新訳浦島太郎

アチャレッド

新訳浦島太郎

 事実は小説よりも奇なり。

この言葉は有名だが果たして本当に現実が奇なのかと言えば案外そうでもない。

現実は現実通りに現実味のある展開が殆どだ。

そう思っていた五分前の僕よ。

五分後の僕の事実は小説よりも奇だったぞ。


 「………亀?」


 僕の目前には夢に出てきたら悪夢と認定できる程の大きな亀が横たわっていた。







 人間というものは面白いもので突然自分の知識に無い事が目前で起こると思考が完全停止して動きが止まってしまう。

 だって想像した事などあるものか。

この大船という飲み屋街の道路のど真ん中で亀が倒れているなどと。

 しかし一度起きた奇なる事実は畳み掛ける様に起こる。


「おぉーい。見ていないで助けてくれよぉ。」


 飄々としたおっさんのような声が誰もいない道に響き渡る。

 いやいやそんな筈はない。

こいつは亀だ。少しばかし大きいが亀だ。

ピーピーとかキューキューとかポケットに収まるモンスターみたいな鳴き声の動物だ。

喋る筈もない。

 僕は認め難い事実に反する様に首を横に振った。

しかし空気を読まない亀はひっくり返った甲羅をぐらぐらと揺らしながら口を動かす。


 「何してんのさぁ。助けてくれーい。」


どう見てもこちらを見てどう見てもこちらに話しかけている亀に流石に事実が脳に溶け込んだ。


「お…お前人の言葉を話せるのか……。」

「当たり前だろぉ。人間だって犬にワンとか猫にニャーとか言うだろぉ?そんなもんだよー。」


 何だその新理論。てかあのワンとかニャーって言葉として成立していたのか。飼い主恥ずかしさで発狂するぞ。


 「それより早く助けてくれよー。このまんまじゃ心無いガキンチョ共に虐められちまうよぉ。」


僕はジト目で亀を見つめた。


 「……僕としては今すぐ家に帰って眠りについてこの夢から覚めたいのだが……。」


亀はジタバタとしたまま飄々と答えた。


 「いいのかー。呪うぞー。亀は万年生きるんだぞー。万年の呪いは怖いぞー。呪うぞー。」

「任せろ今助ける。」


僕は迷わなかった。









 「いんやぁ。助かったわー。あんがとねー兄ちゃん。優しいねぇ。」

「脅しただろ!」


 文系の人間にはあまりにも重労働な亀の救出作業を終えた。

息切れをする僕に亀はケタケタ笑う。


「てゆーか兄ちゃん体力ないねぇ。男児たるものこんな亀くらいひょひょいっとひっくり返さなきゃ。」

「助けて貰っておいて随分不躾な亀だな……てかそれよりお前は何キロあるんだ。」

「そーだな……軽く一トンくらいだなぁ……。」

「出来るか!」


 僕とした事が冷静さを失ったツッコミをしてしまった。

そもそもこんな亀に構っている暇は無かったのだ。

 着ているシャツを整えてすくっと立ち上がる。


 「名も知らぬ亀よ。何をすれば一トンもあるヤツがひっくり返るのか皆目わからんがもうひっくり返るんじゃないぞ。僕は急いでるんで先を行く。」


 いそいそと立ち去ろうとする所を亀は呼び止める。


 「おや。何か用でもあるのかい?」


本来無視をして華麗に立ち去ってもいいのだが助けたのも何かの縁だろう。

 僕は得意気に答えた。


 「これからいつも行ってる居酒屋に行くところでね。」

「一人でかい?友達いなさそうだもんな。」

「一言余計だ!いないけど……。」


 全くもって失礼な亀だ。

しかし誰かに話してみたいと思っていたところでもある。

この亀なら誰かに話す事などないだろう。亀だし。


 「あ。今失礼な事考えただろう。爬虫類差別だぞ。」

「なんだそのピンポイントな差別は。」


 亀はじっと僕を見つめている。

良いから続きを話せという事だろうか。

お前が話を遮るのだと言いたいがまあいい。


 「……これから行く居酒屋には乙姫さんという名の女性が働いていてね。まぁいずれ僕の伴侶となる女性なのだが。」

「それはまた不幸な……。」


 とことん失敬な亀である。

本気で憐れに思っている表情がまたムカつく。


 「まぁ今はまだ二人の仲を深めている段階でね。その為に毎週通っているのさ。」

「つまりまだ何者でもないと。」


 キレキレの言い回しで言われたくない事を言ってくる。

この亀万年生きてる癖に人の心は学んでいないのか。

 僕は話し過ぎた事に気づき時計を確認する。


