第9章 愛するということ

 とても清々しい朝が訪れた。

 小鳥の囀りが聴こえ、この国は平和であることを実感する。

長方形の窓越しに、朝露を光らせる緑の葉と、涙を流し終えたかのように瑞々しく青い空を見る。

 ぼんやりした頭で、漠然と佇む。

 この時間が、一番安らいで、幸福な気がしている。

 壁にかかる制服を着て、姿見を見て身だしなみを整える。

 左頬が少しだけ腫れてしまっているのが残念だ。

 カバンに筆記用具を詰め、机上に投げ出されたプリント類も入れていく。

 しわくちゃになったテストを丁寧に広げて、残酷な点数に目を落とす。

 頭がでいっぱいになり、目の前の出来事や、人の話に集中することができないため、ものを覚えることも困難だった。

 常に熱に浮かされているかのように、全てがふわふわと舞っていて、手をすり抜けて行ってしまう感覚。

 こんな話をしても誰にも通じない。

 声帯は押し殺され、心は深層へと沈み、発言する機能が停止してしまうため、説明すらできない。

 これがなんであるかなど、知る由も無い。

 全て、自分が意気地なし、臆病者、弱虫で片付けられてしまう。


 そう、私はただ負けた。


 怒鳴り声も、大きな足音も、体を叩かれる痛みも、全部慣れている。

 怒らせてしまうのは、全て自分が悪いからということもわかっている。

 言い訳や口答えは、我儘となるから言ってはいけないこともわかっている。

 子供は社会適応能力に欠けるから、学校に行かなければならないこともわかっている。

 勉強ができなければ良い大学へ行けず、大学へ行けなければ良い企業へ就職ができないのも知っている。

 ただ言われたことができるだけでなく、個性が重要視されることも必要だと知っている。

 だから、この足で学校へ行かなければならないし、勉強をし続けなければならない。

 お金をかけてもらっているのだから、遊ぶ暇はない。

 他の子に流されてはいけない、お金を使って遊んでいる子といると、怠惰になる。

 励め、お前の人生のためだ。

 励め、社会で優位に立つためだ。

 けして負けてはいけない。

 金をかけてやっているだろう?

 立派な部屋を与え、塾にも通わせてあげているだろう?

 これだけしてやっているのだから、余計なことなどせず、努力しなければならない。

 それが、お前のするべきことである。

 努力することで、お前に価値が生まれるのだ。


 朝食を終えると、颯爽と家を出て行った。

 何を見てももう、面白くもなんともない。

 心が弾むことなんて随分前になくなって、何を見ても聞いても、遠い世界の話だ。

 期待もない。後悔もない。

 平坦で、凡庸で、ひたすら鬱憤だけが溜まる生活。

 私がおしゃれなカフェでお茶すると、誰かが死ぬのかしら?

 私が彼氏でも作って遊園地デートすると、大震災でも起こるのかしら?

 私が学校や塾へ行くことを辞めたら、私は生きる価値のない人間として処分される法律でもあるのかしら?

 大学や企業へと進出するのではなく、行ったことのない場所へ旅をするような人生は、なぜ許されないのかしら?


 疑問に思うことはいくらでもあった。

 けれど、これを一つ一つ解決することすら、もはや疲れてしまった。


 そう、疲れてしまった。


 考えたく無い、見たく無い、話したくも無いし、人から気遣われることすら心労だ。

 一人にしてほしい。

 世界の果てがあるのなら、そこでゆっくり休みたい。


 けれども、現実はそれを許してはくれない。

 夢も希望も持てぬ未来へと、無理やりにでも歩かされる。

 時間は有限であるからと、休むことを許してはくれない。


「さようなら、お兄ちゃん」


 門扉へ向かって、微笑んだ。

 今日で、全てが終わるのだ。


 青年はしゃがんで、ただひたすら涙を流した。

 涙の流し方を覚えていたことに驚きながら、静かに長い時間、泣き続けた。

 運転免許を取って、初めて訪れた場所でこんな目に遭うとは想定外だった。

 隣にいる、端正な顔立ちの青年がおかしなことを言うからだ。


「妹は、お前のせいで死んだわけじゃないよ」


 ただ、そう言われただけだった。

 それでここまで頽れるとは、相当弱り切っていたのだと自覚する。


「自分を責める必要なんてないよ。人のせいにしたっていい時もあるんだよ。だから、自分の関わったことすべてを、自分の十字架にする必要はない。君たち兄弟はモラハラ被害者だったんだから」


 なぜこの青年は自分に寄り添ってくれるのだろうか?

