第46話

「ひゃあ!」


 夏だというのに紺色のレディーススーツに身を包んだ私は、柄杓で汲んだ手水を頭からぶっかけた。会社にドレスコードがある訳ではないのだが、仕事中は仕事着を着ていないと気が引き締まらないのだ。それにしても気持ちいい……。濡れ鼠になりながら白いタオルで頭を拭っていると、その光景を呆れ顔で眺めていた身なりの良い女が小さくため息を付く。


「そのスーツ、会社の経費で購入したって分かってる?」

「文香さんもどうですか?気持ちいいですよ」


 私は前髪から雫を滴らせながら悪びれもせず文香さんに満面の笑みを向けた。いつもは作り物のような表情を浮かべる文香さんも、この時ばかりはクスクスと笑ってくれた。彼女は誰にも物怖じせず、自然に振舞える私の唯一の長所をいつも好きだと言ってくれる。


「ガサツなところは昔から変わってないわねえ」


 突き抜けるような青空に添えられた入道雲の下、そよ風が夏緑林の葉を揺らし、蝉の音が境内に鳴り響いていた。手水舎の傍らで穏やかに談笑する私たちの光景から、誰が神社で行われている痛ましい儀式を想像できただろう。


「でも緑山神社に亡者がいたなんて知らなかったです」


 私はタオルで顔をゴシゴシと拭きながら何気なしに呟いた。


「いいえ、あの亡者は元々瑞樹ちゃんに憑いていたの」

「ええ!?」


 私はタオルで口元を覆ったまま目を大きく見開いた。竹を割ったようなさっぱりとした性格だと自覚している私は、リアクションも大袈裟なほどに分かりやすいのだ。


「相沢が返り討ちにあった日を覚えている?私が鬼羅の消滅を感知したのと同じタイミングで英恵ちゃんから電話があったのよ、急に寒気がして収まらないって。その時、受話器越しから異様な空気が伝わってきたの。今まで感じたこともないような禍々しさだったわ」

「それが、そいつなんですか……?」


 私は文香さんの手が小刻みに震えているのを見逃さなかった。


「ということは、相沢さんの式神と何か関係がある亡者……ってことですかね?」

「あるいは倉木ミツキと」

「倉木ミツキ……」


 私の全身の毛が総立つ。私たちが口にしたその名は、まるで口から出すのも憚られるほどの忌むべき呪われた言葉のように思われた。


「因果関係は分からないけれど、あの戦いの何かが引き金となって表に出てきたのでしょうね。そりゃ驚いたわよ、あの汚らわしい存在は、その時まで私や相沢の目を完全に欺いていたんだから」


 文香さんは速い速度で移動する雲をじっと見上げていた。


「その夜、瑞樹ちゃんのホテルに急いで向かったの。到着した時には完全に気配が消えていたけれど、瑞樹ちゃんも顔を真っ青にして震えているし、一人にしておけなかったから2人用の部屋に変更して彼女と一晩を過ごすことにしたの」

「だからあの時に文香さんはいなかったんですね。あの日、そりゃあ大変だったんですから。体中血まみれアザまみれ、おまけに上半身すっ裸の相沢さんを一晩中一人きりで看護していたんですよ!」


 身長154cmの私にとってあの大男の看病は並大抵のことではなかった。たった一晩の看護で私は危うくヘルニアを発症しかけたし、全身筋肉痛で数日間はまともに歩けなかったほどだ。唯一の救いは、相沢さんがたった一晩で体力を回復し、それ以上面倒を看る必要がなくなったことだ。翌朝、彼は腰がやられて寝込んでいた私をよそ目にどんぶりにこんもり盛られた麦飯に味噌汁をぶっかけて、威勢よくかきこんでいた。


「あいつはトラックに引かれても死はしないわよ。でね、話を戻すけど、夜にその亡者が私の夢の中に介入してきたのよ」

「そりゃ、命知らずというか何と言うか……」

「あるいは私より強いか、かもしれないわね」


 文香さんは両腕を組み、不敵な笑みをこちらに向けた。


「マジっすか……?」


「信じられる?その亡者、私の魂も手籠めにしようとしたのよ」

「だ、大丈夫だったんですか?」

「大丈夫じゃなきゃここにこうして立っていないわよ。でも退けるのがやっとだった。不思議なのは、瑞樹ちゃんがヒトバケを起こしていないこと。これがどういうことか分かる?」


 どういうことだろう?私は顔を上げ人差し指を顎に当てながら暫く考え込み、数秒後にようやく彼女の言わんとしていることに気付いた。


「瑞樹ちゃんが、無意識のうちに亡者を抑え込んでいたってことですか!」


 文香さんは返事をする代わりにゆっくりと頷いた。


「まだ未知数だけど、瑞樹ちゃんの潜在能力は桁違いよ。もしかしたら私たちは、文子の力を利用せずとも連中に対抗できる駒を手に入れられたのかもね。チェスで言うところのクイーンよ。そして……」


 文香さんは腕を組んだまま体中を震わせた。それは先程の恐怖から発されたものではなく、武者震いのようにも見えた。


「そして……その力は倉木ミツキにすら対抗し得るかもしれないわ」

「倉木ミツキに匹敵する力……あの子は何者なんですか?」


 彼女はゆっくりと首を横に振った。私は彼女が時折みせてくれるそのジェスチャーが好きだった。彼女はその仕草を心を許している者にしか見せないからだ。


「じゃあ、その亡者は?」


 彼女の顔が急に強張った。次の台詞を言うまでの数秒間、私たちの間にはとても重苦しい空気が立ち込めた。


「あの亡者は男よ。瑞樹ちゃんに変質的な妄念を持った、とても気味の悪い亡者」


◇◇◇

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