第8章 記憶の中で生きる少女
1
「おい、お前大丈夫か?」
心身ともに冷え切り氷漬けにされたように棒立ちになっていた亜衣に、声をかけるものがいた。
猫背のまま振り返ると、そこにいたのは景親と旭の二人だった。
蛇とマングースの睨み合いの如く、しばし三者は無言で見つめあった。
酷くやつれて正気の抜けた表情の亜衣と、相変わらず感情の起伏を感じさせない仏頂面な景親、そして景親の側に寄り添う優しげな旭。
亜衣は、旭という拠り所を持つ景親を羨ましいと思った。
景親は、旭のおかげで自分に付き纏う亡霊を忘れる時間を得ることができるからだ。
「大丈夫ですよ」
「お前もう終電ないだろ?」
「なんで知っているんですか」
「こんな時間になってもまだこんなところほっつき歩いているんだから、そう考えるのが自然だろ」
「確かに、そうですね。そうなんです、帰れなくなってしまいまして。どこか良い宿知りませんか?」
亜衣は口角を上げて笑顔を作ってみた。
「気持ち悪い顔向けるな」
「え……、かなり傷つきました」
元気であると一瞬にして見抜かれた。
旭が割って入ってくる。
「ごめんね、景親は口が下手なんだ。無理して元気なフリすることないって意味だよ」
「……元気なフリって、なんでわかるんです?」
確かに、颯太の話を聞いて気落ちしてはいたが、それでそこまで落ち込んでいるように見えたのだろうか?
景親が体の向きを変え、横目でこちらを睨む。
「口が下手なのはどっちだ旭。とにかく、こんな時間に女がフラつくんじゃない。行くぞ」
踵を返し、広い背中を向けて景親は歩き出した。
旭は肩をすくめ、「あちゃー」とつぶやき苦笑した。
モデルばりの整った容姿のせいで、やや距離感を感じさせる雰囲気を持つが、こんな風に綻んだ顔を見ると他と大差のない青年であることがわかる。
旭は亜衣に微笑んだ。
「あれで、一緒に行こうって誘ってるんだよ。おいで」
景親の背を追い続けて辿り着いたのは、駐車場だった。
旭が働くバーから程ない距離のそのコインパーキングに、景親は車を停めていたのだ。
「二人とも今まで何してたの? こんなところに停めているなら、すぐに帰れたでしょう?」
寒さで頭が回らず、特に考えずに発言していた。
当然、景親は口を閉ざしたまま、電子音を立て、車を解錠した。
旭が、猫みたいな目に憂いを浮かべていた。
「景親は俺の仕事が終わるまでの間、暇つぶしで店の外へ出ていたんだ。その時に、草部さんたちを見かけたようなんだけど……」
旭は言葉を切り、景親の様子を伺った。
亜衣も景親へ視線を向ける。景親と視線がぶつかる。
「悪い。ちょっと駅前寄ってタバコ買い足そうと思ったんだ。その途中であんたたちが言い合っている様子を偶然見た。故意ではない」
つまり、景親は亜衣と政也のやり取りを目撃していたのだ。
仕事上がりの旭の許へ戻り、再び亜衣を心配し戻ってきたのだ。
「お前ら早く乗れ。車内をあっためたい」
無愛想な男だ。
「体が冷えているだろうから、早く乗れ」と言いたいだろうに、そういった直接的な意思表示をしない。
一見近寄りがたい雰囲気を持つ景親の優しさを、亜衣は垣間見た。
ややれたシートに腰を下ろす。
四人乗りで、おそらく中古車。
タバコの臭いが鼻につく。
運転席に景親、助手席に旭が座り、亜衣は運転席の後方に座った。
景親がエンジンをかけ、ライトを点ける。
眩いライトの光が、当たりを白く染め上げる。
景親は無言でハンドルを切り、車を動かし始める。
亜衣が、行き先を告げるべきかと口を開いたとき、助手席の旭がこちらを振り返った。
「草部さんさ、明日も大学?」
「え?」
思わず疑問符で返してしまった。
暗がりでライトの明かりを頬に受けた旭の顔は、凹凸がある顔立ち故に、やや恐ろしい。
彼はちらりと、運転席に目を配る。
どうやら、旭には視線で景親に確認をとる癖があるようだ。
景親は無言で前方を見据えたままだった。
再び亜衣へ視線を戻した旭は、上目遣いで亜衣に言う。