 なぜ他人にここまで優しさを与えてくれるのだろうか?

 単なる興味なのだろうか?


「あんた、なんで俺にここまで構うんだ?」

「気になるからだよ」

「気になるって、なんだ」

「道端に子猫が捨てられていたら、俺は拾いたくなっちゃう性格なんだ」

「俺は捨て猫か?」

「うん、心を捨てられてしまったまま成長したような人。頼りないから、つい声をかけたくなった」

 長い前髪越しに覗く形の良い目が、こちらを見つめている。

 キメの細かい白い肌に、ふっくらした唇、シルキーボイス。

 不意に、彼という人間を生々しく感じてしまい、頬が火照った。

 同時に胸の中が暑くなって痛み、顔を顰める。

 自分の性質に気がついていないわけではない。

 気がついているからこそ、そこに目を向けないことで他人の揶揄から逃れようとしていた。 

「人と人が完全に分かり合えることはない。それでも人と人が一緒にいるのは、別の存在でありながらも、支えあうことができるからだ。だから、我慢しないで言って。俺でよければ」

 両腕を首の後ろへ回し、美しい青年は抱きしめてきた。

 誰かのぬくもりを、随分久方ぶりに感じた。

 この温かさを愛と言うのだろうか?

 妹に同じことをしてあげていれば、彼女は死ななかっただろうか?

 今更考えても仕方の無いことだけれども。

「自分で精一杯で、小牧のことを見てなかった。そう思うと酷い兄だったと思う」

「周りを見る余裕がなくなることなんて、誰にでもあることだよ」

「そうなのか?」

「そうだよ」

「どうしようもなかった、てことなのか」

「気になるなら、自分を責めるのではなく、意味ある方向に考えていけばいいよ」

「意味ある方向……」

 互いの吐く息を肌に感じる距離。

 この距離で見つめ合うと、誤魔化すことはできない。

「ていうか奥村、俺のこと好きだろ?」

「そっちこそ」

 ここまで自分の内側へ、優しく入り込んできた人間は、彼が初めてだった。

 そして、ここまで他人が気になって仕方がないことも、初めてだった。


 正直に心を開こうと思えたことは、これが初めてたっだ。




「小牧ちゃん」


 門を出て間もなく、行く先で立ちはだかる少女がいた。

 自分と同じ制服を着た、女生徒。

 眉を吊り上げて、決死の形相だった。

「おはよう、亜衣ちゃん」

 小牧は得意げな表情だった。

 その目だけは、ガラス玉のように空虚だった。

「私がなんでここにいるのか、わかるわよね?」

「さあ? どうしてかしら」

「とぼけないで。自殺するなんて口走っている人を、そのまま放置するなんてできるわけないじゃない」

 小牧は体の向きを変えて、疎ましそうな目で見てきた。

「立派な正義感だこと。別に私のことなんて、一人の同級生くらいにしか思ってないくせに」

「だから何? 中二病みたいな正義感丸出しで何が悪いの。人のことは言えないでしょう?」

「亜衣ちゃんて面倒臭い子なのね。私にどうしてほしいの?」

「い、一緒に学校へ行こう」

「嫌」

 亜衣から視線を反らす。

 小牧の態度に、亜衣は無性に腹が立った。

「人に自殺するだなんて言ったら止められるって、あなたは想像できなかったの? 誰だって、私と同じようにすると思うけど」

「止める義務なんて、この世にはないわよ。そんなお願いした覚えはないし」

 腫れた左頬が目に入り、亜衣は口籠る。

 睫毛越しに覗く真っ黒な瞳は、こちらを敵視するようなものだった。

 初めて見せる彼女の怒りの表情に、亜衣は少し怯む。

「何様になったつもり? 私が何を望もうが、誰かにとやかく言われる筋合いは無いはずよ。あなたまで、私のことを常識とか道義を掲げて縛り付けるつもり? よもやそんなもの、あってないでしょう。みんなして同じ型に突っ込んでおけば、全ては丸くなるなんて、そんなことあるわけがない!」

「あなたに死んでほしく無いと思ったから、それを止めようと思うことを、誰かにとやかく言われる筋合いだってないのよ!」

「何が死んでほしく無いよ。別にどうとも思っちゃいないくせに。道徳授業やら、ベタなヒューマンドラマの影響でも受けているのかしら? あなたは私に死んでほしく無いのではなく、自分と関わった人が死ぬことを恐れているから、それを阻止したいだけでしょう? 嫌だものね、自分のせいにでもされたら」

