15.赤毛の吸血鬼 前

 幾日も幾日も、同じ事の繰り返しだった。

 あれから、赤毛の攻撃を食らい続けておおよそひと月程。ジョシュアはもう、腹に風穴を開ける事も手脚を失う事も無くなっていた。

 相変わらず赤毛の攻撃は食らってはしまうものの、身体に傷を作る事も随分減っていたのだ。それから、赤毛からかまされるどぎつい冗談にだって、ジョシュアは嫌でも耐性がついた。それをさらりと流すような技術も覚えた。

 それを披露ひろうしてやるたび、残念そうにする赤毛がやけに目に付いた。


 赤毛がジョシュアに対してであるその心理はいまいちよく分からない。けれども、見た目では判断しないその心根だけは、ジョシュアも素直に信用することのである。


「なーんだぁ、もう慣れきっちゃってつまんないの。血ィ飲めないじゃんか」


 いつものように、一階の広間で休息をとっていた時だった。不意に赤毛が残念そうにつぶやいたのだ。

 大ぶりのソファにぐでっと身体を預けていたジョシュアの隣、前のめりになって両脚に肘を付き、顔の前で指を組んでやけに深妙しんみょうな表情をしている。いつもの冗談だろう。ジョシュアは普段と変わらぬ軽口を叩いた。


「師匠だって言うなら喜べよそこは」

「ええー?」

「血なら俺以外からも貰ってるだろ」

「うーーん」

「……一体何が不満なんだ」


 いつも以上に面倒くさくぼやいている赤毛に、ジョシュアは眉根をひそめた。

 その日は一日、赤毛はうんうんとうなっていたが、次の日には元通りだった。ジョシュアも、あの男の気紛れだろうと気にもしなかった。けれどその理由は、後日知れた。



 いつものようにボロボロにされて、クタクタになりながらベッドに潜り込んだジョシュアは、その日もまた気絶するように眠りについた。


 すっかり夜型の生活にも慣れてしまって、明け方前にとこに入り、赤毛に合わせるように昼間はこんこんと眠りにつく。眠りから覚めればもうすっかり夜も更けて、魔の者達が活動を始める時間だった。


 その日もまた同じ日の繰り返しだ、ジョシュアはそう信じて疑わなかった。


 ジョシュアが眠りについてそれほど経たない頃だろう。ふと気配を感じて、彼は目を覚ました。けれどもまだ寝足りない頭では目を開けている事もままならず、目を何度か瞬かせる。


 どうせ赤毛がまた布団に潜り込みに来たのだろう、と寝ぼけた思考で、彼はその気配だけを追った。けれどもいつまで経っても、その気配は動く様子を見せなかった。

 気配はジョシュアをジッと眺めて、声をかける事もなくたたずむだけ。あの男らしくもない。


 いよいよ違和感を感じたジョシュアは、目を開けて首をひねった。するとすぐかたわらに、ジョシュアを見下ろす赤毛の姿があった。


 その目と、ジョシュアの視線が合わさったその瞬間だ。背筋がゾクリと震えた。その眼差しにいつもの暖かみなどは一切なく、冷え冷えと凍えるような目つきはまるで、獲物を狙う肉食獣のようだった。


 頭で警告音が鳴り響く。逃げなければと頭では分かっていても、まるで蛇に睨まれた蛙のように、その場から動く事が出来なかった。


 いつものような、どこか軟派な赤毛の気配はすっかりなりを潜めている。普段のようなおちゃらけた軟派な雰囲気も、殺気を出した時のような力強さすらもない。感情のない、ただの無機質な怪物だ。まるでハンターの倒すべき化け物のようだった。


 身体が動かない。あの一目で、赤毛の術にかかってしまったのだろう。吸血鬼という魔族の恐ろしさをまざまざ感じ取りながら、ジョシュアは何度目かも分からない死をすら覚悟した。


 赤毛のその目を見てしまった時点でもう、手遅れだったのだ。普段の赤毛の様子から忘れがちではあるが、赤毛はジョシュアなんかと比べれば、何倍も吸血鬼らしい吸血鬼なのである。


 赤毛はゆっくりと動き出した。

 ジョシュアは必死で、赤毛の術を破ろうと抵抗した。けれど未だ、昨晩の傷を引きずっている身体だ。全快しているならばまだしも、今のジョシュアには到底敵いっこなかった。


 赤毛は、舌舐めずりをしながらゆっくりとジョシュアのベッドの上へと乗り上げてきた。碌に動けもしない彼を転がし、上衣の首元をずるりと引き下げる。


 赤毛の視線が逸れた。その術を破るには絶好の機会だというのに。こんな時に、ジョシュアの体は竦んでしまった。

 急所の喉元のどもとを狙われている。その緊張感か、はたまた死んだ時の記憶の所為せいなのか。ジョシュアはその好機を逃してしまったのだった。


 気付けば赤毛は、そのを前に大口を開けている。そうしてガブリと、ジョシュアの首筋へと思い切り喰らい付いたのだった。


「ぐッ――!」


 一瞬の痛みと共に、ぐいぐいと奥まで食い込んでくる牙が吸血の本気度を物語っている。力では到底この男には勝てるはずもない。ジョシュアは抵抗もままならなかった。


 ずるずると容赦なくその血液を吸い上げられていく。ジョシュアの全身から力が抜けていった。

 それこそが、吸血鬼が獲物を喰らう為の能力の効果である。獲物の抵抗を減らし、楽に捕食する。ましてや、相手はミライアと比較しても遜色そんしょくない程に力のある吸血鬼だ。


