第31話
私は繁華街の薄汚いビルの二階にあるバーでベロベロに酔っぱらっていた。今日は人生でもトップ5に入るくらい酷い日だったな……教師なんてもううんざりだ。自分のくだらない人生にももううんざり。
◆◆◆
3時間前、私はどん底に突き落とされていた。ようやくジャリンコ共から解放されたと思ったが、夏休みは夏休みで、書類仕事やら研修やら保護者面談やら部活動の顧問やらで普段より忙しいくらいだったのだ。とどめに仕事を終えたタイミングで交際相手からもう連絡してくるなというメッセージが届いた……。やはり自分にとっては妻子しかいない、お前のことは一生心にとどめ続ける、まだ若いお前の将来のための苦渋の決断でもある……こんなテンプレートのような安っぽい文言がよりによってラインで細切れのように届いていた。私は別れの電話をする価値すらない女なのか。
疲労感と惨めさでどん底の気分をなんとか抑え込み、溢れ出そうな涙をこらえ、スマホを叩き割る衝動を何とか押しとどめ、震える手で自分から電話を架けてみた……が、「ツーツー」という話中の通知音が流れるだけだった。着信拒否をしたのだろう。嫁入り前の身で散々尽くしてやったのにこんなゴミみたいな捨てられ方ってあるか。激情に身を任せて若い奥さんに今までのメッセージや恥ずかしい写真を突き付けてやろうかと思ったが、結局自分も慰謝料を請求される立場だという事実に気付いて何とか思いとどまった。
なんであんな男に惚れちゃったんだろう。57歳で私のお父さんより6歳も年上のくせに。おまけにハゲで、デブで、ちびで……私は独り職員室でむせび泣きながら男の連絡先をスマートフォンから削除した。今日はしこたま飲もう……。
◇◇◇
1時間後、床一面大理石の、透明なテーブルの真ん中にキャンドルが置かれたカップルだらけのバーで、私は独りナッツをつまみながらビールをちびちびと飲んでいた。ホストみたいな見た目の若いバーテンは、カウンターの女二人連れには愛想良く接客しているのに私には話し掛けもしない。私の隣では眼鏡を掛けた生真面目そうな中年男が酒も飲まずに本を読んでいた。酔いにまかせて絡んでみようと思ったけど何もかもがアホらしくなってきてやめた。こういう時はビールでもカクテルでもなく蒸留酒だな。
◆◆◆
入店してから2時間後、バカ高い銘柄のボトルを半分飲みようやく気が紛れてきた。
「キープは半年なんで、それまでにまたいらしてください」
「勝手に飲むなよ~お兄ちゃん」
苦笑いするホスト風バーテンを指さしながら、ベロベロに酔っぱらった私は店を出た。
これでおしまい、さっさと切り替えなくちゃ。もう年上は懲り懲りだ、次は年下にしよう。でも大学時代の後輩には碌な奴がいなかったし、同僚は妻子持ちばっかで独身の男は変なのしかいないし。どっかにいないかな。可愛い顔をして、優しくて、歳に似合わず私をリードしてくれるしっかりしてそうな子……すぐ身近にいるじゃない!ヒナタ君を頭に思い浮かべた私は頭をぶんぶんふった。いかん、酔い過ぎだ。未成年のうえに自分の生徒じゃないか。
今日はあの汚いアパートに帰りたくない。もう一軒回ろうかな。そう思った時に同僚の室田から着信があった。
「はい、園田です」
「ああ、園田先生。室田です。緊急の用件があって。お時間大丈夫ですか?」
国語教師の室田は学年主任をしている。ということは、生徒関連の話に違いない。
「生徒に何か?」
「ええ、一組の恩田さんがまだ帰宅していないと親御さんから連絡がありまして。ほうぼうの友人にも確認をしたそうなんですが、どうやら彼氏と東京に遊びに行ったそうなんですよ。その男はどうやら社会人のようでして」
「ええ」
親は気が気でないだろうが女子生徒が大学生や社会人の彼氏を持つこと自体は珍しいことではない。背伸びをしたい年頃なのだ。それにこう言っちゃなんだけど恩田は……。
「それでですね、その彼氏とやらの会社に問い合わせたところ、そんな男は在籍していないと言われたそうです」
酔いが一気に醒め、体中に嫌な寒気が走った。
「男については写真もなにもない状況です。背の高い長髪の中年男性らしいのですが……警察や校長には私から連絡しました。後は警察の仕事ですが、後ほど先生にも加賀谷署から連絡が来るはずです。その時はご対応をお願いしますね」
「わかりました、お忙しい中ご連絡ありがとうございます。私も精一杯頑張ります」
