが、澪は身体をひねると、光玉を簡単に避けていった。

「危ないですね」

「……」

 リリーはもう一度、杖を振ろうとすると――大きな爆発音が響いた。

「う……ッ」

 何事かと思い、辺りを見回してみると、そこには右手にピストルを持ったピジーがいた。

 胸辺りに穴が開く。澪が奇妙な悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。ダラダラと、赤黒い血が流れていく。

「……っ」

 あまりに悲惨な現状に、蓮人は眉をひそめた。

「裏切り、ね」

 表情は一切変えずに澪に近づき、銃口を眉間に当てる。

「——っ」

 蓮人は息を詰まらせた。

 完全に息の根を止めようとしていることが分かる。

「ぴ、ピジー……ッ!」

 思わず言葉を発する。

「なに?すぐに片付けないと、あなたが殺されるわよ」

「い、いや、ダメだ……!」

 蓮人が言うと、ピジーは不思議そうに目を見開いた。

 だがすぐに視線を澪に向け、引き金を引こうとする。

「……こいつ、やけに蓮人とスキンシップを取ろうとしていたわね。私たちとは違う種類のブロッサム。どこでどう作られたかは知らないけど」

「お、おい……待てよ、殺すな……ッ!」

 蓮人が叫ぶ。澪の喉からは、今にも消えそうな声を発する。

「……ぃ、ひひ……ッ、やっぱり、蓮人さんは……私が、望んだ存在」


 ——引き金が引かれる。

 ドンッ、という重々しい音が響き、それっきり澪は何も言葉は発さず、身体も動かなくなった。












  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る