5.名もなき朝の唄、名もなき朝の写真
当然、無名の一般人がただ唄っただけでは閲覧数はつかなかった。
「おはようございます。ハコです。大沼と小沼に、公園名物の睡蓮が咲き始めました。蓴菜沼で収穫される
淡々とその日、そこで唄い続けた。
やがて少しずつ閲覧数が増える。
さまざまな曲を唄っていると、その曲を調べて検索したときに動画がヒットするらしい。そこで視聴したとかで、コメントが残されるようになった。
*北海道ですか!? すごく綺麗なところ。大沼というところなんですね
*唄、へたくそ。恥ずかしくないのかよ
*リクエストしてもいいですか?
*毎日やっているんですか? 今日の山と湖がどんなふうなのかついつい覗いてしまいます。あ、お歌も聞いてますよ
*景色だけでいい。唄、いらない
コメントには敢えて返信はしなかった。
配信コメント欄だけでなく、配信日と時間を宣伝しているSNSにもコメントがつくようになった。
「まだ八月ですが盆をすぎると北海道は秋の気配になります。リクエストから。森高千里『さよなら私の恋』です」
閲覧数がある程度記録されるようになると、リクエストが増えた。
そこから歌えそうなものから採用する。
秋にはリクエストが殺到するようになった。
「大沼の紅葉は湖面も美しく秋色に染まります。雪虫が飛んでいたので、もうすぐ初雪でしょうか。今日はThe Nolans、『恋のハッピーデート』です」
*紅葉、綺麗~♪ 湖面に映っていますね!
*駒ヶ岳もほんのり赤く染まって綺麗
*ノーランズ、母ちゃんがよく聞いていた!
*ただ毎日歌って、なにしたいのこの人?
*リクエストお願いします。いきものがかり…
「とうとう雪が積もりました――。湖面も駒ヶ岳も森林も真っ白です。今日はいきものがかり『ラブソングはとまらないよ』です」
*真っ白な大沼も素敵ですね!!
*教えて。どうして毎日、おなじ時間に唄ってるの? 歌手になれなかったから? そんなレベルだなってかんじだよね。諦められなくて足掻いてるの? みっともないとか思わないの?
*やめなよ。いいじゃん。たとえそうでも、彼女がそれで満足しているんだから
*別にそこ責めてないよ。彼女が毎日こんなことをして、なんの得にもならないけど、ここだいぶ閲覧数増えて収入もできてるとおもうんだよね。そういう目的? それともここからもう一度有名になる足場にしたいわけ?
*おまえのほうが余計なお世話。そうなってもいいじゃん。俺は毎日この風景と彼女の唄をたのしみにしてるよ
*うちの母もお祖母ちゃんも毎日楽しみにしてるし、このまえリクエスト唄ってくれて嬉しそうにしていたよ
*ちょっとの小遣い稼ぎで満足なのかよ。こんなところで、少しの人に褒め褒めされていい気になってないで、唄いたいならプロになるため粛々とオーディションを受けていればいいんだよ
*もうそれも通り超して、ここでただ唄いたいだけなのかもしれないよ
*敗者の嘆きなわけねw
毎朝、あなたと語らった東屋がある湖畔を思い出している。
緑がいっぱい映るエメラルドのような湖面と葉ずれの音がざわめく奥まったあの場所で、毎日毎日、あなたが撮った写真をみせてもらった日々。
あの水辺で毎朝、なにを思って撮影していたの?
なにを思って、吹雪のなかで撮影しようとしていたの?
最初からそこが最期の場所とわかっていたの?
もうなにも話してくれない人になってしまったから、葉子が心で問いかけても、なにも答えてくれない。だから、いままで彼が語ってくれた話を葉子はぽつぽつと思い出し始める。
『秀星さんは、純粋なんだね。ひたすら写真のために、なんでも写真のためにと思いを傾けて、ここまで来たんだね』
『違うよ、ハコちゃん。そんな綺麗なもんじゃないよ』
これは僕のエゴだ。
エゴはね、そいつの最大の我が儘だから、本人だけはとっても気持ちがいいんだ。でもね。受け取るほうも、周りでその活動を見ている人々にとってもほとんどは無関係だったり、意味がわからなかったり、滑稽だったり。そして――、人のエゴからつかみ取った精神の塊に惹かれる人もいるんだ。ただそれだけで。最初はかっこいい男になりたかったんだと思うんだけど、いまの僕はもう、エゴの快感に染まりきった欲望にまみれた男なんだよ。エゴを喰って生きている。エゴの旨みを忘れられなくなった。やめられないんだ、もう……。
他愛もない会話だっただろうに。いまになって鮮明に思い出してくる。
いまはもう、こうすることでしか秀星と語らえない。だから、彼とおなじ場所で、毎朝唄う!
