ハバさんと自転機
そうざ
Hubba-san and Perpetual Motion Machine
1
その小屋はいつも『油酒臭』が充満していた。
発明と言えば、僕の目の前で黙々と〔自転機〕を弄っているハバさんは『発明ジジィ』と呼ばれている。爺という程には年を取っていないと思うのだけれど、顔に刻まれた深い皺と何本か足りない黄色い歯は、充分に爺の貫禄がある。
ハバさんは、自分の事を発明家ではなくて唯の整備点検工だと言い張る。
確かに、僕は毎日のように学校帰りにハバさんの小屋に入り浸っているけれど、ハバさんが何か便利な物を作っているところを一度も見た事がない。小屋を占領するくらい大きな〔自転機〕の隣でワンカップ酒を飲んでいる姿ばかりが思い浮かぶ。
◇
僕がハバさんの小屋に出入りするようになったのは半年くらい前だ。近所に変な人が住んでいるという噂を耳にした僕は、友達数人と肝試し気分で足を運んだのだった。
ハバさん――勿論、その時は単にジジィと呼んでいたけれど、僕達が予想していた以上に気難しい人だった。
いつ覗きに行っても、薄暗い裸電球が灯ったオンボロ小屋の中でずっと機械を弄っている。一体あれは何の機械だろう、と僕達は囁き合った。そんな僕達を目にすると、ハバさんは声を荒げて鬼のような顔で追い返そうとする。時には酒の空き瓶を投げ付けられる事もあったけれど、僕達はそれもスリルとして半ば愉しんでいた。
ところが、そんな現場を偶々目にした誰かの親が学校に相談したものだから、学年集会で、ハバさんの小屋には近付かないように、と注意が出されてしまった。
その所為なのか、友達は段々とハバさんへの興味を失ってしまい、いつの間にか小屋へ寄り付くのは僕だけになってしまった。すると、どういう訳かハバさんの態度が変わり始めた。ぶっきら棒ながら僕を歓迎するようになったのだ。
◇
こうして、僕は小屋への出入りを黙認して貰えるようになった。
僕が一番気になっている事――勿論、ハバさんが〔自転機〕と呼んでいる機械の正体だった。
煤けてよく見えないメーター、
〔自転機〕は、鈍い作動音を出しながら毎日片時も止まらずに稼働し続けている。動力は電気のようで、背後から延びた灰色のコードが、柱に付けられた
何度訊ねてもハバさんは〔自転機〕の事を何一つ教えてくれない。僕は小屋の中で宿題をやったり、漫画を読んだり、お菓子を食べたりしながら、ちらちらとハバさんの作業を見ていた。来る日も来る日も休む事なく動き続ける〔自転機〕の力強さと、時々起きるちっちゃな狂いを察知して微調整するハバさんの職人的な勘と技は、僕を飽きさせなかった。
◇
或る日、ハバさんがぼそっと呟いた。
「……ちょいと触ってみっか?」
僕はその言葉を待ち焦がれていた。触れる事さえ許されない暗黙の了解が解けた瞬間だった。
ところが、いざ触れて良いとなると僕は中々勇気が出ない。
そんな僕にハバさんは、
「触るだけだぞ。弄るなよ」
と、仏頂面を崩さずに言うのだった。
先ずは、恐る恐る四角いタンクの部分に触れてみた。〔自転機〕は予想と違ってほんのり温かかった。人間の鼓動みたいな細やかな振動も心地好いものだった。僕は素直に感想を伝えた。
「当たり前だ。機械だって生きてるんだから」
と言って、ハバさんは黄色い歯を見せた。
僕は益々〔自転機〕が好きになった。そして、ハバさんの事も好きになった。
2
夏休みに入ると、僕は朝っぱらからハバさんの所へ足を運ぶようになった。親は友達と遊んでいると思っているみたいだけれど、僕は友達の誘いをほとんど断るようになっていた。
「何処に行くんだよ」
プールバッグを背負った子供達が意地悪そうに道に立ち塞がった。
「関係ないだろ」
説明の必要はない。皆、僕の行き先を知っているのに
「ふ~ん、関係ねぇってさ。こんな奴、ほっといて行こうぜっ」
元々友達が少なかった僕は、益々孤独になってしまった。それでも僕は寂しくも何ともなかった。それくらい僕はハバさんに惹かれていたし、〔自動機〕の虜になっていたのだった。
◇
蒸し風呂のような小屋の中で、僕とハバさんの声が飛び交う。