 「すまない。もう行かなければ。十七時には彼女が出勤してくるのだ。」

「時間覚えてんの?キモ。」

「黙れ亀風情が!」


 助けた筈なのに全く良い気分にならないまま踵を返した。

しかしまたも亀に呼び止められる。


 「まぁ待て待て。助けて貰った礼をさせてくれ。」


 ノソノソと横に並ぶ亀。

しかし丁重にお断りした。


 「いや。ノーサンキューだ。別に礼が欲しくて助けた訳じゃない。それじゃあな。名も知らぬ亀よ。」


 華麗に立ち去る僕。

この姿を乙姫さんに見せてあげられないのが残念だ。

僕は綺麗な足並みで居酒屋へ向かった。


「乙姫ちゃんと付き合えるかもしれんぞー。」

「話を聞こう。」


 華麗に舞い戻る僕。

この姿を乙姫さんに見せずに済んだのが幸いだ。

僕は汚い足並みで亀の前に舞い戻る。









 大船の街は実に馴染み深い。

ゆったりと進む都市開発にもギリギリで昔の町並みを留めいている様は誇らしい限りだ。

酒の街と呼べるくらいの居酒屋の並びには昔から一抹の憧れを込めて見ていた。

観音様はライトアップされて実にパーリーピーポーじみているがそれはそれで面白い。

そんな馴染み深く愛してやまない大船でまさか亀を助けてその亀に恋愛の助けを乞う事になろうとは誰が想像しただろうか。

ああ僕を産んでくれた優しき母よ。

この面白可笑しい状況を話したら病院に行けと言うだろうか。

然しながら事実なのだ。

この小説よりも奇なる状況は一体僕にどれ程の影響を及ぼすのか。

僕は少しだけ心躍らせていた。









 大船駅から少し外れた所にある細かな路地。

そこで僕は亀と向かい合って座っていた。


 「………という訳だ。これで少しでも気のあるメスはイチコロさ。」

「なるほどな。メスの前で前足をフリフリと振って求愛する訳か……。」


 僕は分かった風にウンウンと頷く。


 「ってんな訳あるか!それはミドリガメの求愛行動だろうが!」


フザけた亀のお陰でツッコミの精度だけは伸び代を感じている。

亀はケタケタと笑った。


 「ははは。冗談だよー。てゆーかよく知ってるなぁミドリガメの求愛行動なんて。」


 著しく落ちる信用度を表す視線で亀を見ながら答える。


 「僕はこれでも獣医を目指してるんだ。そのくらい知ってるさ。」

「ほぉ。そりゃ立派だ。」


 素の形で褒められたが今更この亀に褒められた所で何かを思うことはない。

しかし一寸ばかりは照れてやらん事もない。

まあ今は季節的にも寒いからな。少し頬が温かいのも自然なことだ。

 うんうんと脳内で独り言を唱えていると亀は心配そうにこちらを見た。


 「大丈夫か?お前。イマジナリーフレンドとかいう奴と喋ってるのか?最近の子は大変だね。」

「違うわ!」


 会ってまだ三十分の短さながら相も変わらない失礼加減だ。

というよりコイツの存在そのものがイマジナリーフレンドという奴なのでは?

 疑った視線で眺めるが亀は気にも止めずに前足を挙げる。


 「さて。話を戻そうか。キミは直ぐに脱線するね。就職したらそんなんじゃ大変だよ?」


 誰のせいだ誰の。

しかし僕の視線は亀には届かない。


 「話を聞いた限りだと乙姫ちゃんには決まった相手はいなさそうだ。しかしそんなに魅力的な女性が決まった相手を持たないっていうのは何か理由があるものだろう。」


 最もな意見を亀は言う。

「ほう。しかし理由ってのは一体?」


  亀はのそりと少し動いて続けた。


 「例えばそうだね……昔、男を相手に嫌なトラウマを抱えているとか。」

「もしそうなら心配だな。」

「他には……相手に対し高い理想を持っていたり……そもそも男に興味など無かったりとかね。」

「ふむ。高い理想は努力次第だな。百合も百合でまぁ……。」


 独り言のように言葉を返すと亀はまるで眉をハの字にしたような顔で見つめてきた。


 「キミはとことんキモいな。」

「失敬な!」


 突然のキモい認定に顔をグイッと近づける。

 相手が何かを抱えているならどうにかしたいと思うのも相手の理想を求めるのも相手の事を理解するのも大事な……。


 「……キモいか。」


 自己完結で相手を鑑みないというのはこういう事だろうか。


 「自分で気づけて何よりだよ。」


 亀は何故だか満足そうに頷いた。

 だがだとすれば出来る事はないのでは?