これは私のエゴだ。ただ唄いたい、勝手に唄っていたいエゴだ。
どのコメントにもそう返信したい。
ハコ、唄うんだ。どうにかして唄っていくんだ。
ハコ――、死ぬほどほしいものがあることは、しあわせなことなんだよ。僕にはそれが写真だったよ。写真がなくちゃ仕事もここまでやれなかった。
あの人の声が聞こえるよ、唄っていると聞こえるよ。
唄え、ハコ。自分のエゴのために唄え。
それはもう誰のためでも、なにのためでもない。
ただ、私のために唄っている。
秀星さんとおなじ。ここで、毎日、ほぼおなじ時間に、湖と遠い岳と空へと音を飛ばす。
もっと早く唄い始めたかった後悔を抱いて、あの人にもっとたくさん唄って聴いてもらいたかった後悔を抱いて。でも、あの人がここでなにを思っていたのか知りたくて。
ここで毎日撮影していたあなたの心の奥に、なにがあったの? あなたのエゴってなに? 知りたい!!
夏から秋へ、葉子は『ハコ』と名乗って日々唄い続けた。
いつの間にか新年が過ぎ、二月の雪深い季節になって父が報告してくれた。
「特別縁故者として、秀星の遺品のほとんど、写真データも相続することができたよ」
数々の手続きと申請などを経て、彼の身の回りの世話をしていた者として認められた父に、相続許可がでたとのことだった。
『特別縁故者』になるには、縁者が存在しないことを確認することから始まる。官報に縁者がいるなら名乗り出るようにという提示する期間があり、その期間に名乗りがなければ弁護士を通じて手続きを進めていく。つまり、秀星には名乗り出る縁者がいなかったことになる。
さらに矢嶋社長の協力で探偵をつけてくれたが、それでも縁者がみつからなかった。
秀星の祖父母のあたりで徐々に縁が薄くなり、少人数の家族として途切れてきたとのこと。秀星に兄弟はなく、唯一存在していた従兄家族なども子供がおらず、すでに夫妻そろって逝去していたそう。従兄は秀星よりもかなりの歳上だったとのことだ。秀星のところで桐生家は途切れた状態になった、という最終判断に至った。
天涯孤独だった秀星の所有物の一部を、こちらで引き取ることができた。
写真の著作権等の所有は、父の政則となった。
その所有権を持つ父から、葉子は伝えられる。
「葉子が使ったらいい。待っていたんだろ。だから、動画を配信していたんだろ。ま、東京の学校に出しただけあったわ。唄は、うん、けっこう聴ける」
これまでも歌手になる道を歩む娘を黙って見守って、そして、訳のわからない動画配信をくじけずに続けている娘に対して、初めていたわりの言葉をかけてくれた。
「大事に使わせていただきます」
葉子が大事に管理していたデータは、今日からは父の許可のもと、葉子が使用できるようになった。
「お父さん。給仕長はもう雇わないの?」
秀星が死去してからこの一年、その席が空いたままで、彼の教え子である葉子と地元で雇った若いギャルソンだけでなんとかこなしてきた。
「いま、募集はしている。だけどさ、おまえが、だいぶできるようになってくれていて助かっている。まさかな、カメラまで自分で買って、秀星と同じように俺の料理を撮影して、毎日あいつのパソコンでWEBサイトにアップしてくれるだなんてな……。あいつ……、まさか、娘をこんなふうに育てて、店のために、遺してくれて……」
だめだ。父は彼がいなくなってから変に涙もろくなっている。
弟分であって、そして、オーナーシェフとメートル・ドテルという相棒だったのだろう。
『なんともいい味わいの一枚が不思議と撮れちゃう』
東京へとチャンスを掴むために貯めていたお金で、葉子は『ライカ』を買った。
秀星が遺した『ライカ』はまだ勝手に使えないし、使えたとしても申し訳なくて触れそうにない。
これなら葉子でも『いい味わいの写真』が撮れるかもしれない。彼が『不思議と撮れちゃう』と、鴇色に染まる夕の湖面を撮影していた日をよく覚えている。そんな思いで購入した。