「このメーターの針が赤い所にまで動いたら、直ぐ隣に付いてるバルブを弛めるんだ」
「了解っ」
まるで上官と部下のようなやり取りを僕は気に入っていた。了解という言葉の響きは、妙に心地好くて気が引き締まる。
「ほれっ、目の前の歯車が悲鳴を上げてるぞっ。油を注すんだ。ハバハバッ」
「了解っ」
ハバさんはよく『ハバハバ』という言葉を口にする。どうやら『急げ』という意味で使っているらしい。どうして普通に急げと言わないのか、そもそもどうしてハバハバが急げなのか、最後までよく判らなかったけれど、僕はこの言葉からハバさんを『ハバさん』と呼ぶようになったのだ。
「よしっ、続きは明日だ」
「了解っ。ありがとうございましたっ」
「お前は覚えが早いな。良い整備点検工になれるかも知れん」
ハバさんが工具を片付けながら嬉しそうに呟いた。
僕は、胸の真ん中がじわんと熱くなり、その場で飛び跳ねたい気分だった。考えてみれば、これまで僕は親にも先生にも誉められた事なんかなかった。
僕はスキップをしながら小屋を出た。スキップはこんな時にするものだと初めて知った。
その時、浮かれ気分の僕を呼び止める声がした。
「ちょっと君っ」
息子さんだった。ハバさんの小屋の直ぐ隣に、息子さん夫婦が暮らす二階建ての母屋がある。その廊下から無表情で僕を見下ろしている。
この間、小屋の中をちらちらと窺う男の人が居たので、ハバさんに尋ねたら素っ気なく、息子さんだと教えられた。
前に一度、ハバさんと息子さんが言い合いをしている現場に遭遇してしまった事がある。
「いつまで馬鹿な機械弄りをやってんだよ。毎月どれだけ電気代を無駄にしてると思ってんのっ」
「お前が後を継ごうとしないから、俺が老体に鞭打って整備点検してるんだろうがっ」
僕は生垣の陰で耳を押さえていたけれど、容赦なく聞こえて来た。
結局、その時は黙って帰るしかなかったから、息子さんの顔をはっきり見たのは初めてだった。直感的に、意地が悪そうな人だな、と思った。
「もうあの小屋には来ないでくれ」
子供相手だというのにやけに厳しい言い方だった。お願いというよりも命令に近い感じだった。僕は、やっぱり嫌な人だな、と思った。
3
夏休みの最後の日、僕は朝から溜まりに溜まった宿題と格闘していた。
もう何日も小屋に足を運んでいなかった。僕はハバさんの息子さんの冷たい迫力に負けたのだ。全く納得していないものの、親も僕の小屋通いを疑い始めているようで、暫くは顔を出すのを控えた。
ハバさんは急に姿を見せなくなった僕を心配しているだろうか。それとも、怒っているだろうか。整備点検工の素質があると誉めて貰った矢先だ。もしかしたらがっかりしているかも知れない。今更顔を出しても、もう相手にしてくれないかも知れない。
取り敢えず、今日は夏休みの締め括りとして少しでも良いから小屋に顔を出したい。僕はハバさん公認の助手なのだ。誰にも遠慮する必要はない。
そんな僕の意気込みを嘲笑うかのように、天気予報が大型台風の接近を報じていた。でも、この辺りに上陸するのは夜になってからだと言うので、さっさと宿題を片付けてしまえば大丈夫だと高を括っていた。
ところが、昼過ぎにはもう雨が降り出し、風も激しくなってしまった。早目に閉め切った雨戸は引っ切りなしにガタガタと音を立て、テレビの音も聴き取り辛くなる程だった。
僕は小屋の事、〔自転機〕の事、そしてハバさんの事が気掛かりで仕方がなかった。あのオンボロ小屋は台風に耐えられるだろうか。もし停電にでもなったら〔自転機〕が止まってしまう。そんな事になったらハバさんはどうするのだろう。
僕は、宿題に集中したいから入って来ないで、と両親に告げて勉強部屋に引き篭もった。そして、頃合を見計らって窓から嵐の中へ飛び出したのだった。
◇
悪魔の雄叫びのような雨風が小屋を軋ませていた。
ガラス戸の隙間から風が吹き込んでいるらしく、天井からぶら下った裸電球が激しく揺れている。そんな灯りの中にハバさんの影が消えたり現れたりしていた。
生垣を掻き分けて一目散に小屋に駆け寄った僕は、ガラス戸にへばり付いて叫んだ。
