第12話

 夕方、僕はぐったりと項垂れながら基地を出た。連日訓練と哨戒任務を繰り返し、それに慣れつつあった。それはそれで疲れるのだが、今日のは別の意味で疲れた。書類仕事みたいだが、ペンやキーボードは一切使わず、ただひたすらににらめっこ。それが終わってからは一時間もいられなかったがシミュレーションルームで新設のマシンでグルグル三六〇度回転したり、実機で戸惑わないようにコックピットと全く同じ造りのシミュレータで機体の基本操作をしたりと。とにかく疲れた。

 でもそれはそれ。これはこれ。今、僕にはやらなければならないことがある。

 いざ、スーパーへ。一〇〇グラム九八円の豚肉を求めて。

 というわけで、凹む心身に鞭打ち、僕はよく使っている自宅から一キロほど離れたスーパーへ向かった。

 このスーパーは普段、近所の主婦で賑わっているが、七時半を過ぎた現在はそこまで混雑しているわけでもない。夜一〇時まで営業しているので、それなりに助かっている。

 店内に入ると買い物カゴを取るのはもうデフォルト。精肉コーナーに移動し、獲物を確認する。こんな時間ではあるが、お目当ての豚肉は五パックほど残っていた。迷わずカゴへ入れ、後は適当に何かないかを見て回る。一〇〇グラム九八円というのは豚肉としてはやや安いがそこまで躍起になるほどのものではない、普通の価格、と思う人がいるかもしれないが、この時代には破格の安さとなっている。通常ならこの倍から五割り増しくらいの値段がする。この日本には直接戦火が広がったことはないが、アメリカや南半球諸国はそれなりに被害を被っており、オーストラリアからの輸入品が入ってこないここ数年は、主に食肉の値段が上昇している。それでも大混乱にならないのは、前世紀に食糧自給率四〇パーセントという実状に危惧を覚えた政府の国内自給率向上政策のお陰だった。よく「何を馬鹿やってるんだ」などと非難される政府であるが、これに関してはよくやってくれたと思う。一番の効果は国民意識が変わりつつあることで、残飯が減ったことがかなりのウエイトを占めているとか。それでも、国産品はそれなりに元から高価(それでも一〇〇年前よりは大分値段が抑えられた)であり、他の輸入品もこの戦時のご時世により、いくらか値段が上がっている。

 その辺を意味もなく回って見ていると、ふとある棚に目に留まった。

「パスタ、また安いな」

 呟いて、ブンブン首を振る。いや待て。ここで安いからと大量購入して後悔したのはどこの誰だ?そう、ここの僕だ。だからいいじゃないか。白米もまだ五キロ以上残っているし、主食には事欠かないだろう?買う必要ないだろう?でも安いんだよ?今度来て高かったらなんか悔しいじゃん?

「あれ、龍斗君?」

 僕が頭の中で天使と悪魔の会議を傍聴していると、現実の世界より何やらかわいらしい声が聞こえてきた。

 横を向くと、愛くるしい瞳が僕の目とかち合った。

「え、高遠さん…?」

 肩にかかる長さの黒い髪に、あどけない、僕よりも年上だということを感じさせない笑顔。白いブラウスと淡いピンクのスカート姿は午前中に見た時とは違う印象だが、間違いなく高遠さん――高遠菜奈に間違いなかった。格納庫で見た時とは違い、大きな胸のせいで、ブラウスが内側からの圧力に悲鳴を上げているように見える。どうやら司令の言う通り、プロポーションはかなりのものらしい。直視できない。主に彼女の胸のせいで。

「どうしたの?てっきり整備・技術グループは今日も詰めてると思ってたんだけど」

 そう、郷田さんは明日明後日には機体を仕上げると言っていたが、それだけ急いでいるというニュアンスも伝わっている。高遠さんも怒られてたけど大丈夫かな、今も頑張ってるのかな、と思っていたので、ここでの出会いは意外だった。

