シラス

高黄森哉

ちきゅう定食

 ちきゅう定食、という看板が目に付いた。それは、名前がへんてこだからである。僕は、ちきゅうが恥ずかしいのほうの、ちきゅうである一縷の望みに賭け、腹がすいていないのに、定食屋に入店することに決めた。


 入口の、暖簾をくぐると、店内が見える。僕は顔をしかめた。非常にくさいからだ。まるで、生ごみと公衆トイレをミックスしたかのような刺激臭が漂っていて、目からたらたらと涙が出てきた。すぐに、脱出すべきなので店外へ逃走を図ろうとしたが、時すでに遅し、あったはずの入口の扉はあとかたもなく消失していた。


 えいらっしゃい。干物みたいな爺さんが裸で出て来る。肌はシミだらけで、変にてらてらとてかっている。常に汗が滴っていて、彼の足元は洪水の様相を呈し、歩くたびにびちゃびちゃと音を立てる。悪いことに、その一粒一粒が七色の刺激臭を発散していた。すっぱい、魚のような、卵のような、アンモニア臭が空間を埋め立て始めた。


 帰して欲しいと懇願するが、彼は聞く耳がない。それは、彼に耳がないということだ。彼の耳は耳くそで埋め立てられている。毎秒、奥から新しい耳くそが生成されているのか、バランスを失った耳くそたちが、端からぽろぽろ剥がれ落ちて来る。それが肩に乗ると、パクっと口に運んだ。


 僕は腕を引っ張られるがままに、カウンター席に案内される。意外なことに、店内は極めて個性的な客でにぎわっていた。豚みたいに太った中年が色付きの屁を、水気を含んだ音を立てながらまき散らし、皮膚病患者のばばあは彼女のふけをご飯にふりかけ、その傍から、その部分を選ぶように口にもりもりと運んだ。奇形の顔をした、少年が痴呆顔をしながら失禁し、そいつの連れがそれを舐め、店の者が床の尿を雑巾で拭きとり、そのまま、尿を含んだ雑巾でまな板を拭いた。また、吹き出物で全身が覆われ、顔も性別も分からないような怪物が、カウンターの向こうで調理をしている。へいおまち。黄色い膿と赤い血液まみれの刺身を、目やにで目がふさがったマダムが、うまそうにほおばっている。


 失神しそうだった。ただ、ひたすらに失神しそうだった。これが日本だと、ひいては、現実だと信じられず、半狂乱になりそうだった。ぽろぽろと涙がこぼれた。胃から、内容物どころから、内臓そのものが、まるで漫画のようにまびろ出てきたら、どれだけ楽かと思った。でも、ここは日本であり、現実であり、漫画ではない。おお、死ぬ、死ぬ。


 泡かゲボか分からない、なにかを吹き出し、自分もこの住人と、さほど変わらない。ゲボまみれの服のまま、排泄物や、しょっぱい痰だらけの床に這いずり回っているうちに、意識が朦朧としてよくわからなかったが、とにかく、カウンターに固定された。


 目の前にシラスご飯が配膳される。助かった、と思った。この地獄じみた、エグイ小世界では、もっともまともな食材だ。僕は、ぐったりしていて、腕が動かないので、店員がご飯をよそい、口元までご飯を運んでくれる。


 僕は、一瞬、幻覚を見てるんじゃないかな、と思った。釜揚げシラスが動いた気がしたのだ。しかし、それは幻覚なんかではなかった。僕が、いままで釜揚げシラスだとおもっていたものは、立派な回虫だったのだ。お爺さんが、饒舌に語り始める。これは、組み上げ式便槽からついさっき引き上げられた新鮮な寄生虫である、下痢つきだよ、と。


 泣いた。大泣きした。口に無理やり詰め込まれたので歯茎が出血した。口と鼻からだらだらと血が噴き出し、目からは血の涙を流していた。不衛生だからエボラ出血熱に罹患してしまったのかもしれない。血の雨あられが注ぐ回虫丼を、もりもり、口に流し込まれる。胃酸が口からあふれ出し、ご飯はお茶漬けのようになってしまう。それをよそい口へ運ぶ。


 僕は、それを食べたとき、三つのことを知った。寄生虫は究極に不味いのだということ、僕がご飯粒たと思っていたのは、実は幾千のアタマジラミであること。そしてなによりも、人が苦手なものは強要してはならない、ということ。


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シラス 高黄森哉 @kamikawa2001

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