そのカメラで、いまは葉子が父の料理を撮影し、WEBサイトにアップしている。
あの人が遺してくれたことが途切れないように――。
雪解けが進んできたころ。眩しい陽射しが湖面にさす朝。ハコは初めてハンディカメラのまえに姿を現す。
「ハコです。配信を始めて九ヶ月。ほぼ毎朝、ここで。今日は同じように毎朝、この場所で写真を撮影していた私の上司の、命日です」
秀星の死を利用していると言われるだろう。
でもハコは続ける。これもエゴだ。
「皆様が察しているとおり、私は東京で歌手を目指していましたが挫折して、いまここで働いています。夢は叶わなかったけれど、自分が好きなものをそのまま愛して生きていくことをその人が教えてくれました。……いえ、最初はわからなかったんです。でもその人がどうして毎日ここで写真を撮影していたのか。プロにもなれなかったのに、どうして写真のために生き続けているのか。表現者として知りたかったからです」
コメントが続々と入ってくるのが見える。
だがハコにはもう関係がない。
「答えがわかりました。上司は、それをエゴだと言い、それはしあわせなことだとも言っていました。実績や賞賛を得られなくても、ただただ続けていくこと、諦めきれないことを、この場所に携えて撮影していたのだろうと、いまは感じています。上司は既に近しい縁者がいませんでした。これまで共に家族のように過ごしてきた私の父が特別縁故者として、写真の所有権を申請し手続きが完了いたしました。SNSで私の唄と共に、発信していきます。上司は毎日毎日ここで撮影していましたので、その日の日付に合わせてアップしていきます。上司が写真を手放さないことがエゴだと言っていた、でも、日々愛してくれた大沼の自然をご覧いただければ、引き継いだ者として嬉しく思います」
その日からハコは、秀星のSNSアカウントを追悼アカウントとして遺し、自分のアカウントで詳細を説明した後、写真をおなじ日付に合わせてアップしていった。
ハコの動画配信から、ハコが唄った曲名を記録してきたSNSから、それまでのフォロワーが閲覧しにやってくるようになった。
《 逝去した上司の作品を引き継ぐ唄い手『ハコ』
亡き男性が遺した自然の美しさと、彼女の声がリンクしネット上で盛況 》
そんなふうに広まっていく。
でもハコはこれを成功とは思っていない。
もう東京にはいかない。ここで生きていく。
「秀星さん、私、知ってるよ。こうしてたくさんの人に見られるためじゃなかったよね」
僕は、大沼で見られる景色がぜーんぶほしいんだ。
ほんっとに美しいんだよ。宝石を手に入れたいと言えばわかってくれる?
最後の写真は連写されていて、続けて並べると、吹雪いていたところから、すっと雪が少なくなり、夜空が明け、駒ヶ岳と湖面が薄紫に染まり、湖面に星が映りそうな雪開けだった。
険しい吹雪から、ふっと現れる美しい静寂。
世知辛い世の中を生きてきた彼が体感したかった瞬間だったのではないだろうか。
これをずっと見つめていたんだ。
死んでもほしいもの、見ていたいものはこれだったに違いない。
秀星は、シャッターを押しているその時に、至高の幸福を得ている。
ハコは、名もなき人として、朝に唄い始めてから、幸福を得ている。
でも。この表現が誰かに通じれば、届けば、なにかのためになるなら、またそれだけでしあわせだ。
名もなき人の、名もなき朝の唄。
名もなき人の、名もなき美しき写真。
手に入れたいものが、そこにあった。
「雪解けですね。今日は家入レオ『僕たちの未来』です」
❄次回より⇒3章 名もなき朝の『いいね』 《篠田の日課》 開始
神戸の後輩が登場します
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