「うん、班長から今日はもう休んで、明日からしっかり仕事しろって言われてね」

 にこやかに言っているが、心中複雑だろう。班長――郷田さんなりの優しさもあるのだろうが、これは同時に「ミスが多いからせめて休んでから来い」という、必要な措置でもある。このままではどんなミスをするかわからないからという、僕にとっても心中複雑なことである。何しろ僕の乗る機体をいじっているわけだから。

「で、龍斗君は?お買い物?」

 尋ねる彼女の手にも、同じく買い物カゴが提げられていた。高遠さんも帰宅前の買い物だということはわかるので、僕は「うん、朝の広告が気になって」と答えた。僕と高遠さんは歳が四つほど離れているのだが、傍目からはそんな風には見えないはずだ。彼女の顔立ちは実年齢より幼く見えるので、ちょうど同い年くらいに見えると思う。僕からすれば年上の女性なのだが、士官学校時代から顔見知りであったこともあり、今じゃ完全にタメ口だ。ちなみに、彼女が『龍斗君』で僕が『高遠さん』と呼ぶのは、彼女の兄である高遠慎哉准将のブラックリストに載らないようにするためだ。たかが名前で呼んだくらいで、と思うかもしれないが、そういう噂があったので警戒していたのだ。今日の司令との会話で、それを確信した。少なくとも、『司令の前で高遠さんと仲良くする』=『司令の抹殺リストに名を連ねる』ということを、僕の生存本能が算出し、警鐘を鳴らしていた。

「あ、お肉安かったもんね」

 そう言う彼女のカゴの中にも、しっかり件の豚パックをゲットしていた。しかし、僕はさらにその隣に納められた一リットルのパックに目が留まった。

(うわー、五九八円の健康黒酢だ)

 別に健康趣味でもないが、僕にはとても手が出ない。だって、閉店前の時間を狙って、運が良ければ五〇パーセント引きの焼き肉セット(割引により四九〇円)とモヤシ野菜(一二〇円)を買えると思うと、どうあっても手が出ない。

「龍斗君、これからご飯?」

「うん、適当に野菜炒めでも作ってようかなって」

 僕は頭を掻きながら答えた。なにせ、男の一人暮らし(現在ニート一人追加)であり、普通に学校で習う程度の料理しかできないし、それらが全部頭に入っているわけでもない。パスタなんか袋に書いてある通りに茹で、併記してある美味しい食べ方の一例を真似てソースをどうにかしていたくらいだ。あとは適当に味噌汁(出汁入り味噌使用)とか、適当に野菜炒めとか、あんまり頭を使わずにそれなりのものができるものを作るだけだ。他にはは冷蔵庫にある食材で何か作れないかとネット検索する程度か。

「なんなら、ウチでご飯食べない?わたし頑張っちゃうよ?」

 高遠さんが、微笑みを向けて提案した。

 かわいい女の子に「一緒にご飯食べよう」と言われて嫌だと思う男はまずいまい。僕としても、そりゃかわいい子からそんなことを言われては、大きく頷きたい。

 頷きたいのだが………、

 またも僕の生存本能が警鐘を鳴らした。

 問題は二つ。

 高遠さんは兄とは別々に暮らしているらしいが、それでも脳天気に彼女が「昨日龍斗君と一緒に家でご飯食べたんだよ」なんて口走ろうものなら、間違いなく司令の耳に入る。そうなると、間違いなく職権乱用なされた司令官殿に、パワハラよろしく嫌がらせを受けたり、最悪僕の存在ごと抹殺されかねない。

 それくらいなら、まだ嬉しい部類の悩みであろう。

 問題はもう一つある。

 今も家で何かの映画を見ているであろう美少女ニートである。僕が家に帰って夕飯を作らなければ、彼女の夕飯は自動的にお預けになる。ぶっちゃけ、フィオナに料理のスキルを期待できるかと言われれば、答はノーだ。面倒臭いだけでできるのかもしれないが、そんな可能性に縋ったところでもしスキルゼロだった場合は明らかに僕が被害を受ける。何をされるかは一切わからないが、美少女に無表情で睨まれるのがどれだけ怖いかはここ数日でこの身に染みている。なんかもう、一種のトラウマだ。