相手を第一に考えるのが大事に思っていたが確かに俯瞰的に見たら何も無い相手に気にし過ぎられるのは少々キモい。


「手詰まり……か?」

「以外に潔いね。」


 ガクッと膝をつくように僕は崩れ落ちた。

しかしその原因を作った亀はヘラヘラと肩を叩いてくる。


「まぁ一つ採用するなら乙姫ちゃんの理想に近づくというところかな。そういった努力をするしか無いのだよ男は。どの動物も殆ど男が努力してツガイを作るだろう?」


 まるで仙人の様な雰囲気を醸し出した亀はこれが万年生きた後光かと思わせた。


「何か一つ知らないのかい?彼女が好きなもの。」


 亀の問いに僕は思考を巡らせた。

 彼女とは幾度か会話をこなした。

会話の殆どはバイトは大変だねというお互いの愚痴だったが考えれば一つぐらいはあるものだろう。


「はっ!」

「実際に「はっ!」って言うやつ初めて見たな。」


 思い出したのだ。亀のちゃちゃで忘れないで良かった。


 「彼女は確かロックバンドの追っかけをやっていたはずだ。【レヴィアタン】というバンドだ。」

「それだ!」


 亀はビシッと右の前足を突きつけた。

そんな機敏な動きできたのか。

僕の比較的失礼な思考など知らず亀は続けた。


「取り敢えずそのロックバンドのような服装を目指そう。比較的私服っぽいやつだ。」


 亀の提案に僕は疑問が湧いた。


「バンドの話で盛り上がるんじゃないのか?」


 しかし僕の問いに亀はフルフルと首を横に振る。


「追っかけをする程のファンを相手に付け焼き刃の知識で勝負を挑んでも結果は見えてるものさ。」


 妙に納得した。

この亀の言う通り長年の知識には決して及ばない。

では戦う武器を変えるという事か。

彼女が推しているバンドのボーカルのようになればそれ即ち僕も推しになったようなもの。


 「…………なのか?」

一抹の不安を抱えた僕を押しのける様に亀は踵を返した。


 「さぁゆくぞ青年!目指すはパンクな服屋だ!」


 結局押し切られる様な形で僕は服屋に進路を変えた。










 時計の針を見た。しかし彼はいない。

お店に出勤すると必ずいる常連さん。

窓際左の二人席。彼は決まってそこに座っている。


「やぁ。今日もバイトかい?ご苦労さまだね。」


 彼は必ずそう言って声をかけてくる。


「はい。いつもありがとうございます。頑張ります!」


 私も必ずそう返す。

彼は沢山お酒を呑むわけでも沢山おつまみを食べる訳でもない。

ただ時折お店が落ち着くとほんの少し会話をする。


「バイトは大変だね。」

「はい。今日はちょっと忙しかったです。」


 大体これだけ。これだけの会話をこなす。

そんな私は十七時を少し過ぎた時計を見る。

窓際左の二人席。

そこには違う人が座っていた。











 亀が服屋にどうやって入るのだろうと思っていたが普通に一人で入らされた。

どう見ても不慣れな男が一人でパンクな服屋に来店したのだ。

幸い時間的にも客は少ないがどうにも視線を感じる。

場違いなのだろう。ええ分かっているとも。

しかし致し方なし。

努力を怠る訳にはいかぬのだ。

 僕は覚悟を決めてこちらをじっと見る店員に話しかけた。


「ロック好きな娘が好きそうなパンクな男にしてください!」


 漫画みたいに目を丸くした店員はコクリと頷く。


「お任せ下さい!パンクにしますよ!」


 僕と店員はガシりと手を組んだ。











 いつもの時間より二時間遅れて店に入った。

入るやいなや店内はザワつく。

それもそうだ。入ってきたのは居酒屋など似つかないパンクな男。

男は華麗に空いている席に座った。

扉近くの一人席。

席に座ったパンクな男に常連達は覚えがあるようだ。

何せ彼も常連なのだ。

毎日あくせく通う地味な青年。

つまり僕だ。

 僕は注文を取りに来た乙姫さんと目を合わせた。


「やぁ。お疲れ様。ジントニックを一つ貰おうか。」


 乙姫さんは複雑な笑顔でコクリと頷いた。

 照れてるのだな。

