5.僕はナイト

 十和田夫妻の結婚記念日当日。初夏の遅い夕暮れ、大沼の湖面が綺麗に黄金色に反射している。


 いつもはラフな服装でカメラを携えて歩き回っている秀星だが、この日は上等なおでかけ着をひっぱりだした。あまり硬くなりすぎず、しかしきちんと感が出るように。

 ボタンダウンの無地の白シャツに、紺のジャケット、グレーのスラックスという少し砕けた装いにした。だが、どれも吟味してそろえた上質品だ。

 フレンチレストランでサービスをしている以上、趣味とプライベートではラフな服を着ていても、いざという時は品格を落とさないためのものを準備している。この日はその装いを選んだ。


 待ち合わせ場所は、十和田家。行きは政則シェフがファミリカーを運転して函館まで連れて行ってくれる。夫妻はそのままは函館に滞在、帰りもその車で帰ってくるとのこと。だから娘の葉子だけが鉄道で帰宅することになったらしい。


「わ、秀星さん。いつもと違う」


 十和田家を尋ね、チャイムを押してから玄関まで出迎えてくれたのは葉子だった。

 彼女をひと目見て、秀星もおなじ驚きを持った。


「ハコちゃんこそ……」


 その先の言葉を秀星は素直に言えなかった。

 彼女もいつにない、可憐なワンピースの装いでお洒落をしていたのだ。


「これ、これがお母さんと一緒に買ったワンピース。こんな服、最近着ていないから、ちょっと恥ずかしい」

「そんなことはない。かわいいよ」


 あ、こんなことを言うような人間ではなかったのに、僕、どうした。年甲斐もなく秀星の頬が一気に熱くなる。教え子で部下である葉子には、そんな情けない男の心を悟られたくなく、秀星は思わず顔を背けていた。


 だが、ただただ愛らしく若いだけの葉子に中年男の心根など見えることもない。


 彼女は『今日はプライベートだから、給仕長ではない秀星には気易く接しても大丈夫』とばかりに、にこにこしているだけ。


「それだね。秀星さんが今日着ている服こそ、本質を見抜いて選んだものってことだよね。やっぱり、そんなお洋服持っていたね」


 いつか『革靴』を買ってあげた時に『きちんとした品質に対する対価』とか『対価が正当であるか、その品質を見抜く目を養ってほしい』と言ったことを覚えてくれていたようだ。しかも秀星が着ている服を一目見て、『あ、上質』とわかるようになっている。

 やっぱりこの子、十和田シェフの娘だなと感じることが多くなってきたこのごろだった。



---☆



 函館、港町の一夜。北国とは言え少し蒸し暑い日だった。

 冷房が効いた寿司屋のカウンターで、政則シェフが冷酒を片手に始終嬉しそうに喋っている。

 フレンチと寿司という食の違いはあるが、料理人同士、どうやらこの寿司屋の大将と政則シェフは親しいようだった。


 今夜のシェフはスーツ姿で決めていて、妻の深雪も上品なワンピーススーツ。母娘で揃えたのか、娘とそっくりな紺色だった。


「ふふ、おいしい。函館の味がいっぱい~」


 葉子は葉子で両親が大人の話で盛り上がって仲良くしていることも放っておいて、ひとりで寿司を頬張りご満悦中だった。秀星も彼女の隣で冷酒を呷りながら、おまかせで出てくる握りを味わう。


「うん。北海道に来て良かった~って僕もいま思ってる」


 秀星もほくほくした気分で微笑むと、葉子も一緒に笑ってくれている。


 十和田夫妻は娘にも食べさせたくて連れてきただろうし、でも、夫妻の賑わいにちょこんと娘が一人になるのも気になって、話し相手に秀星を誘ったのかもしれない? そんなふうに思えるほどに、今夜は、秀星と葉子が親しげに会食する席ともなっていた。