「ごめん、嬉しいんだけど、冷蔵庫の中に今日中にどうにかしなきゃいけない食材があるから、それ使い切っちゃわないといけないんだ」

 高遠さんの料理と健やかなる精神衛生を秤にかけた結果、僕は涙を呑みながらも高遠さんの提案を断ることにした。きっと整備班一同が羨ましがるシチュエーションのはずなのに、惜しいことをしたとは思う。整備班の中で、彼女はマスコットというか、アイドルというか、そういう特別な視線を受けている。持ち前の明るさとかわいらしい容姿の賜物であり、司令の妹であることを怖じけさせることなく、人気があるのだった。

 それを断る僕は、彼らにどう映るのだろうか。

 まあ、考えても無意味なことを考えても仕方がないのでこれで彼女とおさらばすることにしようと

「じゃあ、龍斗君の家に行ってもいい?」

 上目遣いに言われて、僕は撃墜されそうになった。

 すごく魅力的な提案ではあるが、ぶっちゃけさっきの提案の方が安全策だった。重ねて言うが、家には今映画に見入っているであろう美少女ニートフィオナさんがいらっしゃる。なんだか響きが魔法少女っぽいが、今は無視してほしい。

 とにかく、フィオナの存在を他者に、特に軍の関係者に知られるわけにはいかない。不法入国の外国人よりもタチの悪い、敵対国家の兵士を匿ってるなんて知れたら、僕もフィオナも終わりである。もし高遠さんがそんなことをしなくても、彼女がうっかりフィオナの存在を喋ってしまえばそれでジ・エンド。とにかく誰にも知られてはならないのだ。

 よって、誰かを家に入れるわけにはいかない。のだが………、

「ね、迷惑、かな?」

 ダメだ、無茶無茶かわいいよこの子。断ったらなんかこっちが罪悪感に押し潰されそうだ。しかも、彼女は買い物カゴを正面に、両手で持っているものだから、ブラウスに収納されている二つの大きな膨らみを腕で左右から挟み込んでいて、なんか強調されていて、それがすごく気になるというか、とても一八歳の野郎に見せてはならないものであって、とにかく今どうやって彼女の誘いを断ろうかと考えつつも、気が散ってしょうがない。

 僕がしどろもどろしている間、高遠さんはじっと僕の返答を待っている。この時間はかなり気まずい。しかし、どう頭を捻ってもいい断りの台詞が見つからず、

「あー!早く帰らないと『女だらけの水泳大会』始まっちゃう!ごめん、急いでるから!」

 ほとんどやけくそになって、回れ右。疾風の如き速さでその場を去った。

 後ろでは「え、女だらけの……え?」と高遠さんが顔を赤くして立ち尽くしていたが、僕は振り返らずに走った。

 ああ、なんというヘタレ野郎だろう。自分で自分を貶したい。

 なんとか秘密を守ることはできた(?)はずだが、代償はあまりに大きい。明日から、高遠さんには『画面に食い入って女性の水着を目に焼き付ける男』と思われるのだろう。

 なんであんなことを言ってしまったのか。落ち着いて考えれば、どうせ同じように走り去ってしまうなら「急いでるから」の一言で済んだはずだ。なのに、とんだ蛇足だ。蛇足で取り返しのつかない失策をしてしまったよ、僕は。サインがないのに強引に盗塁してコケてアウト、くらいのミスだ。

 僕は勢いに任せてレジを通り過ぎてしまいそうになり、慌てて会計を済ませる。危うく万引きしてしまうところだった。危ない危ない。

 スーパーを出ると、さっきまでの勢いはどこへやら。とぼとぼと、一キロ先のマンションへと歩き出す。

 ああ、最悪だ。

 ヘタレでスケベな僕よ、いっそ豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ。

 今の僕なら、核ミサイルが直撃しても構わないさ。喜んで陽炎でも何でもなってやる。


 ちなみに、二一一九年、そんな番組は存在しない。一世紀以上前に絶滅した番組である。

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