まあ無理もない。何せ僕は今【レヴィアタン】のボーカルのようなクールさを兼ね備えている。

服屋の店員にも色々洋服について時間の許す限り聞いた。

今や流行りの服にも成通している僕は最早無敵なのだ。

 トテトテと乙姫さんはジントニックを持ってきてスッと席に置いた。

自身を身に着けた僕は乙姫さんを見た。


「ありがとう………どうだい?新しい服を買ってみたんだ。」


 実にクールな言い回し。

しかし彼女もクールに返してきた。


「いつもの方が………いいですね。」


 彼女はそれだけ言って立ち去った。

 めのまえが まっくらに なった。









 次の日も亀は路地にいた。

しかし亀は悪びれもなく僕に前足を振る。


「どうだった?彼女の反応は。」

「どうだった?じゃない!まるで駄目だったではないか!寧ろマイナス点だ!」


 亀はうんうんと頷く。


「まぁそりゃあそうだ。ガワだけ取り繕っても推しには敵わんだろうね。」


 お前がやれと言ったのだろうが。

 大人な僕は表情だけでそう伝えた。

 そもそも間違っていたのだろう。

亀に頼るという発想がおかしいのだ。

亀を助けて亀に礼をされる。

まるで件の童話のようだと思っていたがそもそもあの話も最後はジジイにされて鶴へと化すのだ。

ハッピーエンドではない。

善行はやはり自己満足で終わらせておくべきだ。

 僕はヒラリと背を向けた。


「礼はもういい。僕は僕で頑張ってみるよ。」

「まぁ待て。次は平気だ。」


 信用できない言葉では僕の歩みは止まらない。


「今のままだと君は一日だけ気が狂った男のままだぞ。」


 痛いところを突いてきやがった。

しかしそれもこれもお前のせいなのだが。

 僕の言葉よりも先に亀は口を動かした。


「筋肉をつけるのだ。やはり女は男らしいのが好きだからな。」


 嫌そうな顔をする僕に亀はビシッと右の前足を突きつけた。


「安心しろ。筋肉嫌いな女はおらん。評価が上がることはあっても下がることはない。試す価値はあろう?」


 ………確かに。

試してみて困るものではない。


「仕方ない。乗りかかった船だからな。」


 というこの単純さが僕の最大の弱点だと気づくまで僕はもう暫し時間をかけてしまう事となる。









 本格的にトレーニングする事にした。

ジムに通いプロテインを飲み少食ながら大量に炭水化物を摂取した。


「筋肉を育てろ!いじめぬけ!それが筋肉の食事になる!」


 ぶつかったら肩ごと持っていかれそうな肩回りを持つインストラクターに煽られながらトレーニングをした。


「目指せ!君ならなれるぞ!アメリカドリーム!」


 訳の分からない煽り文句にツッコミをいれる余裕はなかったが。


「うおおお!」


 僕は筋肉を育てた。











 「いらっしゃ……!?」


 店主の視線が僕を捉える。

ひと月ぶりに顔を出してそびえ立つ僕には前までのヒョロさなど無く一端のスーパーマンだ。

冷蔵庫?ふっ。褒めすぎたよ。

 いつもの席では少々手狭なため僕は広めの席に席付いた。

僕は右腕を見せつけるように注文を取りに来た彼女に言った。


「生ビールで。」


 決まった。何せ一杯目は生ビール。

これぞ男の飲み方なのだから。


「あ…はい。」


 しかし彼女は目を合わせる事などなく背を向けた。

 バタンキュー。











 僕はじっと亀と向き合って座った。

何も発さない僕に流石の亀も不思議そうに黙っている。

かれこれ十五分程の沈黙が経過し、等々僕は口を開いた。


「………二連続で駄目だった。もう駄目なのではないか……?」


 どの角度から見ても落ち込んでいる僕の肩を亀はポンポンと叩く。


「ま…まあ。そうそう直ぐに上手くいくものでもないだろー。元気だせよ。」


 亀のくせに慰めてくれるのか。

しかしもう今更だな。逆に覚悟が決まっているのを感じる。


「……行けるところまで……。」


 勢い良く僕は立ち上がった。