「もし明日、朝から講義が入っているわけでないなら、一緒にちょっとドライブしない?」
「ドライブ……」
「俺ら二人で行く予定だったんだけど、よかったら草部さんも一緒にどうかって」
「いっいえ! そんな、悪いですよ。だって、二人のご予定だったんですよね? 私は本当、その辺で落としてくださるだけで十分です」
全力で首を横に振る亜衣に、旭は真剣な眼差しで向かい合う。
「遠慮しなくていいんだよ」
「や、でも、だって」
二人が恋人同士のため、亜衣がいては二人を邪魔することになると感じ気が引けた。
「俺らのことは気にしないで。いつも一緒だから。それよりも、俺も景親も、草部さんと少し話がしたいんだ」
「どうして……」
赤や黄色、青や白の明かりが暗雲とした街に彩りを与え、その中を三人が乗る車がすり抜けていく。目まぐるしく変貌する景色を視界の端に収めながら、景親が口を開く。
「人の寿命は生まれた時に決まっている、とかいうことを大胆に論じようとしている女学生がいる、と森田教授から聞いている」
亜衣は予想だにせぬ名前を聞き、身を硬直させた。
「つい昨日森田教授から、研究内容に重なる部分があるから、草部亜衣と話してみたらどうかと言われていたんだ。こんな形で出会い、そのうえ妹の友人とあったから、気を悪くしないのであれば、少し話してみたいと思ったんだ。嫌なら断ってくれて構わない」
亜衣は生唾を飲み込んだ。
きっと、景親も亜衣と同じく、小牧に囚われ、逃れられず、もがいている。
「何をするのが正解なのか」
舌の上を転がり落ちるように、言葉が出た。
「何をすれば、小牧ちゃんは満足するのか。ううん、違う。何をすれば私は小牧ちゃんとの折り合いをつけられるのか。彼女という存在と、どう向き合うことが正しいのか。そんなことを、ずっと考えてきました。ずっと、考えて、その結果が、研究内容に組み込むことでした。彼女が訴えたかったこと、成し遂げたこと、それが、何であるのか。世間からは、彼女はただ死んだだけの女子高生です。その彼女を、どうしてやればよいのか」
膝の上の両拳に力をいれる。
「私も、先輩とお話ししたいです」
2
粉雪が舞う闇夜は先を見通せぬため恐怖心にかられる。
しかし、ハンドルを握る景親は平然としていた。
彼の精神は小牧よりも強固なのだろう。
亜衣は両手に息を吹きかけ擦り合わせる。
車内の暖房は徐々に回ってきているが、体の芯は未だ冷えていた。
「生まれてから死ぬまでの期間が決められているとは、どういう定義だ?」
亜衣は喉で言葉が詰まりかけた。
他人に自分の考えを説明することは苦手だ。
言葉選びを間違えると、違った解釈をされかねないからだ。
小さく喉を鳴らし、調子を整えてから話を始めた。
「人が生まれてから死ぬまでの間が、どのような要素で構成されているかで、その人の寿命が決まるのではないか? というものです。生まれた子は丈夫か病弱か、体つきは大きいのか小さいのか、容姿、そして性格。さらに、その子の両親や、その子が過ごす部屋、その子の日常を作り上げているもの全てが、その子の寿命にまで影響するのではないか? というものです」
「構成を分析すればそこから成せる結果は決まってくると言いたいのか?」
「はい。身体も性格も、環境も人も、この世に生を受けたばかりの段階では、人は選ぶことができないという点で平等です。女優の子供は女優の子供になろうと思って生まれてきたわけではありませんよね。しかし、生まれた時から、既に人と人にはたくさんの相違点があります。どういう性質や環境を持っているかで、その人の人格や、人生の道筋が定められていきます。つまり、生まれた時からその人の人生がどんなものになるか、ある程度決まっているのです。
高学歴一家と言い、親が優秀で、その親の子供も学業に長けているという話は、このことを明確に示していると言える一例です。あれは、頭の回転が早いという性質を持って生まれた子が、賢い両親の影響を受け成長し、家庭によっては英才教育も施していたため、その結果として有名大学への進学を果たすことができた、という非常にわかりやすい図式です。つまり私が言いたいのは、…」
