4.Good-bye My Loneliness Ⅱ


 時が経ち、三度目の睡蓮の季節を迎えようとしていた。


 やっと北国に爽やかな青空の季節がやってくる。

 その日も仕事へとレストランへ出勤し、真新しい白シャツを着込み、黒いスラックスとジャケットの制服姿になる。給仕長室のデスクでパソコンの電源を入れて立ち上げていると、入り口に十和田シェフが現れる。彼も既に真っ白なコックコートを着込んでいて料理人としての身だしなみを整え終えていた。


「どうしましたか、シェフ」


 男気に溢れ、ちょっと強面で、ひと目見ると格闘家かなと思えるほどの体格の持ち主。そんな厳つい彼が、妙に照れてもじもじしているので、秀星は何事かと構えてしまった。


「えーっとな。次の二連休にしている休業日なんだが~。俺と深雪の、その~結婚記念日なんだ」

「そうでしたか! おめでとうございます。おふたりでお出かけですか」

「そ、そうなんだ。ここのところ経営で余裕がなかったんだが、今年は函館でいい寿司屋に行くんだ」

「いいですねえ。函館の寿司も最高ですから。良いお祝いになりますね」

「でな、葉子も連れて行くつもりでさ。よかったら、秀星もどうだ。ご馳走するからさ」


 秀星はきょとんとしてしまった。ん? 夫妻の結婚記念日なのに僕にご馳走するってどうして――と首を傾げてしまっていた。

 娘を連れて行くのはかわる。でも赤の他人の自分なんて……。


「あの、僕はただの従業員なので遠慮いたします。ご家族、あるいはご夫妻で、水入らずでお楽しみください」

「いや、だから、秀星も連れて行きたいんだって! 深雪も葉子も一緒に誘おうと言って盛り上がったから誘いにきたんだよ」


 それにも、秀星は唖然としていた。十和田家が動くとき、秀星にも声をかけなくてはという風潮ができあがっているのは嬉しいが、さすがにそこまで気を遣ってもらうわけにはと、もう一度断ろうとした。

 だがそこで葉子が出勤をしてきて、父親が給仕長と向き合っている場を見て、ひょっこりと顔をのぞかせた。


「お父さん。秀星さんに伝えたの?」

「でも、遠慮するって言うんだよ」

「えー! どうしてですか、秀星さん。一緒に行きましょうよ!」


 葉子まで給仕長室に踏み込んできて、秀星に詰め寄ってくる。


「いやいや、ハコちゃん。そこはご家族で」

「だって。帰りは私一人になっちゃうし。秀星さんが一緒に来てくれるなら、帰りも安心だと思っていたのに」

「……帰りはひとり?」


 訝しんだ秀星が政則シェフを見ると、彼が気恥ずかしそうに顔を背けた。

 その訳を娘の葉子のほうが堂々と言いのけてくれる。


「父と母は、その日は函館で夫婦水入らずで一泊していくんです。だからお寿司を食べたあと、私は一人で大沼に帰るんですよ」

「え! そうなんだ」


 やっと気がついた。そうか娘のナイトとしても誘われているのかと。


「車でないなら、駅から十和田の家まで、若い女性の一人歩きは心配だな」


 自然溢れる素晴らしい景観があるということは逆に人の喧噪がないところでもあって、森林がそばにある夜道は侘しいものになる。その帰り道に娘がひとりになることを案じているのだ。


 もちろんそれはついでの話で、家族水入らずの場にすんなりと誘ってくれる気安さも、親しくしてくれている証拠でもあった。

 それがわかったら秀星も断る気が失せた。


「では、ご一緒にさせていたただきます。帰りは僕がお嬢さんを送り届けますから」

「そ、そうか。悪いな。もちろん、秀星にも食べて欲しい寿司屋だから誘ったんだからな」

「ありがとうございます。楽しみです」


 秀星が一緒に来るとわかって、ギャルソン制服姿の葉子の笑顔がぱっと咲いた。

 もうね、そんな彼女の笑顔を見てしまったら、秀星もなし崩しになってくる。

 毎日一緒にいる妹のような女の子になってしまっているから。秀星には兄弟がいなかったため、妹がいたらこんなかんじなのかなと思える日々。彼女のためと言われると、いつのまにか秀星は弱くなっている。