「最早ここまで来たら関係ない!彼女に認められるまでアプローチするんだ!」


完全に狂ったように立ち上がった僕を亀は目を丸くして眺める。

だが僕の覚悟を認めた亀はコクリと頷いた。


「任せなさい。一緒に彼女の心を虜にしようじゃあないか。」


 固い握手を交わした。

疑いもせず。










 まず楽器を練習する事にした。

ギターで翼をくださいは弾けるようになった。


「あ……そうですか。」


 乙姫さんの笑顔は貰えなかった。

 次に料理を勉強した。

週五の料理教室に毎日通い主婦の友達は沢山できた。

自分用の料理道具一式も買い揃え今ではレシピを見ずにフランス料理コック・オー・ヴァンが作れるようになった。


「コッ…なんとか…凄いですね。」


 そもそも披露する機会が無かった。

 次に話術を学んだ。

どのようにすれば相手と近い関係になれるか。

それをひたすら心理学的に学んだ。


「……はい。」


 しかしそもそもあまり話題もなかった。

 前は一体どんな会話をしていただろうか。

僕は勢い良く拳を握った。


「ま…まだまだだ!」


 果たして進む方向は合っているのか。

僕はひたすら頑張った。










 「ねぇねぇ。最近あの常連さん色んな方法でアプローチしてくるね。乙姫。」


 少し暇になった時間にバイトの先輩は私に言った。

私は慣れたようにニッコリ答える。


「そーですね。」


 恋愛系の話に塩対応の私に先輩もイッと口をしがめる。


「相変わらずこういう話乗ってこないねあんた。」


 つまらなそうな先輩に少し申し訳ない気持ちで答えた。


「……あんまり自分の事を話すのを得意じゃないんですよ。」


 だってそうだろう。

自分の事は自分が一番分かっていると言うが本当に分かっているかなんて怪しい。

しかし他人が分かっているとも思えない。

自分の事など分からない事だらけなのだ。

それなのに「誰が好きか」とか「あの人どう思ってる?」とか。聞かれても答えづらく感じてしまう。

興味がない訳でもないのだが。自分でも難しいところだ。

 先輩はうーんと悩みながら聞いてきた。


「じゃあ取り敢えず最近のあの常連さんはどうなの?前よりいいの?」


 私は少し悩んだふりをしてから答える。


「……前の方がいいですね。」


 そのタイミングで少しお店が混み合ってきた。











 今でも覚えている。

乙姫さんを初めて見たときの事。

 何となしに一人で居酒屋に入った。

一人飲みというものを体感してみたかったのだろう。

そして入ったお店に彼女はいた。

まるで童話のお姫様のような雰囲気は一瞬で僕の心を虜にした。

次の週、僕は気づけばまた居酒屋【竜宮城】に来ていた。

最早魔法にでもかけられたように吸い込まれていたのだろう。

しかしその日彼女は僕に一言だけ話しかけてくれた。


「いらっしゃいませ。先週も来てくれましたね。ありがとうございます。」


 覚えてくれていたのか。

僕はどうにも嬉しい気持ちでいっぱいになった。

しかしその感情のままでニッコリ笑っていたら何も始まらない。

僕は精一杯の笑顔で答えたんだ。


「ああ。ここの煮玉子が格別でね。バイトさんだね。大変そうだが頑張って。」


 他の席のオーダーの声が響き彼女はニッコリ笑いその場を去っていった。

本当にたった一言の会話。

しかしそれでも彼女と話す事が出来たのだ。

僕は彼女と話す為にあくせく店に通った。

毎日店に顔を出してはストーカーだ。

それにそこまで金銭的な余裕があるわけではない。

ならば週末の楽しみにしよう。

多くを望めば彼女と隣で笑い合いたい。

しかし望みすぎて手放すのは嫌だ。

だから僕は毎週彼女と一言二言話すその時間を大切にしたかったのだ。

それが僕の三年間。

そして僕は今年大学を卒業する。

竜宮城の乙姫の美しさに心を奪われた三年間。

それも最近動き過ぎた為に終わろうとしている。

僕の様な人間が彼女の人生に少しでも関われたならそれだけでも祝杯物だろうか。

などと考える僕が彼女に釣り合うとも思えない。