亜衣は一旦唾を飲み込んだ。
わかりやすく噛み砕いて説明しているつもりだが、どうにも思い通りの言葉選びができている気がせず、自分の実力不足に顔を顰める。
「つまり、高学歴一家の一例のように、有名大学へ進学するという結果が、成長過程などから分析することで判明するのであれば、分析を切り詰めれば人の死期まで判るのではないか、というものです」
「ねえ、そしたら」
旭が振り向く。
「高学歴一家でも、途中で道を外れて大学進学しなかった、というケースもあるでしょ?」
「道を外れるという結果を生み出すに至る理由、仕組みがどこかに潜んでいたからです。親が頭の固く子供を尊重しない人であった場合は、いくら優秀な頭脳を持って生まれた子だとしても親の意に反する行動を取り出します」
「なるほど。全ての結果には要因があるから、その人を構成するものをつぶさに見ていけばいつ頃死ぬかも見えてくるって言うことか。なら例えば、交通事故による事故死についてはどう説明することができるのかな?」
「交通事故だって同じです。ある道を毎日通る子供がいるとする。そして同じ道をよく通る運転の乱暴な車があるとする。ここから、子供と車が同じタイミングでその道を通る確率を出すことができます。そしてその時、子供が車に轢かれる確率も出せます。事故は起こるべくして起こるのです。偶然ではありません。確かに、予想だにせぬ事態というものはあります。けれどそれは、私たち人間には把握できなかっただけであり、必ずそれが起こる原因が潜んでいるんです」
「なるほど。景親と俺がゲイである理由がなんであるのかよく考えたものだけど、それも、俺ら如きに把握できることではなかったというだけで、きちんと因果はあるわけだ」
セクシャル問題という繊細な例えを振られ、亜衣の表情筋が少し強張る。
「すみません。LGBTQの問題に触れたことはないので、そこをはっきり言い切ることはできかねます……」
「軽く言っただけだって、そんなに構えないで」
「軽く言わないでくださいよ」
旭はケラケラと笑っている。
亜衣には、何が面白いのかさっぱり判らない。
「つまり、人の寿命が生まれた時に決まっているとは、その人を構成する仕組みがその人の生きることが可能な時間を決定している、という定義から来ております」
「へ〜え。なるほどねぇ。なんだか草部さん、景親と似た喋り方するね」
こちらへ顔を向ける旭の横頬を、街灯の明かりが滑るように照りつけ、その瞬間に彼の好奇心溢れる輝く瞳と目があった。一瞬のうちに、彼の素顔は再び闇に潜る。
亜衣はなぜか心が落ち着かなくなった。
秀美な旭の顔を見て惚れたわけではない。
自分の裏側、奥底に潜む、亜衣自身すら把握できていない部分を見透かされたような気がして、動揺しているのだ。
ETCの開閉バーが上がり、車は高速道路を進んで行く。
車はほとんど無く、道はほぼ独占状態だった。
景親がアクセルを踏見込み、加速にエンジンが音を上げた。
「草部、お前は小牧か?」
景親の言葉に亜衣は息を飲んだ。
突如、底なしの沼に放り出されたような恐怖が襲った。
暗がりから、にこりと微笑む彼女が競り上がってくる。
彼女は亜衣の首筋に手を伸ばし、圧倒的な存在感で亜衣の全てを支配する。
思考も、言動も、行動も、何もかも。
パーソナリティへの強力な介入が、亜衣の人格を大きくねじ曲げている。
これは、彼女。
亜衣ではない。
「小牧ちゃんが言い出したことです」
亜衣は両目を見開き、小刻みに震える両手を必死で抑え、息を吐く。
「奥村小牧は、十七歳までしか生きられない装置だっただけ」
亜衣は唇を噛んだ。
なぜか鼻や目頭が熱くなってきた。
前方の二人を見る。
こちらを振り向いたままの旭と、バックミラー越しの景親と順に視線を飛ばす。