「小牧ちゃん、人のことバカにするのを止めて。確かに私は自分勝手な考えで動いているけど、あなたが言うほど瑣末な考え方はしていないつもりだよ。私はまたあなたと遊びたいし、あなたのことをもっと知りたい。だから死んでほしくないの」


 小牧は両目を見開いて、しばらく亜衣を凝視していた。

 このまま、なんとか彼女の足を止められればいい。

 そう思っていた。

 なんとかして、彼女を離さないように。

 不意に、小牧が歩き出した。

「ちょっと待って!」

 彼女はなぜか、スキップをしていた。

 眩い日差しのもと、笑いながら、楽しげに。

「亜衣ちゃん」

 こちらを振り返りざまにみせた表情は、翳りの無い天使のような笑顔だった。

 それが返って、手の施しようのない絶望を表していた。


「あなたが一緒に遊びたいのは、私じゃ無いよ。あなたと遊んでいた人は、もういなくなってしまったの。これでわかったかしら?」

 

 彼女は走り出した。

 慌てて追いかける。

 彼女は全速力だった。

 思いの速く、亜衣は必死で遠ざかる華奢な背中を追い続けた。

 石畳の隙間につっかかり、亜衣は前のめりに転倒する。

 歯を食いしばって鈍痛を堪えながら、すぐさま立ち上がる。

 服の汚れなど叩かず、懸命に遠ざかる背中を追う。

 しかし、道路に差し掛かったところで、足が止まる。

 横断歩道で信号に捕まってしまったのだ。

 白線の向こう側で、小牧は可愛らしく笑ってみせていた。

 二人の間を行き交う車で、互いに互いが見えなくなっていく。

 声をあげても、引き止めたいと願っても、すべて掻き消えてしまう。

 視界が晴れたころには、守りたかった少女はいなくなっていた。

 亜衣の想いが彼女に届くことはなかった。

 

 誰かに興味を持ったのは、もしかしたらあの時が初めてだったかもしれない。

 それくらい、他人に本気で気をかけたことなど、これまではなかった。

 学校でいじめられないように、学業で恥をかかないように、母に迷惑をかけないように。

 自分のことで精一杯だった。

 戸惑ってばかりだったが、小牧に声をかけてもらえて嬉しかったのは事実だ。

 彼女に選んでもらえたというだけで、なぜか特別になって気分だった。

 特別な存在だからこそ、彼女のことを考えないなんてできなかった。


 相手のことを本気で考え、必死になっている自分に少し驚いた。


 走りすぎて息切れを起こしたので、足を止めた。

 口の中で血の味がする。

 あので過ごした僅かな時間が、フラッシュバックする。

 食いしばる歯の隙間から、暑い吐息が漏れた。

 再び、歩を進める。

 頑なに、歩き続ける。

 耳に残る声を振り切るように。

 こちらへ向けられた眼差しを記憶から抹消するように。

「佳奈はもう死んでいるのよ」

 彼女は佳奈を失いたくないと言っているに過ぎない。

 佳奈はもういない。ここにいるのは、中身のない抜け殻。

 空を仰ぎ、灰色の世界に意識を委ねる。

 相変わらず、この世界は自分のことなど無視して、容赦なく時を刻む。

「私は、誰なのだろう?」

 この世に託すことがあるとすれば、誰かに自分が誰なのかを見つけて欲しいという想いである。

「私は一体、何に囚われているのか」

 自分が何に囚われていたのか、自分ではもう判断する気力もない。

 枯れ果てて朽ちた心には、なんの感情も湧かない。

 ただ息をするだけの装置のように無気力。

 これはなぜ起きたことなのだろうか。

「私は、どこに『私』を置いてきてしまったのか」

 物事に全て理屈があるのならば、どうか教えて欲しい。

 自分という装置は何で作られているのか。

 自分という装置は何で動いているのか。

 他と比べてどんな違いがあるのか。

 なぜ、他と似たように成長することができなかったのか。


「誰かを愛するということは、なんなのか」

 

『愛』が何か知ることができれば、何かが変化すると期待した。

 けれども、それは叶うことのない夢物語だった。

 死に対する恐怖も不安も何もない。

 生に対する興味もない。

 何も考えられない。

 夢も希望も何もない。

 生きている意味が見出せない。

 

 少女はこうして、他者からの愛に気がつくことなく、孤独に最期を迎えた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る