 夫は料理人、妻は経理を担当。二人三脚ができるからこそ、フレンチレストランを始めたご夫妻。

 日頃はビジネスのパートナーとしてキビキビしてすごしている分、今夜はほんとうに夫婦としての愛情を交わしているのが伝わってくる。


「私、邪魔でしょって言ったし、二人だけで行かせるつもりだったんだけど。お寿司につられちゃって」

「しかたないね。シェフのおすすめだけある。超一品のご馳走だよ。僕もついでに誘ってもらっちゃったけど、連れてきてくれてよかったと思っちゃってる」

「私も~、思っちゃってる」


 ふたりで談笑をしながら、ほどよいペースで出てくる握りを堪能した。


 食事を終え、街中へと出る。

 ほろ酔いになっている政則シェフと妻の深雪が、娘と従業員の目の前でも腕を組んで仲良く函館の夜道を歩いている。


 函館山のてっぺんに輝くロープウェイ、坂の途中にある教会のライトアップ。港で煌めく船舶の光。かすかな潮の香り。神戸とおなじ港町だが、やはり風も匂いも違う。


 慣れてきたこの街の路面電車駅で、熱々になっている十和田夫妻と別れた。

 秀星は葉子をそばに、約束していた『珈琲専門店』に出向いて、ふたりでお喋りをしてちょっとした二次会、寿司の感想を言い合いながら酔いを覚ました。


 そのあと、ふたり一緒に函館駅へ向かう。


「仕事じゃないと、お父さんとお母さん、とっても仲がいいね」

「娘としては見せつけられるとちょっと恥ずかしいけど、お母さんが嬉しそうだからいいかなって」

「え、お父さんは?」

「お父さんは、いっつも嬉しそうだから」

「ああ、なるほどね」


 葉子が『お父さんがいちばん好きなことしているんだもん』とため息をついた。娘らしい視点ででてきた言葉だなと、秀星は笑った。

 北国の初夏は蒸し暑いながらも、夜間は気温がさがって過ごしやすい。

 夜空に包まれている駅のホームで、長万部おしゃまんべ行きの列車を待つ。時間通りに入線してきた車両に、葉子と一緒に乗り込んだ。


 長椅子シートの端に、二人で並んで座る。

 列車が走り出しても、とくに二人で会話もなかった。車窓に流れていく暗闇と街の灯り。だが秀星のすぐ隣に寄り添うように座っている葉子を見下ろすと、彼女はどことなく満足そうに夜の車窓を眺めている。ふと気がつく。彼女はふんふんと僅かながらに、鼻歌でリズムを取っているようだった。


「ハコちゃん、なんの曲?」

「Good-bye My Loneliness」

「あ、ああ……。このまえ、唄ってくれたばかりだったね」

「今度、これでオーディション受けようかな……」


 やっとその気になったのかな。秀星はほっとしたような、寂しい気持ちも自覚して複雑な気持ちになっていた。

 葉子は大沼に帰ってきてから、一度も東京へとオーディションへ行っていない。

 本人はそれでも唄うことは好きなようで、唄えばすっきりすると言っている。秀星が写真を撮りまくる行為とおなじなのだろう。


 彼女の気持ちもあるだろうからと、秀星はあまり触らないようにしている。葉子もなにも言わない。お互いに朝になって特定の場所で、毎日同じように写真を撮って、同じようにただ発声練習をしている。秀星からすると、葉子はそこで発声をすることで気持ちを整えているのだと思っている。秀星もおなじだからだ。


 そんなことを考えているうちに、隣からかすかに聞こえていたメロディーが止んでいた。葉子がこっくりこっくりとうたた寝を始めていた。

 この列車の乗車時間は五十数分程度、お腹いっぱいになって少しお酒も入って、夜も更けてきて、列車に揺られて睡魔が襲ってきたようだった。


 冷房が気になっていた秀星は、ジャケットを脱いで、ノースリーブで薄いカーディガンを羽織っているだけの葉子の肩に、前からそっとかけてあげる。葉子は気がつかなかった。


 まったく無防備だな。呆れてため息が出た。

 一人で帰宅するつもりだったのなら、こんな危なげな心積もりで乗車していたのだろうか? それとも秀星が一緒で安心してくれているからなのだろうか?

 まったく、ほんとうに、なにに置いても心配になる若い子だよ。

 なのに秀星は微笑んでいる。心に優しく小さな星が灯っている。そんな気持ちだった。


 毎朝、先に進めないから、ルーティンのように朝の写真を撮り、朝の発声練習をする。

 進めないから――。葉子の気持ちがわかるから、いまは一緒にいる。



 そして、それが存外に心地よく、秀星の足下から根が張っていくのがわかる。

 そんな生き方を望んだことはなかった。カメラを携え、身軽に撮影したい土地へ移り住む。そのつもりで生きてきた。


 だが、まだ大沼にいたい。


 そして、まだ大沼で撮りたいものを撮っていない。

 撮れないまま、根が張っていく。三度目の睡蓮の季節を迎えた夏。


 秀星が狙っている撮影を決行すれば……。

 もうここにはいられなくなるかもしれない。そう思ってふんぎりが付かず、ずるずると大沼にいるとも言える。だが秀星は、いまは、このぬくもりにずっと浸っていたいと思うようになっていた。


 写真家として被写体を獲得すべく獰猛な気持ちが盛り上がってくる日と、あたたかな十和田家と、葉子と過ごしていく日々がずっと続いて欲しいと願ってやまない日。交互に襲ってきてせめぎ合う日々に秀星は揺れている。



 揺れる想いを断ち切るために、決行する日がやってくる。

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