「小牧ちゃんが言ったんですよ。私に。『奥村小牧は、十七歳までしか生きられない装置だっただけ』って。自分が死んだ後、自分について尋ねる人間がいたら、今の言葉を言うようにと、遺言のように! そんな言葉の意味、高校生の私には理解できない。今もわからない。でも忘れることなんてできない。だから、考えることにしたんです」
二人ともしばし黙っていた。
旭は絶句していた。
景親は、バックミラー越しに顰め面を極めていた。
車の走行する音だけが支配する。
先に口を開いたのは、景親だった。
「草部、あんたが妹のことを一番見ていた人間かもしれない」
「……え?」
「あいつは人格が分裂していた。大半は挙動不審。しかし、飯島の前では、佳奈という人格になる。さらに草部にはもう一面、自分の思想を語る人格。どれが本当の俺の妹、奥村小牧だったのか。さっきから考えたが、おそらく草部の見たことがある小牧が一番、本当の姿であった気がする」
「……なんでですか?」
景親は小さく息を吐いた。
バックミラーに、憂いのある彼の目が写っていた。
亜衣は前へ乗り出し、その淋しげな横顔を目にした。
「あいつが意思表示とか、自分の意見とか、自己表現をしたことは、俺が見てきた限りただの一度もなかった。せいぜい意味深な言葉を吐くくらいだ。けれど、妹の断片的な言葉を踏まえた上で、あんたの話を聞いたら、まるで妹の言いたかった言葉そのもののように聞こえた。妹が吐き捨てるように言っていた言葉が、今繋がっていくかのように思えた」
人から影響を受け、自己を改変していく。
小牧から影響を受けた亜衣は、今は旭と景親へ影響を与えている。
逆もり。亜衣も二人から影響を受けている。
「小牧は草部に自分の思想を託し、自分の死が単なる死として流されないようにと、考えていたんだろうか……」
車は高速を降りて、山へと進んでいくのだった。
3
三人は降車し、人気のない暗い砂利道を歩いていた。
降っていたはずの雪は止んでおり、やや湿った冷たい風が緩やかに吹き付ける。
カサつく頬を撫でながら、亜衣は二人の男の背を見つめていた。
彼らはどこへ行くつもりなのだろうか。
やがて石段を登り始める。
目もくらむ長い階段だ。
時より旭が振り返る。
亜衣がきちんと付いてきていることを確認しているようだった。
先頭を行く景親は、片手のスマートフォンのライトを点し、足元や行く先を照らしながら歩いていた。
閑けさと闇夜
宙吊りの心
彩のない景色
容器となった人
寄り添う人に迷い人
長く無骨な石段
重く気怠い空気
彷徨い続ける怨念
忘却とユーフォリア
逃走劇の妄想
頂点を踏む。
午前3時の夜明け前
器の中では、煤けた老廃物が渦巻いている。
太陽も月も失せた世界。
山を這うように生える木々に、少しだけ雪がかぶる。
木々の海原が続く。
「ここは?」
む手に吐息を吹きかけながら、亜衣は尋ねる。
「名は知らない。かつては何かがあったのかもしれないが、今はただ、景色だけが広がる場所」
応えながら、景親はライトを消す。
光源が失われてしまった。
三人横に並んで、山の尾根らしき場所にいたが、今は何も見えない。
少しだけ恐怖ではあるが、なぜか心地よい。
体も、自我も、意識も、その全てが空間へ溶け出て、抱えている問題とか、人生とか、その全てがぼやけ、今だけはどうでも良いと思えた。
周りを忘れ、自分を忘れ、暗闇が全てを支配する。
「どう? 草部さん、怖い?」
絹の手触りのような声は、旭のもの。
「いいえ、全く。むしろなぜか、安心しています」
「変わった奴だな」
今度は低く渋みのある声。景親のもの。
「変わっていますか? わたし」
「二人の人間が混じったみたいで、気色の悪いやつだ」
「……、そういう奥村先輩は、まるでロボットみたいですよね。すごくぶっきらぼう」
「なんだよ、さっき路上でフラれていたくせに」
「あっ、あれは、逆ですよ! 私がフったんです!」
ジッポの擦れる軽快な音とともに、亜衣と景親の間に火が灯った。
景親がタバコを吸い出したのだ。
気怠い眼差しでこちらを見る景親と、視線が衝突する。
亜衣はとっさに身を引く。
肩が接しそうなほどの近距離で、会話していたのだった。