僕はもう彼女に会いに行くべきではないのだろうか。









 今でも覚えている。

常連さんを初めて見たときの事。

私はたまたま彼の後ろを歩いていた。

大学からの帰り道だろうか。

意外とキビキビした歩幅で歩く彼は最初はただの風景の一つだった。

ふと少し先で歩行者の信号が点滅した。

私は距離的に間に合わないなと思い速度を落としたが彼は走ることを選んだ。

しかし彼の足が突然止まる。

それも道路のど真ん中で。

私はヤバい人がいると思った。

実際ど真ん中で立ち止まり天を仰ぐ彼には大量のクラクションが浴びせられた。

流石に言おうか。

そんな風に考えていると一人の老婆が視界に入った。

老婆は足が悪いらしくトボトボとゆっくり赤信号を渡っていた。

恐らくスピードが遅いせいで歩いている間に赤に変わってしまったのだろう。

彼はそれを見つけて突然立ち止まったのだろうか。

彼が止まらなければ老婆に無数のクラクションが浴びせられただろう。

人によっては老婆を無視して走り出す車もあるかも知れない。

しかし突然立ち止まる若い人間は少し不気味だ。

近づかないよう距離を保ってブーイングだけで怒りを伝えるかも知れない。

彼がそこまで考えていたかは分からない。

だが彼は老婆が渡り切るのを確認するといそいそと反対側まで渡って行った。

そしてボソリと老婆は反対側の彼に向けて


「ありがとう…。」


 と言った。

彼には聞こえただろうか。

私は彼の後ろ姿が目に焼き付いた。

 その後また歩いていると先程の彼の後ろ姿が目前に見えた。

彼は住宅街のスクールゾーン。その真ん中で立ち止まり何かを見ていた。

私は距離を保ちながらそっと彼の目線の先を見てみた。

するとそこでは一人の小学生らしき少年が複数の少年達に囲まれて虐められていた。

やんややんやと虐められ泣いている少年を見て彼は大きく深呼吸をする。

次の瞬間彼は大きく叫んで少年達の間を通り過ぎた。


「うおおおおおお!」


 突然の不気味な大人に少年達は恐怖を感じた事だろう。

イジメっ子の少年達は逃げるようにその場を去っていった。

彼は泣いている少年の事は見ずに歩いていった。

少年はボソリと呟くように言う。


「ありがとう…。」


 聞こえただろうか。

私は彼の勇ましい声が耳に残った。

 偶然も三度続けば奇跡と言うべきか。

それとも運命と言うべきか。

私は夕方バイトに向かう時にもう一度彼を見た。

彼は道路の反対側で信号を待っていた。

そしてその横には微笑ましい親子の姿があった。

小さな道の信号では子供の声はこちら側まで届いた。


「お母さん!信号はね!手を挙げて渡るんだよ!そうしなきゃいけないんだよ!」


 と子供は言う。

母親もニコニコと平和に笑う。

信号が青に変わり子供はバッと右手を挙げた。

しかし仕事帰りだろう大人達はスタスタとそのままに渡っていく。

子供はしょぼんと窄んだように手を下げようとしてしまう。

するとその横にいた彼は周りの視界に入るであろう勢いで右手を掲げた。

直立する右手を見た子供は嬉しそうに笑い手を挙げ直した。

するとこちら側から渡っていた女性もクスクス笑いながら手を挙げた。

私もバッと手を挙げた。

子供の心は救われた事だろう。

子供の母親が言った


「ありがとう」


 は彼に聞こえただろうか。

彼はいつも直ぐに立ち去ってしまう。

そしてまるで当然かのように人を助けていく。

しかしその様は不器用で誤解もあるだろう。

だけど多分彼はこれからも続けると思う。

そういう人だと勝手ながら思う。

私は彼の掲げた不器用な手と輝いて見えたその顔が脳に焼き付いた。

そんな彼がある日バイト先に来た。

私は話しかけようとしたがその日は店が忙しく彼はいつの間にか帰ってしまった。

私は酷く落ち込んだ。

だが次の週も彼は来た。

前の週と同じ席に座って。

流石に緊張はしたが話しかけたい。本気でそう思った。

この感情を先輩に聞けば名前をつけてくれるかも知れない。