「ハバさんっ……ハバさんっ……」
見ると、〔自転機〕はいつも以上に激しく作動していて、流石のハバさんもてんてこ舞いという感じで作業に追われていた。
「ハバさんっ……ハバさんっ……」
何度目かの呼び掛けで、やっとハバさんが僕の存在に気が付いた。ハバさんは目を大きく見開いたものの、直ぐに戸の鍵を開けてずぶ濡れの僕を屋内に引き入れた。
叱られる――瞬間的にそう思った。こんな嵐の夜、家を抜け出して来た子供を前にして大人が何を言うかくらいは予想出来る。僕は俯いて覚悟をした。
「傘はなかったのかぁ!?」
ハバさんが嵐にも〔自転機〕の作動音にも負けない大きな声で言った。顔を上げると、ハバさんはとっくに作業に戻っていた。
「傘っ……あ、差して来なかった」
「この雨じゃどうせお
すっかり拍子抜けした僕がぼうっと佇んでいると、
「おいっ、ボケッとしてんなっ。バルブを締めろっ、ハバハバッ!」
と、ハバさんが威勢良く指示を出した。
「あ、あっ……了解っ!」
いつもの調子で二人の作業が始まった。
「二番バルブからだぞっ。最後に一番を弄れっ!」
「了解っ! メイン・シリンダーに油を差しますかっ?!」
「おおっ、ケチらずたっぷり差してやれっ!」
「了解っ!」
気が付くと、僕もハバさんに負けないくらいに声を張り上げていた。
◇
夜半過ぎになっても嵐は衰える気配を見せなかった。
今や小屋の中は色んな音の大合唱になっていた。小屋のトタン屋根までが風に煽られてバタンバタンと引っ切りなしに騒ぐ。今にも剥がれ飛ばされそうな勢いだ。
一方、〔自転機〕は
僕は、眠気と疲労に襲われ始めていた。まるで蒸気が頭の中にまで染み込んだようで何も考えられない。頭の中の色んな言葉がどんどん溶けて行き、最後にこんな疑問だけが残った。
こんな事をして何の意味があるんだ――。
すると、僕の頭の中を覗いたかのようにハバさんが叫んだ。
「
僕は一瞬、了解、と言いそうになったが、直ぐに我に返って叫んだ。
「止めませんっ、帰りませんっ、頑張りますっ」
「見上げた了見だっ。そろそろ教えてやっても良いだろうっ」
「何をですかぁっ?!」
「〔自転機〕の使命だっ! 〔自転機〕を動かし続けなきゃならん理由だぁっ!」
◇
夜明け間近、あれだけ暴れていた雨風が静まり返り、その時を待っていたかのように〔自転機〕も正常な作動音を取り戻しつつあった。
僕もハバさんもその場にしゃがみ込んだまま黙っていた。びしょ濡れだった僕の服はほとんど乾いていて、それだけ長い時間、僕達が〔自転機〕と格闘していた事を示していた。
すると、ワンカップ酒をちびちび飲み始めたハバさんがゆっくり呟いた。
「お前……暫くここには来なくて良いぞ」
「え……何でっ?!」
「休暇をやる。今日は頑張ったからな。褒美だ」
「休暇なんか要らないよ。もっと働きたいっ」
「折角の夏休みをほとんど整備点検で潰しちまったろう?」
「そんなのどうでも良いよ」
「兎に角、休むんだ……休暇が終ったら一人前の整備点検工として雇ってやる」
「本当にっ? でも、指示がないと僕は何も出来ないよ……」
「大丈夫だ。やる気さえあれば何とでもなるもんだ」
「ちゃんとした整備点検工になれるかな?」
「なれる!」
「休暇って何日くらい? 次は何月何日に来れば良いのっ?!」
僕のはしゃぎっ振りに、ハバさんが黄ばんだ歯を見せた。出会った頃よりもその本数は減っていた。
◇
僕は、興奮した頭とフラフラの身体で家に帰った。
当然、両親にこっ酷く叱られた。叱られながら、これが普通の大人の反応だよな、と冷静に思った。
それでも僕は、ハバさんの小屋に行っていた事を隠し通した。〔自転機〕の秘密を、そしてハバさんとの約束を守り通したのだった。
4
新学期が始まって間もなく、僕が正式な整備点検士になる日がやって来た。
学校帰りのその足で、自動販売機で買ったワンカップ酒を土産に口笛を吹きながら小屋を訪れた。だけど、ガラス戸に人影は見えなかった。それどころか、何故か〔自転機〕の作動音が全く聞こえて来ない。僕は激しくなる心臓と共に、薄暗い小屋の中に駆け込んだ。