亜衣は、長く無骨な指に挟まるタバコをまじまじと見つめる。
「へ、ヘビースモーカーですよね、先輩って」
「森田教授が好きな女は、喫煙所へ行く口実を作るために喫煙者になるぞ」
「なっ! え? どうしてっ」
「吸うか?」
「いいっいやいやいや! どうして知っているんですか、私が先生好きなこと!」
「別に。あの人、妙に女に人気だから、カマかけただけ。本当に好きとは思ってなかった。なるほど、だからさっきあの男をフったわけね」
平然とした表情で、景親はタバコを咥える。
一方、亜衣の方は顔を真っ赤に染める。
「へ〜、草部さん結構青春しているんだねぇ」
左隣から、今度は旭が話しかける。
「別にそんないいものじゃないです」
「どうして?」
「どうしてって、それは……。なんていうか」
どう説明すれば良いか分からず、亜衣は苦笑いしながら首筋をポリポリと掻いた。
「お前どうするつもりだ? 小牧の意思でも継いだみたいな研究して」
景親がさらりと話題を変えた。
「それが、私が小牧ちゃんに対してできることなのかなって。正直、小牧ちゃんとそんなに仲よかったわけじゃないし、小牧ちゃんの抱える事情なんてほとんど知らなかったから、彼女が死んでしまった時、ものすごく気持ちが複雑でした。悲しみに浸るほど私と小牧ちゃんの仲は深くはなかったんです。けれど、現実に死んでしまった彼女を前に、ショックや後悔が襲いかかって、私を苦しませました。今、こんな研究をしているのは、あの時頭の中で反芻し続けた小牧ちゃんの言葉を、私なりに咀嚼して飲み込んだ結果、彼女が生と死に関して言いたかったこと、彼女の悲しみや苦しみや怒りの訳を、明白にしようと思ったからです。あの子はきっと、誰かに本当の自分を知って欲しかったのではないかと、考えています」
景親が煙を吐き出す。
闇の中へ吸い込まれるように、煙は流れていった。
「それで、大学教授に恋をして、後輩に告られながら研究しているわけか」
「その言い方なんですか。ほっといてくださいよ」
「お前、そろそろ自分を思い出せ。小牧なんかもういない」
数秒間、口も開けず呆然と、目の前の男を見ていた。
彼の憂いを湛えた瞳が、一瞬、かつて自分を振り回した少女のものと重なったのだ。
「なんですかそれ? 先輩だって、妹のことは忘れられないでしょう?」
「ああ。忘れられない」
「だったら、どうしてそんなこと言うんですか?」
「小牧はいない。お前の記憶の中でべらべら話すそいつは亡霊だ。お前はそれに、捉われ過ぎている」
「それは先輩だって一緒じゃないですか! 私、知っていますからね、先輩が自殺についてとか、いろいろ考えていること!」
「俺は家族だからな」
「家族でなくても同じだと思います!」
景親は鼻に皺を寄せ、亜衣を見下ろす。
亜衣も、目尻を上げて怒りを露わにする。
「何よ、先輩は小牧ちゃんが苦しんでいた時、何していたんですか! お兄さんでしょ?」
「勉強、読書」
「苦しむ妹を見て見ぬ振りしていたんですね!」
「違う」
「じゃ、なんだって言うんですか!」
つい一歩前へ足を踏み出した亜衣を、旭が肩に手を置き抑えた。
「俺と小牧は同じだ。相違点があるとすれば、小牧の方が、俺以上にストレスの逃がし方がわからず、混乱していたってところだろうか」
亜衣は感情的になりすぎたと反省し、体勢を戻す。
「すみません……、大きな声なんてだして。考えてみれば、先輩だって苦しかったんですよね、小牧ちゃんと同じように」
亜衣は景親を見上げる。相変わらず能面のような表情で、特に亜衣の言動を気にしている様子は見られなかった。
「俺はお前が不思議でならない。ほんの少し、小牧の死に間際に遊んだだけのお前が、なぜそこまで小牧に執着する?」
なぜと問われて、亜衣の頭をよぎるのは、制服姿で笑いかける美少女だった。
ガラス細工のように美しい彼女は、ガラス細工のようにあっという間に砕け散った。
その儚さと切なさは、胸の中の痛みとなって、今もなお残り続けている。
この心苦しさはどこから来るものだろうか?
