第23話

「落ち着いたか?」

「…はい、ご迷惑を…、すいませんでした」

 格納庫の隣、簡素なプレハブの休憩室で、僕はぐったりと椅子に座って項垂れ、郷田さんの持ってきてくれた紙コップを受け取る。中身はただの水だ。下手にコーヒーやジュースを飲んでは、嘔吐の直後ということもあり、気持ち悪さがぶり返す可能性があるという、郷田さんの配慮だった。

 半分くらい水を飲んで、ふぅ、と一息洩らし、僕は誰にでもなく、自問のように言う。

「僕が、やったんですよね」

 殺した自覚はある。いや、あった。ただ、それは戦闘中の興奮と緊張感、帰還後の歓待で上塗りされていた。ただ、その様を直視した途端に、かの死に様が、僕を責めるような錯覚を覚えた。

「気に病むこたぁねぇよ。お互い、条件はフェアだったんだ」

 郷田さんが、再び項垂れる僕に告げた。僕はそんな年長者へ、顔を上げた。

「お互いに懸けるものがあった。目的のために武器を取った。その武器ちからを持った瞬間、その責任ってのを持たなきゃならねぇ」

「責任……ですか……?」

「ああ。誰かを守るために武器を取った瞬間、そいつは誰かを傷つける立場に変わる。守るためだなんだと嘯いても、結局それを使えば誰かしらが傷つくんだ。そして、それによって真っ先に傷つけられるのは、同じ武器を取った人間だ」

 それが戦場での戦いなのだと、郷田さんは言った。相手は同じく人を殺すための武器を持った兵士であり、相手に手を出さないということは相手に手を出されても文句を言えないということである。それを、郷田さんは語ったのだった。

「それにな、お前のお陰で、助かった人だっているだろ。芦原だってお前がいなけりゃ死んでた。基地も殲滅されてた。飛行隊RF-6の方は死んじまったやつもいるが、そいつらだってお前はよくやったって褒めてくれるだろうぜ。俺は、お前のこと誇りに思ってるからな」

 ポンポン、と僕の肩を叩き、仕事の続きだ、と言って郷田さんは消えていった。

 簡単に割り切れる問題ではない。あのハルクキャスターのパイロットだって帰りを待つ家族がいただろうし、その人たちは彼が死んだことを悲しみ、僕を恨むだろう。

 誰かを助けるためなら、誰かを殺してもいいのだろうか。戦争だから、そういうものだと言って済ませていいのだろうか。

 僕は絶えず口から出そうになる不安を飲み込むように紙コップの水を飲み干すと、休憩室を後にした。これから着替えて家に帰ろう。久々に映画でも見よう。

 無理に楽しい方に思考を持っていこうとするが、飲み込んだはずの不安や疑問が胸の中から消え去ることはなかった。


 午後六時過ぎ。ぶらぶらと歩いて家に帰ると、電気がついていなかった。

 フィオナがいないのだから当然なのだが、急に寂しさが込み上げてきた。慣れているはずだった一人暮らし。MUFへ入ることが決まってから、叔父夫婦の元からここへ引っ越し、すでに四ヶ月。引っ越し当初は忙しさでそんなことを思う暇もなく、ちょっと余裕ができたかな、と思った頃にはもう今の生活に慣れていた。

 家に帰れば真っ暗な部屋で、シンと静まりかえっているなんて普通だったのに、それがこの一〇日間だけ変わった。

 お帰りを言ってくれない日もあるけど、それでも玄関を潜れば当たり前に電気が点いていて、誰かの笑い声が聞こえて、声を聞かせてくれる。

 ないことが当たり前で、ここ一〇日間がおかしかったはずなのに、そのイレギュラーが当たり前になっていて。その当たり前になっていたことが、突然なくなるのが、とても寂しく、とても恐かった。

 夕飯の支度に取りかかる。が、何ともやる気が起きない。原因はなんとなくわかっているが、それがわかったところでやる気が出るわけでもなく、買い置きのカップ麺を漁り始めた。戸棚の奥に、三つくらい積んである、四ヶ月前に買ったものだ。いつも基本自炊だったから、引っ越し当日以来かもしれない。

 それでも、僕はこれまで自炊してきた身なので、なんとなく栄養バランスみたいなものを気にし出した。でも、そこまでやる気が起きないので、せめてサラダくらいと思い、冷蔵庫の野菜室からトマトを取り出して、適当に洗って包丁で切る。

 包丁を当てるとトマトが少し歪み、刃を前に押すことで赤い果実が裂け、中からうっすらと果汁が染み出し—―

「―――っ」

 そこで、僕は包丁を取り落とした。ただ包丁でトマトを切ろうとしただけなのに、『刃物で何かを切る』という行為に移った瞬間、背筋が寒くなり、手が震えたのだ。

 咄嗟に思い浮かぶのが、半分に切断された敵兵の亡骸だった。僕は頭を振ってその幻影を振り払おうとするが、包丁を再び握るのは無理だった。

 お湯を沸かしてカップ麺に注ぎ、適当に時間を置いて食べた。いつもならテレビを点けながらなのだが、今は黒い画面のまま。室内で音を発しているのは、何もない。麺をちるちると力なく吸っている状態で、ただ時間だけが虚しく過ぎていった。

 汗をかいたはずなのに、風呂に入るのも面倒臭かった。

 もしフィオナがいれば、僕に何か言ってくれただろうか。励ましてくれただろうか。笑い飛ばしてくれただろうか。気にするなと、言ってくれただろうか。

 もしあの時両断された死体を見なければ、どうやってフィオナを無事に取り返せるか、どうすれば身柄を解放してあげられるかと、今頃考えていただろうか。

 僕は着替えもせずに、久々のベッドに体を預けた。

 僕以外の、誰かの匂いがする。嘗てはそれに困惑し、飛び起きたものだが、今になると、彼女の残滓がすごく切なくて、心臓を鷲掴みされたみたいに苦しい。

 まだ午後七時程度なのに、もう何かをする気にはなれなかった。だけど、眠れもしない。結局、眠りに落ちたのはそれから三時間以上経ってからだった。初出撃で疲れていなければ、もっと時間がかかっていたことだろう。

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