〔自転機〕は完全に止まっていた。
僕は、言葉にならない情けない声を出した。これまで一度も触れた事のない電源スイッチを押してみたけれど、〔自転機〕はウンともスンとも言わなかった。何度押しても全く何も応えてくれなかった。僕は、はっとして電源コードを辿った。コードは途中で鋏か何かで切断されていた。
ハバさんに何かあったに間違いない。
息子さんと顔を合わすのは嫌だったけれど、覚悟を決めて母屋を訪ねた。息子さんは留守で、代わりにその奥さんが出て来て、吃驚するような事を優しい口調で言った。
「お祖父さんは老人ホームに入ったの」
耳がキーンと鳴った。
つい昨日、息子さんに付き添われて行ってしまったと言う。
勿論、僕は老人ホームの場所を訊いた。奥さんは、遠い所にあるとしか教えてくれなかった。僕が居ても立っても居られなくなっているというのに、奥さんは優しい口振りを全く崩さなかった。お医者さんの診断がどうとか、認知機能の異常がどうとか、ぺらぺらと説明を続けた。僕は、息子さんよりも奥さんの方がもっと嫌な人だな、と唇を噛んだ。
小屋に引き返した僕は、冷たくなった〔自転機〕に
帰り道、僕は考えた。
ハバさんが自分から老人ホームに行きたがる訳がない。息子さん夫婦に無理矢理連れて行かれたに決まっている。今頃、〔自転機〕の事を心配している筈だ。施設ではお酒が禁止されているに違いない。僕をちゃんと整備点検士に任命出来なかった事を悔しがっているだろうか。でも、〔自転機〕が止まってしまった以上、その使命も消えてしまった。
「どうにでもなっちゃえーっ!!」
僕は力の限り叫んだ。
◇
それからの数週間、僕は真剣に何度も何度もハバさん救出作戦の計画を練った。
誰に話し掛けられても何を言われても上の空で、夜も充分に眠れず、食事もほとんど喉を通らず、きっと体重も落ちていただろう。
或る時、すっかり口を利かなくなっていた友達の一人が唐突にこう言った。
「お前、臭くなくなったな」
いつの間にか、僕の身体に沁み付いていた『油酒臭』は消えてしまっていた。
結局、救出作戦は僕の頭の中だけでぼんやりと実行されて終わった。
5
あれから
確認はしていないが、ハバさんの小屋は十年余も前に取り壊され、息子さん夫婦も程なく土地を売り払って何処かに引っ越してしまったらしい。
後年になっての事、偶然にハバさんの学友だったご老体に
戦後のハバさんは、唯々漫然と抜け殻のように日々を送るだけになった。酒の味を覚えたのは、その頃だったらしい。
それが老境に差し掛かろうとした頃、突然、庭先に元々あった物置小屋を改造し、方々から収集した
ご老体は〔自転機〕という命名の意味まではご存知なかったが、晩年のハバさんはこの機械の整備、運転に生き甲斐を見出し、遂には誰とも交流を持たなくなったと言う。
因みに、口癖だった『ハバハバ』は、終戦直後に進駐軍経由で広まった流行語『hubba-hubba = 早く早く』の事だと教わった。終戦から二十年以上経っても、ハバさんはこの言葉を日常的に使っていた訳だ。
その後、〔自転機〕がどうなったかなどもう知る由もないが、当然、小屋と一緒に処分されてもうこの世には存在していないだろう。〔自転機〕の整備点検にどんな意味があったのか、それとも何の意味もなかったのか、もう判らない。
確かにあの嵐の夜、ハバさんは僕に〔自転機〕の秘密を教えてくれた。しかし、僕の脳裏の奥底には、今でもすっきりしない謎が沈殿している。
何故ならば、〔自転機〕が停止したあの日から今日に至るまで、地球はちゃんと回り続けているし、地球の自転に変調が見られるという話も
はっきりしているのは、ハバさんが居なくなったあの日を境に僕の心の中の何かは止まってしまったという事実だ。その何かを再び可動させる手立てを、僕は今日の今日まで見付けられずに居る。
僕は我が子にも、そして未来の孫にも、〔自転機〕に相当する何かを与えられる自信はない。
ハバさんと自転機 そうざ @so-za
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