「まがりかど トラックはねた みぞれ雪」

永多真澄

「まがりかど トラックはねた みぞれ雪」

「まがりかど トラックはねた みぞれ雪」




 ――窓の外を、小雪がちらちらと舞っている。2月も終わりではあるが、名残雪というにはまだ、いささか早いか。

 今冬、日本列島は観測史上稀にみる大寒波に見舞われた。

 北は北海道から南は九州沖縄まで、にわかには信じがたいほど全国的に降雪が観測されたが、しかしその一方で累計の降雪量自体は例年よりも随分と少ないように感じられる。


 私のふるさとである富山県は、実は北海道や東北に並んで日本一、二の積雪を誇る県だそうだ。

 もっとも、それは剱・立山に代表される北アルプスの山々や、世界遺産の合掌造集落で有名な五箇山など一部村落の顕著な積雪がランキングを引っ張りあげているからであって、平野部の積雪は新潟のそれに若干劣る程度ではある。

 その大積雪を誇る山岳部のスキー場が雪不足を嘆いているというのだから、やはり今年の降雪量は少ないのだろう。そういえば、ここ3シーズンほどスキーに行っていないことを思い出す。スキーに行きたい。


 雪というのは、まったくもって不便極まりない代物だ。

 夜のうちに10センチや20センチ降った日の朝などは言うに及ばず、たとえ5センチそこそこでも冬晴れともなれば放射冷却現象で路面がスケートリンクと化す。

 歩道などはすっかり雪で埋まるので歩行者は車道を歩くことになり、危険度はさらに跳ね上がる。融雪装置が暴走していて横断歩道を渡るたびにずぶ濡れになったりするのも日常茶飯事だ。

 積雪時、富山県の条例で禁止されているにもかかわらず、自転車と自動二輪車は我が物顔で公道を疾走する。あれは本当に迷惑かつ危険なのでやめてほしい。

 冬の一般的な朝の風景とはいえ、雪が日常生活にもたらす悪影響は計り知れないものがあるだろう。くわえて富山などは重度の自家用車依存社会であるから、なおさらだ。


 しかし今年のように1月半ばまで雪がまったく降らないとなると、それはそれで寂しくもあるのだから不思議だ。

 矛盾しているようだが、実際そうなのだ。雪合戦だとかそり遊びだとか、そういう雪=楽しいという記憶がまだどこかに引っかかっているのかもしれない。


 まあ、今年もいざ積ってしまえば鬱陶しいだけなのではあるが。



 思うに、私が幼い頃の高岡市は、もっと積雪量が多かったように思う。私が小学校1年生の時分ともなれば、それこそ自分の背丈ほども雪が積もっていたように記憶している。

 もっとも現在では170cmを超す身長も、当時では100cmにも満たないチビスケだった私であるから、どう多く見積もってもせいぜい1メートルそこらの積雪であったのだろう。


 雪国によくある光景として、除雪のブルドーザーが町中を駆けずり回って集めてきた雪を空き地や駐車場の一角に集積し、標高2,3メートルばかりの山をあちこちに作るというものがある。

 それは私たちにとって、絶好の遊び場だった。雪山登山と称して天辺まで登り、下りは斜面を滑り台にして滑降する。ただそれだけが無性に楽しかった。

 当然車の多く通る道路から集めてきた雪であるから、随分と汚れている。

 しかしそこは道端に積もった雪を「かき氷だ!」などと目を輝かせながら胃袋に納めていたような恐れ知らずの御年頃だ。多少汚れていようが、私たちにとってはまったく些事に過ぎない。

 私もアノラックを着込み、カッパズボンを穿き、長靴にはスパッツを装着して、最後に耐水の効いた手袋をはめた完全装備でもって、準天然のアスレチックに挑んだものだ。

 弱い足場を盛大に踏み抜いて、腰まで埋まって大層焦ったりしたのも、今ではいい思い出だ。


 さて、この雪山というのは、降雪量の多い年となればそれに比例するように大きく、また数も増える。私が小学校一年生の冬も雪の多い年で、そこいらじゅうに雪山が乱立していた。

 実家から小学校までの通学路の途中に、路地と見まごう細道が、そこそこ車通りのある道へ接続する丁字路がある。

 いまでこそ横断歩道と信号が設置されているが、当時はそのどちらもない交差点であった。

 今はコイン精米機と駐車場になっているが、当時は空き地があって、そこにも雪がうず高く積まれていた。

 普段であれば、見通しの良い交差点である。しかしそこに雪山を作られてしまうと話は別で、当時100cmにも届かないほどの身長の私では、山のこちら側からでは道路の情報を知ることは難しかった。