だが今は別にこのままでいい。

ゆっくり自分の事を知っていこう。

一緒に彼の事も知れたら嬉しい。

さて最初は何と言おうか。

私は精一杯の笑顔で話しかけた。


「いらっしゃいませ。先週も来てくれましたね。ありがとうございます。」


 彼も答えた。


「ああ。ここの煮玉子が格別でね。バイトさんだね。大変そうだが頑張って。」


 私と常連さんの三年間はその日から始まったのだ。

 そんな事を思い出していても目に入るのは窓際左の二人席。

そこには今日も違う人が座っていた。

彼はもう来ないのだろうか。

私はバイトの休憩時間。空いていない席を見ないように外へ出た。










 あれから暫く経ってしまった。

もう行く事もないのだろうか。

いやその方が良いだろう。

僕では彼女に釣り合わない。

そんな折ふと僕は亀に会いに行った。

もう止めようと考えたあの日から亀にも会っていない。

一応亀にも協力はしてもらった。

流石に久々に顔くらい見に行こうと思い立ったのだ。

しかしいつもの路地裏に亀はいなかった。


「ギャハハ!」

「やめろぉ。」


 ふと嘲笑うような笑い声と聞きかじった声が聞こえて僕はその方向に振り向いた。

この方向は駅前の大和橋の方か。

僕は嫌な予感を感じて足早に向かった。











 夕方の大和橋の上では頭の悪そうな大学生らしき男達が川に向かって笑っていた。

嫌な予感がしてならない。

 ケタケタと水辺で笑う子らありけり。

彼らは何を見て笑っているのか。

ふと気になり視線をやると。

そこには川で溺れる一匹のリクガメがありけり。


 「か、亀えええええ!」


 僕は何者でも止めれぬ勢いのまま橋の塀を蹴り天高く飛び上がった。

その様は近くで見ればまるで時をかけるかのよう。

少し距離を置いて見れば綺麗な非常口のような美しいフォームだった。

人間であれば膝ほどの水位。

しかし亀にすれば溺れるほどの深さの川に僕は実に華麗に着地した。

飛んだ瞬間も着地で殺した勢いも身体を鍛えていたからこその見事な身のこなし。

ああ、逆三角形の先生よ。短い間だったが確かに貴方の教えはここに生きているぞ。

 僕はすぐに亀の顎の下に鞄を置き溺れないよう対策した。


「無事か!?我が戦友の亀よ!」


 どうにか無事に酸素を取り込んだ亀は細々と僕を見た。


「おお…我が戦友の青年よ。助かった。時をかける如き飛び込みだったぞ。」


 冗談を言える程には余裕があるのだろう。

僕を大きく肩で息を吸った。


「おいおい今めっちゃ飛ばなかった?」

「やべええ!ヒーロー来たじゃん!」

「てか助けるとか冷めるんだけどよぉ。」


 橋の上で今回の犯人であろう大学生達はこちらを眺めながら下卑た笑みで好き勝手に言う。

まるで悪気を持っていない。

悪意のない悪が最も凶悪なのかも知れない。

僕はひとまず亀を川の端側に移動させた。

応急的だがこれなら取り敢えず溺れる事はないだろう。

そして明確な怒りを持って僕は大学生達に相対した。


「………なに?何か用?オニーさん。」


 悪気のない態度は僕の怒りに油を注ぐ。


「用があるに決まっているだろう!君達か!?あんな非人道的な行為をしたのは!?」


大学生達はギャハハと笑って答えた。


「そうでぇす!てかだから何?カンケーなくね?」

「関係あるかどうかなど関係ない!彼はリクガメだ!リクガメは甲羅が高く浮力が低いため浮く事は出来ない!何よりリクガメにはウミガメにはある水かきがない!仮に両者の区別がつかなかったとしても陸にいる亀を川に放り込むなど言語道断!それを見て笑っていられるなど有り得ない!」


 捲し立てるように言い切った。

これ程怒りを顕にしたのは初めてかも知れない。

しかし本気の想い程に伝わらないモノだ。

突然怒られて気分の悪い大学生達は暴言を吐きながら僕を囲む。

所謂絶体絶命という奴だ。

だが言いたい事は言わせて貰った。

この鍛えた筋肉を奮う事などせずに僕は地に伏す事だろう。

しかし我が生涯に一片の悔い無し!

