第19話
その日、私は予定時間より早めに到着した。早朝の気持ちいい風に吹かれながらベンチに座っていると、ムギは何かが気になるようで後ろを何度か振り向いていた。どうしたのだろう?ムギを落ち着かせようと体を撫でようとすると、公園中央の噴水あたりからスーツ姿の男がこちらへゆっくりと近づいてきて、数メートル離れたところで深々とお辞儀をした。
ムギが今度は前を向き、警戒心と歯をむき出しにしながら男に唸り声をあげた。反対に私は男の立ち振る舞いを見て少しほっとしてしまった。よかった、少なくとも礼儀は弁えている人だ……。私も立ち上がってお辞儀をし返した。
「はじめまして、小牧です。あなたが大川さんですか?」
「はじめまして。大川吾郎と申します。早朝にご足労をお掛けしてしまい、申し訳ございません」
大川と名乗る男がそう言い終わり、私たちの間に沈黙が流れた。男は申し訳なさそうに愛想笑いを浮かべているものの、何かを話し出す様子はない。
私は早速目の前の男を仔細に観察した。年齢は40代前半あたりだろうか?身長は平均程度だが随分とほっそりしている。この年代に入ると多くの男性はお腹が出始めるものだが、男はメタボとは無縁のようだ。しかし服装にはマイナス点を付けなくてはならない。時代遅れの三つボタンのスーツはよれよれで、夏にこのような服装で暑くないのか不思議だった。何よりインナーの襟の内側が黄ばんでおり、それだけでもやたらと不潔に見えてしまう。眼鏡の奥の目は優しそうでとても悪い人には見えないが、見かけに騙されてはいけない。そして観察しているうちにあることに気付いた。あれ?この人どこかで見た覚えが……喉に魚の小骨が引っ掛かているかのように、思い出せそうなのに既の所のところで記憶がぼやけてしまった。
ムギの唸り声だけが虚しく響くなか、沈黙に痺れを切らした私は口を開いた。
「あの、単刀直入に聞きますけど、なぜ私の夢の内容を知っているのですか?」
男は相変わらず笑みを浮かべながら穏やかな口調で話した。
「信じて貰えないでしょうか、私にそういう力があるからです。そして……手紙に書いた通り、私はその人形が発する力を十分過ぎるほど良く知っている。だから夢をアンテナのようにキャッチできたのですね」
「は?はあ……」
意味が分からない……。仕方ない、多少なりとも理解できた部分から攻めていくか……。
「えーと……あなたは夢をキャッチする力があるのですか?」
アホらしいとは思うが取り敢えず話を合わせなくちゃ。
「はい、私は子供のころから不思議な力がありました」
「例えば?」
「そうですね……昔こういうことがありました。幼いころ道を歩いていると突然ぼそぼそとした声が聞こえてくるのです。声のほうを振り返ると、歩いている若い男の背中におぶさる、汚れたワンピースを着た女がいました。ポタポタと雫が滴り落ちる前髪で覆われた顔からは、奇妙な形に歪んだ赤い唇だけが見えました。そう、その唇は異様なまでに鮮やかな赤だったのです」
「はあ、そうですか……」
なんだかネットでよく見かける安っぽい怪談のようだ。天気の良い日曜日だというのに何で私は朝っぱらからこんな話を聞いているのだろう。
「その女は異様に低い声で男の耳元に何かをぶつぶつ囁いているのですが、男はまるで気づきもしません。周りの人間も気に留めずに歩いています。私以外の誰もその女のことが見えないようでした」
「えーと、その男はどうなったのですか?」
我慢我慢。
「それは分かりません。当時は私も幼くて状況も掴めていなかったので、男が見えなくなるまでその場に立ち尽くすことしかできませんでした。ただ女がこの世の者ではない、人ですらないものだと直感で分かっていました。その後男がどうなったのかは知る由もありません」
「人ですらないって、話を聞く限りでは女性の霊だと思いますけど。例えばその男にフラれて入水自殺をしたとか」