精一杯って何を精一杯頑張ればいいんだろう。不安で仕方がないが自分にできることは何もないのだ。とりあえず警察の連絡を待とう。ご両親が恩田の友達に連絡を入れたってことは、生徒たちにも伝染病のように話が伝わっているだろうな……最悪、もう何もかもが嫌だ。やっぱり教師になんてならなければよかった。
そうだ、あいつは写真を削除したかな?ネットにバラまかれたらクビどころか人生そのものが終わる。前言撤回、今日は人生で2番目に酷い一日だった。これより酷いのは、大学時代に浮気がばれて同棲していた彼に下着姿で叩き出された日くらいかな。私は胃にあるものをすべて電柱にぶちまけた。
◇◇◇
多分こうなるんじゃないかと、昨日の洗い物の時点で予想はしていた。できれば当たってほしくない僕の予想は残念ながらことごとく当たってしまうのだ。僕は今、ため息をつきながらまた一人で夕飯の洗い物をしている。対照的に台所の横にある一応リビングと呼んでもいいスペースからは、ミツキと和沙のいかにも楽しそうな笑い声が聞こえてくる。どうやら二人は夏休みの計画を立てているらしく、スポーツバッグやリュックサックに衣服や缶詰などを大量に詰め込んでいる。うーん、朝・昼・夜の飯を僕一人で用意するのは別に構わないが、洗い物くらい手伝ってくれてもいいんじゃないか……それにしても和沙は割と庶民的なメニューが好きなんだな。明日は肉じゃがでも作ってやるか。
「ヒナタ君、ごっめーん!話に夢中で手伝えなくて」
和沙はそう言って慌ててゴム手袋を装着した。
「そうやって気を使ってくれるだけミツキの100倍ましだよな。夏休みの計画は決まった?」
「うーん、いろいろ候補があり過ぎて。今はどこも混んでいるだろうから近場かな。ヒナタ君はどこに行きたいの?」
「えっ、俺も行っていいの?」
「当たり前じゃない、何を言っているの?」
和沙は笑いながら僕の背中をゴム手袋を装着した手でバンバンと叩いたため、背中がぐっしょりと濡れてしまった。そういえばミツキ以外の女の子がこんなに近くにいるなんて初めてだ。うわっ、滅茶苦茶いい匂いがする。頭がくらくらしてきた僕は大鍋を和沙に渡そうとして、ゴム手袋越しではあるが彼女の手に触れてしまった。
「あ……うわっ!」
思わず体をびくつかせてしまい危うく大鍋を床に落としそうになったが、すんでのところでキャッチした。
「ちょっとヒナタ君、大丈夫?」
「へ、へーきへーき。手元が狂っただけだよ……」
実は全然平気ではなかった。女の子にろくに触れたことのない僕は、間近にいる和沙を急に意識し始めてしまったのだ。まともに顔も見ようとしない僕の様子に対して、和沙は怪訝そうな顔をしている。うう、情けない……こんなんでミツキに彼氏を作れとか言っているんだからな。和沙は僕が近くにいても平気なようだけど男と触れ合うことに慣れているのだろうか。いろいろな意味でモヤモヤしてしまう。
「あーーーー!」
ミツキが急に大声を出した。お次は何なんだ。
「ヒナタ、デレデレしてる!」
ミツキが涙目で僕を指さした。流石に勘が鋭いな。しかし、和沙にだけは絶対に悟られまい。
「で、デレデレなんか……」
「馬鹿だねえ、みっちゃんの大好きなヒナタ君を横取りする訳ないでしょ」
和沙のナイスフォローに、僕はほっと胸を撫で下ろした。
「う、ううううう……私の大好きな人たちが遠くに行っちゃう……」
「私は世界で一番みっちゃんが好きだから大丈夫よ」
ゴム手袋を外してミツキの頭をポンポンと叩く和沙は、僕らよりずっと大人びて見える。その微笑ましい光景をぼんやりと眺めていた時、妙に胸がざわざわしてきた。その様子を見たミツキがまた僕を指さす。
「ヒナタ、さっきの余韻を味わっているんでしょ!」
僕はほとんど抑揚のない声で言った。
「ミツキ、嗣津無の気配が消えた」
ミツキの顔が一瞬で強張った。
「……それって従属下から外れたって……こと?」
「もしくは他の術師に下ったか、完全に消されたか……だな。少なくとも4km以内に敵がいるのは確かだ」
和沙は僕とミツキの顔を交互に見てただ事ではないと悟ったらしい。僕は洗い物をほっぽり出して叫んだ。
「二人とも、すぐに家から出るぞ!」
◇◇◇
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