かかってくるといい憐れな道化達よ。

覚悟を決めた僕はじっと身構えた。

しかし思わぬ声で敵の拳は止まった。


「止めて下さい!みっともないですよ!」


 声の方角。視線を向けた先には乙姫さんがいた。

竜宮城と書かれたTシャツの上からコートを羽織っている事から休憩中である事が推察できる。

突然出て来た少女に怒りを向けようとするとその声もまた別の声で塞がれた。


「お兄ちゃんに手を出すな!いじめはいけないんだぞ!」


そこにはランドセルを背負った少年が一人。


「そうだ!やめろ!」


 仲良く手を繋ぐ親子。


「暴力は何も生まんよ…。」


 杖をつく老婆もいた。

 この光景に誰より僕が驚いた。

僕は知らなかった。

僕はこれ程の人達に助けて貰える様な人間なのだろうか。

 しかしこの光景に私は驚かなかった。

私は知っている。

彼が息をする様に人を助けている事を。

そして人の行いという物は良くも悪くも必ず返ってくるという事を。


 「やめろ!」

「手を出すな!」

「止めて下さい!」


 人々の声がこだまし大学生達は流石に怯んだ。

だが女子供相手だと見てまだ強気に出よう一歩踏み出す。

その瞬間川から煌々と光り輝く何かが浮上した。


「な、なんだ!?」


 視線の集中した先では神々しく光り輝く亀がいた。


「愚かなり人間。しかし優しさと強さを兼ね備える所もある。面白きかな人間。」


 呆然と見た。

開いた口が塞がらないとはこの事か。

しかし亀は気にも止めず続けた。


「行いという物は良し悪し問わず返ってくる物だ。して若造達よ。やられた事を恨みはせんよ。それもまた人生だからねぇ。しかし教訓は必要なり。やられっぱなしも性に合わん。さて、一回痛い目見ておこうか。」


 淡々とした口調で話し終えると亀はフゥと息を吐いた。

その後の光景は中々に爽快だったが目を疑った。

大学生達が風に乗って飛んでいったのだからまるで夢でも見ている様だ。

亀は僕と目を合わせると何も言わずニッコリと笑って巻き上がった水飛沫に消えた。


「………。」


 最早何に化かされたのか。

僕は鳥が巣でも作れるのではという程口を開けていた。腰は抜けて座っていた。

我ながら情けなし

 全員が唖然とした中、僕の肩をポンポンと叩く感触があった。


「乙姫さん。何故貴女がここに?」


 誰にも分からない状況だったが乙姫さんはニッコリと笑う。


「貴方があの不思議な亀の為に飛び込む様を目撃していました。格好良かったですよ。」

「それは有り難い事ですが僕は今腰を抜かして中々格好がつきませんよ。」


 私は常連さんの目をはっきりと見つめた。


「いいえ。私は知ってますよ。貴方が優しいという事を。貴方が格好良いという事を。そしてそれをひけらかさない強さがあるという事を。」


 私は忘れない。あの後ろ姿を。あの勇ましい声を。あの不器用に掲げた手を。


「目に焼き付けました。」


 彼女はそう言ってまたニッコリと笑った。

 僕はあの日道端で亀を助けた。

助けたお礼に手助けしてやると言われたがどうにも上手くはいかなかった。

鯛や鮃ではなく踊っていたのは僕の方だ。

ふざけた時間だったが気づけば時間は過ぎ去って、三世紀ではなく三ヶ月経った。

童話と同じく亀を助けたのに得た物は少ないばかりだと思っていたが中々どうして僕の前に竜宮城の乙姫さんは座っている。

事実は小説よりも奇なり。

奇なる物語なれど結末は違う。

 僕は彼女の目を見て言った。


「今度一緒に出掛けてくれませんか?こう見えて色々多趣味なんです。」


 私は常連さんの問いに答えた。


「勿論。私も貴方の事が知りたいです。」


 一つ童話と似てる所があるとすれば。


「貴方の名前は?」


この物語の結末も主人公ボクがお爺ちゃんになる事だろう。


「僕の名前はですね……。」


彼女と共に。




         完

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新訳浦島太郎 アチャレッド @AchaRed

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