第5話 差額の出処

 こちらは、三ノ宮駅を出た頃の最後尾の三等車の車内。車内販売が回ってきた。目の前の特別二等車を何両か超えていけば、そこには食堂車がある。まだ食事時間帯ではないから、満席というわけでもない。

 列車は、少しずつ速度を上げながら、神戸市の中心地にある電車駅・元町、そして兵庫県の県庁所在地であり、東京発の列車の終着駅にもなる神戸をも、軽々と通過している。


「ところで、堀田先生ともあろう御方がなぜ、二等じゃなく三等車に?」

「特別二等の切符は用意されていましたけど、なんかもったいないので、三等に変更しました。どうせ特急ですから三等車でも十分快適ですし、差額を浮かせれば飲み食いも出来ようかと。おかげで、正味1000円以上浮きましたわ」

「ま、よくある話やね。しっかり飲み食いでもしなさいな。私の兄が今、県庁に勤めておって、米屋を継ぐのがおらんからというので、戦争が終わって武装解除されたこの機に、次男の私が継ぐことになってしもうたの。将校時代は二等車にも乗れておったけど、今はそんなもったいないことするのも難やから、普段は三等車じゃ。ましてや、背もたれの倒れる特別二等車なんて御大層な椅子には座っていられんよ。まあその、兄の同僚にも、出張で二等が使えるのにわざわざ三等に変えて差額をちゃっかりせしめる人、結構おるらしいから、別にそれくらいは、よろしかろう」

「ということは、私に何かおごれとか何とか・・・」

「そんなこと求めりゃせん(苦笑)。ここは私がおごるから、食堂車で一杯飲まんかな」

「喜んで。それではぜひ、参りましょう」

 彼らは、それほどの荷物を持っていない。しかも、どうせ指定席であるから他の客が乗ってくることも、ない。それぞれ荷物を持って、特別二等車を通って食堂車へと向かった。今回は、食堂車の調理室側ではなく、食堂側から入ることになる。

 この頃の食堂車は、現在のように衛生上の理由云々で飲食物の持込・持出を禁止していなかった。

 食堂車のメニューには、むしろ弁当等の持込を認める記述さえあった、そんな時代である。それによっていささか食事の売上が伸びなくても、彼らのようにビールなどの酒を飲んでくれるだけでも、食堂車の業者にとっては、上客の部類であった。

 大卒初任給が1万円をまだ下回っていたこの頃、ビール大瓶1本の値段は、ようやく下がり始めていたとはいえ、145円であった。今の貨幣価値に換算すれば、1000円を軽く超える金額であろう。何も好き好んで、それだけの売上をスポイルすることもないというわけである。まして、食事時間帯でなければなおのことであった。


・・・ ・・・ ・・・・・・・


「いらっしゃいませ」

 ウエイトレスが2人の男性客に声をかける。先客は、そういない。

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