 俗にいう、ブラインドカーブの状況である。

 とはいえ私の母校は集団登校を採用していたから、上級生が安全を確認し、下級生を先導する仕組みが出来上がっていた。

 だからその日も私は上級生の後ろをヒョコヒョコとついて歩いて、特に気にせず視界の悪い曲がり角をまがったのだ。


 瞬間、ごうっと唸りを上げて、運送会社の大型トラックが鼻先をかすめて通過して行った。


 その道は片側1車線の細い道路であったのだが、当時あまり道路交通網が整備されていなかった時代では、高岡総合卸売市場から富山市方面へ向かうために南郷大橋へに抜けるには最短の道であったため、そういった大型トラックの交通量が非常に多かったのである。


 あわや大惨事であったが、幸いにも接触を免れた私たちは怪我の一つも負うことなかったので、ただ怖い思いをしただけで済んだ。

 とはいえ、雪道の事故発生率は非常に高い。この時の私たちは運が良かっただけであって、一歩間違えれば悲惨な結末が待っていただろう。

 皆様におかれましても、雪道での安全確認は常時のそれよりも徹底し、加害者にも被害者にもならぬよう重々気を付けて頂きたく思う。


 さて、そんなわけで怪我ひとつなかった私たちではあったが、万事問題なしとはいかなかった。

 その道には、融雪装置が敷設されていたのだ。

 雪国以外の方々に軽く説明すると、融雪装置というのは地下水をくみ上げて路面に散水する一種のスプリンクラーだ。地下水は年中おおよそ一定の温度を保っているから、路面のかたく踏み固められた雪もある程度溶かすことができる。

 お察しのよろしい方ならば、もうお分かりだろう。

 トラックは私たちに、すれ違いざまにその大きな車輪で巻き上げた、グズグズの氷水を盛大にお見舞いしてくれたのだ。

 解けかけているとはいえ雪、つまり氷であるから、直撃すれば相応に痛い。ついでに容赦なく防寒着の内側に入ってくるのだから堪ったものではない。

 その直撃をしっかり受けてしまった私たちは、みな頭の先から足の先までずぶ濡れになってしまったのである。

 外気温は氷点下、大層寒い思いをした。


 幸い各自の家からそう離れていない場所でのことであったので、すぐ引き返して事なきを得られたのは救いだった。もっとも、その後に誰かが風邪を引いていたかもしれないが、さすがにそこまでは覚えていない。



 さて、話は変わるが、ちょうどその頃、私たちの小学校では、にわかに「俳句」がブームになっていた。ご存じのとおり「5・7・5」の文字数制限でで短文を作り、上手いことをいう言葉遊びである。

 ……というか、当時の校長が随分な俳人(とはいえあくまで趣味の範疇だ)であり、教諭に指示して児童に積極的に働きかけた結果の「作られたブーム」であったのだが、その奥深い言葉遊びに、私もおおいに没頭した。クラスメイト達と競い合うように句を詠み、その優劣を競ったものである。

 今も手慰みに小説やら何やらを書いてはいるが、この時点からして既にそういう物への興味は培われていたように思う。


 そしてここに話は繋がるのだが、前述の盛大に雪をかぶったその日に私の詠んだ一句が、表題にもある「まがりかど トラックはねた みぞれ雪」である。

 自分の実体験をもとにした、飾りっ気のない淡々とした一句である。ゆえに、良い。奥深さがある(と、校長先生に褒められた。ほとんどは世辞だろう)。

 理由は後述するが、正直なところ、私はいまだにこれを越えられる句は詠めていない。


 もっとも、本来「みぞれ雪」の部分は「ぐしゃぐしゃ雪」だとか「水みたいな雪」と言った風のぼんやりした表現だったのだが、件の校長先生直々の添削によって表題の形となった。

 もう顔も名前も覚えていないが、たしかに才能のあった人なのだろうとは思う。


 ちなみにこの句は、当時の北日本新聞朝刊の小学生俳句コーナーにも掲載された。私の作品が公的な刊行物に掲載されたのは、後にも先にもこの一件のみである。

 もしかすると私の強い自己顕示欲の発端はこれなのかもしれない。新聞に載った当時は家族からも先生からも称賛の言葉を受けた。その快感が忘れられないのかもしれない。などと、この文を書きながら思う。


 懐かしき、「曲がり角」にまつわる私の記憶である。あれからもう20年も経ってしまったのだな、と思うと、時の流れの速さには驚かさせられるばかりだ。



 蛇足ではあるが、その一年後に妹が比類なき俳句の才能を発揮したため、すっかりクサってしまった私は以降俳句を詠んでいない。

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