彼女を救えなかった罪の意識だろうか?
「惜しまれる死だったからです。私は、彼女には、生きてちゃんと幸せを知って欲しかったです。彼女を守ることができなかったのなら、せめて彼女の記録を残したいと、望んだのです。考え続けていると、たまに彼女が呪いにもなりますが、そこに耐えて、本質を見たいと思っています」
「こんな代弁者がいてくれるとは、小牧は喜んでいるだろうな。と思ってもいいのか?」
亜衣は両目を瞬かせた。
景親の横顔は、哀愁が浮かんでいる。
「小牧ちゃんが喜ぶ……?」
亜衣がしていることは、奥村小牧という死人の代弁だったのだろうか。いや、亜衣はただ、彼女が残した問いの答えを探したかっただけだ。
しかし、それは何を意味するのだろうか。
亜衣がしていることは、どう説明することができるだろうか。
母子家庭でやや精神不安定な頃、旋風のように現れ去っていった小牧の存在。
当時、亜衣は彼女に自分の日常を振り回された、掻き乱されたと感じていた。
圧倒的な存在でありながら、弱々しい存在でもある、そんな実態のつかめない少女に翻弄されていた。
どこかへ何かをぶつけたいというエネルギーが、溜まり続ける毎日。
小牧の死がきっかけとなり、亜衣の心は静かに暴走し始めていたのだ。
小牧を救うためでも、小牧を死なせた罪の償いでも、どれでもない。
ただ、亜衣が、自分の人生における自分の在り方を探っている中で、小牧というイデオロギーが登場し、亜衣を変えていったのだ。
閉塞的な社会を恨み、自殺という道を選びとって鮮やかに死んでみせた奥村小牧という実例を基に、自分でこの社会へ向けてメスを入れることができるのかもしれないと考えた。
そんな、悲しみや恨みの籠った青臭いエネルギーを注いだ結果が、今の亜衣なのではないだろうか。
高校生の頃の自分が、突然目の前に現れた。
彼女は亜衣を指差し、容赦ない冷酷な目で睨んでいる。
小牧を死なせた社会と自分を許さず、原因を探れと、睨んでいる。
その口から発せられる言葉たちは、かつて、小牧が話してきたことと同じ……。
「あ……」
亡霊の正体は、記憶の中の奥村小牧ではなく、奥村小牧に関する記憶から生まれた強がりの自分であった。
口を抑え、亜衣は青ざめた。
見失ってしまっていた、小牧の影に隠れた自分を、ようやく見つけた。
「まあ、偉そうにいろいろ聞いているが、小牧の死に引きずられているのは俺も同じだ。たまに、まだあいつは生きているんじゃないかと思うこともある」
景親は、シガレットケースに吸い殻を入れた。
「死んでしまっても、記憶の中にいるかぎり人は生き続けているって、よく言うよね」
話しながら旭は、亜衣の左肩をそっと叩く。
「草部さん、そろそろだよ。山と空の境目を見てごらん」
墨汁で塗りつぶされたような闇に、ふと、鋭いナイフで切り込んだような、細い筋が入った。
その筋は徐々に広がり、眩い光の粒がこぼれ落ちている。
白化粧した木々の海原へ、その光は差し込み、銀色に輝いていく。
徐々に、物の影が見えてくる。
輪郭が露わとなっていく。
見えなかったものが、見えてくる。
「……きれい」
「でしょ? ここは景親が、妹さんが死んでから始めて涙を流した場所なんだ」
「余計なことを言うな、旭」
亜衣と旭は、前方を見据えたままの景親を見つめる。
凍りそうな冷たい風に吹かれ、彼の前髪はいている。
孤高の鷹のような、頼もしくも切ない雰囲気が漂っている。