 こんなはずじゃなかったのにな。最近、静かに保っていた心の水面に、小さな水紋が時々現れる。



---☆



 十和田夫妻と葉子と函館へとでかける日が近づいてくる。

 秀星はひさしぶりに、クローゼットを覗いて『おでかけ着』を選んだ。



 いつもの朝。この日もいつものポイントで撮影をする。

 この日はせっかく綺麗な青空が見える晴天なのに、たくさんの雲が発生して空の青が半減、駒ヶ岳も半分隠れてしまった。

 撮影を終えたら、葉子が発声練習をしている奥の沼へ。


「おはよう、ハコちゃん。もうすぐ睡蓮が咲きそうだね」


 散策道を抜けて奥の沼にある東屋。

 そこが彼女と毎朝語らう場所になっていた。

 自分が毎日ルーティンでやっていることを、彼女も同じように毎日の日課としているから、いつの間にか一緒に落ち合う場所になっている。


 この日も、東屋のベンチに並んで座って、今朝の撮影の成果を葉子に見てもらう。

 だいたい表情でわかる。『いい写真』と『そうではない写真』は葉子の素直な表情から読み取れた。


『見せて!』と毎朝彼女からせがんでくれるので、秀星も嬉しくなってカメラを渡す。ディスプレイに表示されたワンカットを目にした葉子の表情は平坦だった。『まあ、そうだろうね』と秀星も納得している。今朝は天候的に雲が多かった。風景写真は天候が左右してしまうので、だから毎日撮っていないとベストショットに出会えない。


 この日も『次の撮影は……。葉子ちゃんも一緒に行く? ラーメンおごるよ』と伝えると、葉子の笑顔がぱっと輝いて『行く行く!』と喜んでくれる。『もうすぐ函館でお父さんとお母さんが結婚記念日だね、僕も楽しみ。帰りは珈琲専門店に行こうか』と伝えても、葉子は嬉しそうに『秀星さんと二次会だね!』と眩しい笑顔を見せてくれる。


 こんな若い女の子と休暇も一緒にでかけていいのだろうか――と、当初は上司としての立場を頑なに保とうとしていたが、あっという間に崩れた。


 だからとて、女性としてどうにかしたいという気持ちも湧かない。

 なんだろう。そう、尊いのだ。


 秀星のような人生も決まりきっている四十の男などが手を出せるものではない。雇い主であるシェフの大事なお嬢さんというのもある。なにより、まだまだこれから幾らでも人生の選択肢がある二十代の女の子には、もっと将来ある男がそばにあるべきなのだ。


 秀星はそんな男ではない。でも、葉子は大事な存在で、上司としても親しくしている男としても、大事に大事に守っていきたい存在になっている。


 ただ彼女が秀星といて楽しいというなら、どこにだって、なんだって――。


 そんなことを考えていたこの日、彼女が唐突に秀星に尋ねてきた。


「秀星さんは、なんの曲が好きなの?」


 初めて彼女に聞かれる。

 唄うことに自問自答しているだろう彼女に聞かれ、秀星は戸惑ったが答える。


「ZARDの『Good-bye My Loneliness』」


 まだ若く恋人もいたころの思い出の曲だった。


 女性とは長続きせず、やはり写真のために結婚をしたいという気持ちには至らない男として独身を続けてきた。

 そのために別れてきた恋の思い出。

 この楽曲は、そういうほろ苦く甘いせつなさを覚える。


 なぜ、この曲をすぐに答えたのか。

 秀星はこの時、初めて自分の気持ちがいままでと違うなにかを持ったことに気がついた。




 答えた数日後の朝だった。

 その唄を知らなかったので、聴いて覚えてきたと葉子が微笑んだ。


「秀星さんのために、唄うね」


 最初で最後。『ハコ』が秀星に唄ってくれた、たった一曲になる。

 その歌詞に、『僕の気持ち』が見え隠れしていると知った。

 ――僕は、この楽曲と、君の唄を、いちばん大事な場所にしまうと決めたよ。ハコは知らない。




---❁-❁-❁



 それから秀星は自宅に帰ると、なんとなく『ZARD』の楽曲を聴く日々となった。

 若い頃に気に入って聴いていたはずの曲をひっぱりだすのも久方ぶりで、遠い日を思い出し、妙に胸が締め付けられ、また懐かしい思いを抱いている。


 睡蓮が咲き始めた大沼の初夏。夜は水辺にいるカエルの鳴き声が響く季節になる。

 自然の景観に囲まれている公園そばのアパートで、仕事を終えた後、なにかしら一杯の酒を嗜むのが秀星の習慣だった。

 この日はサッポロビールの缶を片手に、オーディオに手を伸ばし、ZARDの曲を流した。


『ZARDのGood-bye My Loneliness、お母さんがCDを持っていたから、それを聴いて覚えたの』


『秀星さんが唄って欲しい曲はなに?』と聞かれて応えた楽曲。『……その曲、知らなかった』と二十代の女の子が言い出したことに、秀星はややショックを受けている。


「はあ、ZARDを聴いていた世代がお母さん。そのお嬢さんが既に成人。そんな時代になったのか」


 だからとて彼女とは親子ほど離れているわけでもないし、だが、兄妹とも言いがたい。上司と教え子でもあるが、それにしては随分と砕けた付き合いもしている。

 ほんとうに奇妙な関係になってきたと心が揺れていることを自覚する。


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