 ミライアに殺された時ともまるで違う、全力の魅了の力。ここひと月ほどで、赤毛の血を多量に摂取してしまったのも悪かった。

 眷属にこそされてはいないが、己よりも強力な力の者に服従してしまうのは吸血鬼含む魔族に共通する性質だ。赤毛に散々痛め付けられている記憶もある。おくしやすいジョシュアの元々の気質もある。状況は最悪だった。


 しかし、こんな状況にあっても慣れというものはやってくるもので。ジョシュアは焦りから一転、ふと気が付いたのだ。自分の頭の妙に冷静な部分で、コレが吸血鬼の魅了というものか、なんてその効果の高さを考えるなどする。


 いやさ冷静にそんな事を考えている場合ではないのだけれども。ジョシュアはなぜだか、しみじみと感心してしまったのだ。なるほど、これでは普通の人間が抵抗できるはずもないと。赤毛との戦闘でも身体能力の高さは十分に思い知っているし、吸血の際にもこうして相手の抵抗を封じられる。完璧である。


 と、そこまで考えたところで。ジョシュアは今度こそ我に返った。確かに弱かったかもしれないけれども、彼だって伊達に長年ハンター生活をしてはいない。ポンコツだ何だと言われ罵られても、ジョシュアは決して一般人ではないのだ。


 覚醒かくせいしたジョシュアは途端、素早く魔力を身体中に巡らせた。少しでも魅了の魔力の影響を薄め、抵抗するだけの気力を回復する為だ。


 眠っていたミライア由来の力を無理矢理叩き起こし、身体の内の一点、右脚に力を集中させる。力を無駄遣い出来ぬ状況下で、確実に逃れ、あわよくば赤毛を正気に戻す為に。ジョシュアは好機を見計らった。

 その右脚で、喰らい付いたままだった赤毛の腹を、思い切り蹴り飛ばしたのだ。


「ぐうッ――!」


 食事の最中だ。完全に油断し切っていた赤毛は、その蹴りをまともに腹に受け、呻き声を上げながらべしゃりとベッドの向こう側へと落ちていった。


 すぐに身体を起こして体勢を整えたジョシュアは、戦闘時の緊張感やら貧血やらを持て余しつつ、枕元にあったナイフを右手に握った。


 その手が震えていたのは、恐怖なのか武者震むしゃぶるいなのか。ジョシュアにもよく解らなかった。血も足りぬ中で突然動いた反動か、頭がクラクラとしてまともに動かなかった。


 左手で首筋に触れるとそこがぬめりとする。生暖かい己の血の感触だ。

 計四本。開けられたその傷口は未だ塞がってはおらず、その血は次々と溢れ出てくる。それを少しだけ自分の口に含んだ後で、ジョシュアは血を止めるように首の根本を圧迫した。

 吸血鬼なのであるし、そう易々と死にはしないだろうが。それはもう、ジョシュアの気分の問題だった。


 その手に、ドクドクとした己の血の巡りを感じた。いつもより早い鼓動こどうを反映するように、暴れまわりながら脈打つ血液の感覚は、ジョシュアの手に酷く生々しく伝わる。

 自分達を生かす生命の源。それをかてに生きる吸血鬼。一度死んだ自分にも同じものが流れているのだと思うと、妙な気分だった。


 動きがあったのはそれからすぐの事だ。ベッドの向こう側、もぞもぞとの動く気配がする。


「あ、れ――? 俺、何してたんだっけか……」


 寝ぼけているような呟き共に、のそりと赤毛が立ち上がるのが見えた。先程のジョシュアの蹴りは随分と効いたのか、赤毛は痛そうに腹を押さえていた。その顔は、随分と険しくゆがんでいるようだった。


 赤毛はふるふると顔を振って顔を上げる。そこにはもう、先程までの冷たい眼差しは無い。

 けれどもジョシュアの方はといえば、ぐにゃぐにゃと踊り始めてしまった視界も、耳鳴りのし出した聴覚もまともに機能しなくなっていた。赤毛の変化に気付く事も出来ず、険しい表情のまま、赤毛のその様子を窺っていたのだった。

 手元のナイフを固く握りしめながら。ジョシュアはその時を待っていた。

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