景親は、視線に気がつき、数ミリだけこちらへ顔を向けた。
ロボットのように見えたのは、悲しみや寂しさが滲み出て、表情が強張っているからではないかと思った。
「俺は、自分の中で時たま生まれる、底なしの不安の理由が知りたいんだ。生きていると、自分がなぜ今ここにいて、何をするべきで、そしてこの先どんな人生を作っていけるのか。そんなことを考えざるを得ない。自分の人生を底なしに保障してくれる人なんてどこにもいない。自分のことは、自分で責任を持たなければならない。そんなことを考えていると、不安で縮こまりたくなる。そういう時、思い出すのは妹のことだ。あいつはなんで潔く死ぬことを選んだのだろうか? 人生に悔いはないのだろうか? あいつがもし生きていれば、少しはこの不安を分かり合えただろうか? あいつは一体、何を思い、何を考えていたのだろうか? そうなると、気になって仕方がなくなる。俺は生きていて、妹は死んでいるが、実は俺よりも妹の方がよっぽど強い人間だったのかもしれない」
風に吹かれながらこちらを見つめる景親の頬には光が差し、瞳は煌めいている。
その表情が、泣きそうな一人の孤独な少年に見えた。
「大丈夫だよ、景親」
亜衣の目の前を、旭が横切っていった。
燦然とした日の光に包まれながら、二人は感情を共有していた。
亜衣はただ、呆気にとられていた。
器の中身はいつのまにか何処へと霧散していた。
朝日に当たって消えていったのだろうか。
「先輩、私の研究で、小牧ちゃんが喜ぶとは思えません。私はただ、個性とか、学力とか、外見とか、思想とか、人に違いをつけるものに執着していたに過ぎません。他人にはない自分だけの魅力を求めていたんです。自分だからこそ手に入る充実感みたいなものに憧れていました。
他の子たちとは段違いの異色を放っていた小牧ちゃんは、私にとっては衝撃だったんだと思います。だから食らいついて放さなかった。小牧ちゃんを記憶に捕らえ続けているのは、高校生の頃の不満だらけの私。家族に満たされず、学校でも平凡で目立たない、それでも小牧ちゃんのことを知るのは私一人。世界中の誰も、私以外、彼女の本音を知る者はいない。だからずっと、彼女にり付いて、そのことで必死に自我を作り上げていたんです。
だから、ごめんなさい。小牧ちゃんのためなんかじゃなく、私は私のために必死でいただけでした。ナンバーワンやオンリーワンを目指すことを求められる学校生活において、無色透明な自分を、特異な色に染め上げようと必死になっている、不安だらけで未熟な私の暴走でした」
自分自身をクリアに見ることができた。
すっかり忘れてしまっていた、高校生の自分。
同時に、自分以外の人間へと視野を広げることができるようになった気がする。
白い息を吐きながら黙って話を聞く二人は、浮ついていたものが納まるところへと嵌ったように、腑に落ちた表情をしていた。
「景親や草部さんの記憶の中で生きている少女は、自殺と言う、非常にネガティブなことすら潔く決断してみせる、強くて美しい、しかし儚く謎めいてもいる、そんな魅力的な姿をしているんだね」
強く生きることは難しい。
そんな時、死者に憧れてしまう。
記憶の中の少女は、こうして鮮やかに残り続けていたのだった。
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