「いいえ、私が見える存在は所謂霊だけではありません。むしろ霊以外の怪異なるものを感知するほうが圧倒的に多い。「その者」たちは極めて理不尽で、無差別に人間、人形、人以外のいくつかの動物などに憑りつく厄介な存在なのです。だからその存在は男に恨みのあった女の亡霊ではなく、その男を……」
「失礼ですが、あなたは一種の病気ではないでしょうか」
興奮気味に語る大川さんを遮り、失礼を承知でそう言った。これ以上付き合っていられなかった。しかし大川さんはその反応に慣れていると言わんばかりに穏やかな笑顔を浮かべた。
「精神疾患による幻聴や幻視と仰りたいのですよね。もちろんそう思ってもらっても結構ですが、それならなぜ私はあなたの夢の内容を知っているのでしょうか?」
思わず言葉が詰まってしまったが、この男のペースにずるずると乗せられている気がして何かを言い返さずにはいられなかった。
「それでも私は与太話だと思っています」
「正直ですね」
大川さんが愉快そうに笑った。相変わらず感じの良い笑い方で、私はこの男に思わず好感を抱きかけた。
「仮に真実だとしても、私の夢とあなたのご家族に何の関係があるんですか?そもそも魅入られたとはどういう意味なのですか?」
「ヒトバケという怪異はご存知でしょうか?」
「もちろん知っています。古典や民話だけでなく、能の演目でも知られている怪異現象ですよね。死んだ人の魂が人形に宿り、若者か子供の姿で蘇るという。確か人形から生身の人間になった亡者はバケビトと呼ぶんでしたっけ」
「亡者の宿った人形はそのままではバケビトにはなれません。生贄となる依り代が必要なのです。この事実は何故か昔話から省かれているようですが……。亡者は魅入った依り代を様々な方法で誘い込みます。その一つが夢です」
「生贄?依り代?」
不吉な言葉が私の頭の中に響き続けた。
「「魅入る」とは、生贄となる依り代を
「じゃあ私は死んじゃうってこと!?」
思わず怒鳴ってしまった。大川は慌てて手を振った。
「いえ、魂を喰らわれても命までは奪われません。自我を失った廃人になってしまうそうですが……」
「同じことじゃないですか!」
主人の危機と勘違いしたのか、ムギの唸り声のトーンが一段上がった。大川と言う男は両手を前にかざして私を宥めようとした。
「落ち着いてください……大丈夫です。警察のある組織に知り合いがいます。その人に任せれば小牧さんは助かります」
「警察に知り合い?最初からそっちで相談すればいいじゃないですか!なんで朝っぱらから女子高生と密会しようと思ったんですか、この変態!」
公園でウォーキングをしている中年の夫婦が大声で怒鳴る私と責められる中年男を訝しげに見ていたが、もはや私の態度に遠慮はなかった。大川という男は私を落ち着かせるかのように声のトーンを抑えてゆっくりと話した。
「誤解されるのも無理はありません。ただその組織というのが世間では公表されていため、内密に話を進める必要がありました。親御さんには後ほど警察から連絡をすることも可能ですが、話はすり替えられて伝えられると思います」
「その話を信じろと?そして私は散々脅された挙句に500万円はする魔除けの壷を買わされると?うちが金持ちだから?そうでしょ!」
もはや夢の話も何もなかった。私はその時不信感と混乱で我を忘れていたのだと思う。ムギは今まで見たこともないくらいの勢いで大川に向かって吠え続け、使い古したリードは今にも引き千切れそうだった。大川はしょげ返り、ちらちらと時計を見た。
「自分でも話してて胡散臭いって思いますよ。でもね、実はその警察関係者がそろそろこちらに来る予定なんです」
「もう来てるよ!」
突然背後から声がして、二人は同時にのけぞった。今度はムギが後ろに向きを換えて大きく吠えた。その女はベンチ裏の茂みから体をにゅっと出してニカッと笑った。
「はじめまして和沙ちゃん、あんたたちのやり取りを見させてもらったよ。いやー、面白かった」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます